2019年後半読書日記

 

【2019年後半 読書日記】

◎2019年12月29日『売り渡される食の安全 (角川新書)』山田正彦

◎2019年12月11日『教育格差 ──階層・地域・学歴 (ちくま新書)』松岡亮二

◎2019年12月9日『デカメロン 中 (河出文庫)』ボッカチオ

◎2019年11月25日『反日種族主義 日韓危機の根源 (文春e-book)』李 栄薫・編著

◎2019年11月14日『生者と死者に告ぐ 刑事オリヴァー&ピア・シリーズ (創元推理文庫)』ネレ・ノイハウス

◎2019年11月8日『デカメロン 上 (河出文庫)』ボッカチオ

◎2019年11月8日『厳寒の町 エーレンデュル捜査官シリーズ』アーナルデュル・インドリダソン

◎2019年11月1日『終焉の日 (創元推理文庫)』ビクトル・デル・アルボル

◎2019年10月6日『ルポ「断絶」の日韓 なぜここまで分かり合えないのか (朝日新書)』牧野愛博

◎2019年9月29日『神曲 天国篇 (河出文庫)』ダンテ

◎2019年9月9日『神曲 煉獄篇 (河出文庫)』ダンテ

◎2019年8月20日『神曲 地獄篇 (河出文庫)』ダンテ

◎2019年8月14日『スターリンの息子 上下 (ハヤカワ文庫NV)』マルティン・エスターダール

◎2019年8月11日『イタリアン・シューズ』ヘニング・マンケル

◎2019年7月22日『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』ハンス・ロスリング

◎2019年7月17日『刑罰』フェルディナント・フォン・シーラッハ

◎2019年7月7日『イタリア・ルネサンスの文化』ブルクハルト


 

20191229日『売り渡される食の安全』山田正彦

☆☆☆☆☆多国籍アグリ企業との熾烈な闘い

TPPや日米貿易交渉で必ず問題にされるのは農畜産物輸入問題だが、この本ではさらに深刻な問題、すなわち農産物の種子の多国籍企業による支配が様々な観点から報告されている。

現在、世界の種子の70%がモンサント(現在はバイエルが買収)など数社の多国籍アグリ企業によって生産されていると聞いて驚く人は多いはずだ。これらの多国籍企業は元は化学肥料や農薬を生産する化学企業だったのだが、種子会社を買収してセットで販売するようになったという。つまり、その農薬に耐性のある植物の種子を遺伝子組み換え技術等を用いて開発し、これと農薬と肥料をセットで売るというわけだ。

しかし、かつて『沈黙の春』でDDTが告発されたことを想起するまでもなく、農薬が人体や環境に悪影響を及ぼす可能性は否定できないし、遺伝子組み換え技術に至っては未知数の危険が指摘されている。実際、ミツバチの世界規模の減少はネオニコチノイド系農薬の影響だと言われている。

ところが、日本では規制緩和や貿易交渉の影響で農業の市場開放が進み、遺伝子組み換え技術に由来する農作物も市場に出回っている。現在ではその表示もなされなくなったという。また、モンサントの主力商品である除草剤「ラウンドアップ」は欧米ではその毒性が問題とされて規制が進んでいるのに、日本では普通に販売されており、他社の除草剤でもラウンドアップの主成分であるグリホサートが使われている。

この本では、多国籍アグリ企業の貪欲でえげつないビジネス手法も紹介されている。例えば、これらの企業は多数の調査員を派遣して田畑を見回り、自社の種子が契約農家以外で使用されていないかチェックし、風で飛来した種子によるものであっても、自社の種子による農作物とわかれば高額の損害金を請求する。また、農薬や遺伝子組み換えの悪影響を指摘した科学論文には傘下の研究者や学会を総動員してケチをつけ、論文を撤回させるといった具合である。

ちなみに、後者の科学論文の問題について近年の日本の例を挙げれば、多国籍製薬企業が世界規模で販売している子宮頚癌ワクチンの副作用の可能性を指摘した医学論文について、著者らが学会や医学ライターから攻撃されたり、論文を撤回させられたりした例が想起される。下肢の麻痺などの深刻な被害を訴えた少女らは、詐病や精神病呼ばわりまでされている。実は、このワクチンもまた昆虫の細胞等を用い遺伝子組み換え技術で製造したワクチンなのである。過去のサリドマイドやスモンといった大規模薬害事件の際にも、多国籍企業が研究者や医学者を多数動員して薬害の解明を妨害したことはそう遠くない記憶として残っている。

この本では、多国籍アグリ企業の種子支配が日本の米にまで及びつつある実態を告発しているが、他方で、全国各地の自治体が種子条例を制定してこれに対抗する動きもまた紹介している。

食の安全に関心のある人、さらに広く生命と環境の保全に関心のある人にも、是非読んで欲しい本である。

 

 

20191211日『教育格差』松岡亮二

☆☆☆データ、データ、データ・・・、では具体的な処方箋は?

