2026年前半読書日記

 

【2026年前半】




 

◎2026年2月4日『過去と思索(七)』ゲルツェン

☆☆☆☆革命の挫折への幻滅と放浪の日々

最終巻の前半、第7部はゲルツェンのロンドンでの「自由ロシア印刷所」を基点とする活動が前巻を受けて綴られており、後半の第8部は「断章」としてそれまで発表された随想が掲載されている。

 

前巻ではゲルツェンと若いロシアの活動家の思想的乖離が描かれていたが、巻末のゲルツェンの伝記によると、出自においても精神においても「貴族」であったゲルツェンは、1860年代の非貴族出身のインテリゲンチャからは時代遅れとみなされていたようだ。

革命運動の挫折に対し、ゲルツェンは、ニコライ皇帝の弾圧によってイエズス会士に転向したペチェーリンとの往復書簡で、「現代の生活の憂鬱──それは黄昏の憂鬱、過渡期の予感の憂鬱です」と書いているが、ロシアの革命運動への希望も記している。

「新しいロシアにおける革命運動について語るにあたり、わたしは、ピョートル一世以後のロシアの歴史は貴族と政府の歴史であると、すでに申しました。貴族階級には革命の酵素がありました。」

「次第に新しい何かが成長して行きました。それはゴーゴリによって歪められ、汎スラヴ主義者たちによって誇張されてはいますが、この新しい要素は民衆の力への信念という要素であり、愛に貫かれた要素です。・・・われわれはロシアの民衆に挨拶を送り、未来の世界が彼らのものであることを言い当てただけで十分です。」

このようにゲルツェンはロシアの民衆に希望を寄せるのだが、それはブルジョア革命を経た西欧の民衆のプチブル性への批判と裏腹となっている。

 

後半の断章は、そうしたゲルツェンの19世紀後半の西欧大衆社会への批判がシニカルに綴られている。

いくつか引用する。

「フランス人ほどに食事のこと、香辛料のこと、味覚のことを、あれこれうるさく言い立てる国民はいない。しかし、これはみな口先だけのレトリックに過ぎない。」

「情熱やファンタジー、宗教やヒロイズムなどはみな、物質的な豊かさに席を譲ってしまった。だが、その実、そんな豊かさなど一向に実現されていない。」(パリ万博への批判)

「ドイツにおける学者的革命蜂起が一八四八年に何故かくも速やかに破綻してしまったか・・・その蜂起は教授を指導者とし、言語学者を将軍として戴いていたのだ。」

「彼ら〔イタリア人〕は独立は勝ち取ったが、フランス流の統一は彼らの気に入らなかった。ましてや、彼らは共和国を望んではいないのだ。現代の物事の秩序〔王政〕は多くの点でイタリア人の分に相応しい。」

ゲルツェンはスイスやイタリア、パリを転々と放浪しつつ、こうした幻滅をぼやきのように綴り続けるのだが、ここには勃興するブルジョアジーと大衆社会を受け入れられない貴族的知識人の悲哀が感じられる。

 

なお、フランス第二帝政に関する第62章で、亡命中のヴィクトル・ユーゴーは「墜ちたパリに平伏させられた」老詩人と揶揄される一方、抵抗したフェリシテ・ド・ラムネーは預言者ダニエルに比して称えられている。ちなみに、このラムネーは坂口安吾の随筆「ラムネ氏のこと」に登場するあの「ラムネ氏」である。



 

◎2026年1月28日『ルポ 過労シニア』若月澪子

☆☆☆高齢者が搾取される現代社会

 テレビでヨーロッパの街歩き番組を見ていると、現役を引退した高齢者たちが街角や公園でゲームをしたり談笑したりしているが、日本ではあまり見かけない。

 一昔前は碁会所やゲートボールクラブような高齢者の集う場所もあったはずだが、今はどうなのだろうか。

 本書によると、「今や日本は6064歳の8割、6569歳の6割、さらに70歳以上の半数以上が働く時代となった」とのことであり、著者が潜入取材した現場も含め多数のシニアワーカーが紹介されている。

