2018年後半読書日記
【2018年後半 読書日記】
◎2018年12月23日『魔の山(下)(新潮文庫)』トーマス・マン
◎2018年12月9日『魔の山(上)(新潮文庫)』トーマス・マン
◎2018年11月26日『トーマス・マン作品集・20作品⇒1冊』
◎2018年11月19日『中世都市 社会経済史的試論 (講談社学術文庫)』アンリ・ピレンヌ
◎2018年11月11日『悪しき狼 刑事オリヴァー&ピア・シリーズ (創元推理文庫)』ネレ・ノイハウス
◎2018年11月8日『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』オリヴィエ・ゲーズ
◎2018年11月2日『聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形 (講談社学術文庫)』秋山聰
◎2018年10月30日『藤原彰子の文化圏と文学世界』桜井宏徳編著
◎2018年10月27日『文明の十字路=中央アジアの歴史 (講談社学術文庫)』岩村忍
◎2018年10月19日『ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み (講談社学術文庫)』ホイジンガ
◎2018年10月7日『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』デボラ・E・リップシュタット
◎2018年9月24日『国家の神話 (講談社学術文庫)』エルンスト・カッシーラー
◎2018年9月15日『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上下)(文春文庫)』デイビッド・ハルバースタム
◎2018年9月14日『社会学的方法の規準 (講談社学術文庫)』デュルケーム
◎2018年9月12日『神社崩壊(新潮新書)』島田裕巳
◎2018年9月5日『レッド 最終章 あさま山荘の10日間 (イブニングコミックス)』山本直樹
◎2018年8月20日『プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)』マックス・ウェーバー
◎2018年8月16日『トロイ (字幕版)』
◎2018年8月15日『蜜蜂』マヤ・ルンデ
◎2018年8月10日『EVと自動運転 クルマをどう変えるか (岩波新書)』鶴原吉郎
◎2018年7月28日『ルートヴィヒ(字幕版)』
◎2018年7月26日『関東大震災 (文春文庫)』吉村昭
◎2018年7月19日『怒る富士 上下 (文春文庫)』吉村昭
◎2018年7月15日『ワーグナー、指環の嘆き』上野直樹
◎2018年7月14日『聖職の碑 (講談社文庫)』新田次郎
◎2018年7月9日『死刑囚 グレーンス警部 (ハヤカワ・ミステリ文庫)』アンデシュ・ルーススンド
◎2018年7月2日『バロックの光と闇 (講談社学術文庫)』高階秀爾
◎2018年12月23日『魔の山(下)(新潮文庫)』トーマス・マン
☆☆☆☆マジックマウンテン
(上巻レビューに続く)
上巻の国際サナトリウムのやや淡々とした療養生活の物語は、下巻に入り俄然動きがめまぐるしくなる。
まず、セテムブリーニの好敵手ナフタの登場。啓蒙主義と進歩の理想を掲げる人文主義者セテムブリーニに対し、ナフタは保守反動のイエズス会士にしてブルジョア民主主義を否定するボルシェビズムやニヒリズムの共鳴者として激しい論争を繰り広げる。スコラ哲学を奉じるイエズス会士に社会主義を擁護させる設定が面白いが、主人公のハンス・カストルブは人間的にも思想的にもセテムブリーニに共感しつつも、ナフタの鋭い論理展開に惹きつけられていく。実際、著者はナフタの議論の方を長く丁寧に書き込んでおり、説得力という点ではナフタに軍配が上がると言ってもよいほどである。近代民主主義の世紀末的行き詰まりやロシア革命などの時代背景を踏まえ、著者は民主主義と自由のアポリアを提示し、読者に問題を投げかけているのである。このあたりの議論は、ワイマール民主主義が崩壊してナチスドイツの独裁政治が登場するのを予言しているかのようであり、冷戦崩壊後の現代においてもなお解決されないアポリアとして現代性がある。哲学的思想的な議論ではあるが、対立と矛盾を丁寧に読み解きたい。
その後、いとこヨーアヒムの死、ショーシャ夫人の帰還とそのパトロンの怪人物ペーペルコルンの登場、さらには降霊術の流行といったエピソードが語られるが、最後の方はやや付け足し的で、なくもがなという感もある。
こうした様々な体験を経て主人公の療養生活は無頓着で「放恣な形式の自由」に至るが、そうしたまどろみの自由が第一次大戦の「霹靂」で打ち破られて、物語は急転直下終局へ向かう。
なお、この著作の全編で主人公の音楽への愛着が語られ、それは第7章の蓄音機のエピソードで頂点に達する。もちろん、当時の蓄音機はモノラルの貧弱なものであったろうが、当時としては画期的な技術で感動をもたらしたことが感じられて興味深い。特に主人公は歌曲「菩提樹」に深い共感を寄せているが、この曲は言うまでもなくシューベルトの歌曲集「冬の旅」第5曲の有名な曲で、失恋した若者が菩提樹に愛の言葉を彫り、木の枝のざわめきに死への誘いを感じる場面が歌われる。この歌詞が主人公が兵士として突撃していく場面で再び引用されるのは主人公の死を暗示するものだろうか。ただ、この歌詞の翻訳部分は文語体の高踏的な訳になっていて、その意味がわかりにくい。現代語訳を別途参照した方がいい。
最後に、著書の表題である「魔の山」とはどういう意味か。原文は“Der Zauberberg”、英語では“The magic moutain”なので、「悪魔の山」(devil mountain)ではなく、「魔法の山」とか「魔術の山」といったニュアンスである。ちなみに、ベートーベンの第9交響曲の合唱で、“Deine Zauber binden wieder,・・・”(歓喜の不思議な力が、世間が厳しく分け隔てたものを再び結びつける)と繰り返し歌われるときのZauber(不思議な力)である。
文中にも「錬金術的魔術」という言葉が度々出てくるが、主人公が高地のサナトリウムという世俗から離れた環境で様々な精神的感情的陶冶を受けることを指しているのだろう。モラトリアムのようでいて、著者はこうした「精神と肉体の冒険」が人間形成にとって重要なものと考えているのである。
◎2018年12月9日『魔の山(上)(新潮文庫)』トーマス・マン
☆☆☆☆☆国際サナトリウムならではのBildungsroman
私事ながら短期間の入院生活を送ることになったのを機に、昔読んだ『魔の山』を読み直すことにした。
