2026年後半読書日記
【2026年後半】
◎2026年10月1日『ミケーネ文明』周藤芳幸
☆☆☆☆シュリーマン以降の考古学的発掘を概観し、ミケーネ文明の輪郭を描く
子どものころ、シュリーマンの『古代への情熱』を読んで感動し、大人になってから読んだホメロスの『イーリアス』・『オデュッセイア』の世界に憧れてギリシア旅行もした。アテネの博物館でシュリーマンの発掘した「アガメムノンの黄金のマスク」に対面し、今はトルコにあるトロイアの遺跡も訪れ、ヨーロッパ文明の源流に触れた思いがしたものだ。
本書は、シュリーマン以降の考古学的発掘調査の歴史を概観し、ミケーネ文明の輪郭を描き出そうとするもので、考古学の詳細な技術的知見や画期をつくった研究者が紹介されている(その中には指揮者フルトヴェングラーの父もいる)。発掘現場や出土品の写真も豊富だが、残念ながらカラーではない(電子版はカラーにしてほしかった)。
シュリーマンの発掘は現在の考古学からすれば乱暴な発掘方法で、財宝探しのようなところもあったようだが、本書によると今もなお「ギリシア考古学の父」としての功績が高く評価されているようだ。彼がトロイアで発掘した「プリアモスの財宝」はギリシアに持ち出された後にドイツに移されたが、ナチスドイツ敗北後、「戦利文化財」としてソ連に運ばれ、現在はモスクワのプーシキン美術館にあるという。
ミケーネ文明は時期的には紀元前1500年頃から1200年頃までの時期で、前1200年ころに大規模な破局の時期を迎え、暗黒時代に入ったという。破局の原因は気候変動などが挙げられているが、かつて言われた「ドーリス人の侵入」説は考古学的証拠がないという。
また、発掘された粘土板に刻まれた「線文字B」は近年解読されてギリシャ語を表記したものと判明したが、「解読が遅れたより本質的な原因は、先史時代のギリシアでギリシア語が使われていたはずはないという先入観にあった」という(著者はこれらを「オリエンタリズム」と批判している)。
つまり、ミケーネ文明は古典古代のギリシア文明と連続性のある文明世界であり、発掘品や交易の記録、神話の神々なども連続性がある。『イーリアス』で延々と記されるミケーネ連合軍の「軍船の表」は、古代ギリシアの人々にトロイア遠征を臨場感を持って感じさせたという。
他方、ミケーネ文明と古代ギリシアの相違点は、「ミケーネ文明を構成していた基本的な社会単位が小規模な王国であったのに対して、ポリス世界は文字通りポリス、すなわち基本的には水平的な関係にある市民の共同体をその存立基盤としていた」と著者は書いている。
最後に、著者は「文化的記憶」の概念に触れている。
「文化的記憶の特徴は、種々のメディアによって客体化され、種々の制度によってその伝承の経路が確保され、専門家集団によって管理され、儀式的反復やテクスト解釈などの実践を通じて、繰り返し活性化されることである。」
こうして繰り返し想起され文化的記憶として結晶することで、ミケーネ文明は「古代ギリシアの原像」となったのである。
◎2026年9月25日『蒼ざめた馬』アガサ・クリスティー
☆☆☆☆☆科学者がオカルトにはまる心理を描く
先にレビューした『ABC殺人事件』同様、これもテレビドラマの不気味な演出に違和感があり原作を読んでみた。
原作は1961年出版で、「空を飛び去るジェット機の威圧的なけたたましい金属音、トンネルを通過する地下鉄のじわじわと迫る脅迫めいた低い轟音、家の土台を震わせる大型トラック……」といった20世紀文明の描写が冒頭で描かれる。
主人公は著名な学者で科学的思考になじんでいるが、奇妙な連続死の事件に関心を持つ。事件は、ヨハネ黙示録で死神の乗る「蒼ざめた馬」The Pale Horseという屋号の旅館で3人の「魔女」の行う黒魔術によって殺人が実行されるというオカルト話であり、主人公の友人や恋人は一笑に付して相手にしないが、主人公はその疑惑の解明にはまり込んで危険を冒すことになるというストーリーである。
もちろん、ミステリーだからオカルトの種明かしが最後に披露されるのだが、黒魔術に主人公がはまり込んでいく迫真的な心理描写がさすがである。
実は、発明王エジソンが霊界通信を研究していたとか、高学歴の科学者がオウム真理教にはまり込んで「ハルマゲドン」を引き起こすといった例は多い。本書の主人公も、当時の最新の心理学による精神的外傷(トラウマ)など、「死を求める自我によって、本物の病気が引き起こされる」という「魔女」の言葉をあやうく信じそうになってしまうのである。
3人の魔女はシェークスピアの『マクベス』を踏まえたものだが、主人公が恋人と『マクベス』を観劇して魔女の演技を恋人が酷評する場面が伏線として描かれる。
なお、この作品にはポワロもミス・マープルも登場しないが、著者の分身とおぼしき推理作家オリヴァ夫人が登場して重要な示唆を与えている。作家の創作の苦労や素材や人物の選択などが語られるのが興味深い。
◎2026年9月22日『イザベラ・バードの旅』宮本常一
☆☆☆☆☆宮本民俗学の描く明治初期の民衆像
イザベラ・バードの『日本奥地紀行』については、渡辺京二『逝きし世の面影』にも引用されているが、本書はバードの旅行記を素材に宮本民俗学を語る講演録である。
その話題はバードが旅をした明治10年頃の東北・北海道の民衆生活にとどまらず、幅広く日本の歴史や文化・芸能に及ぶ。まさに宮本常一氏のフィールドワークを踏まえた幅広い学識が縦横無尽に示されている。
とりわけ、現代では思いもよらない当時の日本の姿と民衆の心情や倫理が描き出されているのが興味深い。
いくつか例示する。
○バードが上陸して最初に受けた印象は、浮浪者が一人もいないことだった。著者によると、乞食のようでも下駄の歯替えやキセル掃除などの何らかの仕事をしていて、何もしないでお金をもらう乞食の多くは「レプラの患者だった」という。
○明治になって人力車が急増したが、その理由は日本には馬車がなく、馬車の通る道がなかったためだという。日本の馬は小さく、明治になって陸軍が馬を改良するようになってから大きくなったらしい。また、馬の扱いにも習熟していなかったので、東北地方には馬で引く鋤が発達しなかったという。
○バードは、「日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせる」と書いているが、著者はその後の日本人の体格を変えたのは「デンマーク体操」(注:ラジオ体操に大きく影響したらしい)だという。
○バードは「世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている」と書いていて、実際に東北は通訳1名のみ、北海道では通訳も連れずに1人で旅行している。ただし、外国人がよほど珍しかったのか、バードの行く先々で民衆が群がって見物に押し寄せた。これに対し、著者は、武士や政府は外国を敵と考えたが、民衆は敵意は持たず同じ仲間として交歓したと書いている。
○バードは、「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない」と書いていて、子どもを神童扱いして褒める人々を「大袈裟な子ども崇拝」とも書いているが、著者はこうした習俗は「エコノニミー(子ども本位呼称法)」のあるところで見られるものだと指摘する(ちなみに、韓国でも「○○の父」「○○の母」といった呼び方をする)。
○なお、バードは行く先々でひどいノミの被害に悩まされている。著者によると戦後に米軍がDDTで消毒する以前は日本全国でノミは多かったらしい。また、現在の「清潔好きの日本人」のイメージとは異なり、当時は風呂にも入らず服も洗濯しないのが地方民衆の日常だったという。
