【2023年後半 読書日記】

 

◎2023年12月29日『小説小野小町 百夜』髙樹のぶ子

◎2023年12月23日『世界 2024年1月号』

◎2023年12月23日『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』吉原真里

◎2023年12月19日『キリストと性 西洋美術の想像力と多様性』岡田温司

◎2023年12月17日『二十世紀のクラシック音楽を取り戻す』ジョン・マウチェリ

◎2023年12月10日『指先から旅をする』藤田真央

◎2023年12月9日『アルキメデスの大戦(38)』三田紀房

◎2023年12月8日『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ:「もう一度始める」ための手引き』エディ・S・グロード・ジュニア

◎2023年11月29日『親密な手紙 (岩波新書)』大江健三郎

◎2023年11月24日『南北朝正閏問題』千葉功

◎2023年11月20日『私説ドナルド・キーン』角地幸男

◎2023年11月17日『アマゾン500年 植民と開発をめぐる相剋』丸山浩明

◎2023年11月9日『創造論者vs.無神論者 宗教と科学の百年戦争』岡本亮輔

◎2023年11月5日『東京史 ─七つのテーマで巨大都市を読み解く』源川真希

◎2023年10月26日『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』ホンダ・アキノ

◎2023年10月23日『文藝春秋2023年11月号』

◎2023年10月22日『ギリシャ人ピュテアスの大航海』バリー・カンリフ

◎2023年10月16日『デンマークに死す(ハーパーBOOKS)』アムリヤ・マラディ

◎2023年10月11日『古代中国 説話と真相』落合淳思

◎2023年10月9日『インドシナ』(映画)

◎2023年10月9日『源氏物語を読むための25章』河添房江・松本大編
◎2023年10月6日『平治の乱の謎を解く』桃崎有一郎

◎2023年10月1日『分断を乗り越えるためのイスラム入門』内藤正典

◎2023年9月30日『報道弾圧 ―言論の自由に命を賭けた記者たち』東京新聞外報部

◎2023年9月26日『福田村事件』辻野弥生

◎2023年9月24日『上昇(アップスウィング)』ロバート・D・パットナム他

◎2023年9月15日『神』フェルディナント・フォン・シーラッハ

◎2023年9月14日『日本の西洋史学 先駆者たちの肖像』土肥恒之

◎2023年9月10日『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』ナンシー・フレイザー

◎2023年9月9日『マルモイ ことばあつめ』(映画)

◎2023年9月9日『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』(映画)

◎2023年9月5日『キーウの遠い空 戦争の中のウクライナ人』オリガ・ホメンコ

◎2023年9月1日『大怪獣のあとしまつ』(映画)

◎2023年8月30日『猟犬』ヨルン リーエル ホルスト

◎2023年8月29日『警部ヴィスティング 疑念』ヨルン・リーエル・ホルスト

◎2023年8月28日『警部ヴィスティング 悪意』ヨルン・リーエル・ホルスト

◎2023年8月26日『警部ヴィスティング 鍵穴』ヨルン・リーエル・ホルスト

◎2023年8月24日『警部ヴィスティング カタリーナ・コード』ヨルン・リーエル・ホルスト

◎2023年8月23日『シャイロックの子供たち』(映画)

◎2023年8月20日『ギャンブル依存 (平凡社新書)』染谷一

◎2023年8月17日『B-29の昭和史』若林宣

◎2023年8月14日『ミュージック・ヒストリオグラフィー』松本直美

◎2023年8月6日『差別と資本主義』トマ・ピケティ他

◎2023年8月5日『嗚呼!! 花の応援団』どおくまん

◎2023年8月3日『彼女はマリウポリからやってきた』ナターシャ・ヴォーディン

◎2023年7月30日『歴史・戦史・現代史 実証主義に依拠して』大木毅

◎2023年7月27日『カラー版 名画を見る眼Ⅱ (岩波新書)』高階秀爾

◎2023年7月26日『虎と十字架 南部藩虎騒動』平谷美樹

◎2023年7月26日『ケルン・コンサート(CD)』キース・ジャレット

◎2023年7月22日『軋み (小学館文庫)』エヴァ・ビョルク アイイスドッティル

◎2023年7月20日『ある行旅死亡人の物語』武田惇志、伊藤亜衣

◎2023年7月18日『天災か人災か? 松本雪崩裁判の真実』泉康子

◎2023年7月16日『東北史講義【近世・近現代篇】』東北大学日本史研究室

◎2023年7月14日『東北史講義【古代・中世篇】』東北大学日本史研究室

◎2023年7月10日『バレエの世界史 美を追求する舞踊の600年』海野敏

◎2023年7月8日『文藝春秋2023年7月号』

◎2023年7月4日『ごまかさないクラシック音楽(新潮選書)』岡田暁生、片山杜秀

◎2023年7月3日『J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲』キース・ジャレット


 

◎2023年12月29日『小説小野小町 百夜』髙樹のぶ子

☆☆☆☆☆女性の視点で描いた小野小町

前著の『小説伊勢物語 業平』(レビュー済み)が素晴らしかったのでこちらも読んだが、期待通りの素晴らしい作品で、これまでにない小野小町像が描かれている。

前著では表題のとおり『伊勢物語』が大きな手がかりとして存在し、主人公の「昔ある男」を小説的想像力で再構成して描いたが、小野小町の場合はその生涯がほとんど不明で、古今和歌集に18首の歌が残されている程度なので、この残された和歌に沿って、著者の自由な想像力で小町像を描き出している。

 

ところで、小野小町といえば古今和歌集の六歌仙に挙げられた女流歌人という以上に、絶世の美女として有名であり、それ故に男性の視点で人を寄せ付けない冷たい女性のように貶められ、通い詰めた男(深草少将)の怨念で悲惨な末路をたどるという能の演目(観阿弥作「卒塔婆小町」)まである。著者はこれを、「千年を超す男中心の社会の中で造られた、美女零落の物語」(あとがき)と呼ぶ。

本書の表題はこの「卒塔婆小町」の物語にちなんだものだが、「百夜」の物語を少女時代の性被害とそのトラウマの物語へと換骨奪胎し、小町の名誉回復を図っている。

著者の描く小町像は、少女時代から晩年まで凜とした芯の強い女性像であり、その歌も「哀れ」と美だけではなく「媚びへつらいのない」感性に正直な歌だという。

 

本書の登場人物には、父とされる小野篁、前著の在原業平、文屋康秀などの古今集の重要歌人がそれぞれのキャラクターを際立たせて描かれていて楽しめるが、とりわけ良岑宗貞(出家後は僧正遍昭)が生涯の恋人として重要な役割を果たしている。小説的には、宗貞との恋と百夜の物語がロマンの核といえる。

時代背景としては、薬子の変と承和の変、藤原良房による藤原北家の権力確立の時代であるが、歴史的事件はさらりと触れられている程度である。

 

なお、前編と後編の前に大野俊明氏のカラー挿絵が4枚ずつ添えられているが、物語の内容に合わせ、かつ小町の歌を引用した作品で、柔らかな線と鮮やかな色彩がとても美しい。  


 

