2025年前半読書日記

 

【2025年前半】


◎2025年4月22日『日本経済の死角―収奪的システムを解き明かす』河野龍太郎
◎2025年4月16日『地平 2025年5月号』(雑誌)
◎2025年4月14日『オペラで楽しむヨーロッパ史』加藤浩子
◎2025年4月11日『黒い匣』ヤニス・バルファキス
◎2025年4月4日『インソムニア』(映画)



 

◎2025年4月22日『日本経済の死角―収奪的システムを解き明かす』河野龍太郎

☆☆☆☆☆「新自由主義への反省」がトレンドになるか

エコノミストとしての著者の立場から、日本経済の問題点をわかりやすく抉った労作である。

著者の主張は冒頭の次の言葉に示されている。

1998年~2023年までの四半世紀で、日本の時間当たり生産性は3割上昇しましたが、時間当たり実質賃金はこの間、なんと、横ばいです。正確には、近年の円安インフレで3%程度下落しました。」

つまり、生産性は上昇したが国民の実質賃金は上昇せず、それが日本経済の長期停滞と衰退をもたらしているというのだ。これに対し、欧米諸国は生産性に見合った実質賃金の上昇があるという。

本書は著者のこの主張を、その原因、対外投資、労働市場の変化、労働法制の変化、株主優先の企業統治、イノベーションの社会への影響といった観点から繰り返し論じていく。

 

格差社会の進展については、大企業などの長期雇用労働者は実質ベアゼロが続いても定期昇給で賃金が上昇していると感じるが、中小企業労働者や増大する非正規雇用労働者群は実質賃金が上昇せず、格差が拡大する。

技術革新やイノベーションで企業利益が増加しても、それが人員削減や内部留保の増加となって実質賃金の上昇に反映しないと社会全体は不景気が続くことになる。

著者はこれを第1次産業革命初期の低賃金労働化と機械破壊運動に対比している。つまり、イノベーションが社会全体に波及効果を及ぼさないと経済は発展しないのだ。

人員削減や賃金カット(コストカット)で企業利益を大きくした経営者がとんでもない金額の報酬を得る格差社会はやはりおかしいし、労働組合の力が削がれて実質賃金が上昇しないのは社会的不公正と不健全化をもたらすが、著者はこれをエコノミストの観点から裏付けてくれている。

 

近年のノーベル経済学賞は、新自由主義のバイブルとなったミルトン・フリードマンの『選択の自由』の時代から、著者が引用するアセモグル、ロビンソン(『国家はなぜ衰退するのか』)などの社会的包摂(インクルージョン)を強く意識する研究へとシフトチェンジしているという。

「新自由主義的な路線への経済学界の反省」がこれからの世界のトレンドになることを期待したい。


 

2025416日『地平 20255月号』(雑誌

☆☆☆☆☆ワクチンに関する情報の偏りに驚愕する

一般の新聞や雑誌ではなかなか読めない、深彫りした情報が多数提供されている。

原発事故をめぐる司法の問題や極右の進出するドイツの政治状況など興味深い記事が満載だが、とりわけワクチン問題の特集では一般メディアの情報の偏りの指摘に驚愕した。ことが命と健康にかかわる問題だからである。

 

新型コロナウイルス感染が流行したときには多くの国民が政府の呼びかけでワクチンを接種したが、その副反応に関する情報はほとんど報道されない。しかし、本書の天笠論文によると、厚労省が発表した医療機関からの報告で、「副反応による死者は2122件、重篤者8750件、副反応の疑い36556件」だという(2023730日)。母数が多いにしても驚くべき数字である。

問題は、こうしたワクチンに関するネガティブ情報が主要メディアで報道されないことである。田島論文によると、ファクトチェックが検閲の役割を果たしており、ワクチン接種にネガティブな情報を排除しているのだという。例えば、YouTubeFacebookではWHOなどの保健当局の発表と異なる情報は虚偽情報として削除するポリシーだが、これでは当局の大本営発表しか報道されないことになる。

このような場合によく言われるのが「エビデンスによる科学的証明」であるが、厳密な科学的証明は困難かつ時間がかかるため被害が拡大してしまう。そこで、これまでの公害や薬害事件では疫学や経験則による予防原則の重要性が強調されてきた。

 

こうした報道の偏りは、現在日本国内で薬害訴訟が進行しているにもかかわらずワクチン接種の積極的勧奨が再開されたHPV(子宮頸がん)ワクチンについても同様である。水口論文によると、2022年度の積極的勧奨再開後に国の指定する副反応対策の協力医療機関を受診した新規受診患者は増え続けており、202412月までで545人にのぼるが、こうしたHPVワクチンのネガティブ情報は(厚労省内の副反応報告ですら)やはり主要メディアでは報道されていない。その理由には、かつてメディアが騒いで社会の不安を煽ったために積極的勧奨が中止されたといった指摘がワクチン推進派からなされ、メディア内で報道のあり方が見直されたこともあるらしい。いわば自己規制である。しかし、水口論文によると、報道が増えたのは勧奨中止の後であり、副反応被害数のピークはそのかなり前である。


 

◎2025年4月14日『オペラで楽しむヨーロッパ史』加藤浩子

☆☆☆☆フランス革命と国民国家形成からオペラ史を描く

オペラの案内書は多数あるが、本書はフランス革命と19世紀の国民国家形成の歴史からオペラを概説した点に特色があり、加えて各作品のお勧めディスクも紹介されている。

 

特に力が入っていて面白かったのはモーツアルトの3大オペラの解説で、「フィガロの結婚」は宮廷人を想定した教養層のための作品、「ドン・ジョバンニ」は貴族社会の崩壊前夜という時代の気分が反映しており、フランス革命後に作曲された「魔笛」は名もない庶民のための娯楽音楽だとする。

「魔笛」がフリーメイソンの思想と儀式を反映しているのは有名な話だが、著者は、「夜の女王が支配する闇=夜の世界は、旧態依然とした迷信的なカトリックに支えられた宮廷世界でもあり、ザラストロが支配する光=昼の世界は、啓蒙主義の光に照らされた英知の世界なのだ」という。

 

現代でもオペラ上演のレパートリーのかなりの部分を占めるヴェルディとワーグナーについては、奇しくも同じ1813年生まれで、イタリアとドイツの国家統一と軌を一にした時代背景を持つことが強調されている。ただし、著者によるとヴェルディがイタリア統一運動と結びつけられたのは後世であり、「第二の国歌」のようにいわれる「ナブッコ」の中の歌「行けわが想いよ、黄金の翼に乗って」も、当初から熱狂的にアンコールが求められたわけではないとの近年の研究を紹介している。

ワーグナーが政治的人間で反ユダヤ主義やナチズムと因縁があるのに対して、ヴェルディはワーグナーのような政治的な人間ではなく、堅実な「実業家」だったといえる。

 

そのワーグナーについては、「タンホイザー」と「ニュルンベルグのマイスタージンガー」の2作品だけが紹介されているのは歌合戦とドイツ民族の賞揚という観点からだろうが、「トリスタンとイゾルデ」や「ニーベルングの指輪」4部作が全く触れられていないのは物足りない。

実は、私は学生時代以来のワグネリアンで、ワーグナーの主要オペラは国内外の歌劇場で何度も見ているが、近年は奇妙奇天烈な現代演出ばやりで辟易しており、ヴェルディの親しみやすい旋律に惹かれている。


  

◎2025年4月11日『黒い匣』ヤニス・バルファキス

☆☆☆☆☆「アテネの春」鎮圧のドキュメント EUの現在の苦境を予言

10年ほど前にギリシャの経済危機が日本でも報道されたが、その後の推移が気になっていた。当時の報道はギリシャ経済の破綻と財政改革を受け入れない怠惰なギリシャ国民のようなネガティブ報道だったように記憶している。

本書は2015年の選挙で財政緊縮政策反対を訴えて政権を得た左翼政権の財務大臣となった著者による苦闘のドキュメントである。ギリシャ政権とEU中枢の関係者が実名と写真入りで多数登場し、録音テープを再現したかのような生々しい交渉経緯が描かれている。

 

著者によると、ギリシャの経済的破産状態は「EUと通貨同盟(ユーロ)の根本的な設計ミスの結果」で、「EUはもともと大企業のカルテルであり、重工業関連の中部ヨーロッパの企業間の競争を制限し、彼らの商品の輸出市場を、イタリアなどの周辺国に確保するためのものだった」という。実際、本書を見てもEUの主導権は圧倒的にドイツの高級官僚が握っていて、ギリシャだけでなくスペインやポルトガルなどの周辺国は同様の経済的苦境に陥っている。