 確かに、少子高齢化で若年労働力の減少を高齢者(と外国人労働者)が補わざるをえない社会となり、それ今後もますます強まることが予想される。ならば、高齢労働者をもっと優遇して働きやすい環境を整備すべきなのに、本書に紹介されたシニアワーカーの現状は、単純・肉体労働が中心で、賃金は最低賃金水準がほとんどだという。まさに「やりがい搾取」というべきである。

 

 ただ、本書に紹介されている事例の中には、全国に146万人はいるという「引きこもり」の子のために高齢になっても働かざるをえない例などの悲惨なケースもあるものの、大企業や公務員を退職して年金もそこそこあるのに浪費やギャンブル、あるいは生きがいのために働き続けるような必ずしも同情できないケースもある。生活水準を下げないとか教育ローンに多額の出費をしたようなケースは自己責任あるいは人生選択の自由というしかない。しかし、本書には取り上げられていない生活保護受給者やホームレスなどの貧困高齢者も多数いるはずだ。

 また、問題提起型ルポなのだろうが、問題解決の方向が指し示されていないのも気になる。シニア労働力を活用するのなら最低賃金水準やシルバー人材程度の労働条件でよいのか、教育費や住宅費などの負担が大きすぎること、高齢者が孤立してしまうコミュニティのあり方などなど、議論すべきことは多いはずだ。



 

◎2026年1月27日『アフリカから来たランナーたち』泉秀一

☆☆☆☆☆ケニア人ランナーの生育環境と人となりをもっと知る

私もマラソンと駅伝のファンであり、ケニア人ランナーといえば何人も名前が浮かぶ。

駅伝とマラソンで名を馳せたワキウリやワンジル、ワイナイナ、驚異のマラソン世界記録を出したキプチョゲ等々、すべてケニア人だ。マラソンだけでなく、中距離でもケニア人ランナーが世界の陸上界を圧倒している。

 

本書はこうしたケニア人ランナーの育成の実情と日本との深い関わりについて、3度にわたる現地調査を踏まえて書かれている。

内戦と貧困にあえぐアフリカ諸国の例に漏れずケニアも国民全体は低所得であり、その中で一流ランナーとなれば欧米のスポンサーがつき、レースで莫大な賞金も得られる。そこで、ケニアの素質のあるランナーたちには3つのルートをめざす。すなわち、①世界の主要大会で入賞して賞金を稼ぐこと、②アメリカの大学チームに所属すること、そして③日本に駅伝ランナーとして留学することである。このうち、実は③の日本ルートが長期間安定して収入を得られる道なのだという。なぜなら、日本発祥で人気の高い「駅伝」の存在で、高校、大学、実業団とステップアップしていけるし、トップクラスの成績でなくても一定の実力があれば採用されるからだ。

本書では、こうしたケニア人ランナーを紹介した日本人として、タンザニアの名選手イカンガーの日本への紹介以来の草分けである小林俊一(「ケニア人ランナーを売る男」)と現地で紅茶ビジネスを営む傍らボランティアベースで教育活動に取り組んだ丸川正人が紹介されているが、それぞれ異なるアプローチで日本とケニアのパイプを開拓した経緯が興味深い。

 

駅伝については、大学では山梨学院大学、高校では仙台育英と世羅のケニア人ランナー採用のいきさつが記載されているが、それぞれ異なる事情で批判を受けつつ成果を上げている。特に、世羅高校は日の丸・君が代問題で校長が自殺した事件後に、学校と地域再生の取り組みの一環として駅伝の名門復活の切り札としたらしい。

こうした様々な日本側の事情でケニア人ランナーを招いたにもかかわらず、近年では日本人が勝てないとしてその活用に規制が強められている。著者も書いているように、勝利至上主義という点では国内の有力選手を他府県から集めるのと同じなのに、ここにもある外国人排除である。

外国人労働力とも同じ問題だが、受け入れた外国人を日本人と同じ人間として理解し、尊重すべきだ。その点では、本書はケニア人ランナーの素顔をより深く知る一助となる。



 

