2025年後半読書日記

【2025年後半】




 

◎2025年7月12日『「国語」と出会いなおす』矢野利裕

☆☆☆生徒たちを文学に親しませることが目標では?

著者は私立の中高一貫校の専任教員として国語を教える立場で、近年の教育改革(「文学国語」と「論理国語」の区別など)を踏まえて、文学をどう教えるかを様々な観点で論じている。

実は私も少年時代から文学好きで、大学は文学部を卒業しているから、著者のジレンマは理解できるつもりなのだが、本書を読んでも著者の教育目標がどこに据えられているのかよくわからなかった。

 

まず、著者は「文学とはなにか」という大上段の問いを立て、福田和也の「読者の通念に切り込み、それを揺らがせ、不安や危機感を植え付けようと試みる」という定義を引用するのだが、最終章では文学とは「文字を通じて再獲得された《私》たちが互いにコミュニケーションをする場所である」と再設定される。その間に構造主義の文学理論や哲学が言及されるのだが、こういった思弁的考察が生徒たちへの教育にどう関係するのかよくわからない。

 

具体例としては、夏目漱石の「こころ」やヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」を教材とした授業が俎上に挙げられている。これらが今でも国語教科書の定番であることに驚くが、後者については主人公の少年が美しい昆虫標本の盗みを働く場面が「罪とその葛藤」の物語として議論される。

しかし、このような議論は著者自身が批判的にいう「道徳的教訓」をめぐる授業にならないのか。この点、著者は國分功一郎の「中動態」なる概念を援用して、「意志の伴わない選択」であった可能性に言及しているが、規範意識の程度の差はあっても少年に意志があるからこそ物語として成り立つのであって、「中動態的なリアリティ」など存在しないだろう。

文学の授業である以上、「道徳的教訓」ではなく、主人公の心理描写の巧みさやその結果として読者に生み出される感動や情動が主題となるべきだと思うのだが、「心情」に寄り添うことや「鑑賞」ではダメだという。

 

同様の問題は、音読に対する著者の態度にもあらわれている。島崎藤村の「初恋」(『若菜集』)を教材とした授業で、指導要領には「内容が理解できたら音読してみよう」となっているにもかかわらず、著者は音読には「思い入れがない」として、「読解や解釈」をもっとやりたいという。しかし、文学が言葉の芸術である以上、その意味内容だけではなく、言葉や文章の持つ音としての響きや美しさをまず味わうべきではないか。まして、「初恋」は詩歌である。生徒全員に音読させなくても、分担させて読ませてもいいし、教員が音読の手本を示してもよい。

滝口悠生が著者との対談で、自作が試験問題に使用されることについて、「作品をただ読むだけならそんなに急いで読むことは望ましいとは思えない」と語っているように、文学作品は詩でも小説でも音読するように味わいながら読むべきなのである。

 

国語教育で文学を教える意義は、文学に接したことのない生徒たちに文学への親しみと面白さを感じさせ、豊穣な文学の世界の扉を開くことにあるのではないだろうか。その目標がどの程度据えられているのか、本書を読んでも伝わってこなかった。

 

なお、著者は最終章で「国語のナショナリスティックな側面」を問題視して論じているが、なぜ教科名が未だに「日本語」ではなく「国語」なのか?

かつての「国史」はかなり前から「日本史」となっているが、国語も他の言語と同等に「日本語」として教えればよいのではないか。



 

◎2025年7月8日『戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない』赤根智子

☆☆☆☆☆「法の支配」貫徹への献身に頭が下がる

国際刑事裁判所(ICC)とその所長である著者のことは、ロシアのプーチン大統領の著者らに対する指名手配と、最近ではアメリカのトランプ大統領就任後のICCに対する制裁で有名になった。前者はウクライナ戦争におけるロシアの子ども連れ去り等の戦争犯罪を理由とした逮捕状の発付に対抗するものであり、後者はガザの虐殺に関わるイスラエル・ネタニヤフ首相らの戦争犯罪を理由にした逮捕状発付に対する制裁である。

これらをみるとICCは政治的な裁判所であるかのようなイメージを持つ人もいるかもしれないが、著者は強くこれを否定し、「裁判官として、あくまでも事実と法にもとづいて判断をしているだけなのに、ICCを取り巻く政治的な動きに否応なく巻き込まれてしまう」と危機感を強めている。