通貨統合の結果、加盟国の中央銀行は事実上存在せず、各国政府による金融政策ができなくなった。日本ならば経済の好不況に応じて日銀の金融政策が緊縮や緩和の方向で取られるが、ギリシャの場合、破産状態の苦境にもかかわらず厳しい緊縮政策をEUから強いられ続けることになる。その結果が、年金や賃金の切り下げなどの弱者へのしわ寄せにつながり、不況がさらに深化する。

これに対し、著者はもともとギリシャが通貨同盟に入ったことが誤りだったとしつつも、今すぐ「グレグジット」(ギリシャのEU脱退)を行うと大幅な通貨切り下げなどの破綻を招くとして、ユーロ圏に残りつつ「債務再編」による緊縮政策の緩和を訴えてEU中枢と粘り強く交渉していく。「債務再編」とは日本でいえば民事再生のようなもので、大幅な債権放棄による再生計画で経済を立て直すということだ。国家を破産させ、国民の生存を脅かすような政策をとりえない以上、こうした再生策しかないはずであり、EU官僚から距離を置いた欧米の有力政治家らは著者の主張を支持していた。

にもかかわらず、ギリシャの左翼政権はEU官僚の圧力に屈し、国民投票の結果にも反して緊縮策を受け入れてしまう。その経過は裏切りと不信の無残な記録である。

 

こうして「アテネの春」が鎮圧された結果が、その後のイギリスのEU脱退(ブレグジット)と今日のEU諸国における右翼ポピュリスト勢力の伸長につながっている(「債務デフレが政治的中間層を崩壊させ、ナチズムが醜悪な姿を現す」)。

著者はギリシャの財務大臣を辞した後、「ヨーロッパ民主主義運動・Diem25」を立ち上げ、欧米の反緊縮運動を推進しているが、2018年には著者とアメリカのバーニー・サンダースとの呼びかけで反緊縮派の国際組織「プログレッシブ・インターナショナル」を結成したという。


 

◎2025年4月4日『インソムニア』(映画)

☆☆☆☆犯罪サスペンスというよりも堕ちた刑事の心理劇

名優アル・パチーノが主役のベテラン刑事で、白夜のアラスカを舞台にした少女殺人の捜査となればスリリングなミステリーかと思ったが、アル・パチーノはヒーローよりも屈折した役を演じることが多いのを忘れていた。

実は、ベテラン刑事は過去の捜査上の逸脱について監察を受けており、その重要証人である同僚刑事を犯人と誤って?撃ち殺してしまう。しかも、撃ち殺したのは犯人だと偽装する。ところが、やがてその場面を目撃した犯人から脅迫電話が・・・

白夜の不眠に苦しむベテラン刑事の懊悩と、犯人と刑事との虚々実々の駆け引きの心理劇が作品の見所である。

 

それにしても、近年の刑事物は映画だけでなくクライムミステリー小説の分野でも、妻子との私生活で悩む刑事や捜査のルール違反を重ねて転落していく刑事を描くものが多い。

刑事手続法と犯罪捜査規範を遵守して地道な捜査で犯人に迫っていくのが刑事物の醍醐味だと思うが、ダークサイドに堕ちた刑事物は後味が悪い。

ただ、この映画ではベテラン刑事の「道を見失うな」という最後の言葉が救いとなっている。



202542日『MARIA』(映画)

☆☆☆マリア・カラスの謎の死までの1週間を描く

 世紀の歌姫マリア・カラスの死の前の1週間に焦点を当てた映画である。

冒頭、カラスの死体が発見された場面から始まるが、場面はパリのカラスの自宅での生活へと移る。

すでにカラスは引退し、愛人のオナシスとも死に別れ、家政婦と執事と愛犬だけの生活となっている。

カラスは華やかな過去を想起し、復帰へむけた歌のレッスンもしているようなのだが、多量に摂取している向精神薬の影響で場面が現実なのか幻覚なのか見ていてわからないところがある。

過去の場面の映像は、『トスカ』や『椿姫』、『清教徒』、『ノルマ』といった当たり役の実写映像がかなり使われているようで、カラスの歌をある程度楽しめる。

カラスの死について、この映画では薬物多量摂取による心臓発作が暗示されているが、毒殺説もあるらしい。

 

主演のアンジェリーナ・ジョリーはカラスを彷彿させる熱演で、かなり準備して演技に臨んだことがわかる。

 

ただ、カラスの映像やレコードはその絶頂期のものが多数あるのに、最晩年の1週間の隠棲ぶりに焦点を当てた映画というのはコアなファンを狙ったものだろうか。

レナード・バーンスタインの伝記的作品『親愛なるレニー』のレビューでも書いたが、大スターの私生活にはあまり興味がないし、本人も晩年の姿は見られたくなかったのではないかと思う。

 

 

◎2025年4月2日『陪審員2番』(映画)

☆☆☆☆陪審裁判のディテールが丁寧に描かれている

 表題にあるように陪審員に選出された主人公の苦悩を描いた映画だ。

最近のクリント・イーストウッドらしい、社会的な問題提起と人間の悩みを絡ませ、クライマックスまで悩みを悩みとして解決せずに残すスタイルである。

ストーリーは書かないが、特筆すべきはアメリカの陪審裁判の実態が丁寧に詳しく描かれていることだ。

実は、陪審裁判を描いた映画は『12人の怒れる男』や『評決』といった名作が多数あるし、ドラマでも多数描かれている。陪審裁判はアメリカ市民に深く根付いており、この映画でも陪審員経験が複数回ある人が登場している。

陪審員の審理は、どの映画でも最初は大雑把な印象と偏見で有罪方向が多数を占めるが、誰かが立証の欠点を指摘して問題提起をすると他の陪審員たちも真剣に考え始めて議論が俄然面白くなる。

この映画では、陪審員の中に元刑事がいて、興味を持って自ら事件を調査し始めて失格とされる。陪審員は法廷で提出された証拠以外を使ってはならないからだ。ただし、陪審員団の要望で事件現場見学が実施されるが、これも珍しいことだろう。

 

 

◎2025年4月2日『教皇選挙』(映画)

☆☆☆☆教皇選挙の内幕が生々しく描かれる

国際線の飛行機で見たが、カトリックの総本山であるローマ教皇の選挙(コンクラーベ)の内幕を描いた映画だ。

バチカンのローマ教皇庁を描いた映画はこれまでもあるが、教皇選挙をテーマに描いた映画はなかったのではないか。

撮影は、教皇選挙の行われるシステーナ礼拝堂はもちろんだが、教皇庁の内部の枢機卿らの部屋も実際に映しているのだろうか。教皇庁の深い奥が描かれること自体が興味深い。

教皇選挙のやり方はこれまでの選挙の報道などでおおむね知っていたが、投票方法や多数派形成の仕組みがわかりやすく描かれている。

ご多分に漏れずカトリック教会内で人種やジェンダーの多様性をどこまで尊重するかといった争点が設定され、国際政治の反映が色濃く感じられる。

ただ、ストーリーは地味であり、カトリック教会や教皇庁に関心がある人には楽しめる玄人受けするつくりとなっている。


 

◎2025年3月25日『別れを告げない』ハン・ガン

☆☆☆「済州島4.3事件」の弔いと追悼への執念

最も近い国でありながら、韓国近現代史について日本人はあまりに学ぶ機会が少ない。特に日本の植民地統治が敗戦により終了した後の激動の現代史については、ほとんど学んでいないのではないか。本書が主題としている「済州島4.3事件」も知られていない(韓国でも長年タブー視されていた)。

実は私自身、韓国には何度か訪れ、済州島にも国際会議で行ったことがあるが、済州島は今やリゾート地で韓流ドラマのロケ地などで有名だ。しかし、韓国の美術館や歴史博物館を訪れると「4.3事件」の虐殺現場を描いた絵や記録などに頻繁に出会い、それによってこの事件の存在と韓国社会への傷跡の大きさは感じていた。

本書はこの事件が小説の背景となっているので、まず解説で事件の概要を知ってから読んだほうがよいだろう。

 

ただ、小説の構成としては「4.3事件」が物語の中心として描かれているわけではなく、前半は大けがをしてソウルの病院に入院した済州島の友人インソンの突然の依頼で、主人公が真冬の吹雪の中を済州島の交通不便な家に行く苦難の道行きが描かれる。ソウルから済州島までは遠く、飛行機で行かなければならないが、依頼の理由が鳥籠のインコに水をやるためだという。頼むほうも頼むほうなら引き受けるほうも引き受けるほうで、それ以前の人間関係が詳しく書かれていないから吹雪の中の苦難の道行きに必然性が感じられない。