◎2026年9月16日『わたしが・棄てた・女』遠藤周作
☆☆☆☆心の奥底の消せない痕跡とは *ハンセン病の扱いは問題あり
遠藤周作がハンセン病を扱った小説として読んでみた。
時は敗戦後間もない時代で、主人公の吉岡は駿河台の学生下宿で友人と2人でむさ苦しい生活を送っている。まだ焼け跡の残る当時の東京の雰囲気やいかがわしいアルバイトで生活費を稼ぐ学生の状況が彷彿される。
「ゼニコがほしい、オナゴがほしい」という当時の貧乏学生の退廃ぶりに対し、吉岡と出会って棄てられるもう一人の主人公森田ミツの純朴さと自己犠牲的精神が対照的に描かれる。
ボロ雑巾のように棄てたミツのことを忘れて利己的に出世をめざそうとする吉岡だが、折節にミツのことが心に浮かぶ。
「ぼくは知らなかったのだ。ぼくたちの人生では、他人にたいするどんな行為でも、太陽の下で氷が溶けるように、消えるのではないことを。ぼくたちがその相手から遠ざかり、全く思いださないようになっても、ぼくらの行為は、心のふかい奥底に痕跡をのこさずには消えないことを知らなかったのだ。」
この《人生で消すことのできない痕跡》がこの作品のテーマであろう。
物語の後半はミツがハンセン病を疑われて御殿場の療養所(神山復生病院がモデル)に入所する場面となるが、ここでは不治の病に苦しむ入所者とミツの絶望、その後の聖女のような救済活動へと劇的に展開していくのだが、ハンセン病患者と療養所の扱いには疑問がある。
作品末の編集部の注にもあるが、ハンセン病は感染力が弱く現在では完治する病となっている。感染力が弱いことは戦前から知られていて隔離する根拠は元々なかったうえ、戦後すぐに特効薬プロミンが導入されて、社会復帰する患者も多数いた。本作品が書かれた昭和39年頃には、作家が取材していればそのあたりの事情はわかったはずである。にもかかわらず、終生隔離の悲惨な業病のようにハンセン病を描くのは、(ヨブ記の連想かもしれないが)小説の効果を劇的にするための舞台装置に利用したのであろう。患者への配慮を欠いたものと言わざるをえない。
吉岡が棄てたミツは、吉岡につきまとったり結婚を妨害したりせず、やがてハンセン病療養所に入所し、ついには不慮の死を遂げてしまう。吉岡にすれば「心の奥底の痕跡」にすぎないのだ。森鴎外の『舞姫』で、愛人エリスが発狂してしまうのとどこか似ている。
◎2026年9月14日『日本史の宝箱』東京大学史料編纂所編
☆☆☆☆☆史料から歴史を再構成する -史料編纂所の活動がよくわかる
大学時代の友人で東大史料編纂所の研究者になった人が何人かいるが、具体的にどのような仕事をしているのかよく知らなかった。しかし、本書を読んで、史料編纂所の活動の重要性と最先端の技術も用いた史料保存・復元の実際がよくわかった。
史料編纂所の歴史は江戸時代の国学者塙保己一が開設した和学講談所に遡り、「そのミッションは『大日本史料』ほかの史料集を刊行し、日本史の研究基盤を整えることにある」(井上聡論文)という。これまでに膨大な史料が収集され編纂されているが、史料原本ではなく情報収集と複製を蓄えるスタイルである。その方法は、写真複製技術が使える前は写字生による謄写や影写と呼ばれるものであり、写真複製導入後も原本の持つ形式や状態等の情報の重要性を踏まえて緻密な影写が行われている。X線や赤外線を用いたその驚くべき影写方法については村岡ゆかり論文に詳しいが、同論文によると失われた史料の復元や下絵にとどまった作品の完成版まで作るのだという。
こうした丁寧で緻密な作業により、史料の断片から歴史像が見直されたり新発見されたりするのである。
本書には多数の研究者による実例が紹介されており、藤原頼通や北条泰時のこれまで知られていなかった人物像や、伏見城修築を「公儀普請」とした徳川家康の思惑、中世の「おみやげ」の謂われ、能登名産「ナマコ」の小桶の図上解説など、歴史好きの興味をそそる史料解説が満載である。
私が特に面白かったのは『江戸時代の米の先物取引』(山本一夫論文)で、江戸時代の「天下の台所」、大坂に集められた全国の年貢米は、堂島の米会所(こめかいしょ)で売買されたが、そこでは世界初の組織的先物取引である「帖合米商い」(ちょうあいまいあきない)が行われていたという。現代の先物取引同様、売り手と買い手が相場によって米の先物売買をし、満期日に当初の価格との差金決済をする。少額の証拠金(敷銀)で大きな額を取引するハイリスク・ハイリターンの取引である。まさに「天下御免の大博奕」として老中松平定信に廃止が上申されたが、開催地の諸藩が商人の流出を恐れて反対したらしい。
◎2026年9月4日『ABC殺人事件』アガサ・クリスティー
☆☆☆☆☆異常者にも論理がある -ポワロ流プロファイリング
ジョン・マルコヴィッチがポワロを演じるテレビドラマを見て、あのデヴィッド・スーシェ演じるポワロシリーズとはかなり違う印象を受けたので、原作を読んでみた。
ポワロは現役を引退しているが「何度も引退興行をするプリマドンナ」のように事件の依頼があり、他方、スコットランドヤードのジャップ警部も健在だ。
ただし、ジャップ警部は影が薄く、事件を担当するクローム警部はポワロを時代遅れの「いかさま師」とみなして、慇懃無礼な態度を取っている。
事件は、ポワロに殺人予告の手紙が次々と送られてきて、ABC順に殺人が行われていく。
警察やマスコミは精神異常の殺人狂による連続殺人事件として捜査を進めるが、ポワロは事件の関係者と動機にこだわり続ける。
「その男が精神的に異常だというのでは、答えにはなりません。・・・狂気の人間はその行動において、正気の人間と同じように論理的であり筋が通っているのです」
このようにポワロは説明して、今風に言えば犯人像をプロファイリングしていく。
その後、犯人として精神異常者が逮捕されるが、この男はポワロのプロファイリングとは合致しない。そして、いつものように最後のポワロの説明で真犯人が明らかにされる。
ただし、ポワロシリーズや推理小説のファンなら、半分くらい読み進んだところで犯人の目星がつくのではないかと思う。
なお、最初の方でポワロがヘイスティングスに「シャーロック・ホームズ風の推理」を次のようにパロディー化するところがあり、著者がホームズを意識していたことがわかる。
「犯人は中背の赤毛の男で、左目が軽いやぶにらみです。右足をやや引きずり、肩甲骨のすぐ下にほくろがあります」(ジョークである)
「残念ながら、犯人は煙草を吸って、灰を落とし、奇妙な模様のある鋲を打ちつけた靴でそれを踏んで痕跡を残すといったことはしなかった。」
ホームズが細心の観察で証拠を積み上げていくのに対し、ポワロは「灰色の脳細胞」を駆使して犯人像をプロファイリングしていくということなのだろう。
◎2026年9月2日『モンゴル抑留』井手裕彦
☆☆☆☆☆知られざるモンゴル抑留、「死亡記録配達人」の執念の調査
第2次大戦敗戦時のソ連参戦による「シベリア抑留」の悲劇はよく知られているが、本書はほとんど知られていない「モンゴル抑留」について、元読売新聞記者の著者が個人で執念を持って調査探求し、日本の外務省・厚労省のみならずモンゴル国家へも働きかけを続ける、いわば自らが主人公となったルポルタージュである。
著者によると、モンゴルには1万4000人もの日本人が連行され、そのうち1700人が命を落としたという。
