【2024年後半】 


◎2024年8月22日『独裁者の学校 (岩波文庫)』エーリヒ・ケストナー

 

◎2024年9月13日『戦時から目覚めよ』スラヴォイ・ジジェク

☆☆☆☆旧東欧知識人の強い危機感を示す

スロヴェニアの著名な哲学者であるスラヴォイ・ジジェクの時事論説である。

内容はウクライナ戦争を機にヨーロッパの自由と民主主義の将来を様々な角度から論じたものであり、哲学者らしい引用や比喩が多いが、テーマと主張は一貫している。

スロヴェニアは旧ユーゴスラビアの一部でチェコやハンガリーとも隣接した地域であり、ジジェク自身、1968年の「プラハの春」事件の際にはプラハでソ連軍の戦車に接したという。

旧ソ連の「勢力圏思想」による東欧支配を肌身で感じてきた東欧知識人だけに、ウクライナ戦争におけるロシアの侵略に対する批判は明快であり、他方、欧米の煮え切らないウクライナ支援に危機感を示す(本書の原題は“Too Late to Awaken”である)。

ジジェクは「第三次世界大戦はすでに始まっている」というのだが、現時点でロシアが中国やイラン、北朝鮮を巻き込んで欧米に対抗しようとしているのを見ると、その悲観的評価は正鵠を得ているといえそうだ。

ロシアやその支援者のターゲットはEUのリベラリズムと民主主義の解体であり、それはEU内のロシア支援者であるハンガリーのオルバン・ヴィクトルがリベラリズムを露骨に敵視していることにもあらわれている。

 

他方、ジジェクは欧米内の「平和主義者」も厳しく批判する。その対象はハーバーマスでありチョムスキーであるが、特に後者は「唾棄すべき輩」とまで言われる。その理由は、「彼らは当初、ウクライナがロシアとの戦争に勝てるわけがないと言い張ったが、勝利の気配が見えはじめたとたん、プーチンが激高して核兵器のボタンを押しては困るから、勝つべきではないなどと主張しはじめた」からである。要は、ウクライナを犠牲にして自らの保身を図るということだろうが、核兵器に限らずロシアへの天然ガス依存を続けたい中欧諸国の一定の空気をも反映している。

これに対し、ジジェクは今こそ「真のプロレタリア国際主義」を発揮して、ロシア国民や欧米以外の第三世界との連帯をめざすべきだという。ジジェクはその例としてパレスチナとの連帯も挙げているが、この論説は昨年来のガザ紛争以前に書かれたもので、ジジェクの期待とは全く逆に、ガザ紛争では欧米のイスラエル支持がダブルスタンダードとして第三世界に受け取られている。それが情勢の危機と混迷を深める結果となっている。

 

さらに、ジジェクは西欧のイデオロギー闘争のもう一方の極として、「ポリティカリー・コレクトな自由主義左派」も厳しく批判している。キャンセルカルチャーやウォークで知られる彼らは、ジジェクによると、「あらゆる性的指向および民族アイデンティティに寛容になれと説く。しかし、その寛容さを保証するために、次々に規則を増やす必要性が生じ」、不寛容へと反転する。その立場は非常に権威的であり、異なる意見を受け付けずに排除するという。

 

ウクライナとガザで欧米日の民主主義と自由の真価が問われており、世界の民主的運動が試されているというべきであろう。


 

◎2024年9月9日『力道山未亡人』細田昌志

☆☆☆日本プロレス裏面史としては面白いが・・・

 表題の「力道山未亡人」である田中敬子については表面的な伝記で、人物像が立っていない。

外交官志望が日航のスチュワーデスに転じ、国民的スターの力道山に請われて3番目の妻となる。

しかし、結婚半年後に力道山の不慮の死が起きて、その後は力道山の大きく広げた事業の巨額の負債と相続税の支払いに追われる。

結婚前はともかく、後半生は文字通り「力道山の未亡人」としての活動が力道山死後のプロレス界のエピソードに沿って断片的に描かれているだけである。

 

とはいえ、力道山とその後の日本プロレス界の裏面史については知らなかったことが多い。

○田中敬子の父は警察署長で、原文兵衛警視総監に力道山と裏社会とのつながりの調査を依頼したが、調査に応じた原氏は力道山が「情報提供者」であるとして結婚にゴーサインを出したという(逆に、力道山としては警察署長の後ろ盾を期待した可能性がある)。当時は力道山の結婚式や葬儀に裏社会の主立った面々が堂々と参列していたが、力道山の死後、プロレスコミッショナーが大野伴睦から川島正次郎に交代したのを機に、プロレス興業と裏社会との関係は一掃されたらしい。

○力道山の死因となった刺傷事件については、梶原一騎原作の漫画ではケガを甘く見た力道山が暴飲暴食したせいで悪化したと書かれていたが、本書では手術に立ち会った研修医の告白として麻酔ミスであったとされている。

○力道山13回忌の追善興行に新日本プロレスの猪木が参加せず、当日にビル・ロビンソンとの試合をぶつけたと非難された件は、先に日程を入れたのが猪木で、追善興行側はこの日しか武道館が借りられなかったのが実情だという。両方の主催と後援で関わった東スポが田中敬子を利用して猪木非難をぶち上げ、猪木と馬場の対立を演出して観客を動員したと著者は推測している。

20003月に横浜アリーナで行われた「第2回力道山メモリアル」では、田中敬子のアイデアで引退していた猪木とジャニーズの滝沢秀明のエキシビションマッチが行われ話題になったが、これは力道山がかつてジャニー喜多川夫妻の後見人的役割を果たしていたかららしい。まあ、余興である。

 