◎2023年12月23日『世界 2024年1月号』

☆☆☆☆電子書籍版が出たのはいいが・・・

過去のレビューで、「『世界』はなぜ電子書籍版がないのか」と苦言を呈してきただけに、電子書籍版が出たのはともかくもよろこばしい。

しかし、買ってみると電子書籍版といってもプリントレプリカ形式である。これでは画面の小さいスマホでは読みづらいし、マーカーをつけることもできない。『文藝春秋』などは通常の電子書籍で、読みやすく字を大きくしたりマーカーをつけたりできる。手間と費用の問題かもしれないが、通常形式の電子書籍にしてほしい。

あと、表紙もリニューアルされたようだが、ポップというか、どうにも軽すぎて私は以前のほうがよかった。

 

内容については、『世界』らしいリベラルな構成になっている。多和田葉子さんのベルリン発の随筆や国谷裕子さんのインタビューは新機軸だろうか。なかなかいい。

他方、特集1のガザとウクライナの戦争については、人道危機と国際法の観点からの記事に注目したが、ジェノサイドの様相を呈しているイスラエルのガザ侵攻を国際社会がどう止めるのか、もどかしさと危機感は共有できるが具体的方策は見えない。

イスラエルの無法を糾弾する岡真理論文に至っては、ハマスとイスラエルの戦争ではなく、パレスチナ人の解放戦争だというが、それではハマス以外のパレスチナの人々に対する攻撃まで正当化してしまうのではないか。

また、ウクライナ戦争の即時停戦を求める松里論文の論調は、まるでロシアのスポークスマンである。現在はサンクトペテルブルクに居住しているとのことだが、ロシア側の情報に偏りすぎではないかと思う。例えば、戦争の死傷者をウクライナ側を出典を示さず20万人、ロシア側はアルジャジーラの情報で死者のみ5万人と紹介しているが、ロイターを始め多くの報道ではロシア側の死者がはるかに多い。これでは情報操作である。東部のドンバス紛争の位置づけやマイダン革命の理解についてもロシア側に偏しており、侵略戦争における「正義」をあまりに軽視していると感じる。



◎2023年12月23日『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』吉原真里

☆☆☆英雄の私生活をどこまで書くべきか?

レナード・バーンスタインこそ「現代の英雄」と呼ぶにふさわしい。

2次大戦中の1943年、ブルーノ・ワルターの代役で弱冠25歳ながらニューヨークフィルの指揮者としてカーネギーホールにデビュー。指揮者としてのキャリアを重ねつつ、作曲家としても「ウエストサイド・ストーリー」などで才能を発揮。また、自由と平和を求める国際運動の先頭に立って活躍し、戦後の「赤狩り」の対象となる一方(友人のJF・ケネディに助けられた)、冷戦時代は西側の音楽家の代表のように扱われた。本書にも挙げられている1985年の広島反核平和記念コンサートのシンボルとなり、ベルリンの壁崩壊時にはあの感動の第九を指揮。最晩年には札幌でPMF音楽祭を主催し、若手演奏家に感銘を与えた。

私自身、バーンスタインが1980年代に多数のオーケストラと録音したマーラー交響曲全集を首を長くして買いそろえたし、1970年代にグラモフォンに映像を残したウィーンフィルとのベートーヴェン交響曲全集やピアノ協奏曲全集は繰り返し見ている。

 

これだけ多彩な活動をしていたバーンスタインであれば、伝記として書くべきことは多数あると思うが、さらにそのプライバシーの深部にまで立ち入って本にする必要があるだろうか。

もちろん、日本人との親密な交流があったこと自体は驚きだし、彼らがバーンスタインの日本公演やPMF音楽祭を支えていたことは記録に値する。しかし、今で言う「推し活」のようなファンレターや同性愛者としての熱烈な長文のラブレターを全文掲載するのはいかがなものか。

特に、後者(「クニー」)はアメリカ議会図書館のバーンスタインコレクションに所蔵されていたその膨大な手紙を、非公開にもかかわらず著者に誤って開示されたのがきっかけという。クニー本人は著者のレターに対して、これを本で公開することを固く断っていた。当然だと思う。にもかかわらず著者の熱意で結局は押し切った形になっている。

確かに、バーンスタインとクニーの交流には興味深いものもある。特に、あの名盤『トリスタンとイゾルデ』のミュンヘンでの収録に同行した話、カール・ベームやカルロス・クライバー、フランコ・ゼフィレッリといった著名人とバーンスタインの親密な会合に同席した話などである。ただ、ゼフィレッリがバーンスタインに言った「海で釣った魚は戻してやらないといけない」という言葉は、彼らがクニーをどう見ていたかを暗示している。クニー自身は自らをイエスを慕う弟子ヨハネになぞらえていたというが。

 

とはいえ、バーンスタインの日本との関わりを中心にした伝記としては、弟子の小澤征爾や大植英次、佐渡裕らのことも言及しており、よく書けていると思う。

最後に、広島平和コンサートの際のバーンスタインの言葉を引用する。

「どんなに公式に正当化されたものであれ、殺戮は殺戮だということ。戦争は意味を失った過去の遺物であり、戦争の勝者などは存在しないということ、存在するのは敗者だけで、人類も動物も植物も含む世界全体が敗者なのだということ。そのことを世界が理解するよう、心の底から祈るのです。」



◎2023年12月19日『キリストと性 西洋美術の想像力と多様性』岡田温司

☆☆☆☆レアな画像満載だが、ジェンダーやクィアとの関連は??

ヨーロッパ各地の美術館を巡ると、中世美術のコーナーで教会に保存されていたフレスコ画やモザイク画、板絵、彫刻にたくさん出会う。中には図像の意味がよくわからず、首をかしげるものも多いのだが、本書は今日的なジェンダーやクィア(queer 性的マイノリティ)の観点からそうした中世美術に注目して、考察を加えるものだ。

 

まず、率直に言ってこれだけのレアな画像や彫刻をよく集めたものだと感心する。

『最後の晩餐』に描かれた「イエスの愛しておられた弟子ヨハネ」(イエスの隣で甘えるようにしている美少年)の様々な画像、裏切り者ユダの「イエスとの口づけ」を様々な観点と解釈で描いた画像、聖母マリアの「母にして花嫁」という画像、女性装で描かれたイエスや聖人たち、「三位一体」の聖霊をマリアと一体視する画像等々、こうして並べてみると実に興味深い。中には、イエスの十字架上の傷を女性器に見立てた時祷書や贖宥状(免罪符)の画像まで引用されていて驚く。

 

しかし、これらのレアな画像や彫刻を今日的な観点でジェンダーを超えるものとか、クィアな性的指向を示すものというのはどうだろうか。

著者は冒頭で土着信仰を反映した「ヴァナキュラー画像」という言葉を使っているが、その文脈ならギリシア・ローマの神々やゲルマンの神々の神話などがキリスト教文化に取り込まれたものと理解できる。美少年愛や両性具有、あるいは性の境界を超える変身譚などはおなじみである。

また、各地にある「聖母教会」という名前が示すマリア信仰の広がりは、神への取りなしを女性であるマリアにすがるという、いわば母性原理であり、日本の観音信仰にも通じる。

美少年愛や母性原理は家父長制社会の男性優位と矛盾するものではなく、その補完物とさえいえるだろう。

著者はビンゲンのヒルデガルトなどの中世神秘主義者の著書も援用するが、現代的なジェンダー論やLGBTQとの距離はかなりあるように感じる。


 