書評の評価の高さに釣られて読んでみたが、私には全くつまらなかった。

確かに、教育格差に関するデータを積み上げた労作ではある。

しかし、書かれている格差なんて誰もが体験的に知っていることばかりではないか。幼児期から、高学歴で経済的余裕のある親が丁寧に子どもに接し、ピアノ教室に通わせたり絵本をたくさん読み聞かせたりできる環境とそうでない環境で格差があるのは当然だし、小中高校時代でも、塾や家庭教師をつけたり海外旅行や短期留学ができる環境とそうでない環境で差があるのは当然だ。それが親が高学歴かどうかとか三大都市圏居住かどうかで格差があるのも、言われなくても自らの体験からとっくにわかっていることだ。

問題は、その格差を教育段階でどうするのかだろう。

義務教育の目標が「平等と自由」でジレンマがあるのは現場の教師が十分知っていて日夜格闘していることなのだが、著者はその当たり前のジレンマを指摘するだけで、それをどうするか全く具体的処方箋を示さない。

また、高校の学校群制度は高SES層を私立に流出させて、低SES層の上昇機会を奪ったと著者は言うが、これにはデータ的裏付けがない。学校群どころか今はなき小学区制高校出身者としては、平均化された高校では学校内の生徒間格差はあるが、優秀層はどこにもそれなりに存在していたことを知っているから、著者の説には賛同できない。

著者の教育改善提言もまたデータを収集することだそうだが、それを一体どう使ってどのように教育を変えるのか、それが具体的に示されないから隔靴掻痒の観が免れない。また、教員研修で教育格差を教えるというが、現場の教師で教育格差の存在を知らないものがいるのだろうか? 体験的に熟知していることをデータで裏付けたところで、統計的興味を満たす以外に、教育現場で一体何の役に立つというのか?

ところが、著者は最後に突然、「人類史上存在しなかった社会を夢見よう」と夢を語り出す。しかし、そこで言われていることは、「精神的にも物質的にも安定した家庭と学校で、親と教師だけではなく多くの大人に励まされ成功体験を少しずつ積むようなまっとうな教育を長期間受ける機会を付与」すること、「一人ひとりの潜在的可能性を最大化するための教育環境の整備が先」という、誰でも言えるような理想である。

しかし、教育格差をデータで示して、データの蓄積をいくら説いたところで、この理想を実現する道は見えない。教育格差の原因である社会的環境の格差の解消が重要だというなら、これはもはや教育論ではなく社会経済の改革論である。

結局、『ファクトフルネス』同様、データだけで生の事実に基づく改善策が提示されないから、データに興味がある人以外は読んでいてつまらないし、説得力がないのである。

 

 

2019129日『デカメロン 中』ボッカチオ

☆☆☆☆☆「神曲」地獄篇の凄惨な引用を女性を口説く道具に

この中巻には第4日から第7日の各10話が掲載されているが、なんといってもその白眉は第5日の8話、ナスタージョの物語であろう。

これはボッティチェッリの有名な連作絵画にも描かれており、この河出文庫版のカバーを飾っている。

物語は、ラヴェンナの貴族ナスタージョがある美女に何度も求愛するが、にべもなくはねつけられ、失望して街を離れ近郊の松林に来たところ、全裸の美女が猛犬に追われて全力で逃げてくる場面に出会う。その後からは騎馬武者が「殺すぞ」と言って追いかけてくるのだが、実は2人は亡者で、美女に求愛を拒まれた騎馬武者が絶望して自殺し、それを悔いなかった美女ともども地獄に落ちて、永劫の罰を受けているのである。美女はナスタージョの面前で猛犬にかまれ、騎士に叩き切られて内臓を犬に食わせられるが、すぐに蘇ってまた同じ惨劇が繰り返される。

これはダンテの描いた地獄でおなじみの凄惨な光景であるが、この惨劇が地獄の圏ではなくラヴェンナ近郊の松林で、毎週金曜日に演じられるというのだ。そこで、ナスタージョは一計を案じ、この松林で金曜日に会食を催し、自分の求愛をはねつけた美女をそこに招く。そして、予定通り会食の場で惨劇が演じられ、そのいわれが騎士によって語られたため、くだんの美女は震え上がり、ナスタージョへの冷たい態度を悔いてすぐに結婚に応じる。そればかりでなく、この話で怖じ気づいたラヴェンナの女性たちは殿方の求愛にいそいそとなびくようになったという。

このように「神曲」地獄篇の凄惨な場面を引用しながら、それを女性を口説く道具に用い、男性につれない女性をたしなめる教訓話のようなオチにするところがボッカチオの面目躍如たるところであり、ダンテに対する敬意とともにパロディー化する批判精神が示されている。

「神曲」の翻訳者である平川氏の注釈と解説ではそうしたボッカチオのダンテに対する姿勢も考察しており、読者の参考になる。

  

20191125日『反日種族主義 日韓危機の根源』李 栄薫・編著

☆☆☆☆真摯な「反日種族主義」批判、しかし親日でもない

このような本が韓国でベストセラーと聞いて、眉に唾をつけながら読んでみた。

しかし、一読して内容は真摯なものであり、まっとうな研究者が証拠やデータを踏まえて書いたものであるとわかる。他方、反日一色のように報道されている韓国内の世論や対日観について、日本側にも見直しを迫るものといえる。

著者らの反日批判の核心は「反日種族主義」という言葉に込められている。すなわち、種族主義は韓国で長い歴史を持つシャーマニズムに由来し、客観的議論が許されない不変の敵対感情を隣人(ここでは日本)に対して持ち、嘘が種族の結束を強めるトーテムとなるという。ここで著者は「嘘」という刺激的挑発的な言葉を使っているが、徴用工や慰安婦問題などに見られる反論を許さない固定観念ということだろう。トーテムとは特定の集団や部族に宗教的に結び付けられた象徴のことだが、慰安婦のいわゆる「少女像」などはまさにトーテムである。