◎2024年9月5日『秘密資料で読み解く 激動の韓国政治史』永野慎一郎

☆☆☆☆☆軍事独裁政権の陰謀と民主化闘争の激動が鮮明に

金大中氏拉致事件は中学時代、光州事件は学生時代に起きた大事件として報道に接しており、その他の事件もすべてリアルタイムで印象に残っているが、本書は韓国政府が今世紀になって過去の資料を調査し、事件の真相究明に取り組んだ成果をふまえたものであり、改めて軍事政権の闇と民主化闘争の歴史的意義を印象づける。

 

○金大中氏拉致事件

197388日、韓国野党大統領候補の金大中氏が東京九段のホテルで拉致され、同月13日にソウルの自宅付近で解放された。すぐに犯人はKCIA(韓国中央情報部)と特定され、実行犯も明らかになったが、韓国政府は実行犯を帰国させて日本の警察に出頭させず、日韓の国際問題となった。結局は後味の悪い政治決着になるのだが、拉致の目的がずっとわからなかった。驚くべきことに、本書によるとKCIAは金大中氏を密かに殺害する目的だった。ところが、現場に証拠を残すなどの失策から早々と犯行が明らかになったために、解放せざるを得なくなったという。

しかも、この事件では日本の自衛隊OBと現職自衛官が金大中氏拉致前の尾行と張り込みに協力しており、それを日本政府が隠したために韓国政府に強い態度が取れなかったらしい。後藤田官房副長官(当時)がこの自衛官OBにマスコミから姿をくらますように指示したとされるが、潜伏資金は官房機密費から供与したと著者は推測している。

○文世光事件

1974815日、ソウルの国立劇場で朴正熙大統領夫妻が狙撃され、夫人が射殺された。狙撃犯の文世光は在日で、朝鮮総連の工作で狙撃犯に仕立てられ、日本人の旅券を使って韓国に入国し事件を起こした。文世光自身は韓国で逮捕されて死刑判決を執行されたが、日本側が関係者の捜査に非協力的だと韓国側から非難された。前年の金大中氏拉致事件で主権侵害された不満が日本側にあったというが、結局はこれも日本政府の特使派遣によって政治決着が図られている。

○朴正熙大統領暗殺事件

19791026日、KCIA施設で行なわれた晩餐の席で朴正熙大統領がKCIA部長金載圭によって射殺された。これは大統領側近の警護室長との対立がエスカレートしたものだが、犯人に暗殺後の計画がない全くお粗末なものだったため、クーデターにも至らず、その後の全斗煥軍事政権へと道を開くことになった。

○光州事件

19805月、全斗煥軍事政権に抗議する学生運動は全国の主要都市で市街地デモに発展したが、518日に非常戒厳令が発動され、光州の2つの大学に軍が進駐したことから光州市内で抗議デモが一挙に拡大し、数万人の市民が一時市庁舎等を制圧した。これに対し戒厳軍が投入されて多数の学生や市民が殺された。この経過は報道統制をかいくぐったドイツ人ジャーナリストにより全世界に報道され、後に映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』ともなったが、本書によるとこの映画で描かれたタクシーデモやタクシー運転手のカーチェイスによる脱出劇などのドラマチックな場面はすべて事実というから驚く。

 

その他、北朝鮮のテロ事件であるラングーン事件(全斗煥爆殺未遂)や大韓航空機爆破事件(乗客乗員115人死亡)についても改めて詳細が明らかにされている。後者は全斗煥政権の自作自演説まであったそうだが、後継者である盧泰愚大統領の選挙戦に最大限利用されたという。

それにしても、KCIAや北朝鮮の国家機関による重大テロ事件の犯人がいずれもすぐに明らかになるお粗末な顛末は、権力犯罪の意思が末端の人間にまで貫徹されないからであろうか。

国家権力の犯罪はいずれ明らかになるというべきだが、この点では著者があとがきで危機感を示しているように、公文書の長期保存と管理が極めて重要である。


 

◎2024年9月1日『光の鎧 上中下』ケン・フォレット

☆☆☆☆☆シリーズ完結編は産業革命と階級闘争を描く 最後はワーテルローの戦い

中世以来のイギリスの歴史を舞台にヒューマンドラマを描いてきた『大聖堂』シリーズだが、エリザベス1世時代の宗教戦争の激動を描いた『火の柱』(レビュー済み)の次の時代は、産業革命とナポレオン戦争の時代である。

 

シリーズの舞台であるキングズブリッジ(架空の都市)は紡績産業の一大拠点として栄えているが、そこに機械化による合理化と職工削減の波が起こり、裕福な工場主層と職工労働者たちとの間の古典的な階級闘争が発生し、機械破壊運動(ラッダイトムーブメント)にまで至る。

折しもフランス革命後のナポレオン戦争の時代であり、革命の波及を恐れたイギリス議会は反政府運動や労働運動に対して反逆罪法、煽動集会法、さらには団結禁止法を成立させて弾圧を厳しくしていく。本書では児童や女性にまで及ぶ残酷な刑罰が描かれる。

物語はこうした時代背景の下に、横暴な地主貴族により夫と家を奪われながらキングズブリッジで織工として力強く働く女性サルとその子で機械製造に才能を発揮するキット、穏健な改革を進めようとする工場主エイモスとスペイドといった人々を主人公に、産業革命とナポレオン戦争の時代を力強く生き抜いた人々のドラマを描いていく。

これまでのシリーズ同様、敵役として横暴な地主貴族と狡猾な長老議員が配置されるが、後者はこれまでの司教の役どころを今回は成り上がり者の保守的ブルジョアジーにしてある。ただし、彼らは強力な敵対勢力というよりも、時代の流れに取り残されていく人々のように描かれている。

 