何と言っても舞台設定の国際サナトリウムが異彩を放っている。実在するスイスのダヴォスは保養地であるとともに、ウィンタースポーツで世界中から観光客が多数訪れる。したがって、サナトリウムで療養する患者も国際色豊かで、ドイツ人のほか、イタリア人やロシア人など多彩である。アルプスの美しい風景と目まぐるしく変化する気候、死と向き合う療養所と賑やかな観光地、こうした舞台の下で主人公が様々な体験を重ねながら人間形成していく。それがBildungsromanと言われるゆえんである。日本語では「教養小説」と訳すが、人間形成小説といった意味であろう。
ただ、主人公は無垢な少年ではなく、造船技術者として就職も決まった立派な大人であり、ハンブルクの商家出身の保守的な気風や思想を持っている。その主人公が、進歩的な民主主義の持ち主である人文主義者セテンブリーニの教育的言説を反発を感じながらも柔軟に受け入れ、他方で、療養所の死の引力やショーシャ夫人への愛欲に惹かれていくのが上巻の展開である。
この小説が書かれたのは第一次世界大戦後であるが、解説によると、ドイツ帝国の敗戦によってトーマス・マン自身が保守的な思想から西欧民主主義を受け入れることになったのが小説の背景にあるらしい。
大変長い小説であるが、療養所の多彩な患者や医師たちの人物造形が見事に描き分けられ、また国際サナトリウムの療養生活が興味深く飽きさせない。飛ばし読みせずに、ゆっくり味わって読みたい。
(追記)
上巻のクライマックス、「ワルプルギスの夜」の主人公の告白後のショーシャ夫人との長い対話のほとんどはフランス語で書かれている(訳文ではカタカナ表記)。念のために原文を見たが、この部分はフランス語のみでドイツ語の訳文は当然のごとくつけられていない。著者が想定する読者層の教養レベルの高さが理解できよう(なお、kindleで入手したドイツ語版Fischer Klassik PLUSでは付録Anhangとしてドイツ語訳がつけられている)。
◎2018年11月26日『トーマス・マン作品集』
☆☆☆☆芸術と世俗の対立をシニカルに
青空文庫でも読める実吉捷郎氏の翻訳をまとめたもので、さすがに翻訳文が古いが、大正から昭和初期の小説を読むような味わいがある。
トニオクレエゲル、トリスタン、神の剣、神童等を読んだが、いずれも芸術家と世俗の相克を描いたものである。
著者自身が芸術家なのだが、芸術家をむしろシニカルに突き放して描いているところが面白い。
「トリスタン」は言うまでもなくワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のトリスタン、「神の剣」はやはりワーグナーの「指輪」のノートゥング(神の剣)から着想を得たものと思われ、トーマス・マンがワーグナーの芸術を意識していたことが感じられる。そういえば、ワーグナーが死んだのはヴェニスである。
◎2018年11月19日『中世都市 社会経済史的試論 (講談社学術文庫)』アンリ・ピレンヌ
☆☆☆☆遠距離交易が中世都市をつくった
著者のアンリ・ピレンヌは中世社会経済史の碩学であり、山川の高校世界史にもその学説が引用されている。
著者は、古代・中世のヨーロッパ都市の興亡はもっぱら地中海やそれを起点とする大河沿いの商業と交易の発展によるとし、ゲルマン民族大移動で西ローマ帝国が滅びたときも地中海交易とその拠点であった都市は影響を受けなかったが、イスラム帝国が勃興して地中海の覇権を得たことで交易と都市は衰退し、農村社会になったという。いわゆる「ピレンヌ・テーゼ」である。
その後、10,11世紀以降、北イタリアから東方交易と商業が回復していくに従い、遠距離交易の拠点となる沿岸や大河沿いに中世都市が発展していき、封建領主、司教、国王の権力バランスに割り込むように自治権を拡大していく。本書では具体例を引用しつつ中世都市形成の経緯とその姿が鮮やかに描かれている。
シルクロードの交易を想起してもよいが、商業と交易の歴史発展における重要性を強く認識させる著作である。
翻訳については膨大で懇切丁寧な訳注がついており、基礎知識の理解を助けてくれる。
ただし、訳文は訳者自身が「読みやすさよりも原文に素直な訳文」にしたと後書きで書いているが、今日の読者にはいささか翻訳調でわかりにくく感じるところがある。例えば、「低地諸邦」という地域表現が多数出てくるが、これはおそらく原文のフランス語ではles pays basで、現代なら「オランダ」と訳すところを中世ではベルギーとルクセンブルクも含む地域ゆえに低地諸邦としたのだろう。しかし、それなら「ネーデルラント」(やはり「低地」の意味)としたほうがわかりやすかったと思う。
◎2018年11月11日『悪しき狼 刑事オリヴァー&ピア・シリーズ (創元推理文庫)』ネレ・ノイハウス
☆☆☆☆「悪い狼」とは誰のことか?
「刑事オリヴァー&ピア」シリーズもこれで6作目で、女性刑事ピアも首席警部になっている。このピアがおそらく著者の分身というところで、最も感情移入がされている。
児童虐待をめぐる大がかりな犯罪組織を題材とした小説だが、ストーリーテリングはさすがに巧みで、一見無関係な複数の物語が平行して進行し、それが次第に交錯して全体像が見えてくる。最初のうちは登場人物と日付の前後関係に注意して読まないと筋がつかめないが、途中からは話の展開にどんどん引き込まれていく。
善人が悪人になり悪人が善人になるどんでん返しや意表を突いたオチも十分楽しめる。
また、警察官の人間関係や私生活上の悩みが描かれるのも最近の警察小説の定番となった感がある。
このシリーズでは司法解剖の場面が多く登場するが、描写が極めて詳細で迫真性があり、著者が最新の司法解剖の現場を詳しく取材していることがうかがわれる。
なお、酒寄氏の翻訳は相変わらず素晴らしいが、この本では所々に硬い表現があるように感じた。表題の「悪しき狼」とは童話の赤ずきんなどに出てくる「悪い狼」(ドイツ語の原題も同じ 英語ではbad wolf)のことで、ここでは児童虐待をする大人のことを指しているのだから、そのまま「悪い狼」でよかったと思う。
◎2018年11月8日『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』オリヴィエ・ゲーズ
☆☆☆☆☆南米に逃亡したナチス残党の懲りない面々
アドルフ・アイヒマンと並ぶ著名な逃亡ナチス高官で、アウシュビッツ収容所の主任医官として恐れられたヨーゼフ・メンゲレの南米逃亡生活を描いた小説である。
アイヒマンもメンゲレもナチスドイツの敗戦後にアルゼンチンに逃亡したが、当時のアルゼンチンにはナチスを受け入れるドイツ人コミュニティがあったらしい。その後、独裁者ペロン大統領時代にはナチス残党はむしろ独裁者に庇護され、メンゲレも事業家として成功する。
しかし、そうした時代は長くは続かず、ペロンの失脚やイスラエル情報機関のナチ残党狩りが活発化すると、メンゲレの逃亡生活が始まる。アイヒマンがイスラエルに連行され、裁判にかけられて処刑されたことは当然メンゲレに衝撃を与え、日々脅えながらパラグアイやブラジルの逃亡生活を続けた。