◎2026年1月23日『戸籍の日本史』遠藤正敬

☆☆☆☆☆「戸籍がなくても生きていける」

本書の終章のタイトルであり、ここに著者の主張が凝縮されている。

本書全体は、戸籍制度についてその歴史を法制史と政治史の観点で詳細に説明したものであり、とても説得的である。

 

実際、実務的には戸籍が必要なのは遺産相続で相続人を確定するときくらいだろう。

それ以外は、選挙権をはじめとする国民としての権利行使や社会福祉行政の様々な享受は住民登録制度によって管理されている。事実婚の夫婦も住民票は同じで、「未届の夫婦」と記載される。

相続人の確定作業は戸籍を遡って行う必要があるが、これとても住民票を遡って探索できるように住民登録制度を整備すれば、戸籍がなくても可能である。

 

では、戸籍は一体何のためにあるのか?

著者の答えはシンプルで、戸籍の本質は「日本人であることの証明」なのだという。

本書では古代国家の「庚午年籍」から説き起こすが、これは公地公民の実施と徴税管理のためで、公地公民が廃れると戸籍自体が無用のものとなった。

これを復活させたのが明治国家の「壬申戸籍」(古代のようなネーミングだが、1871年の干支にちなんだもの)で、江戸時代までは「日本人」の概念がなかったところに、天皇を頂点とする国民国家の意識を植え付けるためのものだった。明治維新の外圧に対して近代的な国民国家をつくる必要からの、いわば「国民の創出」である。そして、そのイデオロギーとして利用されたのが武家をモデルとした「家制度」であった。

戦前の家制度と戸主の権力についてはよく知られているが、本書にはその詳細が述べられていて、改めてその家父長的で男尊女卑の前近代的特質がよくわかる。

そのうち、夫婦同姓の強制については、むしろ夫婦別姓が武家社会の伝統で(北条政子、日野富子など)、明治国家にも引き継がれたが、1898年の明治民法により夫婦同姓の強制が打ち出された。立法者自身も「古と大に異なる所」と認めつつ、「一家一氏一籍」の原則を確立したのだとする。その残響が、現代の夫婦別姓反対論者のいう「家族の一体感」なのだろう。

しかし、戸籍に登録されていても、本籍地は住所地と一致しないし(皇居に本籍を置く人は3000人以上いるらしい)、同じ戸籍だからといって同居しているわけではない。まさに「紙の上の家族」である。

 

本書には、戦前の日本の領土拡大に伴う、アイヌ、沖縄、台湾、朝鮮、満州の人々の日本戸籍についても紹介してある。朝鮮半島統治時代の「創氏改名」はそれ以前に沖縄や台湾でも行われていたことや、「一視同仁」といいつつも日本戸籍でも差別があったことがよくわかる。

特に、敗戦後の在日外国人の扱いは戸籍の面からも非道というほかない。日本戸籍がありながら参政権や公務就任権は否定され、サンフランシスコ条約後の日本国籍の消滅が戦争被害者援護法制から除外する根拠にされた。これは一片の「民事局長通達」によるものだが、これを「我が国で確立された統一解釈」と述べた当時の法務官僚平賀健太は、後に札幌地裁所長時代に、自衛隊違憲が争われた長沼ナイキ訴訟の担当裁判長に裁判干渉の書簡を送った「平賀書簡」事件を引き起こしたことで有名である。

 

マイナンバー制度が導入された現在、「戸籍制度はいつごろ、どのように解体すべきか」という方向に進むのが当然の展開だと著者はいうが、全く同感である。 




◎2026年1月20日『過去と思索(六)』ゲルツェン

☆☆☆☆マルクス、オーウェン、ガリバルディ、バブーフ、バクーニン・・・ロンドンに集まった革命家たち

前巻に引き続きロンドンでの著者の出版を中心とした活動について語られる。

18482月革命の挫折後の反動期に、大陸ヨーロッパからロンドンに亡命または流れ着いた革命家たちとの交流が興味深い。

 

