2026年前半読書日記
【2026年前半】
◎2026年3月18日『それでも日本に原発は必要なのか?』青木美希
☆☆☆☆☆原発には「神話」が多すぎる。再エネこそ原発並みのバックアップが必要
東日本大震災・福島原発事故から15年、あの原発事故の甚大な被害の教訓から原発政策が転換されるかに見えたが、いまや再び原発優先に逆戻りの観がある。
高市首相は就任前の総裁選の記者会見で、「わたしたちの美しい国土を、外国製の太陽光パネルで埋め尽くすことには猛反対でございます」と述べて原発推進の立場を明確にしたそうだが、太陽光パネルをはじめとした再生可能エネルギーの技術は元は日本が先進国で国産メーカーも多数だったのが原発優先政策の下で諸外国に大きく後れを取ったのが真相であり、また、太陽光パネルの設置は国土の2%程度で電力量は十分供給できるのだ。
本書には、太陽光や風力、地熱あるいはかつては主役だった水力などの再生可能エネルギーを様々な技術革新で拡大する努力が描かれる一方、それらが原発に比べてはるかに貧困な国の援助で伸び悩んだり頓挫したりしている現状がつぶさに描かれている。
本書によると、日本のエネルギー研究開発予算の75%は原発関連で、再生可能エネルギーは3%にすぎないという。これに対し、デンマークなどのブレずに再生可能エネルギーを推進する国々も紹介されているが、対比すると国のバックアップの姿勢こそが再エネを拡大する決め手だとよくわかる。
太陽光パネルや風車などの再生可能エネルギーはそのコストや維持費が問題となるが、考えてみれば原発の設置、維持管理、核廃棄物の処理と保管、さらには事故対策や損害賠償にかかる天文学的な費用に比べれば、再生可能エネルギーのコストなどわずかなものだ。
この不合理な原発優先政策を支えるイデオロギーが、いわゆる「原発神話」である。
かつては「絶対安全神話」が強調されたが、福島原発事故でその神話は崩壊した。
本書によると、最近は実現不可能な「核融合技術神話」や「核燃料サイクル神話」がまことしやかに宣伝されているようだ。引用されている与謝野馨氏をはじめとする推進派議員たちの確信犯とも言える発言には驚くばかりである。
本書には、原発推進を支える政財官の勢力、さらには労組やマスコミも取り込んだ「原子力ムラ」と呼ばれる構造が生々しく描かれているが、これらは原発事故以前からよく知られている。
本書のあとがきには、著者自身が所属する出版社や新聞社から原発告発記事の掲載を拒否されたり、私的な調査と出版、講演活動まで妨害される恐るべき言論弾圧ぶりが描かれているが、それを跳ね返して告発し続ける著者の勇気に拍手を送りたい。
◎2026年3月16日『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』スティーヴン・グリーンブラット
☆☆☆☆☆古代唯物論の復興がルネサンスの人間賛歌をもたらした
古代ローマの詩人ルクレティウスの著作『事物の本性について』の埋もれていた写本の発見の物語である。
発見者のボッジョ・ブラッチョリーニは14世紀末から15世紀半ばの人文主義者で、教皇秘書だった。
ダンテの『神曲』が1300年前後、ボッティチェッリの『春』や『ヴィーナスの誕生』が15世紀後半だから、この両者の宇宙観、人間観の隔たりの間にブラッチョリーニの「発見」があるわけだ。
本書の多くの部分はブラッチョリーニの人物像と時代背景に充てられているが、ブラッチョリーニは聖職者ではないが人文主義者で「修練を積んだ優秀な筆写人」として教皇庁で出世し、教皇失脚後もその地位と人脈を利用して各地の修道院にある写本から古代の文献を発掘する「ブックハンター」として活躍した。
当時の教会や修道院の様子は映画『薔薇の名前』でグロテスクに描かれた修道院と修道僧そのままであり、写本の七つ道具まで映画のままである(この映画では、修道院の図書室でアリストテレスの『詩学』の失われた喜劇論を発見する場面が描かれている)。
ルクレティウスの上記著作は古代ギリシャの原子論的唯物論者として知られるデモクリトスの後継者エピクロスの思想を詩で表現したものだが、その著作は名のみ有名で、エピクロスとともに中世キリスト教世界では無神論の「快楽主義」として貶められていた。
本書の第8章では、ルクレティウスの著作が伝えるエピクロス主義のエッセンスが以下のとおり列挙されている。
・万物は目に見えない粒子でできている。
・宇宙には創造者も設計者もいない。
・万物は逸脱の結果として生まれる。逸脱は自由意志の源である。
・自然は絶えず実験をくりかえしている。
・宇宙は人間のために、あるいは人間を中心に創造されたのではない。
・霊魂は滅びる。われわれにとって死は何ものでもない。
・組織化された宗教はすべて迷信的な妄想である。
・人生の最高の目標は、喜びを高め、苦しみを減ずることである。
・喜びにとって最大の障害は苦しみではなく、妄想である。
・事物の本性を理解することは、深い驚きを生み出す。
エピクロスは、死を前にした最後の日々を「一生の間に経験したすべての喜びを思い起こすことによって、心の平安を達成することができた」という。とても印象的なエピソードで、私もそうなりたいと思う。
しかし、死後の救済と現世の禁欲を説く中世神学にとって、霊魂の不滅を否定し現世の喜びを説くエピクロス主義はまさに異端思想だったと言える。
これに対し、ボッティチェッリの異教的な傑作に見られるフィレンツェ・ルネサンスの人間賛歌は、中世神学が抑圧した現世の喜びを解放し謳歌するものだったのである。
本書にはルクレティウスの著作の影響が本書の著者の専門であるシェークスピアやトマス・モアに及び、とりわけモンテーニュの『エセー』には100近い引用箇所があることが指摘されている。「モンテーニュは自身の感覚の重要性と、物質界の証拠に執着した。また、禁欲的な自己処罰と肉体への暴力を激しく嫌い、内面の自由と満足を尊重した」という。
なお、本書の原題は“The Swerve: How the World Became Modern”(逸脱:世界はいかにして近代化したか)である。「逸脱」は上記のエピクロスの思想のキーワードだ。
もとよりルクレティウスの著作だけがルネサンスと近代を準備したのではなく、イスラム世界を介してアラビア語訳からラテン語への重訳によって西欧に逆輸入された古代ギリシャの文献やカロリング・ルネサンスなどの中世の準備期間、さらにはブルクハルトが『イタリア・ルネサンスの文化』(*レビュー済み)で描いた都市国家と商業の発展など、様々な歴史的背景があるわけだが、直接的かつ象徴的な衝撃としてルクレティウスの著作が位置づけられるという趣旨だろう。
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| ボッティチェッリ『春』より(2019年8月撮影) |
◎2026年3月10日『本を読めなくなった人たち』稲田豊史
☆☆☆AI化の進展が人間知能を退化させる?