こうした逃亡生活はドイツの裕福な実家の援助なくしては成り立たなかった。この著作には、メンゲレの実家の人々や逃亡生活を支えた周囲の人たちのことも詳しく触れられている。
メンゲレは医師であり科学者でありながら、ナチスの人種主義と優生思想に深く共鳴し、最後まで自らの残虐行為を悔い改めなかった。
ホロコーストを現実に実行した反人道的思想の持ち主や支援者が存在することは何も過去の話ではない。
この著書には、ナチスの経歴を隠して戦後を生き抜いた実業家や医師たち、収容所の人体実験に協力した製薬企業のこともさらりと触れられている。
時代状況が変わるとこうしたオポチュニストがどのように振る舞うか、よく見極める必要があろう。
◎2018年11月2日『聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形 (講談社学術文庫)』秋山聰
☆☆☆☆「聖遺物」この不思議だが侮れない世界
聖遺物とはキリストや聖母、あるいは諸聖人や殉教者の遺物のこと、遺体、遺骨、衣服はもちろん、成人が触れた様々なものが含まれる。
著者も序文で書いているが、ヨーロッパの古い教会や大聖堂の付属博物館に行くと、必ずと言っていいほど金や銀でできた容器やガラス容器をはめ込んだ金銀細工の聖遺物入れがあり、よく見るとガラス容器の内部に小さな骨などが入っていたりする。実はこれが金銀宝石よりも貴重なものとして扱われた聖遺物である。もちろん、キリストの架けられた十字架だの聖母の衣服だのが本物である保証はないし、聖人の遺骨が奇跡を起こすと言われても現代人にはピンとこないが、中世ヨーロッパの人たちは王侯貴族を先頭に聖遺物に熱狂し、教会設立には必ず何らかの聖遺物が必要だったという。
そう言えば、ケン・フォレットの『大聖堂』には修道院の宝であった聖人の骨が焼失したのを隠して、聖遺物がないと巡礼者や礼拝者が来なくなると危惧して偽造する場面があった。
ワーグナーの楽劇「パルジファル」もキリストの血を受けた「聖杯」をめぐる物語が展開するが、この「聖杯」ももちろん聖遺物である。
さらに、現代人もまた著名な芸術家や偉人の足跡をたどり、博物館に展示されたデスマスクや遺品を見て感動するわけだから、その心性は中世の人々の聖遺物への熱狂とそう遠く離れたものではない。例えば、中世盛んに行われた聖遺物展示会に来た観客のためのガイドブックなどは現代の美術展ガイドと基本は同じである。グーテンベルクの活版印刷術は聖遺物ガイド本のために発明されたというのもありそうなことに思える。
この著作にはそうした聖遺物をめぐる驚くべき事実が多数紹介されているし、アルブレヒト・デューラーの正面を向いた自画像とデューラーの本物の遺髪を並べると実物の力で迫真的な効果が得られるという興味深い考察も加えられている。
ただ、聖遺物崇拝に対する偶像崇拝であるとの批判や宗教改革以降聖遺物崇拝が廃れた事情について、もう少し詳しく紹介してほしかった。
◎2018年10月30日『藤原彰子の文化圏と文学世界』桜井宏徳編著
☆☆☆☆☆『源氏物語』の特権的地位を成り立たせたコミュニティ
藤原彰子とはもちろん藤原道長の娘で一条天皇の中宮、多くの人は「中宮彰子」または「彰子」としてなじんでいるが、誰それの妻とか母とかではなく「藤原彰子」と個人名を明らかにするのが、ジェンダーを意識した近年の傾向なのだろう。
この彰子に紫式部だけでなく和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔といったきら星のような宮中女性歌人が仕えて平安朝の華麗な女房文学サロンを形成していたのは有名な話であるが、それが藤原道長・頼通親子の政治権力維持と密接に絡み合い、『源氏物語』のいわば特権的地位にもつながっている。
『源氏物語』についてはその文学的水準の高さに驚嘆するだけではなく、権力者でもない一女性の紫式部が天皇や高位貴族らのきわどいゴシップや生々しい権力闘争を描く物語を書けたこと、さらに、それがベストセラー本のように公家社会で読み継がれてきた事実も驚くべきことであり、そのバックに藤原道長の存在とその意向がこれまでも指摘されていた。
この論文集は道長の娘彰子に光を当てて、18人の研究者が多角的に論じたものである。
すべてに目を通したわけではないが、例えば、『栄花物語』の一条天皇と彰子の描かれ方は『源氏物語』の桐壺帝と藤壺の描写と多数の箇所で似ているといったことから、前者と後者の話題を共通のものとするコミュニティが成立していたと論じられている(『栄花物語』の編者は赤染衛門といわれている)。そうすると、このコミュニティに属する人たちの間では、『源氏物語』の各編に書かれた物語はたんなるフィクションではなくもっと生々しい形で受け止められていたのかもしれない。いわば、『栄花物語』が歴史書の形で道長の栄華を権威づけるものなら、『源氏物語』はそれを文学的に昇華したもので、それゆえ特権的な作品として貴族社会で読み継がれてきたということか。
このように藤原彰子のサロンの生き生きとした、あるいは生々しい会話や活動ぶりを想像すると、『源氏物語』や他の女房文学を読む新たな興味がわいてくるだろう。
ただ、いかんせん専門書であるために分厚くとっつきにくいし、高価である。もっと一般読者向けの読みやすい解説書が書かれることを期待したい。
◎2018年10月27日『文明の十字路=中央アジアの歴史 (講談社学術文庫)』岩村忍
☆☆☆☆中央アジア史の数少ない概説書
この本が書かれたのは1977年だから、ソ連崩壊後の中央アジアの激動は反映されていないし、欧米列強進出後の中央アジアの近代史は駆け足で簡単に触れてある程度だが、古代から近世に至る部分は通史の概説書としてよくできている。
中国史の一部として、あるいはシルクロードの東西交渉史として触れられることがほとんどの中央アジア史を、東西トルキスタンに焦点を当てて概説したものは少ないのではなかろうか。現在は東トルキスタンは中国の新疆ウイグル自治区、西トルキスタンはカザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、アフガニンスタンにほぼ該当する。東西を分けるものはチベットからつながるパミール高原の急峻な山岳地帯であるため、東西で歴史の経過が異なっている。
点在するオアシス都市国家と草原を疾駆する騎馬遊牧民の歴史はまさしく「民族の興亡」というにふさわしく、繁栄と没落のダイナミックな展開に興味は尽きないが、著者は定住民と騎馬民族の攻防の局面よりも、交易による平和的共存の時代のほうが長かったという。
ただ、中国の歴史書やチンギス・ハーンの遠征記、あるいは玄奘三蔵やマルコポーロなどの旅行記などの史料で埋まらない空白部分の存在など、まだわからない部分が多いことも記されている。