歴史的には、ナポレオン戦争が20年以上の長きにわたり続き、それがイギリスの政治と社会に影響を及ぼし続けたことがよくわかった。

フランス革命は1798年、その後、ジャコバン支配の恐怖政治を経てナポレオンが登場し、ヨーロッパ大陸を席巻してワーテルローで敗れたのが1815年である。その間、ナポレオンに支配されなかったイギリスはずっと臨戦態勢で、本書でも各地にミリシア(民兵組織)が召集されていたことが描かれている。

本書のクライマックスはワーテルローの戦いであり、主な主人公は全員がブリュッセルなどの戦場の近くに集まっている。ナポレオン軍とイギリス・プロシア連合軍の軍隊編成や戦闘方法、戦場の位置関係が詳細に描かれていて、ウェリントン将軍の後日談どおり、薄氷を踏む勝利であったことがわかる。

 

シリーズ全体を通じて、イギリスの歴史が各階層の主人公の視点から立体的に描かれ、建築や機械の技術革新のディテールもよく取材されていて、とても興味深かった。

 


◎2024年8月28日『カラーパープル』(ミュージカル映画)

☆☆☆☆☆人種+ジェンダー差別の重い話をミュージカルで軽快に描く

ストーリーとしては、黒人女性の置かれた二重差別(人種+ジェンダー)の重く苦しい話を描いているのだが、要所要所にポップなミュージカルが挿入されており、暗い印象を与えない。

登場人物はほとんどが黒人であり、白人は最後のほうに市長夫人のエピソードが挿入されていて人種差別の残酷さが強調されているが、主題は差別された黒人の中におけるジェンダー差別であり、差別が差別を生む連鎖構造を描いている。

他方、黒人女性の中にも差別をものともせずに立ち向かう勇敢な女性像も何人か描かれていて、夫の暴力に支配され続けた主人公が最後は自らの力で運命を切り開いていく。

ミュージカルを構成する音楽と黒人男女のダンスはさすがに素晴らしく、見ものである。


 

 

◎2024年8月28日『アイアンクロー』(映画)

☆☆☆☆あの「鉄の爪」エリック一家を襲った悲劇

往年のプロレスファンなら誰もが知っている「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックだが、その子どもたち4人がプロレス界に入り「エリック兄弟」として活躍したことや、次男ケビンを除き悲劇的な死を遂げたことは知らなかった。

この映画は、その実話に基づくエリック一家の悲劇を描いたヒューマンドラマといえる。

プロレスに興味のある人にはお勧めである。

 

プロレスといえば八百長とか筋書きがあるとか批判されるし、この映画でもケビンが恋人から質問されて言葉を濁して否定する場面があるが、そのような次元を超えて観客を熱狂させるショーなのだと思う。

鍛え上げた肉体の激突、華麗で見せ場のある大技や渋い小技の応酬、ダメージを受けたふりをしつつ逆転技を繰り出す痛快さ、姑息な反則技や場外乱闘でさえショーの一部として楽しめる。

例えば、陽気なキャラでテレビの人気者となった「白覆面の魔王」ザ・デストロイヤーも全盛期は実力派の悪役レスラーとして活躍し、必殺技の「足四の字固め」はほとんど芸術的と言っていいほどのすごさだった(デストロイヤーは、晩年、日米友好親善への貢献を評価されて日本政府から叙勲された)。

 

なお、「鉄の爪」エリックとジャイアント馬場の死闘はテレビで見たが、エリックはベルリン出身のドイツ人で元ナチスのように紹介されていた。しかし、ドイツ風の名前は悪役にするためのリングネームで、実際にはテキサス州出身のアメリカ人とのこと。



◎2024年8月25日『大聖堂 夜と朝と(上中下)』ケン・フォレット

☆☆☆☆☆『大聖堂』シリーズの序章

『大聖堂』、『大聖堂 果てしなき世界』、『火の柱』(レビュー済み)に続くキングズブリッジシリーズの第4部である。

これまでの3作は全て読んできたが、いずれも歴史と社会のディテールがしっかり描かれた力作であり、構成の壮大さと一気に読ませる推進力に著者のストーリーテラーとしての力量が遺憾無く発揮されている。

 

本作は第1部の『大聖堂』より200年遡る997年から1007年までの時期、ヴァイキングの襲撃やイングランドとウェールズの戦争の時代を舞台として、キングズブリッジ(架空の都市)の誕生を描いているが、期待に違わぬ出来ばえである。

配役は、平民ながら知識欲と高い技術能力を持つ船大工のエドガー、修道院を学問と倫理の拠点として花開かせたい修道士オルドレッド、そしてノルマン伯の娘としてイングランド貴族に嫁いできた知性と統治意欲に溢れるラグナを主人公として展開されるが、この3人は『大聖堂』の建築職人トム・ビルダー、フィリップ修道院長、そしてシャーリング伯の娘アリエナを彷彿とさせる役どころである。他方、敵役の領主一族と司教の強欲と乱暴さも他の作品と同じ構図で、読み継いできた読者には既視感がある。まさにシリーズ「序章」である。

 

歴史的には資料に乏しい中世の「暗黒時代」だが、当時の水上交通や商業活動、都市の誕生が生き生きと描かれている。

また、国王や領主の巡回裁判や、現在もイギリスで行われる不審死の死体審問の様子も描かれていて興味深い。

 

 

◎2024年8月22日『独裁者の学校 (岩波文庫)』エーリヒ・ケストナー

☆☆☆☆独裁者は取り替えられる

少年文学で知られるケストナーだが、ナチスドイツの政権掌握後もドイツに留まり続けたために作品をドイツ国内では発表できなくなった。

その間に書かれた作品が『一杯の珈琲から』と『終戦日記』(いずれもレビュー済み)であるが、ほろ苦い風刺と時代批判が効いている。

本書もその時期に構想されたもので、当初は独裁者をヒトラーになぞらえていたが、後により普遍的な権力批判の書となった。

したがって独裁者の演説や語り口は現代でもよく聞くフレーズになっていて、プーチンや習近平あるいはトランプを思い浮かべても何の違和感もない。

 