 

他方、著者らは親日派というわけでもない。そのことはこの本が元は「李承晩TV」の連続講座をまとめたもので、著者らが李承晩の独立思想を高く評価していることからもわかる。李承晩とはいうまでもなく反日独立運動家で戦後は大統領として強烈な反日政策を推進した人物である。

著者らの議論によれば、徴用工にせよ慰安婦にせよ日本側が暴力的に収奪したり連行したり、奴隷的拘束をしたというのは誤りだという。

確かに、近代国家の基礎は法治主義と契約である以上、戦前の日本も韓国を日本の一部として、あくまでも法治主義と契約に基づいて統治していたのであり、軍や警察が無法な暴力を韓国内で行使していたわけではない。しかし、労働契約や芸妓契約は当事者の力関係を背景に不平等、あるいは公序良俗に反する内容となりがちであり、それゆえ労働者保護法制が必要となったり、契約自体を無効とされる場合もある。すなわち、法治主義と契約関係の下でも搾取や収奪は起こりうるということである。まして、その根底に植民地支配の民族差別や不平等があれば、被支配民族の不満やルサンチマンが残るのは当然である。慰安婦問題について言えば、日本軍が制度の設置と維持管理に密接に関わっていたことは当時としてもスキャンダルだったはずで、その点を認めて謝罪した河野談話は日本政府としては誠実な対応だったといえる。

この本では後者の植民地支配の負の側面はあまり議論されていないが、徴用工問題にせよ慰安婦問題にせよ、無法な暴力による収奪や強制連行といった過剰な印象ではなく、事実に基づく冷静な議論が必要であると訴えたいのであろう。

 

 

20191114日『生者と死者に告ぐ 刑事オリヴァー&ピア・シリーズ (元推理文庫)』ネレ・ノイハウス

☆☆☆☆脳死と臓器移植、人の死を待つ医療の危うさ

相互に関係がない被害者が相次いで狙撃されて殺される動機不明の連続殺人事件が起こり、刑事たちを混迷させるが、読み進むうちにその背後に脳死と臓器移植をめぐるスキャンダルが浮かび上がってくる。

日本でも脳死を人の死と認めるかどうかで大きな議論があったが、この問題は人間の本質は思考であるとか、思考の座である脳に神性が宿るといった哲学的な問題ではなく、臓器移植を成功させるためには心臓が停止する前の生きた状態の臓器が必要という医療技術サイドの実益に基づく要求が大きい。

この著作中でも、脳死状態とされた患者から心臓や肝臓をはじめ目の網膜に至るあらゆる臓器が移植用に摘出され、遺族にはその変わり果てた無残な遺体が引き渡されて、大きなショックを受けるという場面が重要なモチーフとして描かれる。

古典的な人の死は心臓死であり、その基準は「呼吸停止、心停止、瞳孔拡大」という客観的に明白なものだった。これに対し、脳死は一見して明白ではなく、脳死状態の患者は外見上生きた人間と区別できない。そのため、脳死判定は厳格かつ公正に行われることが求められるが、脳死判定する医療者と臓器移植を受ける側に何らかの利害関係があればそこに重大なスキャンダルが生じうるわけであり、それがこの著作のテーマとなっている。実は、日本でもドイツでも、脳死が法的に認められたにもかかわらず臓器提供者はそれほど増えていない。移植医療への不信とまでいうかどうかは別として、いわば人の死を待つ医療に対する躊躇があるのだろう。

この本のドイツ語の原題は Die Lebenden und die Toten 、すなわち「生者と死者」であり、生者と死者の境界を危うくする脳死判定の問題性を意図したものと思われる。

こうした大きなテーマを扱いつつ、著者はストーリーテラーとして実に巧みに物語を構成しており、犯人らしき人物が複数浮かび上がるものの最後まで絞り込ませずにハラハラドキドキした展開を楽しませてくれる。

ただし、犯人の連続殺人の標的が何の罪もない家族であるという点は読んでいて気分のいいものではない。確かに、「目には目」という同害報復の論理からは家族を殺されればその家族を殺すということになるのかもしれないが、そこには復讐劇のカタルシスは全くない。その点で星1つ減らした。

なお、今回はオリヴァーの捜査チームにFBIで学んだと称するプロファイラーが登場するが、的外れのプロファイリングを繰り返して顰蹙を買う。かなり極端な戯画化といってよく、アメリカのミステリーではやりのプロファイリングに対する批判意識が読み取れて興味深い。

 

 

2019118日『デカメロン 上』ボッカチオ

☆☆☆☆☆抱腹絶倒のエロ話でペストの惨禍に対抗

ペストの惨禍を扱った作品としては古くはデフォー、近くはカミュの「ペスト」が有名だが、これらはペストの発生から被害の拡大と人々の対応を正面から扱ったいわばパニックドラマとして描かれているが、ボッカチオはその逆を行く抱腹絶倒のエロ話を書いた。

もちろん物語の導入部にはペストの悲惨な実情が描かれている。当時の西欧の人口の3分の1が減少したといわれる大変な惨禍であり、ボッカチオの父も亡くなっている。病原因がわからず有効な対策が取られなかった当時としては、ペストから逃げるしか方法はなかった。しかし、逃げるだけでなく、この人間性を否定する危機に対して、最も人間らしいものとして性と笑いで対抗しようとしたのがルネサンス人の真骨頂なのであろう。