ソ連崩壊後の西トルキスタンの諸国家独立や近年の中国の一帯一路政策により中央アジアは政治的経済的に変貌を遂げつつある。近年の研究も踏まえた概説書が望まれるところである。
◎2018年10月19日『ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み (講談社学術文庫)』ホイジンガ
☆☆☆☆☆「遊びの相の下に」文化を把握する壮大な企図と現代文明批判
「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)とは「ホモ・サピエンス」(賢い人)に対する言葉であり、著者が「遊び」を人間と文化の本源的な要素と考えていることを示している。
そのために著者は古今東西の歴史と文化、各民族の言語を鳥瞰して文化と遊びの深い関わりを縦横無尽に論じており、その博覧強記には驚かされる。日本語や日本の歴史に触れた箇所も多く、戦争の遊び的要素の例として上杉謙信が武田信玄に塩を送った話まで登場する。
ただ、注意すべきは著者の「遊び」の定義である。著者は「遊びのおもしろさとは何か」、「どうして人は遊びに熱狂するのか」と問いかけ、遊びは自由な行為、仮想・虚構の世界、時間的場所的限定、厳格な規則、秘儀的要素等の形式を持ち、闘技や演技として行われるという。
こうした定義の下で、裁判、戦争、哲学、詩、芸術などの文化と歴史の様々な相がとらえられていく。通説的で教科書的な歴史観や文明観にはない斬新な視点で、示唆に富む論考である。政治や経済の観点から歴史・文化をとらえると、支配、権力、利害得失、生産力といった観点が前面に出てくるが、遊びの相の下では、おもしろさやユーモア、あるいはルールとフェアプレーといったものが文化の不可欠な要素として見えてくる。
他方、19世紀以降の近現代の大衆文化については著者は厳しく、遊びの要素が衰退したと嘆く。遊びの典型に見えるスポーツや芸術の発展も、利益追求のプロと化したために遊びの要素が消えたという(ただ、この点については、一流のアスリートや芸術家は利益追求の次元より高みにいる存在であるがゆえに拍手喝采を浴びるのだと私は思う)。
その意味で著者の「遊び」は貴族趣味的な傾向が否定できないが、これはこの著書が書かれた1933年がナチズムやボルシェビズムが大衆を席巻した時代であるという背景と切り離せない。この点は最終章で「ピュエリリズム(文化的小児病)」が「偽物の遊び」として論じられるところで明らかとなる。著者はその特徴として、「ユーモアに対する感情の欠如、言葉に激しやすいこと、グループ以外の人に対する極端な嫌疑と不寛容、賞賛につけ非難につけ見境なく誇張すること、自己愛や使命感におもねる幻想に憑かれやすいこと」を指摘しているが、これらがナチズムやファシズムを熱狂的に信奉する若者らの運動を指すことは明らかである。後の時代で言えば文化大革命の「紅衛兵」やカルト集団にも当てはまる。
結論として著者は、「真の文化はある程度、遊びの内容を持たなくては成り立ちえない」と主張するが、これは文化が自己抑制と克己を前提とし、フェアプレーとユーモア、さらには道徳的良心を不可欠とするという重い含蓄のある言葉である。
◎2018年10月7日『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』デボラ・E・リップシュタット
☆☆☆☆☆歴史をめぐる裁判の困難さがよくわかる
ホロコーストのような著名な歴史的事件さえ、ひとたび否定論者によって裁判の俎上に上げられると、真実を明らかにするのがいかに困難で大変なことなのかがよくわかる著作である。
裁判は裁判官・陪審員の証拠に基づく心証のみで決まる。証拠にはもちろん人証(証人の記憶等)も含まれるが、生存者のほとんどいない過去の事実は当時の記録や図面等の物証によるほかない。そして、戦争犯罪のような非人道的行為では命令書などの証拠が作られないか、証拠隠滅されていることが多い。
しかも、イギリスの名誉毀損裁判では訴えられた被告がその言論の真実性を立証する責任がある。そのために被告となった著者は勝訴するために高額の弁護士費用を支払い、4年もの準備期間をかけて裁判に臨むことになった。
著者はホロコースト研究者としての自負にかけて裁判を受け、その支援者にも恵まれたが、通常の著者や出版社なら名誉毀損裁判を起こされることを恐れてこうした歴史ねつ造の批判を自制し、訴えられたら早々に和解で譲歩することにならざるを得ないだろう。こうして歪められた歴史認識が大手を振ってまかり通ることになる。
しかし、ホロコーストや戦争犯罪のような人道に関する問題では、いかに馬鹿馬鹿しく破廉恥な歴史ねつ造でも軽視すべきではない。この著作には、原告アーヴィングのガス室否定やヒトラー免罪の様々な手法が事細かに批判される法廷の尋問が再現されているが、こうした労力を費やしてはじめて歴史の真実が擁護されることが納得される。
あと、アメリカの法廷ものと違って紹介されることの少ないイギリスの裁判が、この著作ではリアルに再現されているのが興味深い。近年は制度が変革されつつあるとはいえ、法廷弁護士であるバリスターの活動ぶりや判事の訴訟指揮もよくわかる。
また、実際に裁判の被告になった著者が弁護士の尋問や裁判官の発言の一挙手一投足に不安や不満を抱く実感が書かれていて、当事者の気持ちがよくわかるのもユニークである。例えば、原告側の反ユダヤ主義の研究者の偏見と悪意に満ちた証言に腹を立てた著者が弁護士の厳しい反対尋問を期待していたら反対尋問なしで終わり、不満をぶつける場面がある。明らかにつまらない証言や悪意の証人は反対尋問しないのが法廷技術の常道なのだが、確かに当事者には面白くないことだろう。
(アウシュビッツ強制収容所 2010年8月撮影)
◎2018年9月24日『国家の神話 (講談社学術文庫)』エルンスト・カッシーラー
☆☆☆☆☆大家による同時代批判の書、現代もなお価値ある名著
私は40年近く前の学生時代に創文社版でこの著作を読んで深い感銘を受けたが、今回学術文庫版(kindle)を読み直して感銘を新たにするとともに、この著作は現代においてもなお広く読まれるべき名著であると感じる。
著者のE・カッシーラーは新カント派の哲学者として出発しカント全集の校訂で著名であるとともに、『啓蒙主義の哲学』等の名著を多数著した思想史の大家でもある。
この『国家の神話』は著者がナチズムを逃れて亡命し、アメリカ滞在中の1944年に書かれたものであるが、まさにナチズムやファシズムの勃興する同時代を生きた哲学者・思想史家である著者が、同時代の政治思想、政治潮流を「国家の神話」という切り口で批判的に総括し対決した渾身の著作である。
著者の問題意識は冒頭に次のように示されている。
「神話的思惟は、現代の若干の政治制度において、明らかに合理的思惟に対して優位を占め、・・・明白かつ決定的な勝利を獲得したかのようであった。この勝利はどのようにして可能であったか。」