◎2023年12月17日『二十世紀のクラシック音楽を取り戻す』ジョン・マウチェリ

☆☆☆☆☆クラシック音楽の未来はどうあるべきか? 「現代音楽」に対する論争的著作

「クラシック音楽」あるいは「現代音楽」に対する実に論争的な著作である。

ある意味、「目からうろこ」と言っていいかもしれない。

 

現代のクラシックのコンサートやオペラの演目を見れば、ほとんどが20世紀初頭までの定番演目ばかりであり、20世紀の現代音楽、特に「前衛音楽」といわれるシュトックハウゼンやブーレーズなどがメインでとりあげられることはない。「前衛音楽」はわかりにくいし、不快な響きさえ多用するから一般聴衆からは敬遠され、それは現代音楽に対する聴衆の理解力がないからだとコンプレックスさえ抱かせる。

これはなぜか? わかりやすく聴衆を熱狂させた19世紀のロマン派を継承する作曲家は20世紀にはいなかったのか?

もちろんそうではない。映画音楽こそその継承者だと著者はいう。

私がこれを実感したのは、映画『スターウォーズ』を見たときである。全編ジョン・ウィリアムズの作曲によるこの映画の音楽は、まさにワーグナーの『ニーベルングの指輪』4部作を想起させる。分厚いオーケストラの響き、登場人物や場面に応じてテーマを使い分けて緊張を盛り上げる手法(ワーグナーのライトモチーフである)、さらには宇宙の権力をめぐる4部作の物語まで『指輪』そっくりである。

また、『ゴッド・ファーザー』や『太陽がいっぱい』のニーノ・ロータの音楽も同様の手法といえる。本書ではほかにも『風とともにに去りぬ』のスタイナーの音楽(タラのテーマなど)も挙げられている。

 

著者によれば、ハリウッドの映画音楽は第一次大戦やその後のナチズムを逃れてアメリカに亡命したユダヤ人音楽家らが担ったというが、ナチスが「退廃音楽」とレッテルを貼った影響は戦後も続き、冷戦時代にはナチス時代の音楽家や評論家が復権して「退廃音楽」は事実上クラシックのジャンルから排除されたという。

同様に、イタリアではプッチーニ『トゥーランドット』の後、ムッソリーニのファシズム成立以降のオペラは戦後はファシズム音楽と見なされ、「イタリア・オペラは死んだ」という。

著者が3度目の大戦という冷戦時代には、「社会主義リアリズム」のわかりやすい音楽に対抗する関係で、「前衛」的な現代音楽が政治的にもてはやされ、映画音楽は一段低い大衆音楽として扱われた。

ちなみに、ワーグナー批判の急先鋒だったハンス・リックが標題音楽批判・「絶対音楽」礼賛の元祖で、その影響が大きかったという指摘は興味深い。

 

本書には、映画音楽に対する評論家や興業主の無視や偏見に対する著書の憤りが随所に書かれているが、近年はジョン・ウィリアムズの映画音楽がベルリンフィルなどのコンサートプログラムに取り上げられるようになり、時代は変化しつつある。

なお、著者は20世紀の「4人の偉大な作曲家」として、パウル・ヒンデミット、クルト・ヴァイル、エーリッヒ・コルンゴルト、アルノルト・シェーンベルクを挙げているが、12音音階の創始者であるシェーンベルクが挙げられているのは、調性音楽に復帰した後期の評価による。 


◎2023年12月10日『指先から旅をする』藤田真央

☆☆☆☆☆童顔の若きマエストロが世界を行く!

藤田真央さんの演奏を何度かテレビで見て、その童顔といたずら小僧のような仕草ながらも堂々とした演奏ぶりに興味を持った。テレビ放映されたルツェルン音楽祭のラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(R・シャイイー指揮)を見た人は多いのではないか。

本書は藤田さん自身が執筆した連載と、藤田さんがピアノ演奏を担当した映画『蜜蜂と遠雷』の原作者恩田陸さんとの対談からなるが、演奏者自らが多忙なスケジュールの合間に演奏体験を文章で書き綴ったものはめずらしく、演奏する側の視点がとても興味深かった。ピアノを演奏する人が読めば、曲の解釈や技術的な点でも参考になるはずだ。

 

ベルリンを拠点とする藤田さんの活動は、まさに世界を股にかける「若きマエストロ」と呼ぶにふさわしい。シャイイーだけでなく、エッシェンバッハやヤノフスキといった名指揮者と共演し、アルゲリッチの代役まで引き受ける。特に、シャイイーはルツェルン音楽祭の前には藤田さんをミラノ・スカラ座のコンサートツアーに同行したほどだ。

藤田さんの音楽に向かい合う姿勢も素晴らしく、恩師や共演者たちから謙虚かつ貪欲に学ぶ姿勢に感心させられる。また、演奏会場やピアノの音の鳴り方で演奏を自由自在に変化させて対応する。とにかく積極的な努力家であり、明るく前向きな語り口がすがすがしい。

 

なお、本書には藤田さんのリハーサル風景やヨーロッパ各地のコンサートホール、夏の音楽祭の美しい写真がカラーで多数挿入されているのもうれしい。アムステルダムのコンセルトヘボウ・ホールはテレビでは客席の側からの映像しか見えないが、演奏者が登場する高い段の上からの写真が面白い。

私はルツェルン音楽祭は何度も行ったことがあるが、本書の最後に詳しく紹介されているヴェルビエ音楽祭にも行きたいと思った。 


(ルツェルン音楽祭のコンサートホールとルツェルン湖 2017年8月撮影)

       


◎2023年12月9日『アルキメデスの大戦(38)』三田紀房

☆☆☆☆最後は竜頭蛇尾。「日本人の美意識」は??

天才数学者を主人公に、陸軍と海軍の暗闘、戦艦大和建造を巡る駆け引き、日米開戦阻止のための外交交渉と、史実を交えた歴史フィクションを興味深く読んできた。

巨大戦艦ヤマトをアメリカに売却して戦争を回避するという奇想天外な日米交渉までは面白かったが、やはり実際の日米開戦後の戦闘については描きにくかったのか、37巻ではミッドウェー海戦以後の経緯がカットされて、いきなり終戦後の回想になった。

最終刊では、巣鴨プリズン内の占領当局による主人公への尋問がメインとなるが、そこで語られる終戦工作への冷淡さと「日本人の戦争観」があまりお粗末すぎて、竜頭蛇尾の感が免れなかった。

 

実際には19426月のミッドウェー海戦の大敗で戦争の帰趨は明らかとなり、制海権と制空権を失った後は、事情を知る軍幹部や政権上層部には敗戦は必至とわかっていた。そうした中で、軍部や政権内にも終戦工作は当然あった。にもかかわらず、南方戦線では戦術的に無意味な玉砕と餓死が積み重ねられ、絶望的な沖縄地上戦から広島・長崎の原爆投下までずるずると戦争が続けられた。

日中開戦、日米開戦だけでなく、終戦を遅らせて悲惨な被害をもたらした軍部と支配層の問題こそが日本人の側からは問われるべきであり、終戦工作の失敗とその原因については歴史フィクションでも描かれるべきだった。