ようやく後半の第2部で「4.3事件」が語られるが、ソウルに入院しているはずのインソンの霊(生き霊?)が事件の目撃者である母親のことを語るというスタイルである。反共軍事政権によって長年隠されてきた大虐殺を弔い追悼する遺族たちの執念が描かれるのであるが、終始伝聞形式なのは虐殺の生々しさ、残酷さを緩和するためだろうか。詩的な文体も交えたわかりにくい語りであり、冬の吹雪の深夜、登場人物は主人公とインソンのみの寒々とした陰鬱な情景が第2部を覆っている。

 

なお、『菜食主義者』のレビューでも書いたが、この作品でも大江健三郎の初期小説群、特に『万延元年のフットボール』を想起した。主人公の限りなく下降していく精神状態、閉ざされた僻地での物語、先祖の関わる騒擾事件の掘り起こしなどの舞台が似ているからだが、ハン・ガンの場合はもっと暗く凝縮した、救済や再生の見えない世界である。


 

◎2025年3月18日『平等について、いま話したいこと』トマ・ピケティ、マイケル・サンデル

☆☆☆☆社会福祉国家の理念を今日再生できるか?

「平等」をめぐる対話と銘打っているが、内容はずっと広く深い。

冒頭、貧富の差が拡大し一握りの上位富裕層が国民全体の所得と資産の大部分を所有する格差社会の問題が、「基本的な財の利用機会」、「政治的平等」、「尊厳」として設定される。

著者らの提示する不平等の解決は、逆説的だが、「お金はもっと重要でなくなるべき」というものであり、具体的には、累進課税と相続税の強化、社会保障の充実である。これらによってすべての人が基本的な財が利用でき、政治的発言力も保障され、人間としての尊厳も承認される。生活、教育、医療等の基本的な財の「脱商品化」が進めば、「お金」の問題は趣味や奢侈品の贅沢ができるかどうかに限られる。まさに高福祉高負担の20世紀型社会福祉国家の理念である。

 

しかし、20世紀後半以降、こうした福祉国家の理念は色あせている。新自由主義と市場原理主義の席巻とグローバリゼーションの進行によるのだが、著者らは能力主義もその一つに挙げている(「能力主義には、たとえそれが完全なかたちであっても、共通善を蝕むという暗部がある」とサンデルは言う)。

重要なことは、かつて福祉国家の理念を担ってきた中道左派勢力が自由貿易や資本の移動を推進し、富裕層やエリート層を支持基盤とするようになっており、そこに雇用の確保や移民労働力の流入規制を訴える右派勢力の台頭を許す逆転現象があるという指摘である。「進歩主義者」がグローバリゼーションの勝者を擁護する状況は、こうした傾向を固定するという。

そこで、ピケティは「国際主義の再構築」として自由貿易と自由資本の移動を根本的に問い直すことを提起し、そのために「南側からの大きな圧力」に期待する。

他方、サンデルは「累進課税と再分配の倫理的土台は、アイデンティティ、帰属意識、成員意識、共同体意識、連帯感の問題と切り離すことができない」と強調し、移民問題がその倫理的意味の問いを突きつけているという。アメリカや西欧諸国が直面している社会分断の深刻さはまさにこの共同体意識の希薄化と表裏一体であろう。

不平等の問題は的確に示されていると思うが、その解決策と展望については不透明といわざるをえない。

 

なお、「対談の締めくくり」としてルソーの『人間不平等起源論』が取り上げられているが、有名な私有財産の起源の箇所を引用しつつ、サンデルは能力主義批判の文脈で、ピケティは私有財産の蓄積批判の文脈でルソーを読み込もうとしている。ルソーのような重要な古典は時代を超えて何度も蘇るということだろう。


 

◎2025年3月16日『灰色のミツバチ』アンドレイ・クルコフ

☆☆☆☆☆ドンバスとクリミアを舞台にしたウクライナ版『オデュッセイア』

養蜂家が主人公の物語といえば、かなり前に見た映画『蜂の旅人』を想起する。この映画ではマルチェロ・マストロヤンニ演じる養蜂家がギリシャ各地を養蜂しながら旅をしていたが、テオ・アンゲロプロス監督の映画らしく難解であり、特に養蜂家の仕事がよくわからなかった。

これに対し、本書では養蜂家の仕事が詳しく描かれており、ミツバチの守り手として人生を捧げる主人公の生き様がよくわかる。特に、蜂の巣箱を並べてその上に寝るという健康法(民間療法)が興味深く、その利用者としてマイダン革命で亡命したヤヌコヴィッチ元大統領がドンバスの元知事として登場している。解説によると実際にこうした民間療法がウクライナでは現在も行われているとのこと。

 

本書の主人公はマイダン革命後のドンバス紛争で分離派とウクライナの430キロに及ぶ前線の境界に位置するグレーゾーンの村に住んでいるが、戦闘は行われていないものの頭上を砲弾が飛び交い、電気を含むインフラが途絶えたために村民は避難している。今や村に住むのは主人公と、少年時代から主人公と敵対していた友人の2人だけなのだが、この2人が極限状況で奇妙な連帯関係を作っていくのが面白い。

それにしても、電気もガスも水道もない生活がよくできるなと思うが、主人公は戦争が始まると「周りの一切合切に関心がなくなってしまうような感覚」に陥り、唯一残ったのがミツバチに対する責任感なのだという。そして、春になってミツバチの活動が始まると、蜂たちが安心して活動できる南を目指して旅を始める。

この旅がドンバスを出てクリミア半島の南端に至る大旅行であり、途中立ち寄った町ではロマンスもあり、クリミアではクリミア・タタール人の家族との交流やロシア当局との陰鬱な関係も描かれる。解説では『オデュッセイア』になぞらえられているが、確かに故郷を離れて放浪し、旅先での出会いやロマンス、困った人々へのお節介ともみえる援助などの苦難を経て故郷に戻る物語はホメロスの伝統を踏まえたようにも見える(「フーテンの寅」のようでもある)。

いわば、ロシアに侵略されたドンバス地域とクリミアを舞台にしたウクライナ版『オデュッセイア』である。

 

なお、クリミアに入るときの検問やクリミアでの警察やFSBとのやりとりは、旧ソ連時代を思わせる圧迫感と緊張が感じられ、クリミア・タタール人たちへのプーチン政権の迫害も描かれている。クリミアから主人公が無事にウクライナ側に脱出するまでは、オデュッセウス一行が一つ目巨人キクロプスの島を脱するイメージだろうか。



 

◎2025年3月10日『ポンペイ』(映画)

☆☆☆東日本大震災の巨大津波を想起させる

 ポンペイの遺跡は2度訪れたことがある。発掘された古代の町並みや死者の姿が生々しく残され、モザイクなどの貴重な美術品はナポリの国立博物館で見ることができる(有名なアレクサンダー大王のペルシア軍との戦争を描いたモザイクもある)。

しかし、この映画はポンペイの悲劇よりもケルト人剣闘士と貴族の娘のロマンスが物語の中心になっており、ヴェスヴィオ山の噴火は背景として用いられているだけである。しかも、奴隷である異民族の剣闘士が上級貴族である地方長官の娘とロマンスに陥るという設定が不自然極まりない。

ポンペイの悲劇を描くのであれば、ポンペイの市民生活や火山噴火の予兆(水道の水位低下や小規模地震の続発)などに焦点を当てた災害と人間を描く面白いドラマができたのではないか。

 

とはいえ、ポンペイ噴火後の大スペクタクルは迫力満点であり、さすがハリウッド映画と思わせる。

2014年製作とのことだが、2011年の東日本大震災とそっくりな巨大津波の映像が用いられており、大震災の現実の悲劇を想起して複雑な感情を禁じ得なかった(明日311日が大震災14年目である)。

アレクサンダー大王のモザイク壁画(2018年1月撮影)



◎2025年3月9日『侵略日記』アンドレイ・クルコフ

☆☆☆☆☆「ウクライナ人はあきらめない」

同じ著者の『ウクライナ日記』(原題『マイダン日記』 レビュー済み)に続けて本書もレビューする。

本書は2022224日のロシアによるウクライナ侵攻を挟む、20211229日から2022711日までの期間を日記形式で書き記したものである。著者はロシア出身キーウ在住のウクライナ作家であり、ロシアの侵攻後は400キロ西方のリヴィウに避難し、ときには国境を越えて欧米で講演活動を行いつつ戦時下のウクライナの状況を発信し続けている。本書も海外で読まれることを想定して英語で書かれた。