では、なぜモンゴル抑留なのか? 日本ではモンゴルと戦争したことを知らない人が多いが、実は日本で「ノモンハン事件」と呼ばれる現地名「ハルハ河戦争」はモンゴルを舞台とした戦争であり、ソ連兵だけでなくモンゴル兵の死者も多数出たうえ、戦争の結果、モンゴルの聖地であった領域が日本の勢力圏とされ、戦後は中国領となった。また、ソ連軍の満州侵攻にモンゴル軍は騎馬兵で協力し、その見返りとしてスターリンが2万名の日本兵を抑留してモンゴルに労働力として提供することを約したのだという。
もとより戦争捕虜を労働力として利用するのは国際法違反であるが、加えてモンゴル抑留では、関東軍が住民を置き去りにして撤退したためにソ連は約束どおり日本兵が確保できず、山海関などで日本帰還を待っていた民間人らを多数抑留までしている。ウクライナ戦争でロシアがウクライナの子どもたちを多数拉致した戦争犯罪や、第二次大戦中にナチスドイツが東欧から多数の住民を労働力としてドイツに強制移住させたのと同じやり方である。
そして、ソ連国内への抑留以上にモンゴル抑留は過酷な環境だった。当時のモンゴルは多数の捕虜を受け入れる態勢も能力もなかったからだ。著者は、「食料や物資の供給からも担当者の資質からも、私は当時のモンゴルという国に日本人を抑留する資格はなく、消えようのない国家犯罪を犯したと考えている」と怒りを込めて書いている。
その結果は抑留者1612人の死亡記録にあらわれている。死因別にみると1500人が「病死」、98人が「外傷死」、「そのほかの死」が14人となっていて、「病死」のうち最も多かったのは結核の583人で、赤痢139人、肺炎121人、栄養失調症111人、虱を媒介とした回帰熱80人、チフス73人と続く。「外傷死」では凍傷41人、事故死34人等であり、逃亡などで銃殺された者もいる。まさに過酷で劣悪、非人道的な抑留だったといえる。
著者はこうしたモンゴル抑留の実態を記者時代の関わりから退職後も個人で執念を持って追及し続け、死者の名前と死因がわかった者については遺族を探り当てて伝える「死亡記録配達人」としての活動を続けている。
本書では、この問題に対する日本政府の消極的な姿勢が随所で糾弾されているが、とりわけ、ソ連・ロシアとは国家間の明文の協定で相互に抑留者の調査が続けられているのに対し、モンゴルとは明文の協定がなく、日本側で判明した事実についてモンゴルに「お願いして」調査してもらうやり方なのだという。
ゆえに、多数の人がモンゴル抑留に関心を持ち、日本政府を叱咤激励して事実の究明と死者の慰霊・追悼を進めるために本書は書かれたのである。
◎2026年8月27日『道徳を競う帝国』前田健太郎
☆☆☆☆マイノリティの権利の実現過程 ただし、国際関係論に偏りすぎか
人種差別やジェンダー差別といったマイノリティの権利は西欧思想に由来したものか?
これが著者の問いかけであり、それに対し著者は、①マイノリティの権利は脱植民地化の世界史的な流れで理解できるが、その成立には植民地帝国としての日本も深く関わっていた、②戦後の日本でマイノリティの権利の拡大が遅れたのは旧植民地からの批判が長期にわたって封じ込められていたからだ、という主張を立てる。そして、アメリカの黒人と日本の在日コリアンの権利の拡大過程を主な対象として議論を進めていく。
この問題で著者が日本と朝鮮半島の関わりに着眼し、論の大きな柱としていることは極めて重要である。例えば、大日本帝国の植民地支配が統一的国家権力の存在した朝鮮を対象としたため不安定で過酷な殺戮を伴ったものだったこと、敗戦後に日本国内に200万人もいた在日コリアンに対する段階的な国籍剥奪がマイノリティ化の起源であること(宋恵媛他『密航のち洗濯』参照 *レビュー済み)、さらには、キーセン観光から慰安婦問題に至る韓国からの批判を女性の権利実現に向けた旧植民地からの異議申立てと位置づけていることは正当な評価といえる。
また、日露戦争後の朝鮮半島を「東アジアのバルカン半島」と位置づける捉え方は興味深かった。
戦前の日本のファシズム化は政党システムの分極化ではなく軍部との対立が原因であり、軍部の権力基盤は植民地にあったというハンナ・アーレントの「帝国主義のブーメラン効果」を引用しての説明も、満州での関東軍の暴走などを想起するとわかりやすい。
ただ、民族自決や人種差別解消、女性の権利拡大といった普遍的な権利に関わる課題の実現が「道徳的な優位性をめぐる帝国の競争」という形で集約されてしまうのはいかがなものか。
第一次世界大戦前後の帝国主義諸国間の対立の思惑や、冷戦時の東西陣営の差別と人権をめぐる体制間競争は重要なファクターであるとしても、その大元に人種差別の解消や女性の権利拡大といった普遍的理念の実現へ向けた社会運動と国際世論の支持がなければ道徳的な優位性という問題は生じない。もちろん、日本が人種差別をめぐる「帝国の競争を引き起こす上で、決定的な役割を果たした」といっても、それは日本の帝国主義国家としての地位向上という利害からのことにすぎない。
ヘーゲルが「理性の狡知」List der Vernunftと述べたように、普遍的理念は個人や国家の意図せざる欲望や情念によって実現されていくのであって、その逆ではない。
その意味で、著者の視点は国際関係論に偏りすぎていると感じるのである。
◎2026年8月19日『新訳 ロミオとジュリエット』シェイクスピア
☆☆☆☆☆愛と死、そして秘薬のテーマの源流
有名な「ロミオとジュリエット」の物語の原作である。
私は学生時代に小田島雄志訳で読んだが、演劇の舞台は見ていない。むしろ、プロコフィエフ作曲のバレエ『ロミオとジュリエット』が大好きで、歯切れのよいモダンな音楽でバレエの舞台映像を楽しんでいる。
物語の舞台となったヴェローナにも行ったことがあるが、「ジュリエットのバルコニー」とか「ジュリエットの墓」が観光名所として作られていて、大勢の観光客で賑わっていた。
この『新訳』のもっとも大きな特徴は、幕場割がなく、原作のト書きのみで演劇が進行していくところであろう。
著者の中公新書『シェイクスピア』(*レビュー済み)によると、シェイクスピアの時代の舞台には幕がなく、張り出した舞台のまわりを観客が取り囲む形で、日本の能舞台のようだったらしい。本書の「訳者あとがき」には、「シェイクスピアにとって、舞台は自由自在に変わるのであり、いちいち幕場割りで区切る必要はないし、また区切ってしまってはシェイクスピアが意図した自在な舞台展開を壊すことになってしまう」と書かれている。
確かに、主人公の感情の激変や長い詩吟のような台詞回し、場面の急展開などは、近代のリアリズム演劇や小説よりも能狂言の世界のイメージに近い。
物語としては、恋人たちの激しい恋愛と死の悲劇だが、これに秘薬が絡んだストーリーは、アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』(*レビュー済み)の最後でも使われている。ただし、後者は秘薬で仮死状態の恋人ヴァランティーヌの後を追ってマクシミリアン・モレルが死のうとするのを伯爵に止められて、ハッピーエンドとなる。
また、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』では、死の薬を半分飲んだトリスタンからイゾルデが杯を奪って飲み干し、共に死のうとするのだが、実は侍女にすり替えられた愛の秘薬だったという仕掛けで物語が進んでいく。
こうした「愛と死」の激情に秘薬が絡んだストーリーの源流がシェイクスピアなのである。
| ジュリエットのバルコニー(2016年8月撮影) |
◎2026年8月17日『太平記史観』谷口雄太
☆☆☆「新田義貞は足利一門」、その意味は?