デカメロンはダンテの「神曲」より半世紀後に書かれたが、ボッカチオはダンテの影響を深く受け、フィレンツェで「神曲」の講義を最初に行っている。生真面目なダンテとは一見相容れないようなデカメロンの語りには実は神曲のパロディのような響きが随所に感じられるが、神曲の翻訳者でもある平川氏のこの訳書には神曲との関連が注釈と解説で指摘されていてとても参考になる。

神曲同様、デカメロンでも教会や僧侶の堕落が痛罵され、それがエロ話と絡んで軽妙に明るく語られる。

例えば、3日目の最後の10話、「悪魔をインフェルノ(地獄)に追い返す」という話。聖人に憧れて修行方法を尋ねた少女に対し、修行僧は自分も少女も素っ裸になるよう指示して、自らの身体に悪魔が頭をもたげるので少女の身体のインフェルノの中に追い返すのだという・・・このような「修行」を続けるうちに、少女からしきりに修行をせがまれるようになり、もう悪魔は十分懲らしめられたから勘弁してくれというオチになる。

現代ではセクハラまがいの物語であるが、ペスト禍の時代背景とルネサンスのおおらかさとして楽しむべきである。

ただ、この翻訳では、ですます調の地の部分と区別するためか、各物語は「〜した」という文体で書かれているが、110人の話者が語るという設定なのだから、物語もですます調の語り口で訳したほうが臨場感があると思う。

 

 

2019118日『厳寒の町 エーレンデュル捜査官シリーズ』アーナルデュル・インドリダソン

☆☆☆☆☆移民問題と少年事件捜査を考える良作

御多分に漏れずEUを揺るがす移民問題である。北欧といっても北の果ての島国アイスランドにも多数のアジア系移民がいるというから驚く。

日本も昨今外国人労働者に頼る政策に転換したようだが、日本はあくまで労働力の次元であり、「移民」受け入れにはほど遠い。人口比での受け入れ数もはるかに低い。労働力を担うのは人である以上、その生活や家族、文化の受け入れは当然付随してくる。だから、外国人労働者の受け入れは必然的に移民問題に発展するはずであり、労働力だけなどという虫のいい話は許されない。

この小説では移民の子供に焦点を当てて、そうした移民問題の本質を考えさせる。学校、言語、居住環境などはその重要な要素である。

もう一つ。子供が犯罪に巻き込まれ、被害者も容疑者や参考人も少年であるときには、事件捜査は子どもの脆弱性に十分配慮する必要がある。エーレンデュルら捜査チームはその点を慎重すぎるほど配慮して、親の立ち会いや家庭での事情聴取に徹しており、決して乱暴な取り調べをしない。被害者の兄を逃した母親に対しても生温い対応で、ヤキモキさせられるほどだ。このあたりは少年事件の捜査のあり方として、司法関係者が見習うべき点は多いと思う。

なお、今回はエーレンデュルが少年時代の遭難事件について娘から深刻に問いかけられたり、同僚シグルデュル・オーリの少年時代の事件や両親との関係が初めて明らかになるなど、捜査チームの家庭問題のドラマも進展を見せており、小説の多面的多層的な面白さを加えている。

 

 

2019111日『終焉の日 (創元推理文庫)』ビクトル・デル・アルボル

☆☆☆スペイン現代史を織り込んだあまりにも陰惨な物語

20世紀スペインの市民戦争からフランコ独裁、ナチスドイツの対ソ戦争への加担、フランコ死去後の民主化とクーデター未遂事件を背景に、テロと陰謀を多数織り込んだ長編小説だが、とにかく陰惨で読んでいて気が滅入る。

冒頭からして主人公の女性弁護士が癌で死の床にいる場面から始まり、一挙に物語が市民戦争時代に遡り、さらにフランコ時代、民主化時代と何度も前後しつつ展開する。ユーモアやロマンスを楽しむ要素はほとんどなく、主要登場人物が暴力と無法に巻き込まれ、次々と悲惨な死に至る。人間関係の意外なつながりを解き明かすミステリーの要素はあるが、親の因果が子に報いる式の不条理な展開である。

スペイン現代史の陰惨さ、軍事独裁政権下の人々の過酷な状況と心理的歪みに関心のある人には、理解がより深まると思うが、ミステリーを楽しみたいという人には全く勧められない。

なお、物語の小道具として日本刀や武士が引用され、挙げ句の果てに切腹まで登場するが、このような武士道の引用は誇張されたジャポニズムであり、感心しない。また、20世紀前半のスペインで日本刀を作れる鍛冶職人がいたとも思えない。

 

 

2019106日『ルポ「断絶」の日韓 なぜここまで分かり合えないのか』牧野愛博

☆☆☆☆☆ネロナムブル 내로남불

韓国語で、「私がすればロマンス、他人がすれば不倫」(내가 하면 로맨스, 남이 하면 불륜)の頭文字からつくられた造語だそうだ。言うまでもなくご都合主義の言動を批判するときに使う。

これを筆者は文在寅大統領の言動に対する批判として公然と使っている。典型的には、朴槿恵前大統領ら保守政権幹部らへの司法権の行使は正義で、自らの側近や与党幹部への司法追及の対応は不当な権力行使というようなことである。昨今の法務大臣任命をめぐる対応もまさにそうであろう。