武士道まで援用した日本人論や、敗戦を納得する「日本人の美意識」の一般論でお茶を濁すべきではない。国民の大多数は言論弾圧と情報統制で大本営発表しか知らされていなかったのだから、「一億総懺悔論」の焼き直しは歴史の修正である。


◎2023年12月8日『ジェイムズ・ボールドウィンのアメリカ:「もう一度始める」ための手引き』エディ・S・グロード・ジュニア

☆☆☆☆「アメリカの理念は窮地に陥っている」

アメリカの黒人作家ジェームズ・ボールドウィンに関しては、高校時代に大江健三郎に導かれて『もう一つの国 another country』を読んだ程度だが、当時は到底理解できたとは思えない。

本書はボールドウィンの伝記ではなく、アフリカ系アメリカ人を研究対象とする著者自身がボールドウィンを同伴者にしてアメリカの理念を問い直すものだが、描かれたボールドウィンはまさにアメリカの黒人知識人の苦闘を体現している。ちなみに、原著作の表題は“Begin Again”(もう一度始める)である。

 

著者によると、アメリカが「白人の国」から多人種による民主主義国家になるかどうかが過去2回問われた。すなわち、①南北戦争と南部再建(リコンストラクション)と②20世紀半ばの黒人解放闘争(公民権運動)であるが、それらはいずれも裏切られた。前者の後には人種隔離体制(ジム・クロウ)が到来し、後者は「法と秩序」の名の下で弾圧された(レーガン政権時代に200万人以上が収監された)。その過程にはいずれも黒人に対する多数の暴力と虐殺が伴い、キング牧師やマルコムXの暗殺が象徴的事件として記憶される。

アフリカ系黒人初のオバマ大統領の誕生は変革を期待させたが、3度目の裏切りは「アメリカを再び偉大に」というトランプの登場ですぐに訪れた。こうした「白人の虚偽」に対する鋭い抗議がブラック・ライブズ・マター運動である。

ボールドウィンにとってのレーガンは著者にとってのトランプであり、トランプはレーガンの再来と著者は見なしている。

このように、ボールドウィンと著者はアメリカの理念の虚偽を告発するが、他方、黒人性を強調したりそのアイデンティティを対置することには反対する。アイデンティティ政治は自らを閉じ込める罠となる。「肌の色は人間としての現実でも個人としての現実でもなく、政治的な現実」なのであり、人類愛を核として「人は皆兄弟である」という基本的な前提を受け入れるべきなのだ。

こうした理想の追求を、著者はジョン・コルトレーンの名曲『至上の愛』(特に第3部の「追求」と第4部の「賛美」)に託している。

   

◎2023年11月29日『親密な手紙 (岩波新書)』大江健三郎

☆☆☆☆☆恩師への深い思慕、懐かしい人々の思い出をやわらかく語る

本書は岩波の雑誌『図書』に20102013年に連載されたエッセイをまとめたものだが、大江さんは全体を改訂した上で書き下ろしの章を加える予定だったという。

表題の「親密な手紙」とは大江さんが窮境に入り込んだときに自分を乗り越えさせてくれる言葉のことで、それを含んだ書物と人々の思い出が綴られている。

 

本書で最も多く言及されているのは、やはり東大仏文科の恩師渡辺一夫教授である。ラブレーの翻訳(超訳!)で知られるこのルネサンス文学の大家は、戦中派らしい平和主義とユマニズム(『敗戦日記』、『寛容について』など)の芯の強さで、大江さんが人生の「窮境」に遭うたびに励まし続けた。その恩師への懐かしい思いと心温まるエピソードが繰り返し回顧されている。

ちなみに、私が大学に入学したときにはすでに渡辺一夫氏は物故していたが、弟子の二宮敬氏が仏文科の教授だった。私が受講した講義では、二宮教授は「渡辺一夫大先生は・・・」と尊敬と親しみを込めてエピソードを語っておられた。

 

その他では、E・サイード、武満徹、井上ひさし、伊丹十三(高校以来の付き合いで、大江氏の義兄)、海老坂武(大学の同級生 サルトル研究者)といった人々が懐かしい思い出とともに回顧される。すでに故人となった人が多いが、生前の生き生きとした面影が彷彿されて楽しい。

 

それにしても、大江さんの成城の自宅のご近所はすごい。家を出て少し散歩すれば、大岡昇平や安部公房、さらには小澤征爾といった大文化人とひょっこり出会うし、野上弥生子さんもご近所で、100歳の記念会に呼ばれたという(“aspire”「希求する」は女性的な言い方と話して、野上さんに批判された由)。

 

大江さんは憲法9条を擁護する「九条の会」の呼びかけ人に名を連ねたほか、東日本大震災後は原発反対運動の先頭にも立っていた。その思い出もいくつか言及されている。本書の中でサン・テグジュペリを引用した次の言葉は、核兵器や原発のない世界を希求する大江さんのメッセージである。

「次の世代がこの世界に生きうることを妨害しない、という本質的なもののモラル la morale de lʼessentiel こそいま大切だ。」

 

*なお、「キツネの教え」のサン・テグジュペリの次の引用を含め、大江さんの英語やフランス語の引用には全く訳文がつけられていないが、新書にする際にはせめてフランス語には訳文をつけるべきだろう。

On ne voit bien quʼavec le cœur. Lʼessentiel est invisible pour les yeux.”

(仮訳「心を伴わなければよく見えない。本質的なものは目には見えないのだ。」) 


◎2023年11月24日『南北朝正閏問題』千葉功

☆☆☆☆☆戦前の「歴史教科書問題」、その構図は現代と同じ

「南北朝正閏問題」というテーマに絞った労作である。時系列で正確に経緯をたどり、登場人物を丁寧に紹介する詳細さに加え、膨大な注と参考文献をみれば、一般向けの選書とは思えないほどである。

南北朝正閏問題とは、室町時代の南北朝並立に関し南北の正統性をどう理解するかという問題なのだが、それが歴史学の学術的論争に止まらなかったのは、明治維新後の国家体制が「万世一系の天皇」を頂点とする天皇制国家であったことと、問題とされたのが国定歴史教科書の記述であったことによる。

 

すなわち、この問題はまさに「歴史教科書」をめぐる問題であり、過去のマニアックな政治喜劇などではない。現代においても繰り返されるホットな問題なのである。

本書を読めば、この問題を提起したのが在野の歴史教育家や漢学者、読売新聞や万朝報などのマスコミであり、それが政治の場に持ち込まれ、文部大臣や総理大臣の責任追及が意図される。問題提起者の意図はそれぞれの立場に応じて異なっているが、歴史の事実よりも国民教育において天皇の権威を損なうことを重視している点は共通であろう。

現代の歴史教科書問題では、アジア太平洋戦争の記述が「自虐史観」と批判されたことが想起されるが、これも歴史的事実よりも日本人の誇りを傷つけるといった観点から、一部の教育学者やタカ派政治家がマスコミや保守系団体を巻き込んで繰り広げたものである。

 