この課題に対し、著者は神話とは何かから説き起こし、古代から近代までの政治思想史における神話との闘争を概観したうえで、20世紀の神話を論じる。第2部の思想史はさすがに大家の筆になるだけに、プラトンや中世神学思想が簡にして要を得て光を当てられ、後世の政治思想に多大な影響を与えたマキアヴェリの政治思想にかなりのページを割いて的確な評価が下される。その反面、著者の専門である啓蒙思想の社会契約論はあっさりと、しかし要を得た指摘がなされている。ただ、思想史にさほど興味のない人は第3部の20世紀の神話から読み始めてもよかろう。
本書の白眉は何と言っても第3部である。
まず、カーライルの英雄崇拝論とゴビノーの人種不平等論が詳しく検討される。これらはいずれも矛盾に満ち、論旨もお粗末なものだが、著者はこれらの持つ社会的影響力と政治的利用を重視して、あえてその問題点を丁寧に解明してみせる。
次にヘーゲルの国家哲学が取り上げられるが、この大哲学者に対する著者の態度はアンビヴァレントである。著者は、絶対精神たる神の歴史における顕現が国家であるとする歴史哲学の帰結が、絶対精神を「指導者」に置き換えられてファシズムに直結したと断言する一方で、ヘーゲルは「現実性」と「腐った現実」を区別したし、対立するものを受け容れて統一するヘーゲルの弁証法は差異を除去し抹消するファシズムとは異なると述べている。
シュペングラーの『西洋の没落』の運命論的悲観主義とハイデガーの実存主義に対する評価も厳しい。著者は、これらの新しい哲学は現代の政治神話に抵抗しうる力を弱体化させたとし、人間の文化生活の建設や再建に積極的に寄与する望みをすべて断念して、自らの根本的な理論的・倫理的な理想を放棄しているとする。
こうしたアカデミズムにおける思想的準備を経て、20世紀の政治的神話は新たな技術によって政治的武器とされた。その技術として著者が挙げるのは、言語の機能の変化(情緒に訴える呪術的言語の多用)とそれを効果的にする新しい儀式である。これらの政治的技術は、現代においては、はるかに発達したメディアや宣伝手段により強化されているといえよう。
著者は第1次大戦後のドイツの状況について、「絶望的な状況においては、人間はつねに絶望的な手段に訴えるであろう。」として、政治的神話を受け入れる土壌があったとしている。これもまた、冷戦崩壊後の地域紛争や宗教的原理主義者のテロを想起すれば、現代的な問題と言える。
最後に、この著作は哲学・思想を論じたものであるにもかかわらず非常に平明に書かれていて、翻訳もわかりやすい。母語ではない英語で書かれたことも一因であろうが、幅広い読者に読まれることを想定しているのである。
◎2018年9月15日『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(上下)』デイビッド・ハルバースタム
☆☆☆☆☆金日成の野心、マッカーサーの虚栄心
金正恩の核ミサイル実験で朝鮮半島危機が少し前まで現実のように語られていたが、あっと驚く米朝首脳会談で危機は遠のいたように見える。
しかし、元々北朝鮮に本気で戦争を遂行する国力などなく、他方、アメリカにしても、中東の油田地帯のイラクと異なり、はるばる遠い北朝鮮に遠征して多額の予算を費やし米兵の死傷者をだすだけの価値がないことは明らかだから、問題は戦争を回避する口実作りだけだっただろう。
このハルバースタムの労作を読むと、過去の朝鮮戦争自体がアメリカにとっては「忘れられた戦争」であり、思い出したくもないし、2度とやりたくない嫌な経験だったことがわかる。
東西冷戦時代は、朝鮮戦争は韓国と米軍が引き起こしたと北朝鮮側は主張していたが、今では北による侵略戦争であったことが通説となっている。しかも、この著作によると戦争は金日成の甘い見通しと野心で開始されたが、ソ連も中国もアメリカとの衝突には反対だった。そのためソ連は軍を派遣していないし、中国も北朝鮮軍の劣勢でしぶしぶ人民解放軍を派遣したが「義勇兵」などと称して、表向きは正規軍による参戦でないとの姿勢だったのである。
他方、マッカーサーも当初は戦争などないと甘く見ていたために出遅れて半島南端まで追い詰められ、ようやく仁川上陸作戦から反撃に出るが、本国の意向に反して北朝鮮全土を征服しようとして、北朝鮮の山岳地形と冬将軍による惨敗を喫し、38度線の停戦協定に至る。スタンドプレーと虚栄心が手痛いしっぺ返しを受けたわけである。
驚いたことに、日本軍との激戦に勝利した米軍の精鋭は日本占領後にほとんど入れ替わり、朝鮮戦争当時の日本占領軍は経験の少ない「張り子の虎」であり、しかも日本での天国のようなぬるま湯生活をしていたために、緒戦は実戦でほとんど役に立たなかったという。
このように、当時も今も、合理的に考えると北朝鮮で戦争を行うことは関係国は誰もが望んでいない。ただ、おかしな指導者や将軍の野心や虚栄心に振り回されないことが歴史の教訓といえる。
◎2018年9月14日『社会学的方法の規準 (講談社学術文庫)』デュルケーム
☆☆☆☆☆社会学のマニフェスト
マックス・ウェーバーとともに社会学の開祖と言われるデュルケームであるが、その学風と人物像はかなり異なるように感じる。
コントやスペンサーの社会学を承継しつつ、社会学の独自性とその存在意義について強い方法論的意識の下で書かれたものが本書である。
特に、哲学や心理学の方法との区別が強く意識され、「社会的事実」の独自性と客観性が繰り返し強調される。
社会的事実は個人の意識とは独立して客観的に存在し、個人を拘束し強制するものである。法律や道徳、慣習はその典型的なもので、それらの社会的事実を収集して考察することが社会学の基本なのである。
この社会的事実の独自性と客観性の強調は、デカルトから啓蒙主義に至る近代哲学の主観主義、認識論重視をおそらく意識したものであろう。カントが「コペルニクス的転回」と呼んだように、世界認識を個人の主体の側から認識論的に構成する近代哲学の発展は、個人の主体意識を覚醒し、啓蒙思想を経て、自由な個人が社会を形成する社会契約論的政治思想へとつながり、市民革命を生んだ。
しかし、自由な個人による社会契約という思想はあくまでもフィクションに基づく思考実験であり、歴史的社会的現実ではない。それゆえ市民革命を経た19世紀以降の社会は各国各民族により紆余曲折の歴史的展開をたどり、様々な社会問題に直面している。
こうした歴史的背景の下で、社会的事実を個人の意識から独立した客観的存在として考察する必要性が意識されたのであろう。
現代社会のもたらす様々な社会問題を、哲学や心理学ではなく、社会的事実と経験の収集からアプローチして解決を目指す。そうしたマニフェストとして本書の意義は今なお色あせない。
なお、翻訳はとても読みやすく、訳語も十分検討されており、その点でも星5つに値する。
◎2018年9月12日『神社崩壊(新潮新書)』島田裕巳
☆☆☆☆「宗教ではない」宗教の行方は?