カール・マルクスはこの時期、ロンドンで『資本論』やフランス三部作の執筆をしつつ、国際的な社会主義運動にも関わっていたと思われるが、ゲルツェンのマルクス評は、直接交流したことがないにもかかわらず、「マルクス一派」、「無頼の徒」と手厳しい。これはバクーニンに対するマルクスの批判が原因のようだが、訳者の注によるとかなり誤解があったようだ。また、本書の随所に見られる著者のドイツ人に対する偏見(「重苦しくて、退屈な、争い好きな性質」「生まれつき田舎者」等々)が影響しているのだろうが、これはロシアのインテリをかつて圧倒したヘーゲル哲学へのコンプレックスと言えなくもない。

その反面、同国人のバクーニンに対して著者は暖かい見方を示す。バクーニンは長い拘禁とシベリア流刑の後に、なんと函館を経由してアメリカに逃亡し、1861年にロンドンに流れ着いた。著者はバクーニンについて、「昔と同じように軽率で、非現実的で、事が革命の嵐の只中にある、破壊と苛酷な状況の只中にある、というただそれだけの理由で、その事に向かって突き進んで行く」と呆れるのだが、その行動力と愛すべき性格に惹かれていたようだ。「バクーニンはロシアにおける農民の武装蜂起の可能性を信じていた。われわれも幾分かは信じていた。・・・どうやら、政府までもが信じていたらしい。」と著者は書いているが、アナキストにして扇動家であるバクーニンの当時の影響力の大きさを感じる。

他方、マルクスが「空想的社会主義者」と呼んだロバート・オーウェンについては、「この人こそが人類に対して〈無罪〉を、犯罪者に対して〈無罪〉を大胆に宣告した陪審員」と、その博愛主義に敬意を示している。そして、彼の社会主義の村「ニューラナーク」の実験を高く評価するのである。

 

著者と交流があったガリバルディのロンドンでの歓迎ぶりにもかなりのページが割かれているが、当時のガリバルディの大衆的人気のすごさと、影響力の大きさがよくわかる。ガリバルディに接する民衆の態度は、まるでイエスを慕う信徒たちのようだ。ガリバルディは、自分が司令官ではなく「辱められた我が家を守るために武器を執っただけの人間に過ぎない」と語ったとされ、著者は、「彼は十字軍を起こすことを説き、その先頭に立つ用意をしている使徒的なる戦士である」と評している。

 

その他、ニヒリストで陰謀家のバブーフや著者よりも若い世代のロシア亡命者のことも触れられているが、特に、後者は著者とは思想的に乖離し、著者を革命の資金源としか見ていなかったようだ。

「彼らにまともな影響を及ぼすということなどは、考えるべくもなかった。病的できわめて無礼な自尊心は、ずっと以前に歯止めを失っていた。」

「ここで話題となっている傲慢な若者たちのことは研究するに値する。というのは、彼らもまたきわめてはっきりとした形をとって現われ、きわめてしばしば繰り返されてきた時代のタイプであり、これまでの停滞が発展へ転ずる所で生まれた病の、過渡的形態だったからだ。/彼らの大部分には教育によってもたらされる折り目の正しさや、学問的修練によって養われる自制心というものがなかった。」

著者の言う「傲慢な若者たち」は、後にドストエフスキーが『悪霊』で描いた若者たちを想起させる。



  

◎2026年1月11日『西部戦線異状なし』(映画)

☆☆☆☆☆前線の生死をかける過酷さ、戦争の非人間性をリアルに映像化

第一次大戦後の1930年制作の映画(レマルクの原作は1928年)だが、今見ても全く色あせない。モノクロだが鮮やかな映像で、戦場のシーン、特に広大な戦場で多数のキャストを使った白兵戦が生々しい。

国家のために尽くせと学生を戦場に駆り立てる教師、前線のことを知らずに「パリまで進撃」と威勢よく語る老人たちと、前線の兵士たちとのギャップがくっきりと際立たせられている。