また、本書の日記は戦時下のルポルタージュだけでなく、旧ソ連時代のウクライナの抵抗運動やスターリン時代の「ホロドモール」(農作物や種子の強奪により数百万人が餓死したという)、シベリアや極東へのウクライナ人の強制移住などの歴史も回顧され、ウクライナとロシアの歴史的関係が説明されている。

 

上記『ウクライナ日記』ではすでに2014年からウクライナの東部とクリミアで戦争が始まっていたと感じたが、本書の224日以前の日記は、ロシアの侵攻の足音が徐々に近づき、ウクライナ側でも女性の徴兵を法制化したり、地下の防空壕を整備していたことが描かれており、戦争前の緊迫感が伝わってくる。ショスタコーヴィチが交響曲第7番第1楽章でナチスドイツがレニングラードを徐々に包囲していく様子を描いたシンバルの緊張に満ちた響きを連想するが、今回侵略しているのはロシア側である。

 

224日の侵攻開始後では、ウクライナの人々がロシアの爆撃による被害を助け合って生き延びている様が感動的である。侵攻開始当初は多くの人が西に向かって、あるいは国外へ避難したが、当初の攻撃が沈静化しウクライナ側の反撃が功を奏するにつれてキーウに戻る人が増えていく。ミサイルで破壊された街でも、日常生活を取り戻そうとする人々が描かれる。

ロシアはウクライナの住宅や市場、インフラ施設などを狙ってミサイル攻撃を繰り返し、一般民衆の被害が多数出ているが、第2次大戦後のヨーロッパでこのような戦争がなされたことはない。ドレスデン空爆などの都市空爆が批判されているように、これらはもちろん戦争犯罪である。著者は、「新しいニュルンベルク裁判」が戦後に開催されるべきだという。

特に、学校や図書館、劇場といった文化施設が爆撃の対象とされるのは、ウクライナ文化の否定であると受け止められ、これに対し、ウクライナではロシア語とロシア文化を排除する動きが広がっている。著者自身はこうした動きに同調してはいないが、解説によると「今は生理的にロシアのものを読むことができないが、ロシア文化への(人々の)態度は、戦争が終わって20年、40年したら変わるかもしれない」と語ったという。

戦争は長期化しており、家族を亡くした人々はフェイスブックにその写真をアップして追悼しているというが、ウクライナの人々は「プーチンとは取引をしない」と覚悟を決めており、ウクライナ独立後30年の自由を「ウクライナ人はあきらめない」と著者は強調している。



 

◎2025年3月3日『ウクライナ日記』アンドレイ・クルコフ

☆☆☆☆☆2014年から続いていたウクライナ戦争

20222月のウクライナへのロシア軍の侵攻から3年を経過したが、戦争は終結せず、アメリカのトランプ政権の登場で憂慮すべき新たな局面を迎えている。

戦争当初、ウクライナへの批判として、2014年の「ユーロマイダン革命」で親ロシア派のヤヌコヴィッチ大統領を暴力的に追放したことが指摘され、西側の陰謀説まであった。そこで、改めてマイダン革命の実相を知るために本書を手に取ったが、ロシアの侵略はこのときすでに始まっていたことが生々しく理解できた。

 

著者はキエフに居住しているが、ロシア出身でロシア語を母語とする作家であり、本書もロシア語で書かれた。とはいえ、著者のスタンスは明確で、ウクライナのEUへの加盟を支持しており、ヤヌコヴィッチ大統領に抗議してマイダン(広場)に集結した抗議グループとは距離を置きつつも、毎日のようにマイダンを訪れて状況を把握している。家族との日常の市民生活の合間に、マイダンの出来事が記されていく。

 

この日記は、ヤヌコヴィッチ政権がEUとの協定を棚上げしマイダンの抗議運動が始まった20131121日から2014424日まで続いている。ヤヌコヴィッチの国外逃亡は222日だから、3ヶ月間もマイダンの抗議運動は続けられたわけだ。抗議運動はほぼ平穏かつお祭り騒ぎのように続けられ、右派の過激な暴力行動はあったものの、ほとんどの暗殺や拷問は政権側か親ロシア派によるものである。ロシアの特務機関による工作もかなりあったとされる。とりわけ、ヤヌコヴィッチの逃亡直前の220日以降の3日間はマイダンでの銃撃による市民の死者が100人にのぼったという。文字通り民衆による革命である。

 

他方、このマイダンでの抗議行動と並行して東部ウクライナとクリミアでは親ロシア派による戦闘行動や市庁舎の占拠が行われ、ついにクリミアへのロシアの軍事侵攻に至る。注目すべきは、クリミア併合のロシアの軍事作戦はヤヌコヴィッチ逃亡前から着々と進められていたことだ。プーチンが下賜した記念メダルには「2014220日~318日」と作戦期間が刻印されているらしい。

 

本書の日記には、ヤヌコヴィッチ逃亡以後も、マイダン側のメンバーや知識人の暗殺事件がたんたんと記されていて、非日常が半ば日常化していることを示している。クリミアに続いてロシアがいつ侵攻してくるのか、市民たちは不安な日々を送っていたのだ。424日の日記の最後のページには、「(5月に予定された)大統領選挙は行われるのだろうか・・・確たる自信はない」という言葉で締めくくられている。

 

 

◎2025年3月2日『桜田門外ノ変』(映画)

☆☆☆☆吉村昭の原作にほぼ沿って、襲撃浪士たちのその後を丁寧に描く

 吉村昭の原作をかなり前に読んでいたが、その映画化である。

 大沢たかお演じる関鉄之介以下水戸浪士17名と薩摩藩士1名が大老井伊直弼を桜田門外で襲撃したこの事件は、幕末の激動の火蓋を切ったあまりに有名な事件だが、襲撃した浪士たちのその後についてはほとんど知られていない。私も吉村昭の原作を読んで初めて、幕府の襲撃犯追及の厳しさと浪士たちのそれぞれの最期を知った。

この映画でも、襲撃事件そのものは映画の序盤で描かれ、そのあとの大部分は浪士たち全員のそれぞれの逃亡生活と最期が描かれる。

特筆すべきはやはり雪の中の襲撃事件の生々しい再現映像であろう。吉村昭の描いたとおり、浪士側は先頭で切り込んで護衛を引きつけ、ピストルで大老の乗った駕籠を撃つ。それを合図に一斉に攻撃する。他方、彦根藩の護衛は刀を登城用の刀袋で厳重に縛っているためすぐに応戦できずに後れをとってしまう。

 

大老暗殺の意義については、最後に孤立した関鉄之介が疑問を呈する場面が出てくるが、尊皇攘夷と倒幕の推進役としての含意もあるようだ。

ただ、「安政の大獄」のいわば白色テロに対抗する尊攘派のテロが井伊大老暗殺であり、この暴力の連鎖がその後の京都での尊攘派と新撰組の血なまぐさいテロの応酬につながる。そして、結局のところ、雄藩連合による平和的変革の可能性は閉ざされ、薩長による倒幕と戊辰戦争の暴力革命に至るわけである。

 

◎2025年2月22日『チャーリーとの旅』ジョン・スタインベック

☆☆☆☆☆1960年のディスカバー・アメリカ 過去から現在を照射する

 スタインベックが本書の旅を敢行したのは1960年。彼はすでに押しも押されもしない大作家であり、『エデンの東』や『怒りの葡萄』などの多数の作品を書いている。

ニューヨークの自宅を出発して北に向かい、カナダとの国境沿いの州を西へと進む。西海岸のシアトルに到達すると太平洋沿いに南下し、故郷のサリーナスに立ち寄り、カリフォルニアから砂漠を通って東へと向かい、テキサスを経てニューオリンズに到達。ミシシッピ川沿いを北上してモンゴメリからアビンドンに至る。文字通りアメリカ1周の大旅行である。

 

それにしても58歳の老境にさしかかった作家が、単独で愛犬チャーリーだけを同伴し、特注したトラックハウス「ロシナンテ」を運転してこれだけの大旅行をよくぞ実行したものだ。あるいはボードレールの「旅への誘い」(『悪の華』『パリの憂鬱』)や芭蕉の「漂泊の思ひ」(『奥の細道』)のような旅への詩人的な誘惑によるものかと思ったが、スタインベックはどうやらそうではなく、変わりつつあるアメリカとアメリカ国民の現在を知りたいという切実な作家的欲求に基づく旅だったようである。