著者は「はじめに」でマーガレット・メールの批判を引用し、南北朝正閏問題が日本の歴史学が原史料の収集や史料批判という客観性に逃避することを決定づけたと書いているが、万世一系の国体イデオロギーが学問を圧迫し萎縮させた事件としては、後の滝川事件や天皇国家機関説事件が想起される。歴史教科書問題が学問の自由や思想信条の自由にかかわることは、戦前の国定教科書も戦後の検定教科書も変わらない。

なお、この問題の推進者には水戸光圀の『大日本史』編纂以来の水戸学の影響を受けた人物が多数登場する。幕末の尊皇攘夷運動や桜田門外の変などへの水戸学の影響は有名だが、本書を読んでもやはり直情径行の過激イデオロギーというマイナスイメージしかない。

 

◎2023年11月20日『私説ドナルド・キーン』角地幸男

☆☆☆☆著者のキーン氏への深い想いが感じられる

ドナルド・キーン氏の著作を多数翻訳した著者が、2017年から2022年にかけて発表した論考5本と書き下ろしの論考をまとめた本であるが、なんといっても白眉は冒頭の「ドナルド・キーン小伝」であり、キーン氏の履歴と人柄を十二分に描いている(その他の論考は付録のようなものである)。

エピローグで著者が、「キーンさんは友達であると同時に先生、そして何よりも恩人だっ た」と書いているように、本書の全論考を通じて著者のキーン氏への深い愛情と想いが伝わってくる。

 

キーン氏の小伝を読むと、改めてキーン氏の碩学ぶりと幅広い交友範囲、そしてなによりも日本文学への並々ならぬ熱情に打たれる。

キーン氏が日本文学に関心を持ったのはコロンビア大学在学中の1940年というから、アメリカは太平洋戦争前夜の排日の時代である。たまたま見つけたウェーリ訳の『源氏物語』に感動したのがきっかけという。戦時中はアメリカ海軍の日本語学校で日本語を徹底的に鍛えられ、くずし字も読めるようになる。そして戦死した日本兵の日記を読んで感動し、後年の著作『百代の過客 日記に見る日本人』へとつながる。

とにかく大変な努力家である。それは情報の少ない時代に謡曲や俳句などの日本古典文学に取り組んだ学問的努力だけではなく、両親の離婚による経済的苦境を多数の奨学金を獲得して乗り切り、軍務さえも日本語と日本研究の土台にするという刻苦勉励さの両面にあらわれている。

また、その交遊範囲たるや、来日前のケンブリッジ時代には哲学者バートランド・ラッセルやエドウィン・ライシャワーらとつきあい、来日後は「終生の友」永井道雄から中央公論社長嶋中鵬二を紹介され、そこから永井荷風、谷崎潤一郎、吉田健一ら往年の大家と知り合い、さらに三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、司馬遼太郎といったきら星のような文学者たちと交遊する。それも、表面的な交際ではなく、相互の尊敬を伴う深いつきあいで、三島由紀夫から自決前に「小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました」との遺書をもらうほどだったのである。

著者は、キーン氏が日本では正当な評価を受けなかったのではないかとか、「珍しい存在」であるとともに「嫌な存在」として扱われていたのではないかと懸念しているが、超一流の作家や文学者らがこれだけ一目置いて深く交遊したという事実だけでも、その十分な反駁になっていると思う。

 

キーン氏は東日本大震災の直後に日本に帰化したが、著者によると大震災以前に帰化の決意は固まっていたという。マスコミ的な話題づくりではないと言いたかったのだろうが、大震災と原発事故で暗かった当時の日本社会にとって大きな励ましとなったことは素直に受けとめてよいのではないか。

なお、キーン氏は生涯独身で晩年に日本で養子を取ったというが、それ以外は女性の影が全くない。学究一筋の人生だったということだろうか。



◎2023年11月17日『アマゾン500年 植民と開発をめぐる相剋』丸山浩明

☆☆☆☆☆時代に翻弄されたアマゾン開発 日本との関わりも深い

子どもの頃、児童書で『怒るジャングル』(ウィリアムソン著 1957年)というアマゾンを舞台にした冒険小説を繰り返し読み、大海のようなアマゾン川と熱帯雨林の密林、ゴムの木、ジャングルの中の古代遺跡の探検に胸を躍らせていたことを覚えている。マナウスやネグロ川といった地名もこの小説で知っていた。

しかし、中南米の歴史は世界史ではほとんど習わなかったので、ブラジルがなぜポルトガルの植民地となったのかとか、本書で描かれているアマゾン開発の歴史などは知らなかったことばかりである。本書は概説的にアマゾン開発史を描いたものだが、教えられるところが多かった。

 

特に興味深かった点を挙げる。

1.ヨーロッパ諸国の海外進出の先兵のようなイメージだったイエズス会が、実は現地住民の教化の観点から奴隷制に反対し、原住民を奴隷化しようとした植民者たちと対立関係にあった。最終的にイエズス会はポルトガルにより追放される。

2.アメリカの南北戦争を背景に、南部の奴隷制支持者たちは黒人をアマゾンやカリブ海諸国に移住させようとしていた。あのリンカーン大統領も奴隷制廃止といいつつ黒人を海外移住させる人種分離政策で南部との融和を図ろうとしていたという(近年のキャンセルカルチャーでリンカーンの像までが破壊されたのはそのためか?)。しかし、南北戦争後にアマゾンで奴隷制農場を再現しようとしたアメリカ南部の奴隷制支持者たちは、人種混合の進んでいたブラジルの現実に衝撃を受け、黒人移住計画は頓挫した。

 

3.ただ、本書の白眉は日本も深く関係する近代のアマゾン開発史だろう。サンパウロを拠点とするコーヒー農園の経営はよく知られているが、アマゾン開発にも多数の日本人が移民として関わった。

アマゾンの開発は熱帯雨林で雨期には水没する地域が多く、マラリアなどの疫病も大きな障害となり、イタリアやアメリカなどの開発計画も困難を極めた。ゴムブームのためのマデイラ・マモレ鉄道の敷設は死屍累々の悲惨を極めたが、完成直後のゴムブームの終焉で廃線の憂き目を見た。

日本のアマゾン移民について言えば、北米移民が反日感情や黄禍論で制限されたことが、地球の裏側のブラジル移民の増加につながり、さらにブラジルでも反日感情が広がると、その安全弁として南部のサンパウロ周辺からアマゾン移民へと振り向けられた。当時の人種差別感情むき出しの漫画なども掲載されているが、折しも満州事変以降の日本のアジア進出がアマゾン植民地と二重写しとなって黄禍論につながったことがよくわかる。第2次大戦中は北米同様、ブラジルでも日本人は財産を没収されて強制収容所へ隔離される苦難の道をたどったが、それでも戦後はふたたび移民を再開し、アマゾンへも1027家族、6372人が移住したというから驚く。

移民問題というと日本に来る外国人のイメージが強いが、過去のハワイや北米、そしてブラジルへの日本人移民の歴史について、もっと詳しく紹介されてもよいと思う。


 

◎2023年11月9日『創造論者vs.無神論者 宗教と科学の百年戦争』岡本亮輔

☆☆☆宗教の存在が大きいから論争が激しくなる

かなり前に、アメリカのいくつかの州では進化論を教育することを禁じる法律が論争になっているというニュースを見て、その非科学性に呆れたことを覚えている。しかし、実は問題の根は深い。