「なんのために戦争をしているのか?」という兵士たちの会話、負傷して野戦病院で足を切断される兵士、塹壕で倒した敵兵をなんとか救命しようとする主人公・・・、こうした前線の数々のシーンから戦争の無意味さ、むごさと非人間性が伝わってくる。

現代ではディスプレイ上の操作やドローンを使った戦争に変化しつつあるが、戦場の現実の被害や過酷さが変わるわけがない。そのことを改めて認識させる映画である。




◎2026年1月6日『怪物』(映画)

☆☆子どもの世界の独自性を描きたかったのだろうが・・・

 子どもが学校で教師に暴力を振るわれたと抗議に行くシングルマザーの母親、いじめがあったと思って対処していた若い教師、穏便に済ませたい校長ら学校当局・・・。それぞれの思惑や思い込みとは異なるところに子どもの世界があったというストーリーで、BL的な少年たちの友情はよく描かれている。

しかし、母親や教師や学校の三者三様の真摯な行動を嘲笑うかのような脚本には全く共感できなかった。実際には教師の暴力やいじめの調査はもっと丁寧になされていて、この映画のような適当で杜撰なものではない。

冒頭の火災の真相や最後の豪雨の土砂崩れの帰結もあいまいで、フラストレーションが残る。

 

 

◎2026年1月4日『ジュラシック・ワールド/復活の大地』(映画)

☆☆☆☆いつものパターンだが今回はキメラ怪獣

これも国際線の機内で見たが、人間の欲望が恐竜をつくり出した挙げ句に、その恐竜から傲慢さを罰せられる、自然vs人間のいつものパターンである。

今回は、老化防止薬の開発のために海陸空の3匹の恐竜の血液サンプルを採取するという製薬企業の欲望が、ストーリーの縦糸となる。

他方、血液ハンターとして雇われた傭兵のプロで巨額の報酬を得てリタイアを狙う主人公らと、小型船を海竜に転覆させられ主人公らに救助されて冒険に巻き込まれた一家のドラマが横糸となる。

従来の恐竜と違う点は、遺伝子操作によるキメラ怪獣が最後に登場することだが、そのグロテスクさには笑えた。

 

それにしても、島に残された施設の電源がいまだに入るのが不思議だ。頭のいい恐竜が維持管理しているのか?

 

 

◎2026年1月3日『統一後のドイツ』シュテッフェン・マウ

☆☆☆☆政党政治の空白につけ込むポピュリズムにどう対抗するか

右翼ポピュリズム政党「ドイツのための選択肢」(以下AfD)が昨年2月のドイツ連邦議会選挙でついに第二党になったが、その影響力は旧東ドイツ地域が顕著である。

著者の問題意識はこれを民主主義の危機と捉えて、ドイツ統一以後の東ドイツ社会を社会構造、人口動態、政治・文化の面で考察していく。

著者によると、「家計の豊かさ、就業率、キリスト教会とのつながり、協会の密度、移民の背景を持つ人々の割合、研究および開発への支出、経済の輸出志向、諸機関に対する信頼、特許出願、大企業の本社、生産性、相続税収入、テニスコートの数、若年層の割合、モスクの密度、男性の平均寿命、農業事業の平均規模、党員数、購買力、不動産価値、低賃金部門の規模」の東西の社会的差異は解消しておらず、人口動態的には東は一貫して減少している。特に若い女性人口の西への流出が大きく、これら男性化した地域でAfDが強く支持されている(「不安定化された、反動的な男性性の政党」)。

 

政治面では、旧東ドイツは「市民を監督し管理する支配体制」であったため、市民に政治参加の可能性を与えることはなかった。しかも、統一の過程で西ドイツが破産管財人的な役割を担ったことから、東ドイツ国民には変革への参加の機会が与えられなかった。

権威主義的国家と政党(SED)の崩壊により、その傘下の組織や団体も消滅し、民意を媒介すべき中間団体も政党もない。その空白地帯に右翼ポピュリズムが入り込んだわけである。