富岡八幡宮の宮司刺殺事件は、地元に近い神社であるだけに大変ショッキングだった。
ただ、富岡八幡宮の事件と神社の財務状況に触れた第1,2章は週刊誌の記事などの引用がほとんどで、わかりやすくまとめられてはいるが新しいものはない。
しかし、神社本庁と現在の神社の関係について述べた第3章と第4章はさすがに専門家の筆になるもので、現在の神社の問題点がよくまとめられている。
神社(神道)は様々な神を崇拝する点でまぎれもない宗教なのだが、明治維新以後は天皇制国家の権威付けのために利用されて深く国家と結びつき、仏教やキリスト教などと矛盾しないように「神社は宗教にあらず国家の祭祀である」という神社非宗教論まで作り出された。しかし、非宗教とされたために神社は儀式・儀礼に専念することとなり、宗教としての本来の活動である宗教理論や教義の発展や布教活動はできなくなったといえる。その土地土地の多様な神々を祀っていた全国各地の神社は、皇祖神を祀った伊勢神宮を頂点とする序列に組み込まれ、神主は公務員である神官とされた。
現在の神社本庁のあり方はこうした戦前の「国家の祭祀」のスタイルを引き継ぎ、「神社本庁」などというあたかも官庁のような名称で国家との結びつきをめざし、神社祭祀の公的行事化や靖国神社の国家護持等の運動を展開した。しかし、戦後の神道指令と憲法の政教分離原則によってこれらは完全に失敗し、逆に津地鎮祭訴訟や愛媛玉串料訴訟、靖国法案の廃案等で「国家の祭祀」の不可能性が明白になった。
ちなみに、天皇の行っている皇室祭祀は皇室の私費である内廷費で賄われ、私的使用人である掌典職が祭祀を挙行しており、ここでも政教分離原則が貫かれている。唯一、新天皇の大嘗祭は規模の大きさから公費で援助されたが、これについては当然ながら憲法違反との批判があり、皇族からさえ異論が出たといわれている。
結局のところ、神社本庁のめざす「国家の祭祀」路線は戦前回帰のアナクロニズムであり、この路線では神社に未来はない。宗教の基本に立ち返って、教義と理論の発展と布教活動に地道に取り組むことが唯一の生き残りの道であろう。
◎2018年9月5日『レッド 最終章 あさま山荘の10日間
(イブニングコミックス)』山本直樹
☆☆☆イデオロギーとセクト、そこにないものはヒューマニズム
連合赤軍の浅間山荘事件が起きたのは私が中学生の頃で、彼らが一体何をやっているのかその意味がよくわからなかった。
この漫画ではそのあたりの意味が少しでもわかるのかと思って最初から全巻読んでいたが、昔よく聞いた上滑りのアジテーションをなぞった程度の会話しかなく、具体的戦略も展望もない「革命」イデオロギーとセクトの狭い人間関係の作り上げる異常心理を改めて感じさせられたくらいだ。
その反面、劇画調でない抑えた表現で淡々と描かれる非日常的なセクトの活動と、人間性をまったく感じさせない「総括」と殺人の連続は、かえってこの事件の凄惨さを寒々と描き出している。
結局のところ、この事件は後のオウム真理教事件や宗教原理主義者のテロと本質は同じなのだろう。
特殊なイデオロギーや教義を奉じる集団(セクト)が形成されると、集団心理によって行動が過激化していく。これは旧日本軍のような軍隊組織でも言えることだが、声高に過激な方針を唱えた者に大勢が同調していき、他方、穏健な意見を唱える者は「軟弱」と非難されて沈黙し、集団全体がどんどん過激化していく。
そのとき置き去りにされるものは、一般社会との絆であり、家族や友人たちとの人間的な温かい関係である。
◎2018年8月20日『プロテスタンティズムの
倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)』マックス・ウェーバー
☆☆☆名著の誉れ高いが、限定と留保が多すぎる
社会学の名著として誉れ高い本書であるが、著者自身が周到かつ用心深く多数の留保をつけて限定しており、理論の射程と有用性に疑問が大きい。
天職観念を説明した第1章の末には次のように述べられている。
「我々は近代文化の持つ一定の特徴ある内容のうち、どれだけを歴史的原因として宗教改革の影響に帰属させることができるか、ということだけを問題にする」
「資本主義の精神は宗教改革の一定の影響の結末としてのみ発生しえたとか、経済制度としての資本主義は宗教改革の産物だなどという馬鹿げた教条的テーゼを、決して主張してはならない。」
また、著書の最後では、資本主義成立後は天職観念は不要であり「我々は天職人たらざるをえない」とも書かれている。
要は、プロテスタンティズムは資本主義成立時のみ、しかも多くの要因のうちの1つとしての役割を果たしたとされるにすぎない。
著作の大部分は天職観念の成立とその宗教史的意味に当てられていて、その部分については緻密な議論が展開されているように見えるのだが、肝心の資本主義の現実の生成にそれがどのように機能したのかという具体的事実が示されていない。そのため、抽象的な理論を仮説的に提示しただけで、その検証が全くなされていないのである。
著者が描く改革派のピューリタン像は、理念型とはいえ原理主義者そのものである。天職観念を教条的に信奉し、倹約と蓄財に勤しみ、奢侈を忌み嫌う。さらにはスポーツや感覚芸術を嫌うので、イギリスではドイツに比べ音楽の発展が停止した(!)ともいう。このような原理主義者が資本主義成立時の資本家や労働者の多数を占めていたとは思えないし、ピューリタンの末裔である現代アメリカの大富豪の貪欲と贅沢ぶりを見ても、説得力に欠ける。
また、このような極端な原理主義を再評価する意味が一体どこにあるのかわからない。もとよりこれを現代資本主義の精神や倫理となしえないのは当然である。
そもそも資本主義が成立するためには、新大陸や農村の収奪による資本蓄積過程や身分的束縛を離れた流動的な労働力の大量の供給、さらには生産力の飛躍的な向上と大規模な市場の存在が不可欠であるが、そのあたりの経済学的基礎を著者がどれだけ理解しているのか、実は怪しい。
著者がマルクスを強く意識して批判しているのはわかるが、マルクスは成立した資本主義の現実を分析してその動態を明らかにしたのであって、「資本主義の精神」の成立史を論じたわけではないから、批判がかみ合っているとも思えない。
逆に、資本主義成立後は天職人になるように強制されるという著者の理論こそが経済的決定論にほかならないが、実際には、後発資本主義国の資本主義導入の困難さを見ればそのような理論は当てはまらないことがわかる。
教育により勤勉と倹約の倫理が徹底されている国ほど資本主義になじみやすいのは当然であり、宗教改革をあえて持ち出すまでのこともないようにも思われる。
◎2018年8月16日『トロイ
(字幕版)』
☆☆☆☆☆イラク戦争へのハリウッド的風刺
「イーリアス」が好きなので、この映画が公開された直後に映画館で見た。
第一印象は、これは多国籍軍によるアフガン報復戦争やイラク戦争の風刺だというもの。実際、公開はイラク戦争終結翌年の2004年である。
イーリアスではトロイの王子パリスのスパルタ王妃ヘレナの誘拐への報復と神々の嫉妬がトロイ戦争の原因となっているが、実際のトロイ戦争は交易で豊かなトロイの富をギリシャ都市国家連合が征服して略奪した覇権戦争だった。アフガン、イラク戦争も報復と大量破壊兵器所持を口実にした中東地域の覇権戦争にほかならなかったことが今では明らかだ。