『太平記』は子どもの頃ダイジェスト版で読んだくらいだが、ちょうど今、本書も引用する平成3年の大河ドラマ『太平記』の再放送を見ているので、本書を読んでみた。
著者のいう「太平記史観」とは、「文学作品である『太平記』が紡ぎ出す物語・視座、『太平記』が繰り出してくるものの見方・考え方」ということだが、同様のものには「平家物語史観」、「徳川史観」あるいは近代の「皇国史観」がある。
それにしても、本書は「太平記史観」の批判に約半分を費やしているのだが、今どき『太平記』を読む人は少ないだろうし、日本中世史研究者以外に「太平記史観」といってピンと来る人がいるのだろうか。
著者は、新田義貞が足利一門であり、かつ足利本家よりも格下の存在だったという事実が、「これを超える衝撃度を持つ発見など今後できるのか、不安」とまで書いていて、本書の後半では新田義貞に関する記述が長々と続くのだが、その大発見の意味がよくわからない。
上記の大河ドラマ『太平記』でも、新田義貞は足利本家に出入りする近い関係者で、その地位も勢力も足利本家よりもずっと下であるように描かれている。また、足利一門であろうとなかろうと、その時々の利害判断で足利本家と連携することも対立することもありうるはずだ。つまり、「足利一門」であることの意味の説明が足りないのだ。
さらに、新田義貞の「選択」として、①鎌倉幕府か足利高氏か、②足利尊氏か後醍醐天皇か、③後醍醐天皇か第三極か、の3つの段階があったとの議論については、テレビ番組の『英雄たちの選択』シリーズみたいだが、歴史上の事実はすでに起きているのだから、それに対する理由説明こそ重要なのではないか。
とはいえ、『太平記』は『平家物語』を踏まえているとか、倒幕を主導したのは後醍醐天皇ではなく護良親王だったとかといった指摘は興味深く読んだ。
ちなみに、大河ドラマ『太平記』では、笠置山の敗戦から落ち延びる楠木正成一行を足利高氏が関所で吟味して見逃した場面があり、『勧進帳』で有名な義経一行の安宅の関の逸話を連想させたが、これは大河ドラマの創作か?
◎2026年8月14日『不平等と教育』苅谷剛彦
☆☆曖昧な概念を明確にすれば教育格差が解消するのか?
本書を読んでまず感じた印象は、過去の自著をも引用する前置きがとても長く、本文の論述も繰り返しが多いことであり、しかも具体的な政策提言がなく、率直に言って期待外れであった。
そもそも著者の問題意識が、前書きにあるように「言葉≒概念」であり、「欧米の言葉との比較を念頭に置いた、『比較知識社会学』の試み」なのだという。
そこで著者が挙げる概念が「大衆」と「機会均等」なのだが、「大衆」massは元はeliteと対比された概念で、階級class概念とも親和性がある。しかるに、日本で「大衆」という場合は、階級概念が曖昧にされたとする(classを「階層」と翻訳する婉曲化)。
同様に、「機会均等」についても、equal opportunityはすべての人に成功の機会を付与する概念で、階級間の社会移動の機会と結びつくのに対し、日本の「機会均等」はそうした駆動力がない。かえって、階級間の教育格差が見えにくくされ、自己責任による「努力」が強調されて試験が成功への道とみられているというわけである。
大衆社会化を経た21世紀の「格差社会」化現象についても、階級が曖昧にされてきた結果、「個人間の意欲や努力や能力の差として、むしろ格差を歓迎する見方も存在する」と著者はいう。
これに対し、著者は、こうした概念による「隠蔽のメカニズムをより深く掘り下げ、それを明るみに出す地点にまで到達するには、曖昧さを含む概念では不十分」であり、「問題構築の曖昧さや鈍さを問題の俎上に載せることの重要性は高まっている」と繰り返し強調する。
しかし、教育格差の階級的性格を明確にするだけで格差が解消するだろうか。概念の明確化(それ自体がイデオロギー闘争である)は著者自身が属する教育アカデミズムの責任問題だが、それが具体的な政策提言として伴わなければ政治的社会的には力を持たない。
著者は知識の「妥当性や非妥当性は問わない」(実証的な検証をしない)と宣言しているが、これでは「階級概念の曖昧化」という批判の妥当性すら疑われる。
ちなみに、著者が引用する松岡亮二『教育格差』へのレビューで書いた以下の疑問を、本書についても感じたので再掲しておく。
「しかし、書かれている格差なんて誰もが体験的に知っていることばかりではないか。
幼児期から、高学歴で経済的余裕のある親が丁寧に子どもに接し、ピアノ教室に通わせたり絵本をたくさん読み聞かせたりできる環境とそうでない環境で格差があるのは当然だし、小中高校時代でも、塾や家庭教師をつけたり海外旅行や短期留学ができる環境とそうでない環境で差があるのは当然だ。それが親が高学歴かどうかとか三大都市圏居住かどうかで格差があるのも、言われなくても自らの体験からとっくにわかっていることだ。
問題は、その格差を教育段階でどうするのかだろう。」
◎2026年8月9日『シェイクスピア』河合祥一郎
☆☆☆☆シェイクスピア演劇は能舞台で行われる狂言に近い
著者の新訳による4大悲劇等を読んでレビューしたことから、本書も読んでみた。
新書版ながら、シェイクスピアの生涯と当時の演劇の上演方法、喜劇と悲劇のそれぞれの特徴、その哲学が概観されている。
シェイクスピアの生涯については推測による記述が多いが、町人階層に生まれ、自らも演劇引退後は不動産取引をしていたことと、エリザベス朝の厳しい宗教弾圧の時代を生きて、身近な親戚や恩師筋の人々が「首吊り・内臓抉り・四つ裂き」の極刑を受けたことに注目した。『リチャード3世』などの作品で、王族や重臣たちが次々と処刑される陰惨な場面が出てくるのはこうした時代ゆえだろう。
本書でもっとも興味深かったのは第4章のシェイクスピア演劇の特徴である。特に、当時の舞台には幕がなく、屋根のない張り出し舞台のまわりを観客が取り囲んでおり、大がかりな舞台装置も場面転換もなく、日本の能舞台のようだったという(劇場が現代のように幕の下りる額縁形式になるのはシェイクスピアの死後とのこと)。著者は、「シェイクスピア演劇は狂言に近く、西洋近代演劇には遠い」と断じており、この点でチェーホフやイプセン、さらにはフランス古典演劇のコルネイユ、ラシーヌとも一線を画するという。
確かに、登場人物の朗唱のような長い独白、空間と時間の自由自在な飛躍、観客の想像力に委ねられる部分の多さなどは能狂言をイメージしたほうがわかりやすいかもしれない。
シェイクスピア演劇を特徴づけるものとして、著者は喜劇については「道化と矛盾」、「アイデンティティの混乱」、悲劇については「神に成り代わって運命を定めようとする傲慢さ」(ヒューブリス)を指摘しているが、実際に作品を読んだ印象はもっと多様な解釈や現代的な視点からの読み直しが必要と感じる。
◎2026年8月6日『500Miles』(映画)
☆☆☆☆☆アイルランド西海岸の風景をバックに家族の絆を問う
これも国際線の機内で見たが、家族の絆とは何かを深く問いかける映画だ。