ただ、「独裁者の学校」という表題のゆえんは、独裁者がすでに死んでいて、その影武者が5号、6号、7号とプールされているところである。

結局、権力の中枢にいる官僚や軍人が政治を操っているわけだが、その彼らさえクーデター取り替えられる憂き目に遭う。支配する独裁者とそれに従う大衆という構図が変わらない限り、同じことが繰り返される。

出口のないペシミスティックな戯曲ではあるが、当時のラジオから現代はSNSAIを駆使する高度に進化した独裁政治への警鐘となっている。



◎2024年8月19日『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』麻田雅文

☆☆☆☆☆領土と人と物資の強奪、それが昔も今もロシアの戦争

2次世界大戦の末期にソ連が日ソ中立条約を破って対日参戦したことは歴史的知識として知られているが、それが戦争の冷酷な現実であり、かつ、ヤルタ秘密会談でアメリカの要請を受けた参戦であるという理解が一般であろう。

しかし、旧ソ連崩壊後閲覧可能になったロシア側の資料等を踏まえた本書では、日ソ戦の実相がルーズベルト、スターリン、トルーマンらの当時の思惑とともに生々しく示されている。

 

まず、ルーズベルトのスターリンに対する執拗な参戦要請である。特に、日本本土上陸戦を避けたいルーズベルトは、ソ連軍による日本の都市空爆や米軍への航空基地提供まで求めている。

これに対し、スターリンは独ソ戦の大勢が決した1944年末以降、軍隊を西部から東部に移動させ、物資も大量に移送する。さらに、アメリカに武器・弾薬や食料等の物資を要求し、それに応えてアメリカは大量の援助を北太平洋経由で行う。ソ連はもっとも有利な時期に参戦する機会をうかがっていた。

ところが、日本政府と大本営はソ連参戦直前までソ連の仲介による講話を期待し、近衛文麿を特使として天皇の親書まで託していたというから情勢判断の誤りも甚だしい(天皇親書はスターリンからアメリカに披露された!)。日露戦争後もシベリア出兵やノモンハン戦争でソ連と戦い、関東軍は対ソ戦を想定していたというのに、主観的な願望による情勢評価で敵にすがろうとしたわけである。

 

ソ連の参戦は終戦間際の194588日で、日本政府がポツダム宣言を受諾した815日以後も戦闘が続けられ、9月上旬まで終わらなかったというから驚く。

その間、日本政府は軍隊に戦闘停止を命じ、マッカーサーにソ連側に停戦させるよう陳情したが、ソ連軍は停戦を引き延ばし、千島列島から北方領土の歯舞諸島までを占拠した。トルーマンが制止しなければ北海道の占領まで狙っていたというから、ドイツや朝鮮半島のような分断国家となる危機であった。明らかにソ連は終戦時のどさくさ紛れに領土を強奪したわけだ。

それだけではない。ソ連は大量の日本人をシベリアに抑留して労働に従事させ、侵攻先の日本人の物資を略奪した。独ソ戦による労働力の消耗やソ連国内の物資の窮乏を補うためであるとしても、違法行為というほかない。もちろん、ソ連兵による日本人女性への性暴力を含む民間人の被害もよく知られているが、問題はこれをソ連が全く取り締まらず、スターリンも容認していたことだ(これらは当時においても戦争犯罪であり、東京裁判では元日本兵がBC級戦犯として裁かれた)。戦後の日本社会で根強い反ソ連・反共産主義意識が醸成されたのも頷ける。

 

現在のウクライナ戦争でも、ロシアは領土の強奪と多数のウクライナ国民のロシア連行を強行し、国際法違反と戦争犯罪の非難を受けている。

人権と民主主義の存在しない独裁国家の戦争は昔も今も同じということか。


 

◎2024年8月15日『前衛 2024年 09 月号』

☆☆☆「自由な時間」が未来社会論における自由の中心なのか?

志位和夫議長の『「自由な時間」と未来社会論』が目玉論文として掲載されている。

社会主義・共産主義に対するネガティブイメージを払拭するために、「社会主義には自由がない」という批判に答え、「未来社会論」として自由な時間の拡大を打ち出す意図があるようだ。

 

しかし、「社会主義には自由がない」という批判の中心は政治的自由、言論の自由、信教の自由などの精神的自由、とりわけ政権批判の自由がないことであろう。かつてのソ連・東欧、現在の中国や北朝鮮のような一党独裁で言論の自由がなく、政権批判をすれば弾圧されるような社会である。

これに対し、日本共産党は1976年の「自由と民主主義の宣言」以来、言論の自由や複数政党制の政権交代の保障などを党是として確立している。なのに、なぜ政治的自由ではなく「自由な時間」が未来社会論で強調されるのかがわからない。

 

確かに、長時間労働や過労死といった過酷な労働現場の問題に対しては「自由な時間」の強調は有意義であろう。しかし、大企業や官公庁は週休2日を実現しているし、社会全体に時短と有休の消化が推進されている。時短が進めば資本主義でも未来社会は実現されるのか?