本書はどのような人々がそうした運動(創造論またはインテリジェント・デザイン論=ID論)を推進し、それに対してどのような人々が反論したかを詳しく紹介している。

 

ちなみに、宗教vs科学という議論は中世キリスト教神学以来のおなじみのものであり、「神の存在証明」という有名な論題で議論されてきた。近代の啓蒙主義以降は、カントが「理性の限界」を論じたように、理性によって認識できるものと信仰の領域は区別されて両立してきた。

にもかかわらず、創造論派は進化論を聖書に反すると否定し、無神論の原理主義者らは宗教を一切否定する議論を大真面目で展開して、科学と宗教を対立させる。

逆に言えば、欧米、特にピューリタンが建国したアメリカは、それだけ宗教や信仰の存在と力が大きい社会なのである。これは必ずしも反科学のマイナスイメージではない。宗教や信仰は個人の内省を深め、人格の形成を促す面もある。宗教を否定したソ連や中国が社会主義のイデオロギーを放棄した後に残ったものは、むき出しの拝金主義と権力への追従が支配する社会である。日本もまた、鎌倉仏教やキリシタン信仰の興隆が江戸幕府の厳しい宗教管理政策で抑圧された結果、本書で「葬式仏教」といわれるような無宗教(反宗教ではないが)が多数派を占め、やはり人格や信念の弱い世俗的・俗物的な社会になっているのではないか。

 

著者は科学と宗教の対立を第三者的に描いているが、「科学の宗教に対する絶対的優位」という言葉にその立場が示されている。しかし、それなら宗教がなくなるどころか原理主義がはびこるのはなぜなのか?

無神論者の議論が無味乾燥で魅力がないのは、人間存在の意味や目的を考察することを最初から放棄しているからだろう。戦闘的無神論者のドーキンスが、著書『神は妄想である』の中で、若い世代が聖書を知らないために英文学を堪能できないと嘆き、「かけがえのない文化的遺産との絆を失うことなしに、神への信仰を放棄することはできる」と書いたのはその矛盾のあらわれである。例えば、本書の表紙はミケランジェロの有名な「アダムの創造」(システィーナ礼拝堂天井画)の神をスパモン教の神に置き換えたパロディであるが、まさしく「かけがえのない文化遺産」をこのようなグロテスクなパロディにすることは全く共感できない。

なお、著者は「ヒューマニズム」を無神論と同義だと述べているが疑問である。ドイツ憲法の「人間の尊厳」を引用するまでもなく、これは歴史的思想的にはキリスト教由来の概念であり、宗教と同様の価値概念にほかならない。 



◎2023年11月5日『東京史 ─七つのテーマで巨大都市を読み解く』源川真希

☆☆☆近現代東京の成り立ちが整理されているが、ビジョンが示されない

明治以降の「東京」の成り立ちを、1.破壊と復興、2.帝都・首都圏とインフラ、3.都市の民衆、4.自治と政治、5.工業化と脱工業化、6.繁華街・娯楽、7.高い場所と低い場所、といったテーマで整理している。

近現代東京の成り立ちを大局的観点からトリビアな視点まで含めて整理しており、それなりに興味深い。

しかし、東京に長く居住している人にとって、特に20世紀後半以降はほとんど知っていることばかりである。しかも、歴史的に生起した事実を叙述するだけで批判的検討がほとんどない。

 

著者が整理するとおり、現代の東京は工業化から脱工業化、首都機能分散から一極集中へと変貌しており、都心は超高層ビルが林立する開発が続いている。都心部には超高所得者やビジネスエリートしか居住できなくなりつつある。

こうした東京を今後どうしていくのか、誰のためのどのような街づくりをしていくのかについて、もう少し理念や視点を明確にしたビジョンを提示してもらいたかった。

   

◎2023年10月26日『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』ホンダ・アキノ

☆☆☆☆人気作家のルーツは美術記者?

井上靖と司馬遼太郎といえば誰もが知る人気作家で幅広い読者層を持つが、この2人が新聞記者出身だとは知っていたものの、ともに美術記者や宗教記者(つまり文化部門の記者)だったことは知らない人が多いのではないか。

新聞記者の花形は一般には政治部や社会部の記者で、いわゆる「夜討ち朝駆け」のスクープ合戦などを想像するが、井上と司馬はそうした第一線からは遠い文化部門に配属され、司馬などは絵画理論を詰め込んで鬱屈した取材活動をしていたという。

しかし、こうした美術記者や宗教記者として経験が後年の作家活動の下地となり、井上の『天平の甍』や司馬の『空海の風景』などを生み出したのである。

 

本書では、井上と司馬の美術記者時代の活動やゴヤやゴッホへの熱中、シルクロードの仏教遺跡の訪問、上村松園や三岸節子への関心といった様々な側面から2人の作家に焦点を当て、さらには宗教記者としての活動や顔真卿の書との関わりにも触れている。

ただし、焦点が広がりすぎたためか、いずれも断片的な言及で2人の著作とのかかわりも消化不良の感が否めない。その点で☆一つ減らした。

 

 

◎2023年10月23日『文藝春秋2023年11月号』

☆☆☆☆☆KADOKAWA前会長の「人質司法」告発は必読

慶応人脈・金脈の特集については他のレビューに譲るとして、私が注目したのはKADOKAWA前会長の角川歴彦氏の「囚人」体験記である。

周知のとおり角川氏は東京五輪のスポンサー契約に関わる贈収賄事件で逮捕されたが、起訴後もすぐには保釈が認められずに、なんと226日間も勾留されていたという。

角川氏は一貫して無実を訴えているが、本論考は事件の内容に関わるものではなく、否認すれば長期間の勾留を当然のように続ける「人質司法」の告発にある。

「人質司法」については、カルロス・ゴーン事件の際にも国際的に有名になり、ついには身柄拘束に耐えきれなくなったゴーンが国外逃亡する事態にまでなった。また、それ以前にも多数の事件で虚偽の自白を生み出す温床として問題視されてきたのだが、実態は今なおまったく変わっていないことがよくわかる。

特に、角川氏の場合、80歳の高齢で心臓の手術歴と持病がある。本論考では弁護人との接見中に不整脈で意識不明になり、勾留の執行停止にまで至っているにもかかわらず、保釈は認められなかった。

ようやく保釈が認められたのは4度目の保釈請求で、角川氏の体調悪化を踏まえ弁護団が方針変更して、有罪無罪とかかわらない証拠を同意することにしたからである。それでも検察は保釈に反対したというから、否認している限り自白を認めないという姿勢は変わらない。

 

本書では、拘置所の看守から「囚人として扱います」と告げられたと書かれているが、実は「囚人」という言葉は現在の法令からは削除されており、「法令により拘禁された者」(刑法)あるいは「被収容者」(刑事収容施設法)というのが正しい。特に、無罪推定を受ける被疑者を「囚人」として扱うべきではない。

角川氏は拘置所の思想は軍隊と同じ(上命下服の絶対服従)と書いているが、まさにこうした「囚人扱い」が現場に染みついているからだろう。

 