この映画では、ギリシャ都市国家の盟主アガメムノンの醜い覇権の意図とそれに従わされるオデュッセウスほかの諸王の関係が、アメリカに追随させられる西欧諸国の姿を彷彿させる。
ただ、映画の出来栄えはさすがハリウッド的な大スペクタクルで見応えがある。特に、ブラッド・ピットのアキレスが素晴らしい。スタローンやシュワルツェネッガーのような筋肉美でなく、引き締まった肉体で素早く華麗な太刀さばきを見せてくれる。
イーリアスの物語には有名な木馬の計略はなく、アキレスがヘクトルを倒し、その遺骸を父プリアモス王自らが引き取りに現れる感動的な場面がクライマックスとなっている。この映画でもその点は同じであり、木馬の場面以後は観客サービスのおまけにすぎない。
イーリアスと異なる細部は映画的脚色であり、元々史実でない以上、批判にはあたらない。
◎2018年8月15日『蜜蜂』マヤ・ルンデ
☆☆☆問題提起は重要だが、科学的には疑問が残る
養蜂群の大量崩壊が深刻な問題であることは知っているが、その原因はまだ解明されていない。農薬が原因だという説が有力で、EU諸国では規制を実施して養蜂群が回復傾向にあるともいわれている。
また、主要作物であるイネや麦、トウモロコシなどは風媒花で蜜蜂とは関係ない。
こうしたことを考えると、蜜蜂絶滅で人類が「全般的崩壊」に至るという未来像はいささか誇張しすぎに感じるし、一党独裁の管理社会の中国だけが人工授粉で生き延びるというシナリオも疑問が大きい。なぜなら、民主主義や言論の自由がない国ほど環境汚染がひどいからだ。
物語としては、養蜂が注目され始めた19世紀初めと養蜂群の崩壊が顕著になった21世紀初めと全般的崩壊後の未来を並行して描く構成は面白いが、登場人物が思い込みが強すぎたり、挫折に弱かったりで今ひとつ魅力に欠け、感情移入しづらい。
◎2018年8月10日『EVと自動運転 クルマをどう変えるか
(岩波新書)』鶴原吉郎
☆☆☆☆技術革新とビジネスモデルの変化はわかるが、まだ半信半疑・・・
EVについては、最大市場の中国がガソリン車のひどい大気汚染に悩まされていることや排ガス不正問題から、その動機付けはわかりやすい。ただ、後発メーカーがエンジンを使うハイブリッド技術などでは不利だがモーターなら参入しやすいという理由付けはなるほどと思った。また、燃料電池車が水素燃料の確保に難があることはわかりやすいことだ。
ただ、EV用の電池の供給と発電でかえってエネルギーロスと環境汚染が起きるのではないかとの疑問は払拭できない。
他方、自動運転については各社が熱心に開発を進めているのは知っていたが、その理由がわからなかった。人間の五感と脳の瞬時の判断による運転を機械に置き換えるのはほとんど不可能に思われるし、仮にある程度までできたとしても大変な技術開発と費用を要することは明らかだ。それだけの労力と費用を費やす価値がある技術なのか。運転手がいればいいだけではないかと思う。
確かに、無人タクシーやコミュニティ・カーのような利用はあり得るかもしれないが、それとてもあえて「無人」にこだわる理由がわからない。先進国は少子高齢化で運転手が足りなくなるといわれても、全世界的には労働力不足ということはない。
また、自動車愛好家は自分で運転することが好きな人だと思うが、そういう人が高価な自動運転車なんて買うだろうか。
とまあこのように半信半疑ではあるが、ブラウン管テレビが液晶テレビに取って代ったり、ガラケーがスマホに変わったり、レコードがCDやDVDに、さらには音楽ダウンロードに変わったりしたように、ビジネスモデルがその流れで確立すると雪崩を打ったように世の中が変わっていく。
巨大な自動車産業も家電や音楽産業のように淘汰されてしまうのだろうか?
◎2018年7月28日『ルートヴィヒ(字幕版)』
☆☆☆どうしてもヴィスコンティの名画と比較してしまう
ワーグナーのファンで、ノイシュバンシュタイン城にもリンダーホフ城にも行ったことがあり、もちろんルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルートヴィッヒ」は何度も見ている。
しかし、あのイメージを期待しているとがっかりするだろう。
肝心のワーグナーがほんの脇役で、バイロイトも「指輪」も出てこない。ヴィスコンティの映画では全編を「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲や「タンホイザー」の夕星の歌といった官能的な音楽が流れ、映像も耽美的なシーンの連続で酔わせる。配役もルートヴィッヒ役のヘルムート・バーガーやエリザベート役のロミー・シュナイダーらが監督の意図に応えて気品と威厳のある名演をこなしている。一言で言えば、貴族趣味と没落の美学をこれ以上に体現した作品はないと言っていい。
おそらく、このリメイク版はヴィスコンティを超えるなどという野望は捨てて、あえて全く違うコンセプトで映画をつくったのだろう。
つまり、ルートヴィッヒの人物像を、当時のバイエルン王国をめぐる政治史から光を当てたドラマにするという方向だ。
そのために、大臣たちの思惑や鉄血宰相ビスマルクのドイツ統一にバイエルンが巻き込まれていく歴史がよくわかり、それなりに楽しめる。
また、ルートヴィッヒの謎の死についても1つの解釈を示しており、これもそれなりに説得的である。
しかし、・・・ワグネリアンやヴィスコンティの名画に酔ったことのある人ならば、どうしてもヴィスコンティの名画と比較してしまい、配役の小粒さや卑俗なドラマ展開にがっかりしてしまうのだ。
◎2018年7月26日『関東大震災
(文春文庫)』吉村昭
☆☆☆☆☆災害の続く昨今、あらためて学ぶことが多い
関東大震災について予兆の段階から震災後の処理まで、膨大な資料の取材に基づき書かれた労作であり、災害の続く現在の状況であらためて学ぶことが多い。
まず、東京の被害のイメージが強いが、震源地は相模湾で、神奈川県や千葉県の被害も津波も含めて極めて大きかったことがわかる。横浜市は壊滅だし、東海道線も寸断し、国府津では電車が海に転落する事故まで起きている。
次に、地震による圧死も多いが、地震直後の火災のすさまじさがよくわかる。大規模な火災は上昇気流を生んで、火炎の竜巻のようになって都市をなめ尽くす。特に印象的なのは、地震から家財道具を持って逃れた人たちの荷物に引火して火災が広がることと、指定された避難場所に大勢集まっているところを火災が襲って、荷物を炎上させて莫大な数の犠牲者が出たこと。
情報の途絶と流言飛語も恐ろしい。現在のようにインターネットも携帯電話もないから、何日も情報が伝わらない状況が続き、そうした中で「朝鮮人の襲撃」などというデマが簡単に広がってしまう。朝鮮人の襲撃はその後の警察等の調査で完全な事実無根だと判明するが、最初は官民巻き込んだ大騒動となり、自警団によって数千人もの朝鮮人が殺され、朝鮮人と間違えられた日本人が多数殺されたり朝鮮人を保護した警察署まで襲撃されるほどだった。まさに狂気の沙汰である。
火事場泥棒や火事場強盗もひどかった。東日本大震災ではそうした犯罪が少なかったことが賞賛されたが、100年前の日本ではとてもそうはいかなかったことがわかる。これは東北人の善良さ故か、機敏な被災救援活動のたまものというべきか。