このほかにも、この著作では韓国の現政権に対する絶望的といっていいほどの厳しい批判が、多数の事実を踏まえて書かれているが、著者が朝日新聞前ソウル支局長・現論説委員という肩書きであることを見れば、これがいかに重い指摘であるかよくわかるというものだ。

実際、著者は文在寅政権に不利な報道をしたことで大統領府への無期限出入り禁止措置を受けた。また、脱北者の取材では公安当局の尾行までつけられた。

この著作では、昨年来の日韓対立が事実を踏まえて丁寧に整理されており、第3章では戦後の日韓関係の主要なエピソードが要領よくまとめられていて、特に町田貢元駐韓日本大使館公使の話からは教えられることが多かったが、なんといっても圧巻は「第4章 文在寅とは何者か」で分析される現政権批判だろう。冒頭引用した「ネロナムブル」をはじめ、世論に迎合する姿勢、不利な情報を隠す情報統制、外交実績のない通訳を外相に抜擢するなどのおかしな人材配置による混乱、「積弊精算」の名の下の政府や軍の弱体化といった問題点が歯に衣を着せぬ形で指摘される。

とりわけ重大な問題は昨年12月のレーダー照射問題への韓国側の対応であり、韓国軍と政府の対応が二転三転の混乱を極めた挙げ句、大統領府の主導でレーダー照射ではなく自衛隊機の低空飛行が悪いという反日攻撃で開き直ったことである。これはデマゴギーと言っていい最悪の対応であり、国家間の信頼関係を喪失させるに十分であったと思う。その後の徴用工問題等の展開をみれば、日本政府が韓国政府を全く信用せず、まともに話し合いをする意思も気力も喪失したと感じられる。

著者は、文在寅政権は北朝鮮との関係を重視するあまり日本への関心を失っており、逆に国内の対立を打破するために反日を利用しているという。確かに日本の安倍政権が韓国に対して硬直的で厳しい対応をしていることも問題であろうが、それでも米日韓同盟の伝統的枠組みを維持する意思はあるはずだ。したがって、日韓対立の震源は文在寅政権の姿勢にあるといわざるをえない。

そうであるとすれば、日本側としては現在の韓国大統領府の姿勢に過剰反応せずに冷静に対処し、戦後官民で培ってきた友好の機運が復元するのを待つしかないのではないか。

最も近い隣国である韓国に対し、「嫌韓」や「断絶」で済ませられるわけがない。その意味で、本書は昨年来の対立の局面のみでなく戦後の様々な局面の日韓関係を振り返って考えさせる良書であると言える。

 

 

2019929日『神曲 天国篇』ダンテ

☆☆☆☆1300年宇宙の旅!

天国篇は地獄篇や煉獄篇に比べて難解でとっつきにくいと言われる。

確かに神学論争やなじみのない聖人たちの名前が列挙されていることや、悪行や煩悩に満ちた生々しい世俗の物語がそれほど語られないためにそのように言われるのだろう。

しかし、神学論争といっても自由意志論などのわかりやすい論題が何カ所か触れられているくらいで、哲学史を多少学んだことがあればおなじみの話だし、そうでなくてもそれほど難解というわけではない。

また、天堂の諸階梯にいる聖人たちの物語に付随して、随所にフィレンツェ政界の腐敗やローマ法王庁の堕落が痛罵されており、政治家ダンテの悲憤慷慨は天国でも浄化されることはない。

むしろ、天国篇の読み方としては、中世のキリスト教的宇宙観と天動説を踏まえた宇宙旅行として読めば、興味深く読めるのではないかと思う。いわば、地獄篇はホラー、煉獄篇はファンタジー、天国篇はSFのようなものである。ダンテの地獄、煉獄、天国巡りは1300年の聖金曜日から行われているから、天国篇は「1300年宇宙の旅」とでも言うべきか。

煉獄の山上からベアトリーチェに導かれたダンテは、猛スピードで上昇し、月光天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天へと遊星(惑星)を巡った後、天球を包括する恒星天、諸天を動かす根源となる原動天を経て、最終目的地である神本体である至高天へと達する。

各天の階層にはその意味とそこに割り当てられた人たちの群像が、地獄篇や煉獄篇と異なり人の形ではなく輝く光の塊として示され、ベアトリーチェの紹介でダンテの疑問に応えるときには輝きを強く増す。いわば天国に昇った諸聖人たちのカタログとその物語なのだが、中でもアリストテレスの哲学で神学理論を完成させたトマス・アクィナスとの対話では様々な神学的疑問に回答が与えられる。また、恒星天で出会うアダムは楽園追放から地上に930年、地獄(辺獄)にキリスト十字架死まで4302年を過ごしたと語り、自らの罪は木の実を味わったことではなく人間の限界を超えたことにあると言う。他方、アダムを誘惑したエバは、聖母マリアの足元に控えており、神が造ったがゆえに「世にも美しい女」と表現されている。

こうした諸聖人らに与えたダンテの位置づけと天国のビジョンは、詩人の想像力として興味深く読めるはずである。

ちなみに、至高天の神は三位一体を示す三つの環からなる光の実体として示されるが、その姿は空想の力の達しかねるものであり、「太陽や諸々の星を動かす愛であった」と結語される。

なお、翻訳は天国篇でも非常にわかりやすく、解説も懇切丁寧であるが、唯一ベアトリーチェのダンテへの呼びかけが「おまえ」という命令口調の訳語で統一されているのが高飛車すぎて違和感があった。なんといってもベアトリーチェはダンテの永遠の恋人だからである。読むときには「おまえ」を「あなた」と読み替えて、柔らかい口調にしてみるとしっくりするように感じる。