その他、『イーロン・マスク』の伝記出版に合わせてか、「橘玲のイーロン・マスク論」が掲載されており、こちらも注目した。ウクライナへのスターリンク提供やツイッターの買収などでなにかと話題になるマスクの生い立ちや「Xドットコム」の起業などが紹介されているが、そのアンチ・リベラルな傾向がシリコンバレーのリバタリアニズム(「テクノ・リバタリアン」)に根ざしているという指摘は興味深かった。ただし、テクノロジー至上主義のアナキズムや火星移住計画にはとてもついて行けないが。

ついでに、明治期の日本の建築に大きな足跡を残した巨匠フランクロイド・ライトが、逆に日本の影響を深く受けていたと指摘する隈研吾のエッセイも面白かった。絵画における印象派と同時代のライトもまた明るく開かれたモダニズム建築を目指したというが、確かにウィンズロー邸の写真を見るとまるで日本家屋のようである。


 

◎2023年10月22日『ギリシャ人ピュテアスの大航海』バリー・カンリフ

☆☆☆伝説的大航海者だが、考古学と地誌的な推測がほとんど

ギリシャ人ピュテアスとは、ギリシャの植民市であるマッサリア(現在のマルセイユ)の人で、紀元前320年頃に『大洋について』という書物を著したとされる。しかし、その書物も紀元270年頃には失われ、ごくわずかな断片が伝わるだけで、それ以外はプリニウスら古代の学者の引用で知られる程度である。

したがって、本書の記述もピュテアス本人の言動や足跡はほとんどなく、彼がたどったとされる航路や地域の考古学的知識や、ヘロドトスやプリニウスといった古代の学者の地誌的言及からの推測がほとんどである。ピュテアスの人物像や波瀾万丈の冒険譚を期待すると、隔靴掻痒にさえ至らない茫漠とした説明ばかりでガッカリするだろう。

ただ、古代の考古学的研究や地誌に興味がある人には面白いかもしれない。

本書によると、ピュテアスはマッサリアから西に向かったが、イベリア半島南端まで回航するのではなく、当時の商人の交易ルートであったピレネー山脈の北側の陸路をとり、オード川、ガロンヌ川、ジロンド川を経て北海に至り、ブルターニュ半島を先端を廻り、ブリテン諸島を巡り、ついには北極圏のアイスランドまで到達したとされる。

確かに、地中海世界がすべてで、ジブラルタル海峡の「ヘラクレスの柱」から大西洋に出ることのなかった当時としては大航海であり、その著作が伝わっていればさぞ興味深いものだっただろうと思う。失われた古代の書物は本書以外にもたくさんあるはずだ。

 

なお、訳者解説によると、本書は十数年前に翻訳されたが日の目を見ることなく、近年、エルメスのスカーフ「ピュテアスの航海」が人気を博したことから出版に至ったとのこと。

これだけ史料がなくても、欧米では古代の伝説的航海者として高い人気があるようだ。

 


◎2023年10月16日『デンマークに死す(ハーパーBOOKS)』アムリヤ・マラディ

☆☆☆☆ナチス時代の過去と移民問題の現在を交錯させる

主人公はデンマーク人(デーン人)の探偵でデンマークを舞台としたミステリーだが、著者はインド出身の女性でアメリカ在住、夫がデンマーク人とのこと。それゆえ、登場人物はイラン系の女性弁護士やトルコ人を夫に持つ財閥令嬢等と多彩である。

 

物語は冒頭、第二次世界大戦時のナチス支配下でユダヤ人家族がデンマークからスウェーデンに避難する場面が描かれる。こうしたユダヤ人救助はデンマークの人々の誇りというが、冒頭の物語ではナチス内通者の通報により、ユダヤ人家族は強制収容所に送られ、匿ったデンマーク人親子が射殺される悲劇となる。

一転して、舞台は現代のデンマークに移り、中東からの難民問題でタカ派的対応をとる女性政治家が惨殺された事件の調査を主人公が依頼される。犯人とされたイスラム教徒は、息子がイラク戦争でデンマークに協力しながら難民申請が認められずに強制送還され、ISに拷問されて殺されたことから、「イスラムの男+怒り=人殺しみたいな図式にはめられた」という。

このナチス支配時代の歴史の暗部と現代の難民問題の2つのテーマを絡ませてミステリーが構成されるが、謎解きよりも一人称で語る主人公のハードボイルドな活躍に焦点が当てられている。

それにしてもこの主人公は、元警察官にしてバンドのギタリスト、ブランド品で装い銘柄ワインを楽しみ、かつ多数の女性と関係を持つモテモテ男という設定で、著者は人間味のある探偵として設定したのかもしれないが、ちょっとできすぎである。服のブランド名や酒の銘柄が次々出てくるのも煩わしい。

 

北欧の社会派ミステリーを読むと、スウェーデンの刑事ヴァランダーシリーズにしても本作品にしても、移民・難民問題が重要なテーマとして繰り返し取り上げられており、かつ、過去のナチスとの関係が清算されずに残っている政財界の闇が照射される。

平和で住みやすい社会福祉国家のイメージの影の部分にある、デンマーク現代史をめぐるドラマとして興味深く読んだ。

   

◎2023年10月11日『古代中国 説話と真相』落合淳思

☆☆☆☆故事説話の虚偽性を容赦なく暴く ただし、不用意な一般化と飛躍が多すぎる

歴史と物語の違いは何かを考えさせる著作である。

ちなみに、フランス語で《histoire》は「歴史」という意味のほかに「物語」・「作り話」という意味がある(英語の“history”はどうだろうか?)。

しかし、著者は歴史学が人文科学にとどまらず社会科学となるためには「事実と説話を区別する」ことが重要だと強調する。

本書では、その目的意識の下に、『史記』をはじめとした古代中国の歴史が容赦なく批判され、我々が故事としてよく知っている物語のほとんどが事実でなく説話であると断定される。

例えば、殷の紂王の「酒池肉林」は殷滅亡後に天命思想から創作された暴君説話である。また、「管鮑の交わり」で知られる管仲説話もずっと後の貴族制が崩壊した戦国時代につくられた説話であり、管仲が斉の宰相になった記録はない。同様に、有名な「臥薪嘗胆」の物語もずっと後世に創作された等々・・・。

中国古代史ファンには身も蓋もない話の連続なのであるが、著者が根拠とする春秋時代と戦国時代の社会的背景の違いとか、後世の儒教思想による古代への仮託といった説明は説得的であり、なるほどと思う。

もっとも、「臥薪嘗胆」の故事などは薪の上に寝るとか肝を舐めるといった話が事実でなく誇張であることは常識でわかるし、古代に限らず歴史が後世の観点で脚色されることはNHKの大河ドラマなどで日々感得されることでもある。「勝てば官軍、負ければ賊軍」といった歴史バイアスもそうだろう。

説話の物語を文学や文化のレベルで研究したり楽しんだりすることと、実際の歴史的事実を区別することは実は難しく、著者のアプローチの仕方はその参考となる。

 

ただ、こうした厳格な社会科学的方法意識にもかかわらず、本書の随所で著者が挿入する過度な一般化や現代との類比はいかがなものか。

例えば、余剰生産が階層化を生んだのではなく戦争への対策として階層化が必要となったとか、原始社会は男尊女卑で文明の高度化が男女平等思想を生んだとか、人間は本能的に差別をする生き物だとか、戦後日本の兵器放棄思想は戦争を招く危険がある等々・・・。