主人公は少年とその幼い弟だが、弟は早産で生まれ、病弱ながらも明るい性格で家族の中心となっていた。冒頭で少年親子の団らんに祖父から電話がかかるが、娘である母親は渋い顔をして取らない。実は父母は離婚の話をしていて、兄を母親が弟は父親が引き取るという会話を兄は聞いてしまう。そこで、兄は弟を連れてこっそり家を抜け出し、アイルランド西海岸のディングルに住む祖父を訪ね、弟が見たがっていた湾付きイルカの「フンギ」を見に行こうとする。イギリス・シェフィールドの自宅からディングルまでは海を挟んで500マイルの大旅行である。手持ち金の少ない少年は長距離バスとフェリーを乗り継いで行こうとするのだが・・・。
大旅行の途中の少年たちと人々との関わり、特にアイルランドの牧場の娘との交流が描かれる。子役2人の演技がよく、幼い弟がとてもかわいい。
祖父はある事件をきっかけに心に傷を負い、家族との連絡も取れなくなっていたが、その事件については最後に明らかにされる。あっと驚く演出である。
アイルランド西海岸の風の吹き付ける広大な荒れ地の風景がとても印象的だ。
◎2026年8月5日『リチャード・ジュエル』(映画)
☆☆☆☆☆爆弾テロの冤罪事件 弁護士の援助の重要性がよくわかる
これも国際線機内で見たクリント・イーストウッド監督作品だが、イーストウッドは映画中には登場しない。
物語は1996年のアトランタオリンピックの際に起きた爆弾テロとえん罪事件の実話に基づいたものだ。
主人公はいかにも個性的でオタクっぽい感じの男性で母親と暮らしている。彼がオリンピックの機会に行われたコンサートの警備員として爆弾を発見してテロを最小限度の被害で抑えたことから時の英雄となるが、FBIから犯人と疑われ、マスコミに大々的に書き立てられてメディア・スクラムの被害者となる。
その明暗の激しさと、自宅を取り囲まれるメディアスクラムの過酷さが生々しい。
主人公が古くからの知り合いの弁護士の助けを得て徐々に立ち直り、警察やメディアと対決していく、その変化が見どころである。
警察の見込み捜査の問題点や、被疑者を騙して調書や録音テープの証拠を作ろうとする場面がリアルに描かれているのがよい。
被疑者の心理としては疑いを晴らそうと警察にあれこれと話したくなるが、警察はそうした被疑者の迎合的な心理を利用して誘導的に不利な供述を取る。それ故に弁護士は捜査段階では黙秘するようにアドバイスするのだ。
この映画では被疑者取り調べに弁護士が立ち会い、被疑者が余計な供述をしそうになると異議を述べる。日本では弁護士の取調立会は制度として認められていないが、冤罪を防ぐためには極めて重要なことである。
◎2026年8月5日『Train Dreams』(映画)
☆☆☆☆☆森林伐採に従事する男の人生を余韻深く描く
国際線の機内で見た。題名から鉄道開発の物語かと思ったが、全く違って森林伐採に従事する男の一生を描いた物語だった。
時代は20世紀前半のアメリカで、親もよくわからない男が森の中の小さな村で女性と出会って家庭を作るところから始まる。男は森林伐採の出稼ぎに出かけるのだが、第一次世界大戦前後の木材需要から稼ぎはいいが過酷な労働が描かれ、倒した巨木の下敷きになって死ぬ労働者や落ちてきた大枝で死ぬ労働者、リンチに遭う中国人労働者や追跡者に射殺される逃亡犯人などのエピソードが挟まれる。
後半は、男の家族を待ち受ける自然災害の過酷な運命とその後の男の孤独な人生が淡々と、しかし余韻を深く残して描かれていく。
映画全体を覆う深い森と湖畔の村の美しい場面が印象的だ。
◎2026年8月5日『新訳 リチャード3世』シェイクスピア
☆☆☆暴君と巻き込まれた人々の運命を描く
映画『ロストキング』(*レビュー済み)で奇跡的な遺骨発見が描かれたリチャード3世だが、この映画では王の実像は悪漢ではなかったとされ、王の亡霊も優男の俳優が演じていた。
解説によると、シェイクスピアの時代はチューダー王朝が打倒した暴君との評価が確立していたとのこと。
確かに、本作品が描くリチャード3世は狡猾で悪逆非道だ。
冒頭の長い独白で、醜男ゆえに「恋の花咲くはずもないこの俺は、もはや、悪党になるしかない」と開き直った悪漢宣言をして王への道を突き進む。
そして、邪魔になる兄弟やその子らを次々と暗殺し、その共犯だったヘイスティング卿やバッキンガム卿まで疑心暗鬼に駆られて処刑してしまう。
しかし、このような恐怖支配が続くわけもなく、臣下の離反と反乱を招いて没落するお決まりの結末となる。
それにしても、次々と登場人物が殺されていく展開は陰惨すぎる。
演劇的な見どころは、リチャード3世の神も良心も恐れぬ悪漢ぶりと、それに巻き込まれて憂き目を見る王族や臣下の嘆きと憤りをどう表現するかだろう。
特に、王族の女性たちの激しい呪詛の言葉は見どころである。先々王の妃マーガレットはまるでトロイアのカッサンドラのように予言して警告するが受け入れられない。
また、アンが夫と子を殺したリチャード3世の王妃となるのを受諾したのは、リチャードの弁舌や悪漢の魅力などではない。受諾した自らを呪うアンの言葉のように、不本意ながら応じたのだ。「弱き者、汝の名は女」(ハムレット)というシェイクスピアの女性観がここにもあらわれている。
解説によると、近年の上演ではシーザー役をトランプ大統領やオバマ大統領に見立てた演出もあって物議を醸したという。
遡ればリンカーン暗殺などの多くの政治的テロに当てはまりそうな問題作ともいえる。
シーザー暗殺の動機はローマの民主主義と自由が脅かされるという点だが、「高潔な」ブルータスの台詞は、告発の根拠がないから「彼を蛇の卵と看做し、・・・卵のうちに殺してしまうのだ」というにすぎない。ブルータスを唆すキャシアスに至っては、「シーザーは俺を疎んじ、ブルータスを愛している」という私的な怨嗟からブルータスの名声を利用する。
政治的テロの多くは、実はこのようなものだろう。
なんといっても、ひどい黒人差別をそのまま物語の前提としている点。オセロの呼び名はほとんど「ムーア」だが、ここでは「ニガー」のような蔑称の響きがある。差別意識はイアーゴやデスデモーナの父だけでなく、オセロ自身にも刷り込まれていて、それがイアーゴにつけ込まれる原因になっている。
次に、イアーゴの狡猾極まりない策略が悉く功を奏し、オセロを心理的に追い込んでいくいやらしさ。作家の筆は人間心理の弱みをこれでもかと抉るが、その非人間的な悪どさと下品さには不快感しかない。
さらに、オセロの妻デスデモーナとイアーゴの妻エミーリアの2人の女性が、一方的に男の嫉妬と根拠なき恨みの犠牲となって殺されること。時代の価値観や悲劇の不条理さを考慮しても、この女性の扱いはいかがなものかと思う。
なお、訳者解説では「オセローが妻殺害に及んでしまう最大の罠はイアーゴーではなく、シェイクスピアによって仕掛けられている」として、第五幕第二場の、
“Alas, he is betrayed! ”(本書の訳は「 あの人、逝ってしまったのね」)
が異なる意味に読めることを挙げるが、どうだろうか?