 

 

201999日『神曲 煉獄篇』ダンテ

☆☆☆☆煩悩多き等身大の人たちの世界

息苦しくなるような地獄篇の世界から抜けると煉獄の山の岸辺にたどり着く。地獄の亡者たちは永劫の苦しみを科せられているのに対し、煉獄にいる亡者たちはその罪の重さによって期間の長短はあるが、やがて煉獄の山を登って天国へ入ることができる。

そのため、煉獄の山を登るダンテは煉獄の7つの圏(7つの大罪に相応した償いの圏である)を登るうちに徐々に身も心も軽くなり、足取りも速くなっていく。煉獄篇の読者は精神が清められていくような爽快感があるといわれる由縁である。

煉獄篇でも登場人物はダンテに前世の罪業を物語るが、ダンテが地上に生還して亡者の縁者たちにそれを伝え、縁者が亡者のために祈りを捧げると亡者の歩みが進められ、早く天国へと行ける。そのために亡者たちはダンテに進んで物語り、地上の縁者への言づてを頼むという構成になっている。

ただ、登場人物の印象と物語の面白さはやはり地獄篇の亡者のほうが圧倒的である。地獄にいる王侯貴族や教皇といった著名人ほど罪悪のスケールが大きいが、その反面人間的な魅力もあり、キャラクターが立っているということだろう。

その意味では煉獄篇の亡者らは我々と等身大の人間なのであり、煉獄は貪欲、大食、色欲といった煩悩に煩わされる生身の人間の世界である。

煉獄の7つの圏を登ると山頂のエデンの園に到達するが、そこでウェルギリウスは姿を消し、ベアトリーチェと交代する。厳しくも慈父のようにやさしく導いたウェルギリウスとの別れは、ダンテが振り返ると別れの言葉もなく姿を消しているという具合で、あっさりしていて物足りない。他方、ダンテにとって感動の再会であったベアトリーチェは、ダンテの非行を厳しくなじり説教するという具合で、永遠の恋人との再会というイメージからはほど遠い。

煩悩多き我々読者にはエデンの水は清すぎて冷たいということだろうか?

(天国篇レビューへ続く)

 

 

2019820日『神曲 地獄篇』ダンテ

☆☆☆☆☆中世とルネサンスを架橋する叙事詩、朗読するように読むべし

誰もが名前は知っているが読んだ人は少ない、そうした古典の代表がこの神曲だろう。

しかし、実際に読めばこれほど興味深く面白い古典はないと断言できる。特にこの地獄篇は面白い。

実は、私は40年前の学生時代にこの本の訳者の平川祐弘先生の神曲講義を受講していた。平川先生の講義は訳文の何節かを艶のあるバリトンで朗々と読み上げてから解説を加えていくという形式で、地獄の門の有名な碑文などはイタリア語の原文も朗読されていたことを昨日のことのように印象深く覚えている。

この翻訳は当時の河出書房新社の緑版を基本的に引き継ぎ、何カ所か訳文と注を改訂したようであるが、わかりやすい口語で書かれていて、かつ叙事詩ゆえに朗読に耐えるようなリズムのある文体になっている。したがって、読者は朗読するようにゆっくりと味読すべきである。各歌ごとに最初に訳者の要約が置かれ、末尾に詳しい訳注が加えられているのも親切である。

ちなみに、岩波文庫の山川訳は文語体で書かれているうえ解説が少なく、また集英社版の寿岳訳はブレイクの挿絵が美しいがあえて擬古文で書かれていて読みづらい。やはり平川訳がもっとも優れていると感じる。

今回、Kindle版で読み直したが、本文の字が大きく読みやすいうえ、ドレの挿絵を拡大すると細部がよくわかってうれしい。

 

13世紀のフィレンツェの人であるダンテは、中世神学の影響を受けた中世人であると同時に、ルネサンスの胎動期にあってトスカーナ方言による革新的口語詩を書いたルネサンスの人でもある。しかも、イタリア都市国家の市民の例に漏れず、熱い政治的人間であり、神曲を書いた時代は政争に敗れてフィレンツェを追放されていた。そのため、地獄篇では当時のイタリアの政財界、教会の著名人物が次々と登場し、生前の悪行と死後の応報をダンテに生々しく、時にはユーモラスに語るのである。この人間の業の深さと罪悪に因果応報する多種多様な地獄の刑罰を描く想像力のすごさがこの地獄篇の大きな魅力になっている。

もちろん、悪行だけではなく、不義の恋愛ゆえに殺されて地獄をさまようパオロとフランチェスカの美しい物語や、老いても冒険心やまずジブラルタルを超えて航海に乗り出して難破したオデュッセウスとその仲間たちの物語など、魅力は尽きない。

神曲の構成は、導入の1歌(暗い森に迷う)と地獄篇、煉獄篇、天国篇各33歌の合計100歌からなる叙事詩であり、形式上も内容上も実に均整がとれており、詩人ダンテが作品を磨き上げたものといえる。

なお、「神曲」の原題はDivina Commedia(神聖喜劇)であり、ダンテ自身はCommediaと名付けたらしい。「神曲」というネーミングは森鴎外が「即興詩人」の中で名付けたことに由来する。


   (フィレンツェのドゥオーモにあるダンテの画像 2023年3月撮影)

 

 