本書は、こうした著者の危機感を反映し、特に日本政府と国民にICCへの理解と協力を求めるために書かれた。

 

ICC2002年に設立され、現在は125カ国が締約国となっているが、その淵源は第二次大戦後のニュルンベルク裁判と東京裁判にあり、その後の旧ユーゴスラビア国際刑事法廷やルワンダ国際刑事法廷などの経験を経て設立されたものだ。裁判官は18人で、現在の構成は出身地域がアジア太平洋地域3人、西欧4人、東欧3人、中南米4人、アフリカ4人で、男女比は男性7人、女性11人とのこと。

ICCが対象とする犯罪は、①ジェノサイド犯罪、②人道に対する犯罪、③戦争犯罪、④侵略犯罪の4つに限定され、これらを「中核犯罪」(コアクライム)と呼ぶ。これを独立した検察局が捜査し、予審を経て公判にかける。まさに事実と法規範に基づく司法機関であって、政治的思惑で判断が左右されることはない。

にもかかわらず、米ロ中の3超大国は締約国に入っておらず、トランプ大統領の政治的意図による制裁でICCは危機に瀕しているという。具体的にはカーン検察官がアメリカに入国できなくなり、ICCITCシステムにアクセスできなくなったことなどだが、追加制裁の内容次第ではICCの裁判業務に支障が生じかねないという。

ICC所長としての著者の目下の最大の課題はこのアメリカの制裁に対しICCの活動を守ることであり、その思いは本書の全体を通じて強く伝わってくる。「歴史を逆行させてはならない」という著者の訴えは重要である。

 

なお、国連の機関であり国家間の紛争を扱う国際司法裁判所(ICJ)も現在の所長は日本出身の岩澤雄司氏が就任したとのことであり、日本は「法の支配」が貫徹した国とみられているという。確かに、トランプ大統領の目に余る裁判所無視・敵視や、ロシアや中国などの権威主義国家に比べるとそう見えるのかもしれない。

ただし、著者の奮闘にもかかわらず日本政府のICC支援は弱く、トランプ大統領のICC制裁を批判する締約国79カ国の共同声明にも加わっていない。

著者は日本がジェノサイド条約に加盟し、「中核犯罪」処罰を法制化して国際貢献することを求めている。


 

◎2025年7月6日『近親性交 ~語られざる家族の闇~』阿部恭子

☆☆☆☆☆家父長的支配と男尊女卑が「家族の被害」を生み出す

著者は、犯罪加害者の家族への支援に長年取り組んできた中で出会った家族内の被害として、社会的タブーである近親性交に切り込んで問題提起をしている。

本書の目的について、著者は「おわりに」で次のように書いている。

《本書の目的は、家族が有する暴力性を明らかにすることで、家庭内の被害者も社会における被害者であり、保護されるべき存在だという認識を社会に与えることだと考えてきた。そして、被害者は誰からも責められるいわれはなく、周囲に助けを求めて良いのだと伝えたい。》

 

本書に取り上げられている事例はいずれも著者が犯罪加害者家族の支援の機会に相談を受けた実例であり、その数は必ずしも多くないが、父と娘、兄と妹、母と息子等々の様々なパターンがあり、中には兄の子や父の子を産み育てている例まで紹介されている。

ほぼ共通する特徴としては、家父長的で権威主義的な父親の支配とその下での母親の無力化、虐待の日常化、男尊女卑思想による加害と被害の隠蔽である。その結果、被害者(多くは女性)は沈黙を強制されて家を追い出され、加害者(長男など)も親の過剰な期待の重圧の下で精神を病んでしまう。

問題は、これが社会的タブーであることと相まって、被害者が社会の保護や援助を求められないことにあり、そのために被害者は「結局、頼れるのは家族だけ」とあきらめて、地域から遠く離れたところで孤立した人生を選択する。

 

さらに重い課題は、近親性交で生まれた子の「出自を知る権利」をどう考えるかである。

これは犯罪加害者の子にも共通するのだが、近親性交で生まれた子の場合は戸籍の父親欄が空白になっている。これに対し著者は、父親が誰か知らない方が本人のためという立場をとらず、社会的タブーを取り払って告知しやすい環境を作ること、そのための親の覚悟が重要だとする。