1960年はアメリカ大統領選挙の年で、共和党のニクソンと民主党のJF・ケネディの両候補が熾烈な選挙戦を行っている。米ソ冷戦の最中で、黒人の公民権運動が活発化した時代である。本書の随所にこの政治の影がちらつくが、アメリカ人の政治への関心の高さと2大政党への帰属意識が感じられる。

 

旅先で著者は、自らが見た広大なアメリカの風景を描き、旅先で出会った人たちとの会話を記録している。

東北端のメーン州ではオーロラを見、西海岸の国立公園ではレッドウッドの巨木の荘厳さに感動し、南部の砂漠の過酷さをトラックで実体験する。

時代の変化という点で再三言及されるのは都市化と車社会の進展であり、幹線道路は大型車両の洪水でロシナンテは迂回を余儀なくされる。昔ながらの田園と村々の風景がさびれていくのは日本と同じである。シアトルの美しい丘が新住民の「ウサギ小屋」でいっぱいになったと書いてあるが、「ウサギ小屋」は日本人の家だけではなかったようだ。

 

ただ、著者の関心あるいは懸念はやはり黒人問題にあったようで、最後のテキサスと深南部(ディープサウス)でがらりと著作の雰囲気が暗く変わる。著者は、「南部と対面するのは怖かった。そこには痛みと混乱が、こっちを当惑させ怖がらせるとんでもないことがすべてある」と言い、その問題の前提は「父祖たちが犯した罪が後の世代の子どもたちにふりかかっている」のだと断じる。

「人種は平等だが分離する」という制度が1954年に最高裁で違憲判決を受け、黒人の子を白人の学校に入れようとする公民権運動が起きている最中である。著者はニューオリンズの人種差別主義者の集会「チアリーダーズ」に潜り込み、激しい嫌悪感を抱く。

少なくとも20回は聞かされたという「黒んぼ(nigger)かと思ったよ」という生々しいジョーク、同乗させた老いた黒人の警戒感をあらわにした態度は印象的である。極めつけはヒッチハイクで乗せた白人で、「わが子はぜったい黒んぼ(nigger)のいる学校には入れない」と陽気に話し、それに同調しなかった著者を「黒んぼ好き(nigger lover)」と非難する。ついに著者はぶち切れ、この白人をトラックから追い出すのだが、そこで著者のアメリカ発見の旅は事実上終わっている。

 

著者が今、同じような旅をしたら、おそらく移民問題が中心になるのではないか。

本書では、カナダ国境を越えてジャガイモ畑の季節労働者として来る違法移民たちとの心温まる交流が描かれているが、1960年のアメリカは現在を考える鏡のようなものだろう。

 


◎2025年2月11日『15時17分、パリ行き』(映画)

☆☆☆☆3人の若者の成長と感動的なヒーロー実話を本人実演で

 クリントイーストウッド監督のパニックもののアクション映画かと思ったら、3人の若者の感動的な成長ストーリー。しかも、実話を本人たちが演じており、最後の叙勲シーンは実写映像を使ったと思われる。

 

この事件の当時、ヨーロッパ各国ではイスラム原理主義者によるテロ事件が頻発していて、欧米の人々にはリアルに恐怖の感じられる時代だった。

映画の冒頭から細切れにテロのシーンを入れているが、ストーリーの大部分は3人の若者の子ども時代からの成長を描いていて、事件直前は3人が休暇でローマ、ヴェネツィア、ベルリン、アムステルダムを楽しむ観光ガイドのようなシーンがかなり長く続く。

3人は学校時代から問題児で、教師からはADHDとかシングル-マザーだからとか言われ、軍隊に入ってからも落ちこぼれ気味だったが、運命に導かれるように事件に居合わせてヒーローとなる。

3人のうち1人は黒人という人種バランスもよく、3人とも素人ながらなかなかいい味を出している。



 

 

◎2025年2月10日『ほんのささやかなこと』クレア・キーガン

☆☆☆☆☆今そこにある差別や虐待にどう向き合うか?

 単行本で160頁の中編小説だが、人間の生き方への重い問いかけを含んでいる。

物語の背景には、アイルランド政府とカトリック教会によって運営されていた母子収容所(マグダレン洗濯所)における女子労働の搾取と児童虐待があるが、これは昔の話ではなく1996年まで続いていたという。2021年の調査報告によると、18の施設で9000人の子どもが亡くなったとされるが、政府が謝罪したのは2013年である。

すぐに想起されるのは日本のハンセン病患者強制隔離政策であり、奇しくも同じ1996年にらい予防法が廃止されるまで、全国13の国立ハンセン病療養所で強制隔離政策が続けられており、政府が謝罪したところまでよく似ている。

 

この小説は、こうした虐待を正面から取り上げて糾弾するのではなく、1980年代のアイルランドの大不況下で懸命に家族の生活を守って生きる主人公が、あるとき洗濯所で虐待されている少女に接し、自らの生き方を問う物語となっている。

クリスマスを迎える家族のささやかな幸せと主人公の懊悩を鮮やかに対照させる構成が見事である。

 

ただ、著者の問いかけは、むしろ主人公の妻を含む町の人々、すなわち洗濯所の虐待を薄々知りつつ黙認している人々に向けられている。今そこにある差別や虐待に気づきながら、父親のわからない子を産む少女や外国人移民たちのことは自分たちとは別の世界だ、あるいは「こんな些細なこと Small Things Like These」(本書の原題)として人権侵害に向き合わない、その鈍感さこそが問われているのである。



 

202528日『雪夢往来』木内昇

☆☆☆☆☆江戸末期の文壇と出版事情が生き生きと描かれる

 越後国魚沼郡塩沢の商人鈴木牧之(儀三治)が、苦節40年の途方もない忍耐の末に名著『北越雪譜』を出版した経緯が描かれている。

江戸末期の出版界といえば、大河ドラマで蔦屋重三郎が話題となっているが、本書では重三郎はすでに死去し蔦屋は2代目となっている。当時、江戸には貸本屋が700もあったとのことで、文壇と出版界の活況が感じられるほか、江戸と地方の飛脚による活発な文書のやりとりも興味深い。

 

20歳前に行商で江戸に赴いた儀三治は、雪国の事情がまったく知られていないことに憤慨し、雪国の暮らしぶりや伝承、奇談を書いて出版しようとするが、関心を示した山東京伝、岡田玉山、鈴木芙蓉、曲亭(滝沢)馬琴といった戯作者や絵師の手の下で版本の作成が試みられるものの、当時の出版事情により紆余曲折の経過をたどり、なんと40年もの歳月が経過してしまう。その間の儀三治の苦悩や越後と江戸との文書のやりとりが、戯作者たちの個性や版元の対応を描きわけながら生き生きと語られる。

とりわけ、山東京伝とその弟の山東京山(相四郎)、山東京伝の元は弟子ながら対抗心を抱く曲亭馬琴の葛藤が見所である。京伝は天才肌の作家、馬琴は努力家だが偏屈で自己中心的な人物として描かれており、本書では馬琴はかなりの悪役である。

 

苦節40年を経た出版の後、儀三治が語る述懐は書くことの意味を考えさせるものである。

「雪中の洪水の話、熊捕の話、雪の中で飛ぶ虫の話、雪崩に巻き込まれた人の話……気付けば随分と多くの綺談を書いたものにございます。この地のことを書いておるとき、私は心くつろいでおりました。」

「ところが、板行の夢を見はじめた途端、・・・書くより他のことに多くの時を費やしておりまして、あるときからなにも見えなくなってしもうたのでございます」

 

著者の本は初めて読むが、上記の主要な登場人物のほか、彼らの妻子や塩沢の人々も生き生きと描かれており、一気に読ませる作家の力量を感じる。



◎2025年2月5日『ロベスピエール―民主主義を信じた「独裁者」』髙山裕二

☆☆☆陰謀論とルサンチマン(怨恨)が革命を恐怖政治にする

 フランス革命における「恐怖政治(テロル)」と不可分に結びつけられたロベスピエールだが、著者はロベスピエールを代表制民主主義における議員と人民の「透明」な関係を求めた「清廉の士」として再評価したいようだ。

そのため、ロベスピエールの生涯とフランス革命の推移を丁寧にたどっており、革命の詳細な経緯については興味深い点が多かった。しかし、恐怖政治については改めてそのすさまじさを感じさせられた。