著者の『映画を早送りで観る人たち』は読んだが、レビューに書いたとおり「今どきの若者は・・・」風のぼやきにしか感じなかった。情報収集のために早送りで見るのと鑑賞のためにゆっくり味わって見るのとでは次元が違うし、後者のニーズは昔と変わらずに存在するからである。
本書では映画ではなく「本」がテーマとなっているが、こちらは著者自身がライターであるために切実な問題であり、「怒りを込めて」書いたと述べている。また、大学生を中心とした多数のグループインタビューを踏まえており、若者の生の声も豊富に引用されている。
確かに、本を読まない、長文を読めない、本と出会えない、本屋に行かないという本書に指摘された例は、マスコミや出版業界に関わる人々にとって深刻な問題である。最近の本で言えば、『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』(飯田一史 *レビュー済み)には本書にも言及されている日本の書店の窮状が詳しく描かれている。
しかし、『映画を早送りして観る人たち』と同じで、情報収集と鑑賞といった目的の違いは本についてもあるだろう。本の場合は、小説や詩などの文学鑑賞だけでなく、収集した情報をより深く知るための熟読のニーズも当然ある。そうした目的の読書が減るとは思えない。
本書の冒頭には、「16歳以上の日本人の6割以上は、1ヵ月に1冊も活字の本を読まない」というショッキングなデータが引用されているが、すぐその後に「その傾向はもはや60年は続いて」いるとも書かれている。著者は、「昨今では読み手側の長文読解能力が劇的に落ちている」と書いているが、それでは60年前から同じ傾向であることの説明になっていない。
昔から、漫画を読んだりテレビを観たりして本を読まないという嘆きは多くあったが、それが現代ではSNSやYouTubeになったということではないのか。
「本が好きな私が好き」という東浩紀の議論を引用した穿った分析も疑問だ。このような表現をすれば「・・・が好きな私が好き」と何についても言えてしまう。「私が好き」なのは当然のことだから、本好きを揶揄する以外になんらかの意味が不可されるとは思えない。
ただ、より深刻だと感じる問題は、文章を作成する側がChatGPTなどの生成AIで文章を作成してしまえることだ。大学生のレポートだけでなく、本書には「AIで記事を作る」といった話も出てくる。言語能力の中でも作文は人間の知的能力を総合的に動員する活動であって、これを安易にAIに依存するようになればもはや人間の知的能力の退化は止まらなくなってしまう。AIはインプットされた過去の文字情報を一定のアルゴリズムで表出するだけで、新しい思想や概念を創作することはできない。
著者や出版業界の人々が問題とすべきなのは、読者の側ではなく安易に生成AIに頼る文書作成者側なのではないか。学生が生成AIでレポートを作成するのはカンニングと同じだし、記事や著作をAIで作成するのは盗作や剽窃として禁止されるべきだ。
著者の「紙の本」偏重ぶりも気になるところだ。
「紙の手触りが好きだから」といった学生の声や紙の本を出版することの権威やステータスが引用されるが、「読書」とは本来は書かれた内容、コンテンツを読むことだ。
ちなみに、私は10年以上前から読書は電子書籍が主体であり、毎年20万円~30万円は買う本のほとんどが電子本である。老眼で小さな字が見にくいとか、持ち歩きに便利とか、家の本棚の場所を取るといった理由で電子本を読む読者は今後増えると思われる。
読書はかつてのラテン語を読むような貴族や学者層だけの行為になると著者はいうが、あまりに悲観的で一般読者をバカにしているのではないか。
◎2026年3月9日『リオの男』(映画)
☆☆☆☆☆リオの喧噪と人口都市ブラジリアの対比が興味深い
1964年の映画だが、他のレビューにもあるとおり、あの「インディー・ジョーンズ」のような古代の宝探しでジャン・ポール・ベルモンドが活躍する。
ベルモンドはジョーンズ博士のような考古学者ではなく休暇中の航空見習兵で、誘拐された恋人を大追跡してパリからリオデジャネイロまでというハチャメチャなストーリーなのだが、テンポがとてもよくてコメディとして楽しめた。
リオの水上生活者たちのコミュニティと酒場の喧噪、乱痴気騒ぎ、それと対照的な人口都市ブラジリアの沈黙の町並みとビル群の映像が興味深い。
リオの靴磨きの少年がつかず離れずの活躍で、かわいらしい子役が映画を引き立てている。
◎2026年3月7日『東南アジアを学ぶ人のために』中西嘉宏・野中葉
(編集)
☆☆☆☆概括的なガイドブックだが、ややインドネシアに偏る
地理的にも歴史的にも経済的にも日本と密接な関わりがあるにもかかわらず、あまり学ぶ機会のない東南アジアについて、概括的に紹介したガイドブックである。「Ⅰ歴史と自然、Ⅱ社会と文化、Ⅲ経済と政治、Ⅳ日本とともに」の4つのジャンルで合計13項目の多岐にわたるテーマがごく簡潔に論じられ、さらに8項目のコラムも加えて、21人の専門家が書いている。
したがって、各項目の内容はほんのさわり程度だが、それを補う専門書の紹介がなされているのが親切である。ただ、担当者の専門と関心からか、叙述がインドネシアに偏っている。
歴史の点では、やはり19世紀以降の近現代史に関心が向くが、スパイスで繁栄した前近代の「港町国家」の時代に、ヨーロッパだけでなく江戸時代の日本も貿易ネットワークにつながっていたという指摘がなされている。
社会と文化では諸宗教との関わりが注目されるが、イスラームや仏教を公式宗教としている国も信教の自由は保障されているとのこと。なお、東南アジアの仏教は「上座部仏教」と分類される(「小乗仏教」という呼称は大乗仏教側からの蔑称である)。
最大勢力のイスラームについては女性差別が気になるところだが、本書によるとインドネシアでは「イスラーム・フェミニズム」によりコーランを女性の視点から再解釈しようとする運動もあるが、それに逆行する保守化のイスラーム主義も根強いようだ。本書には、イスラームのセミナーで女性に家庭内でのビジネス起業を勧める例が「保守化を超える」として紹介されているが、これでは性別役割分担に変わりがない。
政治の点では、かつての開発独裁から現在はポピュリズムの問題が大きい。フィリピンの「処刑人」ドゥテルテ、インドネシアの「庶民派」ジョコの2人の元大統領が、国民の支持の高さで強引な政治を行い民主主義を後退させた危険人物として挙げられている。
日本との関わりでは、ビジネスはもちろんだが、「安全保障協力の新展開」を論じたコラム7が注目される。中国の南シナ海進出を受けて、フィリピン、ベトナムなどの沿岸諸国との軍事協力を日本は進めているが、ASEANは冷戦終結後ベトナムなどの体制の異なる国も加盟する包括的な国際協力組織となっており、米中対立には中立的なスタンスである。
最後の項目で日本国内の東南アジアコミュニティが紹介されているが、2024末現在、在留外国人は377万人のうち東南アジア出身者は142万人で、ベトナム人63万人、フィリピン人34万人、インドネシア人20万人とのこと。その多くは「技能実習生」として来日しコンビニなどのサービス業に従事しているが、近年では「高度専門職」や「技術・人文知識・国際業務」の定着性の高い資格の東南アジア出身者も50万人はいるという。定着者が増えれば日本国内のコミュニティが形成され、イスラームのモスクや上座部仏教の寺院などもつくられる。こうした動きを「顔の見えない定住化」の進展として放置するのではなく、社会の中に受け入れていく姿勢が重要だという指摘が注目される。