 

また、論証の進め方についてもマルクスの草稿などの古典解読が中心であり、現代社会における労働時間と余暇の問題に現場から切り込んでいるように思えない。

 現代政治の一翼を担う政党や政治家である以上、生の社会と政治の現実を踏まえ、具体的な政策や立法につながる未来社会論を打ち出してほしい。 




◎2024年8月11日『古寺巡礼 (岩波文庫)』和辻哲郎

☆☆☆☆図版のカラー化と詳細な注釈を希望する

和辻哲郎の有名な『古寺巡礼』だが、これを書いたときの和辻はまだ20代後半であり、その恐るべき学識と才能、審美眼に感嘆する。

私が本書を読んだのは学生時代であり、その後、本書をハンドブックとして奈良の古寺と仏像を何度も巡ったものだ。

本書全体を通じて、和辻の若々しい感受性と勢いのある文体で書かれており、独断的でやや大げさな表現ではあるが、強い説得力で読む者を魅了する。

また、法隆寺金堂壁画について書かれた記述は、戦後に焼失する前の貴重な記録といえる。

 

ただ、名著ではあるがさすがに古くなった。古代史や美術史研究の進展を踏まえた詳細な注釈を加え、かつ、図版をカラーに差し替えて、現代の読者に提供してほしい。

 

なお、隈研吾『日本の建築』(レビュー済み)によると、法隆寺の「エンタシスの柱」が古代ギリシャに由来するというのは建築家伊東忠太の唱えた何の根拠もない珍説(!?)であり、和辻が本書で紹介して有名になったらしい。



◎2024年8月9日『四代目市川左團次 その軌跡』

☆☆☆☆☆名脇役の人柄に触れて歌舞伎に親しむ

 昨年4月に亡くなった市川左団次がその生涯と歌舞伎について語ったインタビューと、菊五郎や仁左衛門ら左団次と縁のある人々の追悼インタビューから構成されており、左団次の温かい人柄を通じて歌舞伎に親しめる本である。

 

左団次といえば歌舞伎の味わいのある脇役や堂々たる敵役のほか、多数のNHK大河ドラマで欠かせない名脇役を演じた役者であり、私も歌舞伎座や京都南座で何度もその舞台に接してきた。

どの役をやっても台詞がわかりやすいし、人柄が出た自然な演技に感心していたが、本書で左団次は「役者として一人前になるということは、・・・いちいち構えることなく、素の自分のままに演じられるということなんだ」と語っている。

付録の左団次追悼文は、「とにかく真面目ないい男」(菊五郎)、「みんなから愛された、素敵な変人」(仁左衛門)といったふうで、左団次の人柄をそれぞれ言いあらわしている。

ただ、子どもや弟子たちの見た左団次はもっぱら寡黙な父親であり師匠だったようであり、「見て学べ」というモットーで何かあると一言教える程度だったらしい。巡業に行ったときなどは観光もせずに部屋で「1日じゅう任侠映画を見ている」とか、行く先々に馴染みのパチンコ屋があるとか、昔気質の庶民的な人となりが語られている。

 

82歳で亡くなったのは実に惜しまれるが、菊五郎や仁左衛門といった名優たちにはまだまだ元気で活躍してほしい。



 

◎2024年8月7日『京都 ものがたりの道』彬子女王

☆☆☆☆☆京都の町をのんびりそぞろ歩く

京都産業大学日本文化研究所研究員として京都に居住していた彬子女王が、京都の由緒ある通りを紹介した新聞連載を基にした本であり、11話が短く完結していて読みやすい。各話の最初に通りの位置を示す地図があり、末尾には名所紹介のコラムまで付いている。

京都の町を気楽にそぞろ歩きするような感覚になる。

 

実は私は高校卒業まで京都に住んでいて、自転車で京都の町や周辺の山野を縦横に駆け巡っていたから、本書で描かれている通りはどれもおなじみである。ただ、当時の歴史知識の不足ゆえに知らずに通り過ぎていた名所旧跡も多く、改めて京都の町や通りを知る機会となった。

本書には八坂神社の白朮(おけら)参りや地蔵盆といった京都の人々の習俗も紹介してある。地蔵盆は夏の終わりに各町内にあるお地蔵様の周りで子どもたちと遊ぶ行事であり、私の住んでいた町内ではテントを張って甘酒を振る舞ったり福引きをやったりしていた。本書では最初に僧侶が読経を挙げると書いてあるが、その記憶はない。現在も続いているが、数年前に参加したら少子化の影響か子どもよりも町内会の大人の懇親会みたいになっていた。

 

昨今、京都はオーバーツーリズムで観光客が町にあふれているが、ヨーロッパの中世以来の都市、例えばイタリアのフィレンツェなどに比べると旧市街が全く保存されておらず、市中はどこも雑然とした近代都市である。「古都」といっても三方を囲む山裾や市中に点在する神社仏閣などからその風情を感じる程度だろう。これは応仁の乱や幕末戊辰の戦乱などでたびたび町が破壊されてきたことによる。

したがって、名所旧跡巡りだけでなく京都らしい風情を感じるためには著者のようにのんびりと歩いて通りをめぐり、点在する旧跡から古代や中世に思いを馳せるのがよい。

私的には、桜の季節に鴨川沿いの遊歩道を加茂大橋あたりから上流へと遡り、下鴨神社、植物園、上賀茂神社あたりまで散策するのが最高だと思う。

 

なお、さすがに皇族だけあって彬子女王の散策には必ず京都府警から警護の随行者がつくという。ずいぶん窮屈な話だと思うが、生まれてからずっと外に行くときは皇宮警察か地方警察の警護付きなので気にならないらしい。

『ローマの休日』のように王女様がお忍びで冒険というのは映画の中だけのようだ。


 

◎2024年8月2日『デジタル・デモクラシー』内田聖子

☆☆☆☆☆監視資本主義にどう対抗するか? 多くの政治家に読んでほしい

本書は岩波『世界』に10回にわたって連載された記事を修正・加筆したものである。

デジタル化やAI技術の進展の中で、様々な個人データが企業や官公庁に収集されているが、指紋認証や顔認証などの便利さの反面、これらが企業や公権力に悪用される危険性は十分自覚されていない。

本書でいう「監視資本主義」とは、ショシャナ・ズボフ氏の著作名に由来するが、「日常生活のあらゆる領域でデジタルと人間の関わりを事実上すべて仲介するグローバルな制度的秩序」と定義される。