17931月に行われた国王ルイ16世の裁判では、387人対334人(棄権・欠席28人)という評決で死刑が確定して執行されたが、その後の特別刑事裁判所や革命裁判所ではほとんどまともな裁判も行われずにギロチンによる大量処刑が実施された。本書によると、「恐怖政治の絶頂期に少なくとも30万人が逮捕、17000人が処刑された。裁判を経ていない死刑を含めればおそらく4万人はいる」という。処刑された者の中には、王妃マリー・アントワネットのほか、J-J.ルソーの友人でありルイ16世の弁護人を引き受けた老マルゼルブ、化学者ラボワジェらの著名人が含まれるほか、ついにはダントンやロベスピエール、サンジュストがギロチンにかけられるに至る。

こうした恐怖政治の背景にはフランス革命に対抗する反仏戦争が存在し、フランス国内にも「敵」がいるという陰謀論の横行があり、危機的な状況下の集団心理として国民議会の各党派が互いに他を敵として糾弾した。また、著者が「マラ的なもの」という旧体制や特権階級への憎悪と嫉妬がそれをあおり立てる。まさに「ルサンチマンの政治」であり、毎日のように公衆の面前で数十人がギロチンにかけられて民衆が熱狂するのである。

実は、こうした陰謀論とルサンチマンの政治は現代につながるものであって、フェイクニュースがSNSで増幅され、陰謀の首謀者と名指された政治家や著名人が世論の指弾を受けて(ギロチンではないが)社会的に追放される光景に既視感を覚える人は多いはずだ。

 

著者はこうした恐怖政治の結末はロベスピエールの本意ではなかったとし、「青年将校」サンジュストの影響とその反民主的な思想に言及しているが、ロベスピエールが恐怖政治を主導していたことは歴然としている。

そもそも政治家(議員)と人民の「透明」な関係とか、人民の一般意志との一致は理想といえるのか? 確かにロベスピエールが精神的な師としたルソーは一般意志volonté généraleによる統治を強調したが、ルソーの前提としている国家は人民の間に利害対立のない均質な小国家(典型的には時計職人のジュネーブ共和国)であり、それ故に共通利益を基盤とする一般意志が論じられた。ロベスピエールはブルジョアジーや富裕層を敵として排除しようとしたというが、そのような社会分断と排除をルソーは想定していない。

議員と人民との透明な関係についていえば、ルソー的な議員への命令委任を導入しても、社会階層が多様であれば支持層によって議員への委任内容は異なってくる。したがって、代表制の下の議会とは、異なる階層の利害をその代弁者である議員が調整する場なのであって、透明な一般意志が現出する場にはなりえないのである。

 

それにしても、「清廉の士」で美徳をモットーとしたお堅いロベスピエールが政治家として人望を得た理由がよくわからない。舌鋒鋭い理論家として女性ファンが多かったというのは理解できるが、成熟した人間力の求められる政治家の間ではどうだったのか? 自己陶酔型の人間は最も政治家に適さないように思えるのだが。

激動の時代ならではの「乱世の寵児」としてリーダーにのし上がったということだろうか?


 

◎2025年1月27日『女性たちの韓国近現代史』崔誠姫

☆☆☆☆韓国近現代史を女性史の観点で概観する 日韓関係とも深い関わり

朝鮮王朝(李氏朝鮮)の19世紀末の開国時代から、現代までの韓国・北朝鮮近現代史を女性史の観点で概観している。

その間には日本の植民地時代を含む日本と朝鮮半島の深い関わりも触れられており、現在のこじれた日韓関係、日朝関係を歴史的背景から考察する手がかりとなる。

 

韓流ドラマや時代劇を見ると、颯爽としたヒロインが男性と肩を並べて華々しく活躍しているが、実際には女性の社会的地位は低く、女子教育も大幅に出遅れていた。女子教育は西洋の宣教師らによって始められ、女子向けの近代学校の先駆の梨花学堂は現在の梨花女子大学の前身とのこと。

日本の植民地時代や戦後の混乱期、南北分断国家と朝鮮戦争、軍事独裁政権時代と朝鮮近現代史はまさに苦難と激動の時代だが、先駆的な女性の社会活動から独裁政権への抵抗運動まで韓国の女性たちが徐々に社会的地位を高めてきたことがよくわかる。

他方、混乱と激動の歴史の過程で、日本への移住だけでなく中国東北部(間島)やドイツへの出稼ぎ・移住した人も多く、その家族として多くの女性が移住しており、それがグローバルな展開の色彩を朝鮮近現代史と女性史に与えていることも興味深い。

 

韓国女性運動の成果を付記すると、198712月に「男女雇用平等法」が制定され、2001年には政府内に女性部(現「女性家族部」)が設置されたが、保守勢力の批判を受け、現在の尹錫悦大統領はその廃止を打ち出している。

また、議員の女性クオータ制度も2000年から導入されており、国会議員小選挙区及び地方自治体選挙の3割、比例代表の5割以上を女性候補者にすることなどが定められ、女性の政治進出を促進している。



 

 

◎2025年1月22日『スパルタ 古代ギリシアの神話と実像』長谷川岳男

☆☆☆「スパルタの幻影」Spartan mirage

アテナイと並び古代ギリシャのポリスの代表であるスパルタの歴史と、後世へのその影響をわかりやすくまとめた新書である。

ただ、近年の考古学的知見で従来のスパルタ観がどのように覆されたのかに興味があったが、幻影の部分が大きいという以上に新しいスパルタ観が提示されているわけではない。

 

そもそもスパルタ人自身が残した史料がほとんどない。

スパルタについて書かれた史料は、ヘロドトス、トゥキュディデスといった歴史家もプラトンやアリストテレス、クセノフォンなども皆アテナイ人だし、彼ら以上に後世に影響を与えたプルタルコスはローマ人である。

彼らが称える「リュクルゴスの改革」の集団主義の規律や質素な生活、土地の平等分配などは、アテナイ人やローマ人の観点から一面的に引用された可能性が高く(プラトンをはじめスパルタに関する著述を残したアテナイ人は貴族階級の寡頭制支持者でありアテナイの民主制には批判的だった)、しかも、本書によればスパルタ人自らがそうしたスパルタ・イメージを利用していたという。

 

結局、本書の意義は第7章の後世のスパルタ観にあり、スパルタ伝説の形成あるいはスパルタの「ブランド化」の歴史を描いたところであろう。

スパルタ伝説はすでに古代世界から始まり、「リュクルゴスの改革」はストア派の主張に近いという。その影響はプルタルコスを介して近代ではJ-J.ルソーの文明批判とスパルタ礼賛に至る。他方、スパルタの集団主義や規律への服従、生まれた子の選別といった伝説はナチズムに利用され、優生思想や人種主義、ユダヤ人排除につながる。

もう一つのスパルタ伝説であるペルシャ戦争のテルモピュライの戦い(レオニダス王以下300名のスパルタ兵が玉砕)は今も英雄伝説として繰り返し利用されており、近年を含め過去に3度も映画化されたというほどだ。しかし、著者によると、テルモピュライではスパルタ軍は裏切りによって包囲殲滅されたが、あと数日持ちこたえればペルシャ軍が大軍の兵站を維持できなくなったはずだという。最初から玉砕覚悟で出陣したわけではなかったのである。

いずれにせよ、玉砕を美化するような伝説は困りものである。

著者は、スパルタ伝説の意義を同質的な価値観による社会の安定(「エウノミア」)に求めているようだが、はたしてどうだろうか?


 

◎2025年1月20日『ベートーヴェン《第九》の世界』小宮正安

☆☆☆「第九」の成立史と演奏史は興味深いが・・・

あの第九交響曲について、第4楽章の歌詞がシラーの「歓喜に寄す」の元の詩からどう変容したかを詳細に解説し、その演奏史と受容史について概説している。

著者によると、シラーの元の詩はフランス革命より前の1785年に印刷され、ベートーヴェンは1792年ころにはこの詩に曲を付ける構想を抱いていたという。元の詩は「疾風怒濤 Sturm und Drang」時代の革命を希求する激烈な内容であったが、フランス革命とナポレオン時代の終焉を経て、シラー自身が激烈さを抑えて改訂し、第九交響曲はその改訂版によるものとなった。第九の歌詞が友愛と平和を希求するものとなっているのはそのためである。

著者は、シラーの詩と第9の歌詞を原文を含め全文引用してその異同を対比しているが、できればポイントを小さくしても上下対比形式にして見やすくしてもらいたかった。

演奏史では、ウィーンの初演時に合唱団を舞台下に配してその前でベートーヴェンが指揮をし、オケはコンマスが指揮したというのが興味深い。ベートーヴェンは全聾ではなく指揮をしており、拍手が聞こえなかったというエピソードは秘書シンドラーの創作だったという。