2019814日『スターリンの息子 上下 (ハヤカワ文庫NV)』マルティン・エスターダール

☆☆☆☆今なお影を落とす旧ソ連の闇

フィンランドのノキアやスウェーデンのエリクソンなど、北欧の通信産業は世界トップクラスであり、エリクソンの固定通信設備は世界の携帯端末の4割が依存しているという。

この小説はこうしたスウェーデンの先進的な通信事業に食い込む旧ソ連のスターリン信奉者グループの陰謀を縦糸にし、他方で1944年のソ連によるストックホルム空爆の謎を横糸に絡めたミステリーである。

後者の空爆は誤爆事件として処理され、今ではスウェーデンでも知る人が少ないとのことだが、真相はソ連の重要スパイ奪還を目的とした政治的事件だったとの見方を著者は提示しており、そのスパイが「スターリンの息子」として物語の重要な役割を果たすことになる。

小説では、陰謀の核心に触れて拉致された恋人を主人公が救出するスリリングなドラマとして展開するが、ロシアの治安の悪さと闇社会の残忍さは読んでいて気持ちのいいものではない。

ソ連崩壊後の90年代の混迷ぶりとスウェーデンの隠された歴史がリアルに描かれているのは興味深いが、スターリン信奉者グループが隠然たる力を今なお有しているとの点はにわかには信じられないし、80歳を超える元スパイが日進月歩の情報通信産業を牛耳るというのも不自然な感がある。

小説としてはスリリングな展開を楽しめるのだが、やや風呂敷を広げすぎではないかと思う。

なお、この小説では暗示されているだけだが、プーチン政権への不信と危機感はEU 諸国、特に国境の近い北欧には強いのだろう。この点は終戦時の満州侵攻や北方領土問題を抱えつつ、ロシアの脅威が現実には観念的なものでしかない日本とは異なると思われる。

 

 

2019811日『イタリアン・シューズ』ヘニング・マンケル

☆☆☆☆☆人間と家族の再生の物語

不思議な読後感のある小説である。

著者は刑事ヴァランダーシリーズで有名な社会派作家だが、この小説では殺人事件も社会問題も登場しない。移民問題や児童虐待の片鱗はあるが主題ではない。

物語は主人公の一人称の語りで進められ、主人公は世捨て人のように孤島で1人、犬と猫を友として生きる元医師である。医療過誤事件の当事者となり、そのまま医師をやめて引退した。そこに40年近く前に捨てた元恋人が突然現れるところから物語が展開する。

ただ、展開といってもあくまで主人公とその女性をめぐる個人的な世界にとどまり、私小説的と言ってよい。

主人公も元恋人も老境を迎え、元恋人は末期癌である。2人とも利己主義の塊のような人物で嘘も多い。この2人が周囲の人たちを巻き込みながら物語が展開し、主人公が徐々に心を開き人間的な家族の関係を回復していくプロセスが小説の主題なのだろう。

それにしても、分厚い氷の貼る北の海と孤島の風景は我々には全く馴染みがなく、氷を割って毎日水浴をする主人公の日常は凄まじい孤独感を象徴しているように思える。その氷が少しづつ溶けていくように、主人公の心象風景も変わっていく様を描く著者の筆力はさすがである。

 

 

2019722日『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』ハンス・ロスリング

☆☆☆生の事実をマクロのデータで見えなくする「安心理論」

この本を読んでまず連想したのは、少し古いが「安心理論」である。某漫画家がひいきのプロ野球チームがどんなにボロボロのミスや敗戦を続けても、あれこれ理屈をつけて「優勝間違いなし」とやるあれである。

 

この本では「ファクトフルネス」という言葉にまず注意しなければない。

ここで言うファクトとは日々のニュースやルポルタージュ、あるいは裁判で問題になる「生の事実」ではなく、それをマクロに統計化したデータのことをいう。

例えば、第三世界の貧困問題については、データによれば世界の大部分の国は中程度の所得があり、貧富の格差による分断はない(!?)のだそうだ。しかし、もしそのデータが正しいとしても、報道されている生の事実としての貧困問題が解消するわけでも、地域紛争による難民や独裁国家の圧政やテロがなくなるわけでもなかろう。貧困や圧政にあえぐ人々には何の意味もないデータである。

この同種の議論が教育、医療、エネルギー、環境、人口問題等の世界の問題について繰り返され、抽象化されたマクロのデータによって、生の事実から提起される様々な問題が消去されていく。

このような議論は、世界の為政者や官僚、多国籍企業など、現在の世界の体制と秩序の側にいる人たちにはとても耳障りのよい議論である。まさしく「安心理論」なのである。

しかし、いうまでもなくこれは立場や存在に規定されたイデオロギーにほかならない。なぜなら、貧困などの諸問題が改善されたとみるか、まだ十分改善されておらず深刻な問題があると見るかは視点や立場の違いで異なるし、データにしてもパラメータや集計方法次第で180度変わるからである。

ところが、著者はそのイデオロギー性に思い至らないのか、人間の「ネガティブ本能」なるものをもちだし、「ドラマチックすぎる世界の見方」であるとか、「ジャーナリストや活動家による偏った報道」とかを問題視する。しかし、生の事実としてそこにある貧困や紛争、環境破壊等々の問題をジャーナリストやNGOが報道し、それに多数の人々が注目し共感するからこそ、そうした問題を解決する努力が生まれるのであり、それなくして著者のデータにあらわれる改善も進まないのである。