 

本書はその問題点を、具体的な事件と現場から生々しく描き出す。例えば、顔認証技術によるデモの監視、ターゲティング広告の曖昧さと寡占化、子どもや情報弱者が監視広告の餌食となること、AIのアルゴリズムによる差別の拡大と固定化、データ提供を武器とした第三世界の農業の支配と小農民の排除、デジタル経済の基礎となる「ゴーストワーク」(第三世界へのオンライン・アウトソーシング 16000万人もの外注労働者が低賃金でデータ処理をしているという)等々・・・。まさしくデジタル社会のディストピアというしかない。これらの監視資本主義の支配者がGAFAなどのアメリカのハイテク大企業であることはいうまでもないが、第3世界で進行している事態は文字通り「デジタル植民地主義」というにふさわしい。

 

他方、本書ではこうした監視資本主義に対抗する動きも詳しく紹介している。

サンフランシスコ市が公共機関による顔認識技術の使用を禁止したのを始め、全米で23の自治体が顔認識技術の規制を行っている。

同様に、ターゲティング広告や子どもを対象とした広告への規制、都市インフラの効率化の名の下で進められる「スマートシティ」に対抗するバルセロナ市民の運動などのさまざまな規制や対抗が試みられている。

これに対し、ハイテク企業はEU議会に大量のロビイストを送り込むだけでなく、EU議会スタッフを自らの従業員に雇用する「回転ドア」を駆使して影響力を強め、規制を弱めようとしているという。

また、配送などの外注労働者が組合を作る動きに対しては、これらハイテク企業は古色蒼然とした組合敵視政策をとっているが、アメリカではアマゾンとグーグルの労働者が連携して抗議運動を行う動きも起きている。

昨今話題となっている生成AI「チャットGPT」についても、その問題点として、①著作権、②個人情報・プライバシー権、③有害情報(誤情報・偽情報・バイアス等)などが挙げられており、EUでは包括的な規制が実施されるという。

残念ながら日本ではこうしたデジタル化の進展に対する規制の動きはほとんどなく、問題意識すら共有されていないのではないか。与野党を問わず多くの政治家や官僚に、本書の問題意識を共有してほしい。

 

デジタル技術の進展により企業利益が拡大し行政が効率化される裏で、都市のコミュニティが破壊され、弱者が切り捨てられていく。これに対抗するにはデジタル技術を人間のために民主的に活用する市民の世論と運動こそが重要であることがよく理解できる。


 

◎2024年7月25日 映画『教育と愛国』斉加尚代(監督)

☆☆☆☆☆多くの人に見てほしい

知人の紹介で映画『教育と愛国』(斉藤尚代監督)を遅ればせながら見たが、素晴らしいドキュメンタリーである。

監督である斉藤尚代さんはMBS(大阪毎日放送)のディレクターであり、自らがネットバッシングの当事者となった経緯について取材した『何が記者を殺すのか』(集英社新書)の著者でもある。この映画も同名の著書(岩波書店)に基づいているようだ。

 

この映画が素晴らしい理由は、取材対象への大胆な切り込みと当事者のインタビューが優れているからである。まさに現場主義に徹している。

教科書問題については報道や書籍でよく知っているつもりだったが、このドキュメンタリーでは、慰安婦問題の記述で歴史教科書が集中攻撃されて倒産に追い込まれた日本書籍の担当者やその執筆者、ジェンダー問題の科研費研究に慰安婦問題を入れたことで杉田水脈議員らから攻撃された大学教授が登場しており、その攻撃のすさまじさと悪質さを生々しく感じる。

他方、この映画では、攻撃対象となった被害者やその関係者だけでなく、攻撃した側の政治家や学者らへも直接インタビューしており、それが映像化されている(インタビュアーは監督自身であろう)。

中でも極めつけは、育鵬社教科書の執筆者である東大名誉教授の伊藤隆氏(日本近現代史)で、反日教育に反対と繰り返しその政治的意図を強調し、安倍政権で憲法改正ができなかったのが残念とまでいう。「歴史から学ぶことなんてない」という放言には驚いた。

他方、あの森友学園の籠池氏にもインタビューしているが、こちらは日本会議の指示で「偏向教科書」採択に抗議するはがきを多数の学校に送ったが問題だったと、率直に認めている。

 

告発型ドキュメンタリーだけに見ていて気分がよいものではないし、教育への国家の介入(それこそ思想的偏向教育である)がこれほどまでかと背筋が寒くなるが、だからこそ是非多くの人に見てもらいたい。


 

◎2024年7月25日『古墳』松木武彦

☆☆☆☆☆古墳の多様性をビジュアルに感じられる

日本全国の200近くの古墳をカラー写真で搭載し、簡単な紹介文を加えた古墳図録のような本である。

Kindle版で買ったがプリントレプリカ形式であり、大画面タブレットで見るのがお勧めである。

 

それにしても本書に掲載された多数の古墳の個性とフォルムの美しさに圧倒される。

本書と併せて読んだ和田晴吾著『古墳と埴輪』(レビュー済み)によると、古墳は3世紀から6世紀にかけて日本全国でつくられ、その数はなんと15万基以上に及ぶという。同書に紹介された「天鳥船信仰」をあらわす絵や線描なども本書の写真で確認できる。

 

本書の著者は、古墳を大王を頂点とした地位表示とみる古墳研究の主流を見直すと繰り返し強調しているが、確かに前方後円墳や前方後方墳以外の多種多様な古墳は時代的にも形態的にも大王を中心とした秩序に組み込むことは困難そうである。