◎2026年3月5日『怪物を捕らえる者は』ネレ・ノイハウス
☆☆☆☆☆ドイツ刑事司法の危機と移民問題を絡めて
このシリーズはすべて読んでいるが、錯綜する事件の絡みを解きほぐしていく展開と、最後まで犯人がわからずにスリリングに物語を紡いでいく著者の手腕に感心させられる。
シリーズ全体を通じてドイツの刑事手続や司法解剖のディテールが丁寧に描かれているのも興味深い。
本作では、法に従った裁きに満足できない犯罪被害者が犯人に私的報復をする「必殺仕置人」パターンの犯罪が描かれるが、これが組織的継続的に行われ、かつ警察組織内部にも協力者がいるという設定が注目される。捜査チームや警察上層部に裏切り者がいれば、極秘情報を内部のネットワークを通じて入手し、捜査陣の先回りをして被疑者に迫れる。しかも、今回は主人公オリヴァー個人と捜査チームの重大な危機につながる深刻な事態である。
日本でも重大な交通事故や少年事件、さらには責任能力が争われる事件で犯罪被害者の司法への不満が表明されることがあるが、司法制度は社会正義と人権をともに実現する社会インフラであって、被害者の復讐とは次元を異にする。本作の登場人物の中でも復讐心で法を超えて(自らも犯罪者になって)しまう人々だけではなく、法を超える手前で思いとどまる人々も描かれているのが著者のバランス感覚と問題提起であろう。
本書ではドイツや北欧ミステリーの最近の通例として、社会問題となっている移民問題も大きなモチーフとして用いられている。ここでもアフガン難民やモロッコからの移民など多彩な移民が登場し、事件の被疑者あるいは被害者となっている。SNSによる差別偏見の拡散はドイツでも深刻なようだ。
周知のとおり、ドイツではメルケル政権時代に人道的観点からシリア難民への門戸開放政策をとり、それ以前からの移民受け入れと重なって社会問題が大きくなった。2024年現在で移民の背景を持つ人口は2520万人でドイツ人口の30%にのぼるというから、日本とはケタ違いの移民受け入れを行っていることは認識する必要があろう。
◎2026年3月1日『暗黒の瞬間』エリーザ・ホーフェン
☆☆☆☆法律家の陥穽と弁護人の「やりすぎ」を描く
著者は法学研究者にして憲法裁判所裁判官であり、本書は著者のデビュー作という。
9つの短編はいずれも事件の概要、弁護士の活動、法廷と判決というパターンになっているが、共通点は法と一般意識のギャップ、法律家の過信、さらには弁護人が依頼者の嘘をどう見抜くかというテーマであろう。
ドイツと日本の刑事法の違いも興味深い。
例えば、第3の事件はウガンダでの非人道的殺人行為がドイツで裁かれる話だが、日本では外国で起きた殺人事件で日本人以外の犯人が裁かれることはない。
また、第7の事件では死につながる最後の行為が死者自身のものである限り自殺に手を貸す行為は犯罪にならないというが、日本では同意殺人だけでなく自殺関与行為も犯罪となる。
もっとも衝撃的な問題作は第7の事件で、10人の被告人のうち9人が強姦の犯行に関与したのが明らかでも1人が関与していない場合に、その1人を特定できなければ「疑わしきは被告人の利益に」の原則により10人全員が無罪になる(ただし、小説ではさらに一捻り加えられていて、これを逆手にとった被害者が10人全員に犯行を超える重罪をかぶせる逆襲に出るのだが)。
しかし、これはいささか教科書的設例であり、不自然に感じる。無関係な1人を捜査で特定できないとか、残りの9人全員が矛盾なく同じ供述をするとかは現実にはありえないからだ。
なお、主人公の夫が言うように、やはり弁護人の「やりすぎ」は気になるところだ。
弁護士が依頼者の利益を擁護し法に則った裁きを求めるのは当然だが、犯罪隠蔽に加担するとか、被告人を無罪にするために虚偽の情報をマスコミに流すとかは、いくらドイツでもありえないだろう。
また、被告人に無罪を請け負うというのも、弁護人としてはやってはならないことだ。
プロローグと最後で、主人公が弁護士資格を返上しようとするのはこうした「やりすぎ」に対するケジメを意味している。
◎2026年2月28日『女相続人』(映画)
☆☆☆☆☆資産のある女性の恋愛は難しい
ヘンリー・ジェイムズの原作に基づく映画だけあって、上流階級の人間関係の襞が見事に描かれている。
主人公の女性は内気で自己主張が弱く、医師で資産家の父親から見れば結婚を申し込んだ男は娘の相続財産目当てにしか見えない。父親は亡妻と比べつつ、「おまえには取り柄はない」と告げて主人公の心を深く傷つける。
これに対し、娘は父親の反対を押し切って男と駆け落ちすることで初めて自己主張をするのだが、男に手ひどく裏切られてしまう。
父と恋人から裏切られて深く傷つけられた主人公の落胆から怒りへの豹変を演じるオリヴィア・デ・ハヴィランドがすばらしい。
それにしても、上流階級で資産家の女性の恋愛は難しいものだ。
近づいてくる男性の愛情が本物なのか資産狙いなのか、また、親の鑑識眼が確かでも、恋に夢中になっている娘をどう説得するか・・・。
資産家ゆえの悩みというべきだろうが。
◎2026年2月24日『赤く染まる木々』パーシヴァル・エヴェレット
☆☆☆☆人種憎悪犯罪(ヘイトクライム)のパロディ?
ミシシッピ州のディープサウス、かつて黒人差別とリンチ殺人が横行した町で、今度は父親の世代がリンチ殺人に関わった白人たちが残虐なリンチ殺人の被害者になる。しかも、死体の横には黒人の死体があり、それが消えてはまた別のリンチ殺人で登場する。
事態を重視した州警察(MBI)とFBIが捜査に乗り出し、物語はミステリー仕立てで推移する。
ところが、事態は思わぬ拡大を始め、ミステリーがホラーの様相に・・・。
ただし、残虐な連続殺人の割には文体はコメディタッチで、まるでゾンビかキョンシーの映画を見ている感がある。
この小説が書かれたのは2019年で、第1次トランプ政権の後半とのこと。
トランプとおぼしき大統領が事件に対して演説する。「・・・われわれが心配しなければならないのは黒人と、明らかに中国人とインディアンだと。問題は、彼らが本来のアメリカ人のような白人ではないことです。アメリカをふたたび偉大な国にしようではありませんか。・・・」
つまり、この小説はトランプ政権を生み出したアメリカに対するパロディであり、かつ、BLM運動と同様の人種差別への警鐘なのである。
延々数頁にもわたる犠牲者の名前やリンチの起きた地名の単純列挙は、犠牲者を追悼するとともに読者にかつてのヘイトクライムを思い起こさせる。
◎2026年2月22日『翻刻 世界 創刊号: 昭和二十一年一月号』
☆☆☆時局に迎合した文化人たちの無残・無恥を記録
『世界』創刊80年を記念して創刊号を翻刻したものだが、電子版はプリントレプリカ版でなく通常の電子書籍なので読みやすい。
しかし、「我国有史以来未曽有の屈辱的降服」、「我が国民は今こそ現実に立って真理を仰ぎ、新たな発足をせねばならなくなった」という発刊の辞にもかかわらず、論考を寄せた当代一流の文化人たちの無反省、傍観者的高言、能天気とさえいえる楽天さはどうだろうか。
昨年復刻されたフランス文学者渡辺一夫氏の『敗戦日記』(*レビュー済み)には、戦時下に特高警察の目を逃れてフランス語で痛切な自省を伴う時局批判が書き連ねられていたが、本書に登場する時局に(不本意ながらも?)迎合していた文化人たちの論考は無残・無恥というほかない。