そして、その後のリア王の態度も、領地を分け与えた長女と次女のところに100人もの家来を連れて滞在するという傍若無人さだ。
これでは長女と次女が文句を言うのは当然に思えてしまう。老いてなお権力にしがみつく無残な人々を連想する人も多いのではないか。
また、末娘が2人の姉を批判しつつ王に対して冷めた応答して、わざと怒りを買ったように見えるのも不自然だ(解説では独善的と評されている)。
このように、悪い姉たちに裏切られた哀れな父王を心やさしい末娘が助けようとする悲劇、とは単純に読ませないところにシェークスピアのドラマツルギーの真骨頂があるのだろう。
道化の意味不明のようでところどころ核心を突く長広舌や、リア王の狂乱した多弁も、舞台の見どころとして企図されているはず。
付録として紹介されているトルストイの批判とオーウェルの反論は、近代小説と演劇の違いをよく理解させてくれる。
kindle版では注がポップアップで示されるから便利である。
物語は周知のとおり、スコットランドの将軍マクベスが王を殺して王位を簒奪するが、イングランドの支援を受けた王子たちに反撃されるというものだが、解説によるとこれはほぼ史実を踏まえており、スチュアート王朝の祖先バンクォーの役割のみ変えてあるとのこと。
物語の鍵を握るのが3人の魔女の予言で、マクベスは予言に唆されて王やバンクォーの殺害に及ぶが、最後は「バーナムの森が動く」などの予言に振り回されて自滅してしまう。
王妃を望んで王殺害を後押ししたマクベスの妻共々、悪事の重圧に耐えきれない人間の運命を描いている。
◎2026年7月29日『コンパニオン』(映画)
☆☆AIの反逆の「エロボット」版
国際線の機内で見たが、昔のSFでよくあったコンピュータやロボットの反逆ものの現代版。
しかもロボットは精巧なダッチワイフの「エロボット」で、女性だけでなくゲイの男性まで登場する。
主役のソフィー・サッチャーが目がパッチリして色白の人間離れした美人で、メイド風のスタイルなのだが、これは孤独でモテない男の願望を投影したものか?
このエロボットに仮想の恋愛エピソードを含めてインプットし、男に従順なコンパニオンとして支配するというコンセプトがキモすぎる。
物語としては、当然ながらこのようなキモい願望が肯定されるわけもなく、エロボットから痛すぎるしっぺ返しを受けることになるのだが、詳細はネタバレなので触れない。
昔読んだ石ノ森章太郎の『セクサドール』を思い出したが、あちらの方がまだよかった。
◎2026年7月29日『名もなき者/A
COMPLETE UNKNOWN』(映画)
☆☆☆☆☆ディランの歌が時代とともに味わえる
私自身はボブ・ディランより少し後のフォーク世代だが、この映画では若きディランの登場とジョーン・バエズとの出会いと別れ、フォークソング改革からロックへの歩みまでの前半生が描かれている。
特筆すべきは時代背景がしっかり描かれていることで、赤狩りの時代を経て、ベトナム反戦運動からキューバ危機、ケネディ暗殺に至る冷戦の厳しい政治状況と反戦運動としてのフォークソングの関係がよくわかる。
ディランの素晴らしい詩がまさに時代に応えた歌としてたっぷり聴けるのがうれしい。
ディランのノーベル文学賞受賞だけでなく、トランプ政権への抵抗としても見ることができる映画だ。
このハムレットの台詞はあまりに有名だが、意外にも本書の解説にずらりと紹介してある過去の翻訳ではこの訳文は用いられていない。
例えば、福田恆存訳は、
「生か、死か、それが疑問だ。」
私が昔読んだ小田島雄志訳は、
「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。」
渡邊守章訳は、
「このまま生きる、それとも死ぬ、問題はそこだ」
というように、各翻訳家の解釈と個性を反映した訳文が採用されているが、本書では舞台上演にもっとも馴染むこの台詞を初めて採用したという。
台詞の意味は理性に従って生きるか激情に身を任せて死ぬかということなのだが、これが優柔不断と解釈されたのは19世紀のロマン主義文学の影響だとのこと。
実際、改めて読むとハムレットは優柔不断ではなく、強固な意思で復讐を実行しようとしている。
この台詞以外にも「弱き者、汝の名は女」などの名台詞が多数散りばめられているのは、さすが古典中の古典である。
また、先王の亡霊を悪魔かどうか疑う場面は宗教改革で煉獄が否定されたのを踏まえているとの指摘や、王妃ガートルードが王権の保持者であり王とハムレットの争いの鍵を握っているとの指摘も興味深かった。
訳者の河合氏は野村萬斎氏の舞台上演のために翻訳を依頼されたとのことで、萬斎氏が訳文を細かくチェックして監訳のようになったという。
なお、改版では訳註が大幅に加えられ、版の異同などが詳しく触れてあるが、最初に読むときは注を飛ばしてよいと思う。
◎2026年7月24日『死の泉』皆川博子
☆☆☆☆カストラートとレーベンスボルン計画 凝りに凝った構成
本書を開くと、ドイツ語の書名と著者ギュンター・フォン・フュルステンベルク、野上晶=訳という扉のページがあらわれ、同訳者によるあとがきと奥付まである。あれれと思って見返すと、著者は皆川博子で最後に本もののあとがきがある。
このような構成の小説は見たことがないが、本書を最後まで読むと「訳者あとがき」の企みがわかるという仕掛け。ただ、これはいささか凝りすぎではないか。
物語はナチス・ドイツが国家的に進めたアーリア人種純血化のための優生学的民族計画「レーベンスボルン」(Lebensborn 生命の泉)の施設で、施設長の医師がポーランドからアーリア人種として拉致した聖歌隊の少年2人を男性ソプラノのカストラートとして育てようとするところから始まる。
この医師は言う。
「世界のすべてのよい血は、ドイツに集められるべきだ。我々は、全世界からゲルマンの血を探し出し、奪う。子供は成長し、交配し、種をふやす。三、四十年後には、ドイツ国民の大半は北方系アーリアンに改良される」
このような恐るべき計画が大真面目に実行され、その反面で、ユダヤ人大虐殺だけでなく、ロマの人々(本書では「ツィゴイネル」という蔑称)も40万人殺されたとされている。
本書の前半部分はこのレーベンスボルン計画と子どもたちの物語だが、後半ではナチスドイツの敗北から17年後の戦後の時代を舞台にレーベンスボルンの子どもたちがどうなったのかが描かれる。
驚くことに、上記の施設長はナチス追及を免れてアメリカで科学者として優遇されて帰国し、やはり優生思想の体現者として物語の重要な役割を担う(日本でも戦前の関東軍731部隊の部隊長石井四郎が、アメリカに人体実験の情報を提供して戦犯訴追を免れた事情を想起する)。
後半の物語は、レーベンスボルンを生き延びた子どもたちと、帰国した元施設長と施設関係者、ナチスSSの残党グループの思惑が絡んだ複雑な展開となり、最後は地下の岩塩坑を舞台にした凄惨な殺戮にまで及ぶのだが、筋としては複雑にしすぎている感がある。そして、最後の最後に子どもたちに関する衝撃の事実が明らかにされ、そして「訳者あとがき」の企みがある。
なお、岩塩坑についてはオーストリアからポーランドにかけて広がるとされており、ザルツブルクやクラクフが観光用として有名で、私も後者を見学したが、礼拝堂や巨大な広間のある、まさに「地下宮殿」のような場所である。
また、施設長の同僚としてヨーゼフ・メンゲレ医師が「逃亡中」と書かれているが、その逃亡生活については『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』(オリビエ・ゲーズ著 *レビュー済み)に詳しい。
ナチス時代の優生思想については、『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察』(森下直貴他著 *レビュー済み)も参照されたい。
◎2026年7月18日『トパーズ』(映画)
☆☆☆☆キューバ危機にフランス情報部員が関与?