まずは本書の写真から古墳の多様性と個性を感じ、古代人の他界観、信仰、創意工夫に思いをめぐらすことであろう。


◎2024年7月25日『古墳と埴輪 (岩波新書)』和田晴吾

☆☆☆☆多種多様な古墳から古代人の他界観と葬送儀礼を推測

古墳は3世紀から6世紀、弥生時代から飛鳥時代までに日本全国でつくられた。

その数はなんと15万基以上、南は九州から北は岩手・山形まで及んでいるという。つまり、我々の身近なところにたくさんあるということだ。

 古墳の形態も、前方後円墳のほかに前方後方墳、円墳、方墳、横穴等々の多様さであるが、前方後円墳は古代国家成立後のもので4700基ほどである。

本書はこの膨大な古墳を時代に即して分類して分析し、古墳の背後にある古代人の他界観と葬送儀礼を論じ、さらには中国・朝鮮等の墳墓との比較からその影響も考察した労作である。新書版ながら、記述は詳細にわたり、ガイドブック的な利用方法も可能である。

ただ、古代国家成立後の巨大古墳については、宮内庁管轄の天皇陵であるため未発掘のものが多く、今後の発掘の促進が期待される。

 

古代人の他界観で注目されるのは、「天鳥船信仰」と著者が呼ぶもので、死者の魂が船に乗り鳥(渡り鳥という)に誘われて天上の他界に行き、そこで安寧に暮らすというものである。中国江南地区にも死者が船に乗り鳥に運ばれるというのがあるというが、その影響関係は確認されていないらしい。

ただし、この「天鳥船信仰」は前方後円墳の終焉とともになくなり、飛鳥時代の横穴式石室(石舞台古墳など)では地下が死者の行く他界と観念され、そこに絵画や彩色を施したものが登場する(高松塚古墳やキトラ古墳)。『古事記』のイザナギの黄泉の国訪問の物語はこの他界観を踏まえたものだと著者はいう。

 

なお、中国や朝鮮と異なり、古代日本には死者に殉じて死ぬ「殉葬」の風習はなく、『日本書紀』の殉死に代えて埴輪をつくらせたという記載は中国の伝承を改変した説話だとのこと。

さらにいえば、中国の故事にある「死者に鞭打つ」というような伝承もおそらく日本にはないであろう。

古代日本人の他界観、死者観として興味深い。


石舞台古墳の外観と石室内 2023年11月撮影

高松塚古墳 2023年11月撮影




◎2024年7月13日『2022年のモスクワで、反戦を訴える』マリーナ・オフシャンニコワ

☆☆☆☆☆《石流れ木の葉沈む》 ロシアで現実に起きていること

ウクライナ戦争が起きた直後の2022314日、ロシアの政府系テレビ局で「NO WAR」と書いた紙を掲げた女性がスタジオに乱入した画像が世界に流れたのは記憶に新しい。

本書はその勇気ある女性マリーナ・オフシャンニコワが、自らそのゲリラ的反戦行動までの経緯とその後の苦難を語った著作である。

 

オフシャンニコワはこの事件の後もしばらくはロシアに留まって、当局の監視を受けつつも情報発信などの活動を続けていたが、いよいよ刑務所に収監されそうになり、娘とともに脱出を図る。「国境なき記者団」やロシア国内の支援者に助けられたその脱出劇はまさにアクション映画のような迫力である(私はベルリンの壁博物館を見学したことがあるが、そこで展示されていた旧東ドイツからの命がけの脱出劇を想起した)。

 

それにしてもオフシャンニコワの失ったものは大きかった。プーチン政権に洗脳された母親や息子とは対立し、テレビ局で築いた地位も財産も失い、ロシア国内で裏切り者呼ばわりされたのはもちろんだが、ウクライナ国民からさえもロシアのスパイと疑われて非難された。ジャーナリズムを完全に統制し、フェイクニュースを自由自在に操る国家権力に対し、個人の孤立した抵抗は絶望的である。現在なら生成AIを使ったフェイク動画によってさらに洗練されたプロパガンダがねつ造されるだろう。

また、モスクワ市内は監視カメラによる顔認証がもっとも発達しているという。権力が監視カメラを悪用することの恐ろしさは映画「マイノリティ・リポート」に描かれたとおりである。

 

本書の解説者は「戦争の最初の犠牲者は、真実である」と書いているが、ここではジャーナリズムがその標的であったことがよくわかる。「プーチンが権力に就いて以来、37人のロシアのジャーナリストが殺害され、19人のジャーナリストが今なお獄中にあり、約200のメディアが外国のスパイと指定され、7つのメディアが〈好ましくない団体〉とされ、1万のサイトが閉鎖され」たという。

真実を報道しようとした良心的ジャーナリストが殺されるか刑務所に送られ、戦争犯罪者やその追従者が権力を握って堂々と歩き回る。まさに「石流れ木の葉沈む」不条理の世界である。

 

ただ、オフシャンニコワのような危険を顧みない抵抗者やその支援者がロシア国内にも存在すること、「国境なき記者団」のような国際組織がジャーナリストと報道の自由を擁護していることが未来への希望をつないでいる。

本書もそういう観点で広く読まれるべきである。



◎2024年7月9日『それぞれのカミングアウト』八重樫信之,村上絢子

☆☆☆☆☆カミングアウトしてこそ真の人間解放

ハンセン病患者の強制隔離が始まったのは戦前の1907年。1930年に旧癩予防法がハンセン病患者全員隔離政策を法制化し、それが戦後の新憲法の下で旧らい予防法として引き継がれた。

結局、旧らい予防法が廃止されて強制隔離政策が改められたのは1996年の遅きに失し、100年に及ぶ強制隔離政策の下でハンセン病患者差別と人権侵害は社会に根深く定着した。

その後、元患者たちが人権回復を求めて提訴した国賠訴訟で画期的な熊本判決が2001年に出され、小泉首相の控訴断念によりハンセン病問題解決の本格的な取組が始まったのは記憶に新しい。