例えば、編集長の安倍能成(哲学者)は、もっぱら国民道徳の低下を嘆き利己主義を戒めるだけだし、美濃部達吉と和辻哲郎は、それぞれ法学と哲学・倫理学の観点から天皇制を擁護する古色蒼然とした論調。武者小路実篤に至っては、「戦争に負けてかえってよかった。相手が米国で運がよかった」などと白樺派的楽天主義を発揮する(当時の国民の率直な気分を反映したものかもしれないが)。さらに、谷川徹三(哲学者)は、アメリカの美術研究者の陳情で京都と奈良の空爆が免れたことに感銘を受けたとしつつ、なんとアメリカが日本の古美術品を賠償として持ち去るのではないかと懸念して賠償品の選別を促す「当面の一問題」と題する寄稿をしている。実際、梅原龍三郎は正倉院御物などを賠償物資に入れるよう近衛文麿に提言していたというから驚く。
論考中で見るべきものがあるとすれば、湯川秀樹と羽仁説子の真摯な反省を踏まえた未来へ向けた提言だろうか。
湯川氏は知識人の責務に触れてこう述べている。
「思えば過去十余年に亘る所謂非常時を通じて、知識階級は次第に加重される現実生活の苦難及びこれと並行する思想的拘束を具さに体験し、今まで健全な良識乃至教養と信じて身につけて来た所のものが如何に無力であるかを痛切に感じたのである。その結果人は屢々良識と教養とを棄て、狂信的状態に身を置くことによって安心立命の境地を見出さんとした。・・・そこで欠けていたのは真の勇気と実行力とであった。」
ここには渡辺一夫氏の敗戦日記に通じるものがある。
なお、本書には日米開戦後まもなくアメリカで公刊された『敵国日本』(ヒュー・バイアス著)が紹介され、一部抄訳が掲載されている。28年も日本に滞在したジャーナリストが「日本の国力と弱点」を冷静に分析したもので、日本国内にも検閲を逃れて一部流布したらしい。読んだ人たちは戦争の見通しを十分わかっていたはずだ。
◎2026年2月21日『歴史は“強者ファースト”か?』板垣竜太ほか編
☆☆☆☆☆「歴史否定論」-見たいものしか見ない人たちをどう説得するか
日本軍「慰安婦」問題専門サイトFight for Justice(FFJ)が企画した連続講座に基づくブックレットである。著者のうち、この分野の第一人者である吉見義明氏以外は中堅・若手の歴史研究者であろうか。
まず注目されるのは、「歴史否定論」という言葉である。欧米では「歴史修正主義」と「歴史否定論」を区別するという。ナチスによるユダヤ人虐殺やガス室はなかったとする議論は「歴史否定論」であり、他方、第2次世界大戦やベトナム戦争は正義の戦争という歴史観に対する帝国主義的侵略や殺戮といった批判は「歴史修正主義」とされる。都市空爆や原爆投下に対する批判は後者に属する。前者は事実に反するデマであり、後者はより正確な歴史認識や人道的観点からの修正ということだろう。日本の「慰安婦」問題に関する様々な否定的言説や南京大虐殺否定論などは、もちろん前者に属する。
本書では慰安婦問題などの歴史否定論に対して根拠を挙げて反論するのではなく、歴史否定論がヘイトにつながること、歴史否定論の登場する歴史的文脈に焦点を当てて論じている。
実際、本書に紹介されている京都のウトロ地区(在日コリアンらの居住地区)の放火事件やフジ住宅のヘイト文書配布による損害賠償事件など、歴史否定論者によるヘイトは看過できない被害を引き起こしている。これらは戦後のアジア侵略・植民地主義の加害の歴史への批判に対して1990年代以降に起きた「バックラッシュ」なのだという。
近時の「日本人ファースト」というスローガンに見られるように、見たいものしか見ない、見たくないものは否定する自己中心的史観、いわば「強者の歴史観」である。
その大きな問題として本書が指摘するのは、歴史上の事実を考証して積み上げていく歴史学に対して、さして根拠のない極少数の意見を対立させる「偽の等価性」、学術的な検証と推論の手続をスキップした著作を出して「論破」する方法、さらにはメディアが見向きもしないこうした言説をインターネット空間で大量に展開する方法などで歴史学の通説が覆されていくことである。
これらに対する対抗言論として、本書には慰安婦問題を扱った討論形式の映画『主戦場』の監督インタビューが掲載されているが、この映画に対し出演者の歴史否定論者(ケント・ギルバート)から起こされた上映禁止・損害賠償訴訟に勝訴したことも、言論を抑圧するスラップ訴訟とのたたかいとして重要である。
ただ、本書のようなブックレットも「見たいものしか見ない」人たちは読もうとしないだろうし、読んでも響かないのだろう。「ドイツには家族や身近な人が右翼になった場合、相談にのってくれるNPOがある」そうだが、マインドコントロールをどうやって解くのかという問題に近いのかもしれない。
◎2026年2月19日『今は何時ですか?』丸谷才一
☆☆☆☆劇中劇ならぬ「小説中小説」の試み
故丸谷才一氏の短編集未収録作品集である。
冒頭の「今は何時ですか」は中編くらいの長さで、主人公の作家が失踪した編集者・恋人への手向けに自分たちの関係をモディファイした小説を書くのだが、後半はその小説がそのまま掲載される「小説中小説」となっている。前半部分の作家と恋人の物語が後半部分の小説にどのように小説的変化が加えられているのかが見どころ。
日本古典や海外文学の碩学でもある丸谷氏らしく、阿国歌舞伎の発祥の逸話やプルーストのプチットマドレーヌの有名な導入部分の示唆がある。
ただし、前半では失踪した恋人がどうなったのか、あるいは後半では主人公の弟の不慮の死の解明など、ミステリーめいた展開が未解明のままに終わるのが気になるところ。
遺作となった『茶色い戦争ありました』は、冒頭作品とは逆に前半部分が二人称で書かれた小説中小説となっており、後半は編集を依頼された友人の一人称の独白となっている。終戦の日の出来事を扱った点で、終戦後の弛緩しきった兵士たちを描いた『おしゃべりな幽霊』とテーマが共通する。
「墨色の月」は、この作家には異色のヤクザと暴力が言及される作品である。
◎2026年2月17日『戦争の美術史』宮下規久朗
☆☆☆☆☆英雄の顕彰から犠牲者の追悼へ 画像はタブレットで見るのがお勧め
著者の『カラヴァッジョへの旅』、『カラヴァッジョ《聖マタイの召命》』、『バロック美術』(*後2者はレビュー済み)を読んで感動し、ローマ、ナポリ、マルタへとカラヴァッジョ作品の巡礼の旅までしたが、本書は古今東西の「戦争の美術史」であり、コンパクトな新書版ながら膨大な作品が網羅されている。ただし、添付された画像はカラーとはいえ大作の戦争画が縮小されているため、タブレットで電子版の画像を拡大することをお勧めする。
「はじめに」で著者は、戦争美術の性格を①記録、②戦勝記念、③反戦・平和の訴え、④追悼、⑤芸術性の追求の5つに分類するが、「どれほど戦争の真実に迫っているか、そしていかに訴える力をもっているかによって作品の価値は決まる」という。
第Ⅰ章の「古代からルネサンスまで」は、やはり②の国家の戦勝記念、英雄の顕彰という性格が強い。依頼者が王侯貴族だから当然である。
戦争の惨禍が描かれ、反戦・平和の訴えが登場するのは17世紀、ルーベンスとカロからだと著者はいう。ルーベンスは神話的な寓意で、カロは後のゴヤの版画のような凄惨な殺戮を描いた。教会美術の受難と殉教のモチーフが戦争の惨禍の画像に転用されたという指摘は興味深い。
本書の大部分を占めるのは近代以降、特に20世紀の第1次世界大戦以降の戦争美術である。これは戦争の規模が巨大になり、死者の数も民間への被害の惨禍も飛躍的に増大したことが背景にある。
このうち、数点紹介されているロシアのヴァシリー・ヴェレシチャーギンの鬼気迫る反戦画が目を引く。『戦争礼賛』(1871年)では、ピラミッド状に積み上げられた頭蓋骨に、カラスが群がる情景が描かれているが、画家はこの絵の額縁に「過去、現在、未来のすべての偉大な征服者に捧げる」と刻んだという。ヴェレシチャーギンは日露戦争に従軍し、旅順港で爆沈した軍艦と運命をともにしたが、幸徳秋水の平民新聞や中里介山が追悼文を寄せたという。