ヒッチコックのスパイスリラーだが、時代背景は1962年のキューバ危機である。
冒頭、コペンハーゲンからソ連情報部高官が亡命する場面から始まるが、人混みのデパートを利用した亡命劇の演出はさすがに緊迫感がある。
亡命した高官の情報提供からキューバへのミサイル基地建設が判明し、その調査をCIA要員の友人のフランス情報部員に依頼するのだが、このような重大任務を私的に他国情報部員に依頼するだろうか? 案の定、フランス情報部員は無断の情報活動についてフランス情報部から査問を受けることになる。
この映画では、フランス情報部内のダブルスパイ組織(これが「トパーズ」である)がキューバ危機で重要な役割を演じていたことになっており、この組織を暴くことが重要なプロットとなっているのだが、米ソ対立にフランスを1枚かませたこのプロットはフランスではどのように評価されたのだろうか。
あと、キューバの反政府活動家と愛人関係にあったフランス情報部員は、妻のほうもフランス情報部内のダブルスパイと不倫関係にあったという落ちで皮肉な解決に向かうが、これはあまりにもできすぎである。
◎2026年7月18日『少年十字軍』皆川博子
☆☆☆☆「聖地巡礼」をめぐる大人の思惑に利用される少年たち
学生時代にフランス語の新倉俊一先生の授業で“Croisade
des enfants”(子ども十字軍)をテキストに使っていたが、とても叙情的で悲哀に満ちた物語だった。本書の参考文献として掲げてあるマルセル・シュオブの「小児十字軍」だったと思う。
少年十字軍はたんなる物語ではなく歴史的事実で、1212年にフランスで少年エティエンヌが神の啓示を受けたとして聖地を目指して出発したが、アレキサンドリアで奴隷商人に売られてしまったという悲劇である。
そもそも十字軍というものがイスラム諸国に包囲された西欧諸国とローマ教皇が聖地奪還に名を借りて派遣した侵略軍なのだが、本書で紹介される第4次十字軍は聖地でなくヴェネツィア商人らの思惑でコンスタンチノープルの破壊と略奪まで行った。ヴェネツィアやマルセイユの地中海商人たちにとってはイスラム勢力は交易の重要なパートナーであり、十字軍など商売の邪魔でしかなかった(本書でもマルセイユで少年たちは冷たく扱われる)。
本書では、少年十字軍の派遣を企図し、行く先々で寄付を募る修道僧や領主の思惑、子どもの口減らしのために子どもを随行させる親たちの思惑が描かれている。
神の啓示を受けたと言われたエティエンヌ自身も目的は明確でなく、悩みつつ進軍する。年下の少年たちは事実上故郷と親に見捨てられたような存在で、聖地巡礼をしなければ帰郷もできない不安な立場にある。
著者は、エティエンヌらの一行に加え、我こそはと対抗する領主の息子とその下僕として従軍する記憶喪失の騎士を配して、物語を複雑に絡み合わせている。
最後は少年たちが奴隷に売られる悲劇で終わらず、勧善懲悪的な結末となっているが、少年少女読者への配慮か、あるいは著者の少年たちへの哀惜の情だろうか。
ただし、エティエンヌにせよジャンヌ・ダルクにせよ、神の啓示がリアリティを持って民衆を熱狂させた時代を、現代の世俗的利害の目だけで解釈するのはどうかとも思う。
◎2026年7月14日『歴史学は世界を変えることができるか』松沢裕作
☆☆☆☆「現実を組み替えてゆく実践」につなげる可能性を開く
大胆で勇敢な表題に惹かれて本書を買ったが、表題論文は最後の短い論文で、あとは様々な機会に発表した論文や講演をまとめたものである。
しかも、前半の第Ⅰ部は歴史学会内部の学説史や学派を意識して書かれたもので、外部の一般人にはわからない話が多い。
その中でも比較的わかりやすい3では、日本近世から近代への移行期の連続と断絶に関する学会内の議論状況が概観されるが、近年では「社会が変わる」という移行期や時代区分に関心が低下しているという(自然科学モデル)。これに対し、著者は社会変わる可能性があることへの関心が薄らぐことに危惧の念を覚えると述べている。
第Ⅱ部は、国民国家論や自由民権運動などの著者の専門分野である日本近代の問題を取り上げており、牧原常夫、武田晴人、福沢諭吉などの議論を俎上に論じており、第Ⅰ部よりはわかりやすい。
特に、戊辰戦争に武士以外の多くの平民が関わったことが「戊辰戦後デモクラシー」を生み出し、自由民権運動につながっているという議論は興味深かった。平民が戦争に参加することで社会参加と発言力の強化が生まれるというのは、ペルシャ戦争後のアテネの民主政治を想起させるが、日清及び日露戦争後についても同様の議論が当てはまる。
ただし、福沢諭吉はこうした戦場帰りの「血腥い怖い」人々をいかに教育に取り込んでいくかと書いており、いち早く暴力をコントロールする課題を認識していたようだ。
最後の表題論文で、著者は「歴史学にはそれだけで世界を変える力など付与されてはいないが、世界を変えたいと願う時に、歴史学の役割や持ち場というものはおそらくある」と述べ、その役割として「抑圧を発見し、その抑圧の構造を解明すること」と「解放幻想を理解する作業」を挙げている。こうした作業を通じて、「過去の多数の実践を、私たちの現実や私たちの願望を想起させ、私たちの現実を組み替えてゆく実践へとつなげる可能性が開かれる」というのである。
◎2026年7月13日『荒野のストレンジャー』(映画)
☆☆☆謎のガンマンは街を壊して去って行く
クリント・イーストウッドが初めて監督をした西部劇とのことだが、『ペイルライダー』(*レビュー済み)と同じように謎のガンマンがぶらりと街に現れ、大暴れした後で謎のまま去って行くという設定だ。去って行く後ろ姿が消えるようにして不気味に終わるのもそっくり。
ただし、『ペイルライダー』ではガンマンは乱開発で環境を破壊する資本家から街を守る正義の味方だったが、この作品では街全体が鉱山開発の不正を隠すために保安官を殺した共犯者であり、ガンマンの復讐対象となっている。
それゆえ、ガンマンは最初から荒々しく登場し、絡んできたごろつき3人をあっという間に射殺し、近づいてくる女性の扱いも乱暴極まりない。用心棒を依頼されたのに、最後は街全体が破壊されたようになって終わる。
ただ、西部開拓時代の街はもっと自衛力が高いはずなのに人々が弱すぎるし、建物がチープなのも気になるところ。
舞台となっている丘陵と湖はとても雄大で、美しい。
◎2026年7月9日『分断80年』徐台教
☆☆☆☆☆「南北統一」から「朝韓平和共存」へ
すぐ隣の国である韓国の現代史について日本の歴史教育ではほとんど学ばない。ニュースや韓流ドラマで断片的知識はあっても、尹錫悦前大統領が突如戒厳令を布告し、それが議会と国民の機敏な決起で数時間で阻止された劇的な展開について、驚き呆れるばかりで歴史的背景を考えようとしない人がほとんどではないか。
本書はまさにこの戒厳令布告事件から説き起こし、「分断80年」という視点から韓国現代史を鳥瞰させてくれる。
知られていないことのまず第1は、日本の植民地支配が終了した1945年8月から韓国政府樹立に至る1948年8月までの「解放空間」と呼ばれる時期である。
この時期、朝鮮半島は米ソ分割統治が行われたが、朝鮮の人々は将来分断国家になるとは思わなかった。そうした中で呂運亨らが建国準備委員会を立ち上げ、その下で若き金大中も働いていた。ところが、モスクワ協定で信託統治案が公表されるやその反対世論が広がり、それが「反ソ連・反共産主義」へと向かった(著者は信託統治後の独立保障という内容を無視した宣伝が行われたという)。このとき冷静な議論を呼びかけた東亜日報社長、その後も南北統一をめざして活動した呂運亨ほか中心人物が次々と暗殺され、南北独自政府樹立の動きが加速したという。