こうした第九の歌詞の成立史と、第1楽章から第4楽章までの音楽的構造分析は興味深く、第9を聞く上でも参考になるのだが、その他の解説がシニカルにすぎるように感じる。

 

あとがきを見ると、著者は「努力と闘いの人」というベートーヴェンのイメージに疑問を呈し、本文中でも「孤高の芸術家」であるとか「宗教嫌い」といったイメージを挙げて否定していくのだが、そもそも提示されたイメージが著者の思い込みとしか思えない。また、著者はベートーヴェンが共和主義者ではなく啓蒙君主制支持者だったと再三指摘するが、これには何の根拠も示されていない。

しかし、ベートーヴェンは、王侯貴族をパトロンとした時代の芸術家と異なり、フリーのプロフェッショナルの草分けである。フリーのプロである以上、自らの思想信条や政治的立場と異なる依頼者からの依頼も受け、営業上必要な場合は王侯貴族へ曲の献呈もする(第九もそうだった)。これは現代の芸術家も同じである。「孤高」だけでフリーのプロは生きていけないし、王侯貴族の依頼を受けたからといって共和主義者でないとはいえない。

また、「宗教嫌い」に至ってはさらに不可解な主張であり、神をたたえる歌曲や荘厳ミサ曲、さらには第九の「星空の彼方に父がいる」(カント的である)という歌詞からも宗教否定でないことが明らかである。

 

受容史については、ワーグナーからナチス、さらにはECの「喜びの賛歌」やベルリンの壁崩壊時の演奏会などが概観され、日本における「うたごえ運動」や「年末の第九」に至る受容史についても触れられている。

著者もいうように、歌詞があるがゆえに様々な「俺様の第九」解釈がなされてきたわけだが、それを言うならオペラの現代演出はもっとひどいだろう。ワーグナーの楽劇の奇抜な演出はいうまでもないが、数年前に新国立劇場で見た「フィデリオ」(カタリーナ・ワーグナー演出)に至っては、レオノーレによって牢獄から救出されるはずのフロレスタンが獄吏の奸計によって殺されるという原作と逆の帰結となっていて、全く理解できなかった。

なお、ベルリンの壁崩壊時にバーンスタインの指揮で演奏された第九が「Freude」(喜び)を「Freiheit」(自由)に置き換えて演奏されたことを著者は批判しているが、当時の時代状況からは全く違和感のない置き換えであり、感動的な演奏だったと私は記憶している。本書でも、「ドイツ語で“Fr...”で始まる言葉を探すと、Freiheit=自由、Freund=友、Freundschaft=友情、Frieden=平和といった・・・希望を与える単語がいくつも存在する」と書いている。FreudeFreiheitは頭韻が同じで意味上も縁語にあたるといえるのではないか。



◎2025年1月17日『新訳 モンテ・クリスト伯 5』アレクサンドル・デュマ

☆☆☆☆☆名作を時代背景とディテールにこだわって読む(5) 「待て、そして希望せよ!」

長編小説の最終巻である第5巻は、復讐のクライマックスとその後の人々の運命が描かれる。

4巻ではモルセール伯爵(フェルナン)への復讐がなされたが、本巻ではヴィルフォール検事とダングラールへの復讐が、前巻までに準備された緻密な計画の下に実行されていく。

モンテ・クリスト伯爵の復讐の作法は、自らの受けた陰謀への直接的な報復ではなく、三者三様の他の悪事や失敗で没落させるというやり方なので、彼らはなぜ自分たちが憂き目を見るのかわからない。そこで、最後に伯爵は(水戸黄門が印籠を示すように)自らの正体を明かして復讐のカタルシスに達するのである。

しかし、このような手の込んだ(脱獄後10年の準備期間!)復讐劇の頂点に達したとき、特に無辜の家族を巻き込んだ悲劇となったことで、伯爵は悔恨と復讐自体への疑問を感じてしまう。そこで、伯爵は再びイフ島の監獄跡(1830年の7月革命で監獄は廃止されて観光地となっている)を訪れて、かつての記憶を呼び起こし、復讐への思いを更新する。このあたりの伯爵の人間らしい動揺を描くところが、19世紀の大作家によるロマンたるゆえんだろう。

 

作品全体を通じて、主人公を取り巻く様々な人々がその人物像や行動を生き生きと描き分けられており、それが作品の大きな魅力となっているが、本巻で注目したのは女性像である。中でもダングラールの娘ウジェニーは自由意思を持った自立心の強い女性として突出しており、父親の破産の危機や婚約相手のスキャンダルもものともせずに同性の愛人とベルギーへ旅立っていく。これに対し、マクシミリアンが熱愛するヴァランティーヌは自己主張の弱い従順な女性であり、メルセデスも母としては強い意思を発揮したが女性像としてはやはり「弱き者」である。ウジェニーのような現代的ともいえる女性像を描いたデュマに感服する。

 

なお、秘薬で仮死状態となった恋人が死んだと絶望して自らも死を願うというモチーフは、いうまでもなく『ロミオとジュリエット』から借りたものだろう。しかし、シェークスピアの時代ならともかく、19世紀の科学水準では不自然さを免れない。

 

大作の最後は伯爵がマクシミリアン・モレルに宛てた手紙の言葉で締めくくられるが、本書では「待つことを知り、希望せよ!」と訳されている。私が子どものころに読んだ少年少女文学全集版では「待て、そして希望せよ」だったと記憶している。原文は«Attendre et espérer !»(英訳は“Wait and hope”)であり、後者の訳に近いのだが、この言葉の直前の文章は「人間の知恵のすべてはこの2語の中にある」(原文を直訳)だから、「待て」と「希望せよ」の2語は前後関係でなく並列関係だろう。

苦難を乗り越えた主人公の人生を踏まえ、「希望を失わずに待つこと」の重要性を作家は強調しているのである。


 

◎2025年1月15日『新訳 モンテ・クリスト伯 4』アレクサンドル・デュマ

☆☆☆☆☆名作を時代背景とディテールにこだわって読む(4) 貴族の名誉と決闘

4巻はいよいよモンテ・クリスト伯爵の復讐が開始される。

3巻ではヴィルフォール検事がオトゥイユの伯爵の別荘で過去の悪事に心胆寒からしめる思いをさせられたが、第4巻ではダングラールが蜘蛛の巣のように張り巡らされた罠にかかっていく。

しかし、なんといっても本巻のハイライトはモルセール伯爵の旧悪の劇的な暴露と、父の名誉を毀損されたモルセール子爵の起こす決闘騒ぎだろう。

当時は貴族の習慣として決闘はまだ残っていて、モルセール子爵は最初は新聞記事を載せたボーシャンに対し、次に暴露の張本人と判明したモンテ・クリスト伯爵に対して決闘を申し入れる。

ボーシャンの態度は、記事の事実調査をまずした上で決闘に応じるというもので、市民社会で自立しつつあったジャーナリストの矜持を感じさせるものだ。

モンテ・クリスト伯爵は決闘申し入れを予期していたかのように平然と受諾し、子爵を殺すことを宣言する。これはモルセール伯爵への復讐計画の一環だったのだろう。オペラ座で手袋を投げつける場面や介添人と武器を指定してヴァンセンヌの森へ赴く場面は印象的だ。

決闘の結果については書かないが、ここでは万能かつ冷徹な復讐者としてのモンテ・クリスト伯爵が見せる人間的な弱みが描かれる。「死んだものとばかり思っていた心」がかつての恋人メルセデスの声で呼び覚まされたわけだが、ここでは「弱き者、汝の名は女」と嘆かれた女性が復讐者の冷酷な心に打ち勝つことになる。

同様に、法の冷徹な体現者であるはずのヴィルフォール検事もまた、医師から娘が毒殺者だと告発されて激しく動揺する場面が描かれる。

両者の人間的な感情の揺れが描かれ、19世紀ロマンはいよいよ佳境に入る。

 



◎2025年1月13日『新訳 モンテ・クリスト伯 3』アレクサンドル・デュマ

☆☆☆☆☆名作を時代背景とディテールにこだわって読む(3) オトゥイユの別荘をめぐる策謀など

3巻では、モンテ・クリスト伯爵が復讐の策謀を張り巡らせる仕掛けと、ダングラール、ヴィルフォール、モルセールといった敵との間の皮肉と挑発に満ちた会話が見所である。

とりわけ、パリ近郊のオトゥイユ(Auteuil 「オートゥイユ」と表記すべきか)に伯爵が購入した別荘がヴィルフォールたちの過去の罪悪とつながる重要な舞台として描かれ、因縁のある関係者が集う小説的な企みになっている。