オルセー美術館にあるアンリ・ルソーの『戦争』も紹介されており、ルソーらしい寓意的な反戦画であることがわかる。
ただ、本書の白眉は日本のアジア・太平洋戦争期の戦争美術である。著者は「この悲惨な戦争を経験した8年間こそ、日本の戦争美術の黄金時代となった」と書いており、国家が大量動員して戦争画を作成させた画家たちについて、実名を挙げて論じている。中でも「戦争画家の中心人物」とされた藤田嗣治には多数の頁があてられているが、藤田はパリ時代の「猫と女の画家」のイメージとは全く異なる重厚なタッチの西洋画で戦争画を描いている。著者は、藤田が戦争画にのめり込み、「戦争の記録や大義よりも人間の極限状況や殺戮という主題に熱中」するようになったと書いており、戦況悪化以降は『アッツ島玉砕』などを肉弾戦として描き、大きな影響を与えたとする。しかし、玉砕の場面を藤田は当然見ておらず、実際の近代戦では藤田が描いたような肉弾戦はほとんどなかった。そこに藤田の限界があったと著者はいう。
「象徴的な造形言語を用いたピカソの《ゲルニカ》が普遍的な反戦の象徴になったことに比べると、藤田の戦争画は時代遅れの古風なもの、遅れて来た歴史画であったと言わざるをえない。」
ただし、著者は昭和の戦争画は、「決して浅薄なプロパガンダや空疎なイデオロギー装置と言って軽視できるものではなく、日本中の人々に深い感動と精神的な糧を与える至高の芸術として輝いていた」というが、多くの画家たちが敗戦後に口をつぐみ、あるいは作品に修正を施したのはやはり自らの戦争責任を恥じるところがあったからだろう。人々に感動を与える芸術であればあるほど政治的プロパガンダとイデオロギー動員の効果も高いからだ。
21世紀の戦争は肉弾戦どころか、ドローンの遠隔操作などでますます非人間化が進み、戦場の兵士のドラマがなくなる一方、都市空爆や原爆にみられるように民間人や子どもの被害が悲惨なものとなる。
かつての戦勝と英雄の人間ドラマを顕彰した戦争美術は、戦争の被害の追悼と惨禍を記憶するものにならざるを得ないのではないか。
◎2026年2月10日『江戸の刑事司法』和仁かや
☆☆☆☆「御白洲」の裁きを量刑を中心に見直す。手続は職権主義だが
著者は近世法制史研究者だそうだが、「はじめに」と「あとがき」で書かれているように、近時の司法制度改革で裁判員裁判が導入された際に、江戸時代の刑罰がマイナスイメージで引用されたことへの不満が本書の背景にある。
確かに、テレビの時代劇を見ていると、過酷な拷問や磔・獄門の残虐な刑罰が頻繁に登場する。司法改革で引用されたのもあの一般的なイメージだろう。
しかし、本書によると、拷問は制度はあったがあまり用いられておらず(許可が必要だったとのこと)、死罪になるような重罪事件は老中の裁可が求められたという。老中は事件の審理を評定所(寺社奉行、町奉行及び勘定奉行の三奉行と目付・大目付で構成)に付し、その意見を聞いて裁可する。本書に紹介されているような、凶悪事件ともいえない市井の窃盗や密通事件まで老中に裁可が求められて裁判記録に残っていることにまず驚く。しかも、本書の第1例目の「甚吉一件」は幕府領の大津の代官が江戸の老中に伺いを立てた事件である。
このように、時代劇では大岡越前や遠山の金さんが鶴の一声で御白洲の裁きを下しているようでも、実際はかなり慎重に審理していたことがわかる。その典拠となる法源は8代将軍吉宗の時代につくられた成文法である「公事方御定書」と判例集である「御仕置例類集」である。これらは公開されていないが、幕府内で利用され、与力の家系などの法解釈のスペシャリストがいたらしい。
本書では寛政の改革を行った老中松平定信と火付盗賊改のあの「鬼平」こと長谷川平蔵が再三登場するが、松平定信は太平の世にふさわしい過酷でない公正な刑罰を主導し、長谷川平蔵は松平定信の意を受けて犯罪予備軍だった無宿人を社会復帰させる人足寄場の設置管理を行った行政官として評価されている。
ただし、本書で紹介されている事例はいずれも刑罰の適用と量刑の分野であり、刑事手続に関するものはない。唯一、上記の拷問の利用が限定されていたことがコラムで紹介されているくらいだが、捜査と裁判はあくまでも職権的で糾問的な手続であり、行政(捜査官)から独立した「司法」は存在しない。否認した被疑者・被告人がどのように弁明し、弁護できたかは全く不明である。
しかし、近代刑事司法の核心はまさに被疑者・被告人の手続保障と司法(裁判官)の独立にある。「御白洲の裁き」ではやはり困るのである。
◎2026年2月6日『中高年シングル女性』和田靜香
☆☆☆☆☆就職氷河期と非正規雇用が女性の尊厳を奪う
先般、『ルポ 過労シニア』(若月澪子著 *レビュー済み)を読んだついでに本書も読むことにした。
『世界』に連載されたルポをまとめたものであり、著者自身の体験も踏まえ中高年シングルの現状を多角的に取材している。辛口のレビューも散見されるが、本書は体系的な学術論文ではなく雑誌連載の問題告発型ルポである。著者自身が30人に及ぶ取材対象者に疑問を次々とぶつけ、さらに調べて問題点を掘り下げていくスタイルで一貫していて、臨場感がありよくできている。読む者の共感能力や感受性が問われているのだ。
2020年の国勢調査では45歳以上のひとり暮らしの女性は632万人にのぼり、今後増加していくという。
取材対象となった女性たちの多くは底辺の非正規労働で低賃金にあえいでいるが、印象的なのはバブル崩壊後の1990年代の就職氷河期世代の体験者が多いことだ。思うように就職ができず、あるいはブラック企業に就職したが退職し、非正規の低賃金にあえぐ。安定していると思われる公務員さえ有期雇用の「会計年度任用職員」にされ、官製ワーキングプアが大量に生まれる。そして、正規職員に転換されずに雇い止めの憂き目に遭うわけだ。
もちろん、男性労働者も同じように非正規化と貧困化が進んだのは上記の『ルポ 過労シニア』に描かれたとおりだが、女性の場合は陰湿な男女差別がそれに加わる。著者が「透明にされた女性たち」と繰り返し批判するように、男性中心の社会と労働現場の中で女性差別が暗黙のうちにやり過ごされているのだ。
著者はこうした中高年シングルの底辺に置かれた状況を告発するだけでなく、その尊厳を回復する道を模索していく。
住宅問題に対してはコーポラティブハウスやシェアハウスの試み、貧困と生活苦に対してはつながって支援し共生をめざす人々、さらには地方議会の議員に立候補して中高年女性の地位改善をめざす人たち等々。まさに当事者が不当な現状に抗議し、権利主張して社会を変えていくことの重要性を感じさせる。
◎2026年2月4日『過去と思索(七)』ゲルツェン
☆☆☆☆革命の挫折への幻滅と放浪の日々
最終巻の前半、第7部はゲルツェンのロンドンでの「自由ロシア印刷所」を基点とする活動が前巻を受けて綴られており、後半の第8部は「断章」としてそれまで発表された随想が掲載されている。
前巻ではゲルツェンと若いロシアの活動家の思想的乖離が描かれていたが、巻末のゲルツェンの伝記によると、出自においても精神においても「貴族」であったゲルツェンは、1860年代の非貴族出身のインテリゲンチャからは時代遅れとみなされていたようだ。
革命運動の挫折に対し、ゲルツェンは、ニコライ皇帝の弾圧によってイエズス会士に転向したペチェーリンとの往復書簡で、「現代の生活の憂鬱──それは黄昏の憂鬱、過渡期の予感の憂鬱です」と書いているが、ロシアの革命運動への希望も記している。