近年では2019年に患者家族の人権侵害を認める判決も確定し、今なお差別偏見解消の取組が続いている。

本書はらい予防法廃止以降の一連の経緯の中で、ハンセン病元患者らに寄り沿い続けてきた著者らが、全国各地のハンセン病療養所内外の元患者らの実像を記録した貴重な写真集と論考である。

 

なによりも目を引くのは、約30名にも及ぶ元患者や退所者、非入所者らの生き生きとした画像とその人生を紹介した記事である。その中にはすでに亡くなった人も多く、患者運動や国賠訴訟で活躍した人々の姿が懐かしい。韓国ソロクト療養所訴訟や台湾楽生院訴訟の原告らも現地で撮影されている。

全員が実名とはいかないものの、本人だけでなく家族も含めて堂々とカミングアウトしているのが清々しく、誰もが実にいい表情で写真に写っている。

たんに強制隔離法制が廃止されただけでなく、一般社会に存在しないものとして扱われてきた元患者らがカミングアウトし、訴訟やマスコミで訴えることで、自らの人間解放を勝ち取っていった姿がここにある。

 

ただ、著者が結びで書いているように、家族訴訟の原告らの写真は極端に少ない。これは一般社会で長年差別を恐れて生活してきた家族らの実情を反映したものだろう。

報道と人権、個人情報保護のジレンマがここにもあるのだが、差別偏見からの人間解放にむけて被害者自らが堂々と立ちあらわれることを期待したい(本書の第7章「写真と人権」は、水俣病との比較も交えたこの問題に関する体験的考察であり、谺雄二氏のインタビューとともに必読である)。



◎2024年7月7日『ポケットマスターピース01 カフカ』フランツ・カフカ

☆☆☆☆☆カフカの現代性に瞠目する

カフカの『変身』(本書では「かわりみ」とルビが振られている)を読むのは学生時代以来だが、印象ががらりと変わった。

たんなるシュールな寓話のようなイメージだったが、多和田訳で読むと主人公のグレゴール・ザムザは両親と妹の家族を1人で養っていた過労営業マンであり、『変身』とは過労によるうつで出社拒否、引きこもり状態となった男の物語のように読めてしまう。

一家の大黒柱が過労うつで引きこもってしまったときに家族がどのような状態になるか、・・・その悲喜こもごもの人間模様が展開されて、最後は悲劇に終わるのは、まさに現代社会で繰り返されるドラマであり、身につまされる人も多いはずだ。

多和田さんは解説で『変身』は「介護の物語」と書いているが、この物語で恐ろしいところは、主人公が汚らわしい動物あるいは虫に変身してしまうことではなく、それに対する家族の変容であろう。


◎2024年7月5日『ダンテ その生涯』アレッサンドロ・バルベーロ

☆☆☆『神曲』を読んでから読むべき本

ダンテの生涯と人物像をこれまでの伝記的研究も踏まえ、推論も含め詳細に紹介した本である。

ダンテの一族を曾祖父の代まで遡って検討したり、フィレンツェ追放後の放浪の経緯を乏しい資料から推論したりとかなりトリビアにわたって紹介しているが、あの『神曲』の著者だからこそのトリビアであり、ダンテにさほど関心のない人には退屈極まる記述であろう。

したがって、本書を読む前にまず『神曲』を読み、その面白さとダンテその人に興味を持つべきである。

 

本書には随所に『神曲』の引用があるが、地獄編・煉獄編・天国編で登場する多数の人物がダンテの人生や政争に関わった人々である。例えば、男色の罪で地獄にいるブルネット・ラティーニはダンテの少年時代の学問上の先生であるが、著者はダンテもラティーニの犠牲者ではないかと推測している。

また、地獄編17歌ではパドヴァの高利貸レジナルド・デリ・スクロヴェーニが高利貸しの罪で地獄にいるのだが、その息子エンリコは父が『神曲』地獄編で描かれたことを苦にして、その償いとしてジョットのフレスコ画で有名なスクロヴェーニ礼拝堂を寄進した。ところが、本書によるとダンテの父を含めその一族もまた両替商や高利貸しをしていたというから驚く。

 

とはいえ、本書の中心はなんといってもダンテがフィレンツェの政争に破れ、追放されたいきさつである。

当時のイタリア諸都市は教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)に別れて対立し、フィレンツェは教皇派の中心都市だったが、教皇派内でも白派と黒派の対立があり、ダンテは白派だった。このあたりの政治構造は複雑でわかりにくいが、本書によるとダンテは当時フィレンツェを主導していた平民派のリーダーの一員であり、穏健派だったという。ところが、教皇ボニファティウス8世(『神曲』地獄編で巨悪として描かれる)の画策で豪族を中心とする黒派のクーデターにより追放され、欠席裁判により汚名を着せられると、ダンテは皇帝派と協力して黒派支配を打破しようとする反撃戦争に加わった。結局、反撃戦争が敗れるとヴェローナの僭主の下に身を寄せ、その後は諸都市の宮廷を転々として、最後は皇帝ハインリヒに期待するまでになる。

本書では平民派の変節として描かれているが、さすがのダンテも放浪生活のつらさが身にしみたのであろうか。

「詩聖」というイメージではない、煩悩に苦しむ等身大の人間ダンテが描かれている。

 

なお、『神曲』冒頭の「暗い森」に迷い込む第1歌は、まさに1300年のフィレンツェ政争の時期にあたり、そこでダンテを脅かす豹と獅子と雌狼は政治的苦境を象徴しているのだろう。

『神曲』の執筆はヴェローナの僭主に身を寄せた1306年以降の時期からであるため、過去の時点の語りとして予言的な発言となっている箇所が多数ある。


2023年3月 フィレンツェの大聖堂で撮影

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