なお、ヴィルフォールの探索に対して伯爵が神父やイギリス人に変装して対応する場面は、まるで怪人20面相のようで笑えた。

 

時代風俗としては優れた馬への執着が現代の高級車指向を連想させるが、毒物学への伯爵の詳細なこだわりと説明はデュマの関心と重なるのだろうか。第2巻でフランツが伯爵のハッシシで幻覚を見る場面があったが、アヘンによる幻覚が描かれるベルリオーズの幻想交響曲(1830年)もこの時代であることを考えると、毒物学への興味が高まった時代なのかもしれない。

中でも私が面白かったのはオペラ座の観劇風景で、当時の貴族たちは観劇を社交の場としていて、オペラが始まっても自分たちのボックス席で談笑していた。本書ではマイア・ベーアの『悪魔のロベール』の上演が描かれるが、第1幕が始まっても会場はほとんど空席で、ドアの開け閉めやざわめきしか聞こえない。しかし、いつまでも会話をやめない青年貴族たちに対し、平土間の観客から「うるさい」と再三注意がなされる場面も描かれている。平土間の観客は当時増えつつあったブルジョアジーの音楽愛好家たちと思われ、オペラ観劇スタイルの移り変わりの時期だったことを感じさせる。



 

◎2025年1月9日『新訳 モンテ・クリスト伯 2』アレクサンドル・デュマ

☆☆☆☆☆名作を時代背景とディテールにこだわって読む(2) ローマの謝肉祭は圧巻

2巻では、イフ島監獄を脱出し巨万の財宝を得たダンテスが、いよいよモンテ・クリスト伯爵として登場する。

ただし、第1巻のダンテスと異なり、モンテ・クリスト伯爵は金に糸目を付けない大富豪であるとともに、知識が豊富で多国語に通じ、芸術にも通暁している一流の紳士かと思えば、盗賊や密売人を手足のように使うという、いわば万能の存在であり、はっきり言って人物造型としては面白みに欠ける。小説の読み方としては、伯爵は『源氏物語』の主人公光源氏のような狂言回しの役割を果たしており、ナポレオン後の反動と激動の時代、そしてそこで生きた人々を照らし出すための存在と見るべきなのかもしれない。

その意味では、いかにも青年貴族らしく遊ぶフランツやモルセール、金に目がくらんで自滅するカドルッス、コルシカ人らしい復讐(バンデッタ)の後にモンテ・クリスト伯爵に仕えるベルトゥチオ、『ガリア戦記』を読みふける盗賊ルイジ・ヴァンパといった多様な人物の生き生きとした描写が面白い。

 

しかし、この第2巻ではなんといってもローマの謝肉祭の描写が圧巻である。著者デュマ自身がイタリアに56年滞在したと書いているから、著者自身が見聞した謝肉祭が描かれているのであろう。実は、私自身もミレニアムのカトリック信者たちのローマ大行進にたまたま居合わせたが、大変な賑わいだった。デュマの見た謝肉祭はその数倍もにぎやかな喧噪だったと思われる。

しかも、本書の謝肉祭では、その開幕にあわせて罪人の死刑執行が行われ、モンテ・クリスト伯爵がモルセール子爵らとそれを見物しており、当時の死刑が大衆の見せ物とされていたことがよくわかる(アルベール・カミュがギロチン刑を見たことを書いていたのを想起する)。それにしても、ここで描かれる撲殺刑はすさまじく、モルセール子爵らは目を背けるが、伯爵は「何年もあなたに精神的な苦しみをもたらした者がほんの数秒肉体的な痛みを感じたというだけで充分だと?」という冷酷な言葉を残す。もちろんこれは子爵の父たちへの復讐を予告するものだ。

伯爵のこうしたニヒルともいえる世界観は次の言葉にも示される。

「社会主義者、進歩主義者、人道主義者のみなさんには奇異に思われるかもしれません。わたしはけっして同胞に関心を抱くことはありません。わたしを保護してくれない、さらに言えばだいたいはわたしを害するためにしか、わたしに関心をもたない社会を保護することもけっしてないでしょう。」

ダンテスが当時の社会によって投獄され、モンテ・クリスト伯爵として支配階層にいる相手への復讐をめざす以上当然の言葉なのだが、その響きは人道主義や理想主義と一線を画した19世紀の虚無主義者や無政府主義者に通じるものがある。


 

◎2025年1月5日『新訳 モンテ・クリスト伯 1』アレクサンドル・デュマ

☆☆☆☆☆名作を時代背景とディテールにこだわって読む(1)

子どものころ、少年少女文学全集版で何度も繰り返して読んだのでストーリーはよく知っているが、改めてこの大作をディテールにこだわって読むことにした。

 

まずに気づくのは、ナポレオン没落直後の時代背景である。特に、この第1巻ではエルバ島に幽閉されていたナポレオンが、エルバ島を脱してパリに進軍し、100日天下の後にワーテルローで敗戦する激動の時代と重なっている。そして、主人公のエドモン・ダンテスが陰謀で告発されるのはまさにエルバ島のナポレオンに面会し、手紙を託されたことに起因しているのである。他の登場人物にもボナパルト派と王党派の対立が陰影を落としている(特に、ヴィルフォール検事とその父親の関係など)。

ちなみに、ナポレオンに従軍したスタンダールは王政復古の沈滞した時代を背景に『赤と黒』や『パルムの僧院』を書いたが、A・デュマはスタンダールより少し下の世代に属する。

 

次に、牢獄でダンテスがファリア神父から託される「スパダの財宝」の由来には、あのルネサンス時代の教皇アレクサンデル6世とその息子チェーザレ・ボルジアが絡んでいたとされる。ファリア神父もまた、マキアベリやチェーザレと同じくイタリア統一を夢見ていたという。

 

ダンテスの投獄については、ヴィルフォール検事の個人的な思惑によって予審も公判もなく行われており、ダンテス自身が「裁判を受けさせてほしい」と獄舎で再三求めている。この時代の政治犯の扱いとしてはあり得たのだろうが、やはり裁判を受ける権利の重要性を痛感させる。

 

なお、ダンテスが14年間囚人として過ごしたイフ島監獄(イフ城 Château d'If)は、現在ではマルセイユ観光の1つの目玉となっている。私もマルセイユ港から船で訪れたが、ミラボーなどの著名政治犯とともに、なんと「エドモン・ダンテスの部屋」、「ファリア神父の部屋」まで展示してある(もちろん観光用である)。



◎2025年1月2日『一場の夢と消え』松井今朝子

☆☆☆☆☆近松の生涯と元禄演劇史を生き生きと描き出す

 近松門左衛門(本書では本名の杉森信盛から「信盛」として語られる)の生涯を描いた作品である。

著者の本は歌舞伎を題材にした『壺中の回廊』(レビュー済み)などを読んだが、歌舞伎よりも馴染みの薄い浄瑠璃(文楽)の大作者である近松については、『曽根崎心中』や『国性爺合戦』などの著名作品、あるいは歌舞伎に翻案された『女殺し油地獄』などしか知らなかった。

本書は近松の生涯だけでなく、元禄時代の上方演劇について、坂田藤十郎らの歌舞伎役者、竹本義太夫らの浄瑠璃語り、さらに興業主らの活動も生き生きと描き出しており、歌舞伎や浄瑠璃の当時の隆盛がよくわかる。

近松が町人ではなく武家出身というのは意外だったが、浄瑠璃作者や歌舞伎作者としての活動は興業主や俳優、浄瑠璃語りと二人三脚であり、作者と脚本家、演出家を兼ねていたようだ。

 

近松といえば『曽根崎心中』や『心中天網島』といった心中ものを連想するが、これらは大阪の商家や遊里を舞台にして実際に起きた事件をホットなうちに演劇に仕立てた時事ネタだったとのこと。時代の生きづらさと人情の相克を描き出し、興業としては大評判を博するが、本来は時代ものの付録のように演じられ、徳川吉宗の享保の改革で心中ものは禁止されるに至る。

浄瑠璃の作法としては、竹本義太夫との対話などで近松が強調する、音調のよい七五調や五七調に流れず、「浄瑠璃は大切な文句を決して聞き流されぬよう、多少調子を崩しても、そこはしっかりと語らねばならぬ」という指摘が興味深かった。幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎作者河竹黙阿弥の有名な七五調などとは作法が違うのだろうか。あるいは、浄瑠璃と歌舞伎のドラマツルギーの違いなのか。

改めて近松物の浄瑠璃を義太夫語りで聞いてみたくなった。

 


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