抽象的なデータは人の心を動かさない。生の事実の持つ迫真力とそれに対する人々の共感能力こそが世界を変えるのである。

 

 

2019717日『刑罰』フェルディナント・フォン・シーラッハ

☆☆☆☆刑事弁護人の本音と苦悩が垣間見える

これまで出版された著者の翻訳はすべて読んでいる。

さすがに本職の刑事専門弁護士だけあって、刑事手続のディテールがしっかり書いてあるし、ストーリー構成も確かである。

また、酒寄氏の翻訳も相変わらず素晴らしい。

 

本書は短編集であるが、解説がないために各短編の書かれた時期がわからない。もしかすると長編の合間に書きためたものかもしれない。

特筆すべきは、短編だけに刑事弁護人の本音と苦悩が垣間見えるように感じることである。

例えば、「参審員」では、ある女性参審員が自らの実体験に基づく感情を法廷で漏らしてしまったために不公正として排除されるが、結末はその危惧感どおりとなり、司法制度の冷酷な無情さが描かれる。

また、「奉仕活動」では、貧しい移民の少女が苦学して弁護士となり刑事弁護人に憧れるが、実際に担当した事件の被告人は残忍な悪党であったことが法廷で明らかとなり、弁護人辞任を申し出るが裁判所に拒否される。その後は弁護人としての成果をなんとか挙げるが、苦い結末となる。

その他の短編も、人間の犯罪に至る暗い衝動や司法制度の矛盾をシニカルに描いたものが多い。

結果的に悪が罰せられずに終わる展開が多く、ドイツの刑事司法制度に対してやや厳しすぎるように感じる。

最後の短編「友人」の末尾では、筆者とおぼしき一人称の話者が刑事弁護人としてのむなしさや空虚感を吐露しているが、これが著者の本音なら弁護士人生としては残念なことだろう。

あるいは、そうした刑事弁護人としてのむなしさを埋め、精神の平衡を保つために著者は小説を書いているのだろうか?

 

 

201977日『イタリア・ルネサンスの文化』ブルクハルト

☆☆☆☆絢爛たるルネサンス絵巻。ただし、Kindle版は工夫がほしい。

イタリア・ルネサンスに関心のある人にとっては古典中の古典といえる名著の、待望された専門家による翻訳である。

翻訳者の新井靖一氏は『世界史的考察』や『ギリシア文化史』の翻訳も完成させたブルクハルトの専門家であり、本書の翻訳、注釈、解説、索引のいずれもが充実している。

本書を手に取ってまず最初に気づくのは次の目次に示された全体の構成である。

 第一章 精緻な構築体としての国家

 第二章 個人の発展

  第三章 古代の復活

  第四章 世界と人間の発見

  第五章 社交と祝祭

  第六章 習俗と宗教

ルネサンスといえば古代ギリシャ・ローマの文芸復興というイメージが強いが、本書はまずイタリアの国家や政治の問題から叙述を始める。イスラム勢力や東ローマ帝国と地中海交易で接し、商工業の発展を遂げた都市と市民階層の成長を背景としたヴェネツィアやフィレンツェなどの都市国家、すなわち中世的な共同体や国家ではない「精緻な構築体としての国家」こそがルネサンスの自由な空気をもたらしたカギだと著者が考えているからである。専制君主や大貴族もまた、こうした空気の中で因習的でない実力主義の時代となり、人文主義者を宮廷で重用したり芸術家を競って育てるようになる。

こうしたルネサンスの時代風景を、個人の発展、古代の復活、世界と人間の発見、社交と祝祭、習俗と宗教という文化の諸相ごとに詳細に分析していくわけであるが、その叙述の鮮やかさと生き生きとした具体的例示は読者をルネサンスのイタリアに連れて行くような観があり、「社交と祝祭」の章などはまさに絢爛たるルネサンス絵巻が展開される。

ただ、この著作はボッティチェッリやダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった著名な芸術家にはほとんど触れておらず、読者は肩透かしのように感じるかもしれない。しかし、本書の主題は美術案内ではなく文化史であり、美術については著者による『美のチチェローネ』(ルネサンス美術案内)やヴァザーリの古典『ルネサンス芸術家列伝』を参照してくれということであろう。そして、ここには「教養における運動は芸術における類似の運動に例外なく先行する」という著者の主張が反映している。それゆえ、著者は中世の宗教的ドグマから個人を解放する人文主義者の役割や古典古代の文芸の意義、例えば大ロレンツォの時代の新プラトン主義者のアカデミー、中でもピコ・デラ・ミランドラの異教的ともいえる哲学などを時代精神として重視するのである。しかし、著者は、こうした異教的解放が占星術や様々な迷信を流行させ後世まで影響を与えたことも指摘しており、それが自由放縦による人文主義者の没落と二重写しになっており、興味深い。

 

なお、Kindle版は6426円もしたが、紙の本をデジタル化しただけである。原注への文中からのリンクもないし、著作内の参照頁は紙の本のページでKindle版では意味がない。また、訳注は文中に括弧書きで書き込まれているが、ダンテやロレンツォ・デ・メディチ(大ロレンツォ)のような多数回登場する人名や項目まで繰り返し訳注が括弧でつけられており、極めて煩瑣である。訳注や人物説明は巻末につけて、文中からジャンプできるようにしてもらいたい。また、図版もカラーにしてほしかった。その点で☆一つ減らした。

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