こうして徐々に民主主義が「後戻り」していき、「静かに死んでいく」と著者はいう。憲法裁判所の無力化、選挙法の改正、メディア・公共放送への介入、さらには芸術や文化の検閲、学問の自由の制限、「リベラルな価値観」を象徴するものへの攻撃はその帰結である。これはドイツだけでなくトランプのアメリカや現代日本も他人事ではない。

 

これに対し、著者は市民が直接参加する形式の「市民会議」を提案するのだが、これは政党や中間団体が民意を吸収し媒介できない現状を踏まえたものである。

ただ、陪審のような事実認定の限られた局面を超えてどこまで市民参加が活用できるかは、その実現に向けた大きな課題であろう。

 

ベルリンの東西検問所跡と壁博物館(2010年4月撮影)

 


◎2026年1月1日『ファミリー・ツリー』(映画)

☆☆☆☆☆ハワイの風景の美しさに感動

ジョージ・クルーニーが、突然の事故で瀕死の妻と2人の娘たちの間で右往左往する冴えない主人公を演じる。

彼は不動産を扱う弁護士だが、彼自身が王族の祖先から引き継いだ広大な土地の売却問題で親族たちと協議を続けている。映画の表題“Descendants(子孫たち)は、ハワイの美しい自然の保存もテーマにしているのだろう。

 

ストーリーは妻の看取りをめぐって進み、妻が延命医療の拒否を供述書にしていたことで、主人公は妻の親族や知人と連絡をとっていくが、その過程で愛する妻の不倫疑惑を知ることになり、思わぬ方向に物語が展開していく。

 

ホームコメディ的な展開が面白いが、何よりもハワイの雄大で美しい映像を満喫できる。

島の違う娘や親族を訪れるのは全て飛行機だ。

 

 

◎2026年1月1日『いまを生きる』(映画)

☆☆☆☆☆教科書を破るシーンが印象的

全寮制の男子進学校に赴任してきた英詩教師(ロビン・ウィリアムズ)と生徒たちの物語。

生徒たちは若者らしく学校の厳しい監視を逃れて遊ぶのだが、そんな彼らに対し、主人公の教師は自分の人生を生きるとはどういうことかという問いを真正面からぶつける。

最初の授業で英詩のテキストの序文、高名な学者の書いた詩の客観的基準論を、こんなものはダメだと断じて生徒たちに全て破り取らせる場面が強烈だ。

彼は自分自身で感じ取って考えることの重要性を教え、それに感動した生徒たちは「死せる詩人の会」(映画の原題)を密かに結成する。しかし、それは親と教師に従順に従い受験に邁進させる学校の教育方針とは反していた。やがてある生徒と親の教育方針の対立から悲劇が起きるのだが・・・。

 

私自身も含め誰もが経験したであろう青春時代の葛藤と自我の目覚めを、生徒たちの目線で描いた素晴らしいドラマである。

由緒ありそうな学校風景と学校を取り巻く美しい自然の情景描写もいい。

 

 

202611日『やさしい本泥棒』(映画)

☆☆☆☆☆戦時下の市民生活と少女の抵抗を抒情的に描く

国際線の機内で見たが、素晴らしい作品である。

ナチス政権下のドイツ地方都市の市民生活を、少女の目から描いているが、少女は母親が共産主義者?で里子に出されている。里親は父親がアコーディオン弾きの看板屋で心優しく、母親は怖い「雷母さん」だが、そこに父親が恩を受けたユダヤ人の息子が逃げ込んできて匿うことに・・・という設定で物語が進む。

 

戦時下でも人間性を失わない家族と芯の強い少女の抵抗、そして少女を慕う少年との交流が抒情的に描かれていく。

「本泥棒」という奇妙な題は、ナチス政権下の焚書に対する少女の行動に因んだものだが、読書の大切さを印象深く訴えている。

 

主人公の少女(ソフィー・ネリッセ)の清楚だが芯の強い美しさには、目を見張るものがある。

四季折々の自然をとらえた映像もとても美しい。





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