震災後の復興では、何万もの死体の処理や膨大な廃棄物の処理、避難民のし尿の処理等の都市機能の問題を取り上げているが、これはまさに現代でも同じ問題と直面しており、日常では全く気づかない都市インフラの重要性と、それが損なわれたときの対策の必要性がよくわかる。
◎2018年7月19日『怒る富士 上下
(文春文庫)』吉村昭
☆☆☆☆☆災害と行政、今も繰り返される問題
大震災、火山噴火、集中豪雨の被害を身近に体験している今、この本を読むと全く昔の話とは思えない。
原発事故でうち捨てられた地域と人々のことを例に挙げたレビューもあったが、遡ればアジア太平洋戦争末期の大空襲や原爆による被災や満州に放置された残留孤児のことを想起してもよい。
被災者に対して国や地方行政の取る態度は、為政者や行政担当者が被災者の救済を第一に考えるか、国や行政の運営や予算、あるいは自己の出世や保身を第一に考えるかで全く異なってくる。
この本は宝永の富士山大噴火が周辺地域にもたらした巨大な降灰被害と江戸幕府の対応を、膨大な資料と調査を踏まえて明らかにした労作であり、幕府内の派閥争いのために「亡所」とされた被災地の村々の悲惨な運命を余すところなく描いている。
しかし、その中でも被災地救済のために私財と命を賭けて闘った代官がいたことが共感と感動をもって描かれており、時代劇の悪代官のステレオタイプを払拭するものとなっている。
また、「忠臣蔵」のドラマでは浅野内匠頭切腹の陰の悪役のイメージの柳沢吉保が、この著作では良識ある幕府官僚として好意的に描かれており、歴史上の人物の評価の多面性が興味深い。
◎2018年7月15日『ワーグナー、指環の嘆き』上野直樹
☆演出家のお遊び。初心者には勧められない
Kindle版の安さを見て買って見たが、内容はスカスカでガイド本としては薄すぎ、かつ、ワーグナー初心者には全く勧められない代物である。
指輪の現代演出は1970年代末のブーレーズ指揮、シェロー演出のバイロイト公演以来だろうが、当時は衝撃的だったこの演出も今では古典的でワーグナーの意図を体現したものに思えるほどだ。
昨今の演出はもはや演出家のお遊びというほかなく、作者の意図や理想を全く無視している。
指輪について言えば、元は最後の「神々の黄昏」にあたる「ジークフリートの死」の物語に感銘を受けてワーグナーは創作を始め、最後に物語の起源としてラインの黄金の奪取の物語が作られた。だから「ラインの黄金」は神々の滅亡への歩みを説明的でシニカルに描いているのだ。
しかし、最後に付け足されたこの序夜の物語で全編を卑俗で矮小あるいはグロテスクなドラマに演出してしまうのは原作の冒瀆であろう。
神々しさや英雄的な行為への感動や極大化した愛憎への陶酔が得られないワーグナーなど見たくないと思う。
◎2018年7月14日『聖職の碑
(講談社文庫)』新田次郎
☆☆☆☆山小屋損壊の事情に疑問が残る
「八甲田山死の彷徨」の後に書かれた著作であり、気象遭難に至る経緯に同書を連想させるところがある。
予算上の制約とはいえ地元の案内人を雇わなかったことや、校長の指揮に服さない青年団員を同行させたために危機的状況の下で青年団員がパニックに陥って指揮系統が崩壊したことなどは、八甲田山の遭難と似ている。
ただ、著者は登山を企画し引率した赤羽校長には同情的であり、登山をたんなる心身鍛練ではなく実践的な教育と位置づけ、その準備のための案内書や気象条件の直前までの確認も怠っていなかったとしている。記念碑が建てられた経緯も「長野県は山国だから登山を否定すべきでない」という県当局の好意的な姿勢が紹介されている。
ただ1点、最後まで読んで疑問に感じたのは山小屋損壊の事情である。一行は急激な気象変動に対し山小屋に避難して一夜を過ごそうとしたが、登山直前の地元への確認では不完全ながら使用できたはずの山小屋が完全に損壊して土台の石垣しかなく、建物の木材が焼かれていた。そのために風雨が十分しのげず深夜パニックに陥った青年団員らが勝手に脱出して大混乱に陥るのであるが、山小屋が不完全であっても残っていれば台風が過ぎ去るまで全員が避難できたはずであり、その意味では最も重要な遭難原因であろう。この点については、登山開始直後に出会った3人の下山者に山小屋のことを尋ねたところ、「自分たちはそこに泊まって無事降りてきた」と答えつつ、済まなさそうな顔で急いで降りていったとこの本には記載されている。つまり、この下山者たちが前夜山小屋に泊まり、建物を壊して焼いて暖を取ったのに、そのことを隠して虚偽の回答をしたと著者は示唆しているわけだ。これは登山者にあるまじき行為であり、遭難事件後に責任追及されてしかるべきはずなのに全く触れられていない。
下山者と出会ったことは公式記録にもあるが、この会話は著者のフィクションなのかもしれない。しかし、そうだとしても重要な伏線として示されたことが後に何ら触れられずに終わるのは、小説として不完全といわざるをえない。
◎2018年7月9日『死刑囚
グレーンス警部 (ハヤカワ・ミステリ文庫)』アンデシュ・ルーススンド
☆☆☆☆EU から見た死刑制度
スウェーデンで重傷害罪で逮捕されたカナダ国籍の男が、実はアメリカで死んだ死刑囚だった。
この小説の前半は謎の男がどうやって生き延びてスウェーデンに来たかの解明にあてられるが、後半は死刑囚の送還を求めるアメリカの被害者家族とそれを阻止したい主人公らの暗闘が描かれる。
先ごろ日本で執行されたオウム真理教幹部の大量処刑にEU は抗議の意思表明をしたが、この本はEU 諸国民の死刑に対する価値観を知る上で有益である。彼らは建前ではなく本音で、国家が人命を奪う死刑が野蛮で許されないものと考えている。
死刑の手続きと執行の実態がリアルに描かれているのは、死刑は観念的なものではなく、まさに人を殺すことだと示すためだろう。この点、日本では死刑執行は徹底的に秘匿され事後的に公表されるだけで、「国家が人を殺す」ことへの生々しい実感が持てないようにされており、したがって、その非人道性や不条理についての議論が深まらないのである。
ただ、こうした死刑制度という重いテーマを扱うものとしては、小説の最後のとってつけたような不自然な後日譚(いかにも小説的ひねり)はなくもがなであり、星1つ減らした。
◎2018年7月2日『バロックの光と闇
(講談社学術文庫)』高階秀爾
☆☆☆☆バロックとは何かがよくわかる名解説。図版がカラーでないのが残念。
昔、同じ著者の『ルネッサンスの光と闇』を読んで感動し、その後フィレンツェやローマなどのイタリアのルネサンス美術をたくさん見て回ったのを思い出す。
この本は、バッハ全集の各巻に連載していたということで、テーマが短く区切られていてとても読みやすく、かつテーマごとに図版がつけられていて便利である。
しかも、kindleで読めば図版が拡大して見られるから、文庫本の小さな図版よりもずっとよくわかっていい。
ただ、残念なのは図版が白黒でカラーでないこと。文庫本なら仕方ないところだろうが、元の単行本はカラーだったのではなかろうか?
電子書籍にするに当たってカラー図版にするようにしてもらえれば☆5つにしたところだ。
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