第2は朝鮮戦争の影響の大きさである。日本の教科書では「朝鮮特需」程度しか注目されないが、朝鮮半島全土で地上戦が闘われ、犠牲者は南北合わせて300万人~400万人とも言われる。これは第2次大戦の日本の軍民合わせた死者数を上回る。しかも、戦線が南北に移動したため、北の人民軍と韓国の軍警による反対派虐殺が横行し、その数は20万から30万人に上るという。この殺戮が南北の「国家誕生の秘密」であり、反米・反共の互いのアイデンティティーとなったとされる(「敵対的共存」)。
なお、朝鮮戦争に中国が「義勇軍」の名目で人民解放軍を派遣したことは有名だが、ソ連は米ソ激突を恐れて参戦しなかったとされていた(ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』参照 *レビュー済み)。しかし、本書によると2024年に訪朝したロシアのプーチン大統領がソ連航空部隊が参戦していたことを認めたという。
第3は、こうした歴史的経緯のため、1987年の民主化後も、著者が繰り返し強調するように「韓国の民主主義の最大値は分断体制が規定する」。韓国政治には本来の「左派」が存在せず、「保守派と進歩派」の対立は実は「守旧派と保守派」の対立であり、自由主義体制の下で社会民主主義的な政策が行われない。その結果が、厳しい競争社会と格差の拡大、自殺率の高さ等(「ヘル朝鮮」)にあらわれているという。
こうした分断の克服の努力について、本書では盧泰愚政権以降の南北間の対話や交流の試みについてわかりやすく整理されている。特に、冷戦崩壊とドイツ統一以後は韓国の経済的な圧倒的優位の下で観光と経済交流による平和的統一への期待が高まったが、金正恩・トランプのハノイ会談決裂後は逆に厳しい対立関係に戻った観がある。
著者は南北統一について、盧武鉉政権以降の路線に変化があり、統一より平和を重視するようになったとする。そして、文在寅政権下では、大統領秘書室長を務めた任鍾晳が「統一はもうやめましょう」というスピーチを行い、社会に衝撃を与えた。その趣旨は、「統一についての強迫観念を捨て、平和を構築し、今後の朝鮮半島の未来は後代に任せる」というものだ。
南北の敵対を止め、相互に国家として承認して国交を結び、平和共存を図りつつ統一を志向する。「南北関係」から「朝韓関係」へと統一政策を転換するわけだ。
現在の李在明政権もその路線上にある。
ちなみに、分断が対立を固定化し、対立が政治的に利用されて民主主義と人権を毀損するという事態は何も朝鮮半島だけのことではない。冷戦時代のアメリカの「赤狩り」や、現在の日中対立が国内の右傾化を後押ししていることを想起すれば、対立ではなく平和共存と交流が重要であることが痛感される。
◎7月7日『スリー・キングス』(映画)
☆☆☆☆☆戦場の兵士、反乱軍、難民の視点で戦争の意味を問う
この映画が製作されたのは1999年で、アフガン戦争やイラク戦争以前、さらに言えば9.11同時多発テロよりも前の映画である。
戦争の舞台は父ブッシュ政権時代の湾岸戦争(1990年)で、イラクのフセイン政権がクウェートを侵攻したのに対してアメリカが多国籍軍を組織してイラクに攻め込んだ。
映画はすでに戦争がほぼ終結して停戦合意ができた時点で、米軍の部隊は弛緩した雰囲気にある。そこにたまたま見つかった地図で、クウェートからフセインが略奪した金塊を探しに出かけた兵士たちの物語である。
宝探しの物語というよりは、そこで出会う戦争難民や反乱軍、さらにはフセイン側の兵士たちとの命がけの駆け引きと対話が見ものである。アメリカの「大義」の欺瞞と、にもかかわらず空爆で殺される一般民衆たちの怒りと絶望が生々しく描かれている。
現場から見た戦争の非人間性という点では、古い映画だが『西部戦線異状なし』(1930年 *レビュー済み)を想起した。
コメディータッチで始まるが、宝探しから難民の救出へと話がシリアスに展開し、人道的なヒーローものに仕上がっている。主人公のジョージ・クルーニーはさすがにいい演技をしている。
◎2026年7月5日『マーニー』(映画)
☆☆☆☆優位な立場を利用した男性の女性支配に注目
子ども時代のトラウマの記憶を封印し、犯罪を繰り返す女性と、それを知りつつも女性と結婚し、女性のトラウマを解明して救済しようとする男性を描く映画なのだが、現代的な観点で見ると違った見方もできる。
ジョーン・コネリー演じる主人公の男性は女性の犯罪を知る圧倒的に優位な立場で女性に結婚を迫り、精神分析的方法で過去を調べようとする。
これに対し、女性は弱みを握られてやむなく結婚を受け入れるが、実質的な夫婦関係は敢然と拒絶し続け、機会を見て逃げようとまでする。
この優位な立場を利用した男性の支配と、それを拒絶する女性の矜持が実は見どころではないか。
最後はトラウマが劇的に解明されてハッピーエンドで終わるのだが、あくまでも男性視点の救済劇である。
なお、例によって監督のヒッチコックも作品中に登場するが、本作では最初のほうである。
◎2026年7月4日『たったひとつの雪のかけら』ウン・ヒギョン
☆☆☆時間と風景の中の一コマとして切り取られた人々の日常
『「なむ」の来歴』をレビューしたついでに、その著者である斎藤真理子の詩を表題にした本書も読んでみた。
表題の短編を入れて6編の連作短編集で、注意して読むと登場人物の関わりが見えてくるのだが、その関わりが全く偶然のもので、物語のストーリー展開にまったく影響していない。これは驚くべき構成で、おそらく意図的なものだろう。訳者のあとがきによると、冷笑、孤独に加えて偶然が「作家が魂をこめて描写してきた人生の本質のうちの一つ」とのこと。
「孤独な人について人々はいつも誤解している。彼らは強くもなければ、すさんでいるわけでもなく、一人でいることなぞまったく好きじゃない。そして一人じゃなかったとしても、人はいつも自分だけの孤独を抱えている。」
最後の『金星女』が全体を俯瞰するような作品だが、時代は日本植民地時代の末期から21世紀の初めころまでで、ソウル郊外のニュータウンを主な舞台に、3世代にわたる登場人物たちの物語が描かれる。物語はどれも日常の一コマを切り取ったような感じで、淡い少女の恋心や海外留学先の不安と失望、自殺した姉の葬儀などが描かれるが、劇的な展開はない(海外留学の話がたびたび出てくるのは、狭い国内市場から海外をめざす韓国の中流階層の志向のようであり、その対象は日本や中国ではなくアメリカが多いと聞く)。
『ドイツの子どもたちだけが知っているお話』の主人公は、友人のマフラーをバスに置き忘れたためにわざわざ編み物教室に通って自分で編もうとするのだが、日本ならすぐにバス会社に連絡して忘れ物を確保しようとするのにそうしない(韓国ではそうしない事情があるのか?)。このような些細な違和感が重なって、物語に没入できない。
また、『金星女』で主人公の姉の自殺理由は結局わからないままだが、このような登場人物の行動や心理の動きがあえて未消化のままにされて終わっている。
結局、時間の流れと風景の変化が作品の主題であり、人物の行動や心理はその時間と風景の中で切り取られた一コマの写真のようになっているのである。
| 日本植民地時代のソウル・西大門刑務所(記念館) 2013年7月撮影 |
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