「新しいロシアにおける革命運動について語るにあたり、わたしは、ピョートル一世以後のロシアの歴史は貴族と政府の歴史であると、すでに申しました。貴族階級には革命の酵素がありました。」
「次第に新しい何かが成長して行きました。それはゴーゴリによって歪められ、汎スラヴ主義者たちによって誇張されてはいますが、この新しい要素は民衆の力への信念という要素であり、愛に貫かれた要素です。・・・われわれはロシアの民衆に挨拶を送り、未来の世界が彼らのものであることを言い当てただけで十分です。」
このようにゲルツェンはロシアの民衆に希望を寄せるのだが、それはブルジョア革命を経た西欧の民衆のプチブル性への批判と裏腹となっている。
後半の断章は、そうしたゲルツェンの19世紀後半の西欧大衆社会への批判がシニカルに綴られている。
いくつか引用する。
「フランス人ほどに食事のこと、香辛料のこと、味覚のことを、あれこれうるさく言い立てる国民はいない。しかし、これはみな口先だけのレトリックに過ぎない。」
「情熱やファンタジー、宗教やヒロイズムなどはみな、物質的な豊かさに席を譲ってしまった。だが、その実、そんな豊かさなど一向に実現されていない。」(パリ万博への批判)
「ドイツにおける学者的革命蜂起が一八四八年に何故かくも速やかに破綻してしまったか・・・その蜂起は教授を指導者とし、言語学者を将軍として戴いていたのだ。」
「彼ら〔イタリア人〕は独立は勝ち取ったが、フランス流の統一は彼らの気に入らなかった。ましてや、彼らは共和国を望んではいないのだ。現代の物事の秩序〔王政〕は多くの点でイタリア人の分に相応しい。」
ゲルツェンはスイスやイタリア、パリを転々と放浪しつつ、こうした幻滅をぼやきのように綴り続けるのだが、ここには勃興するブルジョアジーと大衆社会を受け入れられない貴族的知識人の悲哀が感じられる。
なお、フランス第二帝政に関する第62章で、亡命中のヴィクトル・ユーゴーは「墜ちたパリに平伏させられた」老詩人と揶揄される一方、抵抗したフェリシテ・ド・ラムネーは預言者ダニエルに比して称えられている。ちなみに、このラムネーは坂口安吾の随筆「ラムネ氏のこと」に登場するあの「ラムネ氏」である。
◎2026年1月28日『ルポ 過労シニア』若月澪子
☆☆☆高齢者が搾取される現代社会
テレビでヨーロッパの街歩き番組を見ていると、現役を引退した高齢者たちが街角や公園でゲームをしたり談笑したりしているが、日本ではあまり見かけない。
一昔前は碁会所やゲートボールクラブような高齢者の集う場所もあったはずだが、今はどうなのだろうか。
本書によると、「今や日本は60~64歳の8割、65~69歳の6割、さらに70歳以上の半数以上が働く時代となった」とのことであり、著者が潜入取材した現場も含め多数のシニアワーカーが紹介されている。
確かに、少子高齢化で若年労働力の減少を高齢者(と外国人労働者)が補わざるをえない社会となり、それが今後もますます強まることが予想される。ならば、高齢労働者をもっと優遇して働きやすい環境を整備すべきなのに、本書に紹介されたシニアワーカーの現状は、単純・肉体労働が中心で、賃金は最低賃金水準がほとんどだという。まさに「やりがい搾取」というべきである。
ただ、本書に紹介されている事例の中には、全国に146万人はいるという「引きこもり」の子のために高齢になっても働かざるをえない例などの悲惨なケースもあるものの、大企業や公務員を退職して年金もそこそこあるのに浪費やギャンブル、あるいは生きがいのために働き続けるような必ずしも同情できないケースもある。生活水準を下げないとか教育ローンに多額の出費をしたようなケースは自己責任あるいは人生選択の自由というしかない。しかし、本書には取り上げられていない生活保護受給者やホームレスなどの貧困高齢者も多数いるはずだ。
また、問題提起型ルポなのだろうが、問題解決の方向が指し示されていないのも気になる。シニア労働力を活用するのなら最低賃金水準やシルバー人材程度の労働条件でよいのか、教育費や住宅費などの負担が大きすぎること、高齢者が孤立してしまうコミュニティのあり方などなど、議論すべきことは多いはずだ。
◎2026年1月27日『アフリカから来たランナーたち』泉秀一
☆☆☆☆☆ケニア人ランナーの生育環境と人となりをもっと知る
私もマラソンと駅伝のファンであり、ケニア人ランナーといえば何人も名前が浮かぶ。
駅伝とマラソンで名を馳せたワキウリやワンジル、ワイナイナ、驚異のマラソン世界記録を出したキプチョゲ等々、すべてケニア人だ。マラソンだけでなく、中距離でもケニア人ランナーが世界の陸上界を圧倒している。
本書はこうしたケニア人ランナーの育成の実情と日本との深い関わりについて、3度にわたる現地調査を踏まえて書かれている。
内戦と貧困にあえぐアフリカ諸国の例に漏れずケニアも国民全体は低所得であり、その中で一流ランナーとなれば欧米のスポンサーがつき、レースで莫大な賞金も得られる。そこで、ケニアの素質のあるランナーたちには3つのルートをめざす。すなわち、①世界の主要大会で入賞して賞金を稼ぐこと、②アメリカの大学チームに所属すること、そして③日本に駅伝ランナーとして留学することである。このうち、実は③の日本ルートが長期間安定して収入を得られる道なのだという。なぜなら、日本発祥で人気の高い「駅伝」の存在で、高校、大学、実業団とステップアップしていけるし、トップクラスの成績でなくても一定の実力があれば採用されるからだ。
本書では、こうしたケニア人ランナーを紹介した日本人として、タンザニアの名選手イカンガーの日本への紹介以来の草分けである小林俊一(「ケニア人ランナーを売る男」)と現地で紅茶ビジネスを営む傍らボランティアベースで教育活動に取り組んだ丸川正人が紹介されているが、それぞれ異なるアプローチで日本とケニアのパイプを開拓した経緯が興味深い。
駅伝については、大学では山梨学院大学、高校では仙台育英と世羅のケニア人ランナー採用のいきさつが記載されているが、それぞれ異なる事情で批判を受けつつ成果を上げている。特に、世羅高校は日の丸・君が代問題で校長が自殺した事件後に、学校と地域再生の取り組みの一環として駅伝の名門復活の切り札としたらしい。
こうした様々な日本側の事情でケニア人ランナーを招いたにもかかわらず、近年では日本人が勝てないとしてその活用に規制が強められている。著者も書いているように、勝利至上主義という点では国内の有力選手を他府県から集めるのと同じなのに、ここにもある外国人排除である。
外国人労働力とも同じ問題だが、受け入れた外国人を日本人と同じ人間として理解し、尊重すべきだ。その点では、本書はケニア人ランナーの素顔をより深く知る一助となる。
◎2026年1月23日『戸籍の日本史』遠藤正敬
☆☆☆☆☆「戸籍がなくても生きていける」
本書の終章のタイトルであり、ここに著者の主張が凝縮されている。
本書全体は、戸籍制度についてその歴史を法制史と政治史の観点で詳細に説明したものであり、とても説得的である。
実際、実務的には戸籍が必要なのは遺産相続で相続人を確定するときくらいだろう。
それ以外は、選挙権をはじめとする国民としての権利行使や社会福祉行政の様々な享受は住民登録制度によって管理されている。事実婚の夫婦も住民票は同じで、「未届の夫婦」と記載される。
相続人の確定作業は戸籍を遡って行う必要があるが、これとても住民票を遡って探索できるように住民登録制度を整備すれば、戸籍がなくても可能である。
では、戸籍は一体何のためにあるのか?