《子どもの成長にとって重要なのは、世間体を取り繕うことに意識を向けるのではなく、真っすぐ子どもに愛情を注ぐことである。》

この著者の言葉を、子育てに悩む親たちは深く心に刻むべきである。



 

◎2025年7月4日『タクトは踊る 風雲児・小澤征爾の生涯』中丸美繪

☆☆リスペクトがないし、肝心のことが書かれていない

 昨年亡くなった指揮者小澤征爾の演奏は何度か実演で聴いたし、録画や録音でもたくさん見ているが、その波乱に満ちた生涯についてもっと詳しく知りたいと思って本書を読んだ。

 

小澤が戦前の満州と北京で幼年時代を過ごしたことや、「征爾」の名が関東軍の板垣征四郎と石原莞爾に由来することは知っていたが、小澤の父開作が満州国の理念に心酔し歯科医を放り出して軍属として板垣・石原に仕えていたとは知らなかった。

また、海外渡航の困難な時代にフランスに渡航しスクーターで「武者修行」の旅をしたことや、帰国後のNHK交響楽団との確執や日本交響楽団の争議と分裂騒ぎも有名だが、そのいきさつも詳しく書かれている。

 

ただ、著者は小澤の「風雲児」としての破天荒な人生とその人となりには関心はあっても、小澤の音楽にはあまり共感がないのだろう。小澤の人物像や行動が外面的にしかとらえられておらず、その指揮や音楽については悪意があるとしか思えない伝聞や引用が随所にちりばめられている。

曰く、小澤は「江戸さんを利用したり、バーンスタインにとりいったり、ボストン交響楽団にとって大切なクーセヴィツキー夫人の懐にもはいっていった」とか、江戸英雄氏が娘の江戸京子と小澤の離婚後も最晩年まで小澤を支え続けたのは「小澤さんの才能をわかっていたからではなく、・・・どんな人からでも頼まれれば断ることが決してなかった」から等々、ほとんど誹謗中傷のオンパレードである。

極めつけは小澤の指揮者人生の頂点ともいえるウィーン国立歌劇場の音楽監督就任をめぐるいきさつで、「ニューヨーク駐在の某商事会社の駐在員」の話として「小澤さんのウィーンの音楽監督就任にあたっては、日本財界、わけてもトヨタの財政支援とセットだったというのは、公然の秘密と聞いていました」などという、出所も内容もいかがわしい伝聞情報を裏付け取材なしで紹介している。これではウィーン国立歌劇場やウィーン市民に対してあまりに失礼であろう。また、小澤がウィーンで『ニーベルングの指輪4部作』を「振らせてもらえなかった」などと著者は書いているが、もともと小澤はワーグナー指揮者ではないし、あのカルロス・クライバーやバーンスタインでさえワーグナーは『トリスタンとイゾルデ』しか録音していない。

小澤のキャリアの重要部分を占めるボストン交響楽団時代についても、地元のメディアの批判的な評価を切り取り的に紹介しているだけだ。

しかし、小澤ファンに限らず音楽ファンが知りたいことは、小澤がブザンソンの指揮者コンクールで優勝したことやクーセヴィツキー賞を受賞できた理由、カラヤンやバースタインに愛弟子として扱われた理由、ボストン交響楽団の音楽監督を29年もの長きにわたって続けられた理由、ウィーンで受け入れられた理由等々、すなわち指揮者小澤を「世界のオザワ」にした音楽性や芸術性なのである。

この点、著者は小澤の伝記を書くために毎年のように松本のフェスティバルに通ったというが、小澤の演奏に関する著者自身の音楽批評はほとんど書いていない(亡くなった吉田秀和氏なら、自身が聴いた演奏会の批評を中心にした、指揮者へのリスペクトを込めた伝記を書いたはずだ)。

小澤のたぐいまれなエネルギーと行動力、「チャンスの前髪」をつかむ機敏さ、それを裏打ちする信じられない努力、誰からも愛される人間性などは本書からも読み取れるが、音楽家であり芸術家である指揮者小澤征爾の肝心のことが無視されていると思わざるをえないのである。


2010年1月ウィーン国立歌劇場にて撮影

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