著者の答えはシンプルで、戸籍の本質は「日本人であることの証明」なのだという。
本書では古代国家の「庚午年籍」から説き起こすが、これは公地公民の実施と徴税管理のためで、公地公民が廃れると戸籍自体が無用のものとなった。
これを復活させたのが明治国家の「壬申戸籍」(古代のようなネーミングだが、1871年の干支にちなんだもの)で、江戸時代までは「日本人」の概念がなかったところに、天皇を頂点とする国民国家の意識を植え付けるためのものだった。明治維新の外圧に対して近代的な国民国家をつくる必要からの、いわば「国民の創出」である。そして、そのイデオロギーとして利用されたのが武家をモデルとした「家制度」であった。
戦前の家制度と戸主の権力についてはよく知られているが、本書にはその詳細が述べられていて、改めてその家父長的で男尊女卑の前近代的特質がよくわかる。
そのうち、夫婦同姓の強制については、むしろ夫婦別姓が武家社会の伝統で(北条政子、日野富子など)、明治国家にも引き継がれたが、1898年の明治民法により夫婦同姓の強制が打ち出された。立法者自身も「古と大に異なる所」と認めつつ、「一家一氏一籍」の原則を確立したのだとする。その残響が、現代の夫婦別姓反対論者のいう「家族の一体感」なのだろう。
しかし、戸籍に登録されていても、本籍地は住所地と一致しないし(皇居に本籍を置く人は3000人以上いるらしい)、同じ戸籍だからといって同居しているわけではない。まさに「紙の上の家族」である。
本書には、戦前の日本の領土拡大に伴う、アイヌ、沖縄、台湾、朝鮮、満州の人々の日本戸籍についても紹介してある。朝鮮半島統治時代の「創氏改名」はそれ以前に沖縄や台湾でも行われていたことや、「一視同仁」といいつつも日本戸籍でも差別があったことがよくわかる。
特に、敗戦後の在日外国人の扱いは戸籍の面からも非道というほかない。日本戸籍がありながら参政権や公務就任権は否定され、サンフランシスコ条約後の日本国籍の消滅が戦争被害者援護法制から除外する根拠にされた。これは一片の「民事局長通達」によるものだが、これを「我が国で確立された統一解釈」と述べた当時の法務官僚平賀健太は、後に札幌地裁所長時代に、自衛隊違憲が争われた長沼ナイキ訴訟の担当裁判長に裁判干渉の書簡を送った「平賀書簡」事件を引き起こしたことで有名である。
◎2026年1月20日『過去と思索(六)』ゲルツェン
☆☆☆☆マルクス、オーウェン、ガリバルディ、バブーフ、バクーニン・・・ロンドンに集まった革命家たち
前巻に引き続きロンドンでの著者の出版を中心とした活動について語られる。
1848年2月革命の挫折後の反動期に、大陸ヨーロッパからロンドンに亡命または流れ着いた革命家たちとの交流が興味深い。
カール・マルクスはこの時期、ロンドンで『資本論』やフランス三部作の執筆をしつつ、国際的な社会主義運動にも関わっていたと思われるが、ゲルツェンのマルクス評は、直接交流したことがないにもかかわらず、「マルクス一派」、「無頼の徒」と手厳しい。これはバクーニンに対するマルクスの批判が原因のようだが、訳者の注によるとかなり誤解があったようだ。また、本書の随所に見られる著者のドイツ人に対する偏見(「重苦しくて、退屈な、争い好きな性質」「生まれつき田舎者」等々)が影響しているのだろうが、これはロシアのインテリをかつて圧倒したヘーゲル哲学へのコンプレックスと言えなくもない。
その反面、同国人のバクーニンに対して著者は暖かい見方を示す。バクーニンは長い拘禁とシベリア流刑の後に、なんと函館を経由してアメリカに逃亡し、1861年にロンドンに流れ着いた。著者はバクーニンについて、「昔と同じように軽率で、非現実的で、事が革命の嵐の只中にある、破壊と苛酷な状況の只中にある、というただそれだけの理由で、その事に向かって突き進んで行く」と呆れるのだが、その行動力と愛すべき性格に惹かれていたようだ。「バクーニンはロシアにおける農民の武装蜂起の可能性を信じていた。われわれも幾分かは信じていた。・・・どうやら、政府までもが信じていたらしい。」と著者は書いているが、アナキストにして扇動家であるバクーニンの当時の影響力の大きさを感じる。
他方、マルクスが「空想的社会主義者」と呼んだロバート・オーウェンについては、「この人こそが人類に対して〈無罪〉を、犯罪者に対して〈無罪〉を大胆に宣告した陪審員」と、その博愛主義に敬意を示している。そして、彼の社会主義の村「ニューラナーク」の実験を高く評価するのである。
著者と交流があったガリバルディのロンドンでの歓迎ぶりにもかなりのページが割かれているが、当時のガリバルディの大衆的人気のすごさと、影響力の大きさがよくわかる。ガリバルディに接する民衆の態度は、まるでイエスを慕う信徒たちのようだ。ガリバルディは、自分が司令官ではなく「辱められた我が家を守るために武器を執っただけの人間に過ぎない」と語ったとされ、著者は、「彼は十字軍を起こすことを説き、その先頭に立つ用意をしている使徒的なる戦士である」と評している。
その他、ニヒリストで陰謀家のバブーフや著者よりも若い世代のロシア亡命者のことも触れられているが、特に、後者は著者とは思想的に乖離し、著者を革命の資金源としか見ていなかったようだ。
「彼らにまともな影響を及ぼすということなどは、考えるべくもなかった。病的できわめて無礼な自尊心は、ずっと以前に歯止めを失っていた。」
「ここで話題となっている傲慢な若者たちのことは研究するに値する。というのは、彼らもまたきわめてはっきりとした形をとって現われ、きわめてしばしば繰り返されてきた時代のタイプであり、これまでの停滞が発展へ転ずる所で生まれた病の、過渡的形態だったからだ。/彼らの大部分には教育によってもたらされる折り目の正しさや、学問的修練によって養われる自制心というものがなかった。」
著者の言う「傲慢な若者たち」は、後にドストエフスキーが『悪霊』で描いた若者たちを想起させる。
◎2026年1月11日『西部戦線異状なし』(映画)
☆☆☆☆☆前線の生死をかける過酷さ、戦争の非人間性をリアルに映像化
第一次大戦後の1930年制作の映画(レマルクの原作は1928年)だが、今見ても全く色あせない。モノクロだが鮮やかな映像で、戦場のシーン、特に広大な戦場で多数のキャストを使った白兵戦が生々しい。
国家のために尽くせと学生を戦場に駆り立てる教師、前線のことを知らずに「パリまで進撃」と威勢よく語る老人たちと、前線の兵士たちとのギャップがくっきりと際立たせられている。
「なんのために戦争をしているのか?」という兵士たちの会話、負傷して野戦病院で足を切断される兵士、塹壕で倒した敵兵をなんとか救命しようとする主人公・・・、こうした前線の数々のシーンから戦争の無意味さ、むごさと非人間性が伝わってくる。
現代ではディスプレイ上の操作やドローンを使った戦争に変化しつつあるが、戦場の現実の被害や過酷さが変わるわけがない。そのことを改めて認識させる映画である。
◎2026年1月6日『怪物』(映画)
☆☆子どもの世界の独自性を描きたかったのだろうが・・・
子どもが学校で教師に暴力を振るわれたと抗議に行くシングルマザーの母親、いじめがあったと思って対処していた若い教師、穏便に済ませたい校長ら学校当局・・・。それぞれの思惑や思い込みとは異なるところに子どもの世界があったというストーリーで、BL的な少年たちの友情はよく描かれている。
しかし、母親や教師や学校の三者三様の真摯な行動を嘲笑うかのような脚本には全く共感できなかった。実際には教師の暴力やいじめの調査はもっと丁寧になされていて、この映画のような適当で杜撰なものではない。
冒頭の火災の真相や最後の豪雨の土砂崩れの帰結もあいまいで、フラストレーションが残る。
◎2026年1月4日『ジュラシック・ワールド/復活の大地』(映画)
☆☆☆☆いつものパターンだが今回はキメラ怪獣
これも国際線の機内で見たが、人間の欲望が恐竜をつくり出した挙げ句に、その恐竜から傲慢さを罰せられる、自然vs人間のいつものパターンである。
今回は、老化防止薬の開発のために海陸空の3匹の恐竜の血液サンプルを採取するという製薬企業の欲望が、ストーリーの縦糸となる。
他方、血液ハンターとして雇われた傭兵のプロで巨額の報酬を得てリタイアを狙う主人公らと、小型船を海竜に転覆させられ主人公らに救助されて冒険に巻き込まれた一家のドラマが横糸となる。
従来の恐竜と違う点は、遺伝子操作によるキメラ怪獣が最後に登場することだが、そのグロテスクさには笑えた。
それにしても、島に残された施設の電源がいまだに入るのが不思議だ。頭のいい恐竜が維持管理しているのか?
◎2026年1月3日『統一後のドイツ』シュテッフェン・マウ
☆☆☆☆政党政治の空白につけ込むポピュリズムにどう対抗するか
右翼ポピュリズム政党「ドイツのための選択肢」(以下AfD)が昨年2月のドイツ連邦議会選挙でついに第二党になったが、その影響力は旧東ドイツ地域が顕著である。
著者の問題意識はこれを民主主義の危機と捉えて、ドイツ統一以後の東ドイツ社会を社会構造、人口動態、政治・文化の面で考察していく。
著者によると、「家計の豊かさ、就業率、キリスト教会とのつながり、協会の密度、移民の背景を持つ人々の割合、研究および開発への支出、経済の輸出志向、諸機関に対する信頼、特許出願、大企業の本社、生産性、相続税収入、テニスコートの数、若年層の割合、モスクの密度、男性の平均寿命、農業事業の平均規模、党員数、購買力、不動産価値、低賃金部門の規模」の東西の社会的差異は解消しておらず、人口動態的には東は一貫して減少している。特に若い女性人口の西への流出が大きく、これら男性化した地域でAfDが強く支持されている(「不安定化された、反動的な男性性の政党」)。
政治面では、旧東ドイツは「市民を監督し管理する支配体制」であったため、市民に政治参加の可能性を与えることはなかった。しかも、統一の過程で西ドイツが破産管財人的な役割を担ったことから、東ドイツ国民には変革への参加の機会が与えられなかった。
権威主義的国家と政党(SED)の崩壊により、その傘下の組織や団体も消滅し、民意を媒介すべき中間団体も政党もない。その空白地帯に右翼ポピュリズムが入り込んだわけである。
こうして徐々に民主主義が「後戻り」していき、「静かに死んでいく」と著者はいう。憲法裁判所の無力化、選挙法の改正、メディア・公共放送への介入、さらには芸術や文化の検閲、学問の自由の制限、「リベラルな価値観」を象徴するものへの攻撃はその帰結である。これはドイツだけでなくトランプのアメリカや現代日本も他人事ではない。
これに対し、著者は市民が直接参加する形式の「市民会議」を提案するのだが、これは政党や中間団体が民意を吸収し媒介できない現状を踏まえたものである。
ただ、陪審のような事実認定の限られた局面を超えてどこまで市民参加が活用できるかは、その実現に向けた大きな課題であろう。
| ベルリンの東西検問所跡と壁博物館(2010年4月撮影) |
◎2026年1月1日『ファミリー・ツリー』(映画)
☆☆☆☆☆ハワイの風景の美しさに感動
ジョージ・クルーニーが、突然の事故で瀕死の妻と2人の娘たちの間で右往左往する冴えない主人公を演じる。
彼は不動産を扱う弁護士だが、彼自身が王族の祖先から引き継いだ広大な土地の売却問題で親族たちと協議を続けている。映画の表題“Descendants”(子孫たち)は、ハワイの美しい自然の保存もテーマにしているのだろう。
ストーリーは妻の看取りをめぐって進み、妻が延命医療の拒否を供述書にしていたことで、主人公は妻の親族や知人と連絡をとっていくが、その過程で愛する妻の不倫疑惑を知ることになり、思わぬ方向に物語が展開していく。
ホームコメディ的な展開が面白いが、何よりもハワイの雄大で美しい映像を満喫できる。
島の違う娘や親族を訪れるのは全て飛行機だ。
◎2026年1月1日『いまを生きる』(映画)
☆☆☆☆☆教科書を破るシーンが印象的
全寮制の男子進学校に赴任してきた英詩教師(ロビン・ウィリアムズ)と生徒たちの物語。
生徒たちは若者らしく学校の厳しい監視を逃れて遊ぶのだが、そんな彼らに対し、主人公の教師は自分の人生を生きるとはどういうことかという問いを真正面からぶつける。
最初の授業で英詩のテキストの序文、高名な学者の書いた詩の客観的基準論を、こんなものはダメだと断じて生徒たちに全て破り取らせる場面が強烈だ。
彼は自分自身で感じ取って考えることの重要性を教え、それに感動した生徒たちは「死せる詩人の会」(映画の原題)を密かに結成する。しかし、それは親と教師に従順に従い受験に邁進させる学校の教育方針とは反していた。やがてある生徒と親の教育方針の対立から悲劇が起きるのだが・・・。
私自身も含め誰もが経験したであろう青春時代の葛藤と自我の目覚めを、生徒たちの目線で描いた素晴らしいドラマである。
由緒ありそうな学校風景と学校を取り巻く美しい自然の情景描写もいい。
◎2026年1月1日『やさしい本泥棒』(映画)
☆☆☆☆☆戦時下の市民生活と少女の抵抗を抒情的に描く
国際線の機内で見たが、素晴らしい作品である。
ナチス政権下のドイツ地方都市の市民生活を、少女の目から描いているが、少女は母親が共産主義者?で里子に出されている。里親は父親がアコーディオン弾きの看板屋で心優しく、母親は怖い「雷母さん」だが、そこに父親が恩を受けたユダヤ人の息子が逃げ込んできて匿うことに・・・という設定で物語が進む。
戦時下でも人間性を失わない家族と芯の強い少女の抵抗、そして少女を慕う少年との交流が抒情的に描かれていく。
「本泥棒」という奇妙な題は、ナチス政権下の焚書に対する少女の行動に因んだものだが、読書の大切さを印象深く訴えている。
主人公の少女(ソフィー・ネリッセ)の清楚だが芯の強い美しさには、目を見張るものがある。
四季折々の自然をとらえた映像もとても美しい。

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