いずれも異論反論が多数ありうる論点を、中国古代史の傍論のように挿入するのはいかにも唐突で飛躍しており、なくもがなである。その点で☆1つ減らした。

 

 

◎2023年10月9日『インドシナ』(映画)

☆☆☆☆植民地支配の爛熟と腐敗 映像は美しい

4Kテレビのリマスター版で見たが、1930年代のベトナムを舞台にしたドラマである。

ベトナムというとアメリカのベトナム戦争のイメージが強いが、戦前はラオス、カンボジアも含めて「フランス領インドシナ」、すなわち日本軍が進駐した「仏印」である。

 

カトリーヌ・ドヌーブ演じる主人公はゴム・プランテーションの経営者であり、多数のベトナム人労働者を雇っている。当時のフランス帝国の支配の様子がリアルに再現されており、劇場やカジノの描写、そしてアヘン窟に主人公が入り浸る場面などは植民地の爛熟と頽廃の色香を漂わせ、他方、独立運動の弾圧に苦心する警察は支配の揺らぎを示している。実際、ベトナム人の上流階級に属する主人公の養女は運命の偶然で革命運動のジャンヌ・ダルクのような役割を担い、その婚約者はフランス留学で「自由と平等」を学んで帰国し共産党の幹部となっている。

ドラマとしてはできすぎの観があるが、今なお北アフリカで旧フランス植民地の反フランス暴動などが起きるところを見ると、植民地の問題はフランスにとってアップ・トゥー・デイトな問題であり続けているのだろう。

 

なお、ベトナムを舞台にした映像はとても美しく、特にハロン湾の入り組んだ島々の風景が素晴らしい。古都フエの王宮での伝統的な結婚式の描写も見ものである。

40代後半と思われるドヌーブはさすがに美しい。若い将校とのラブシーンやタクシー内での激しい絡みの場面まであるのはファンサービスか。

 

 

◎2023年10月9日『源氏物語を読むための25章』河添房江・松本大編

☆☆☆☆☆源氏物語の豊穣な世界を多彩な観点から紹介

『源氏物語』の研究書は星の数ほどあるが、本書は25人の研究者が多彩な観点から現時点の研究最前線を紹介したものであり、内容は学生や一般人にもわかりやすいように配慮されている。

各論文の配列は桐壺から浮舟まで物語の順序で主要な巻を取り上げ、その上で各研究者の問題意識に沿ってテーマが配されている。例えば、国語教育、仏教、噂、書誌学、絵画、漢詩文、和歌、さらにはジェンダーの観点まで含む。各論文は短いが、源氏物語の原文が適宜引用され、その現代語訳が付されているのも親切である。

 

本書の多彩な論文を見ると、改めて源氏物語の世界の豊穣さがわかるが、これだけの大作を成立させるには、紫式部一個人の天才だけでなく藤原道長を中心とする政治的バックアップや宮廷サロンの女房たちの協力も当然あったはずである。つまり、源氏物語は当時の一大プロジェクトとして成立したと見るべきなのである。

 

なお、本書で触れられていない観点として、源氏物語の海外での受容のされ方がある。最近復刊された中村真一郎氏の『源氏物語の世界』(1968年 レビュー済み)では、源氏物語の初の英語翻訳(ウェイレー訳)を読んだ1920年代の西欧知識人が「レディー・ムラサキはプルーストの双子の姉妹かと思った」という評価を紹介している。32言語に翻訳されている源氏物語を海外の読者がどのように読んでいるのか、これはテキストの新たな可能性を拓く興味深い分野であろう。



◎2023年10月6日『平治の乱の謎を解く』桃崎有一郎

☆☆☆☆韓流時代劇のような宮廷陰謀劇だが・・・

保元の乱と平治の乱は歴史教科書的には平安末期の貴族政治が武士の力に依存する契機となった程度の言及にとどまるが、本書で著者の描く平治の乱はまるで韓流時代劇(特に李朝の王宮陰謀劇)のような面白さである。

 

著者は、平治の乱を以下の4段階に分ける。

①三条殿襲撃事件(平治元年129日、信頼・義朝らが後白河院の三条殿を襲撃・放火)

②二条天皇脱出作戦(同月25日、二条天皇が大内を出て六波羅亭に入る)

③京都合戦(同月26日、官軍の清盛軍が義朝らの軍勢を京都市街地で破る)

④二条派失脚事件(翌220日~311日、経宗・惟方が逮捕・解官・流罪宣告される)

このうち④はこれまでは平治の乱に含められなかったが、著者はこれを重視し、一連の乱の最終勝利者を後白河上皇として描く。そして、①を二条天皇が父である後白河の院政を否定し、天皇親政を実現する目的の事件だったと考えるのである。すなわち、乱の首謀者を二条天皇とする大胆な説である。

しかし、そうすると②③の流れが不自然だが、著者は、②は院政を否定したが二条だけでは力量不足で政務が頓挫し、京都に戻った清盛と合意の上で経宗・惟方を執権として二条親政を立て直し、①は信頼・義朝らの謀反として責任転嫁し、③の京都合戦となった。ところが、その後の後白河への仕打ちに激怒した後白河が逆襲したのが④だというわけである。

 

確かに推論としてはよくできているし、人物の役割と事件の流れを生き生きと描いていて読ませるが、いかんせん直接的な証拠が弱い。

当時の文献である『愚管抄』や『今鏡』などを見ても二条主犯説は全くない。ちなみに、『平家物語』では「信頼・義朝の謀反」と書かれている。著者はこれを、二条天皇が父の後白河に反逆したという大罪を関係者全員で隠蔽したものと断じ、唯一、31年後に頼朝が九条兼実に語った義朝は謀反人ではないという言葉を根拠とするのだが、頼朝が父義朝を擁護するのは利害関係者の証言ともいえよう。

 

なお、平清盛は当初は不在中に乱が勃発したものの、その後は一貫して乱に関わり続け、しかも天皇と上皇の両者に配慮する絶妙の役割を果たしている。また、没落しつつある摂関家の後見役的な地位にもあったとのことである。

平家物語では悪役だが、その後の武家政治の基を築いた立役者としての力量は抜きん出ていたのだろう。


◎2023年10月1日『分断を乗り越えるためのイスラム入門』内藤正典

☆☆ひいきの引き倒しでは分断は乗り越えられない

著者はイスラム教徒ではないとしながらも、多岐にわたる論点についてイスラムを擁護する論陣を張っている。

しかし、我々が最も知りたいテロとの関係や男女差別、厳格な戒律と苛酷な刑罰、民主主義や自由との親和性といった重要な点で、著者のひいきの引き倒し的な擁護論が欧米自由主義諸国や日本とイスラムの価値観の対立を際立たせる結果となっており、分断をかえって広げている感がある。

例えば、シャルリ・エブド紙の預言者ムハンマド風刺に対するテロ事件について、著者は表現の自由と暴力を等価的に置いてイスラム側に理解を示す(「ジハード」には理由があるという)。表現の自由は民主主義社会で最も重要な価値であって、暴力による対抗は最悪の破壊行為である。他方、表現に対しては言論で反論や抗議するのが原則だが、権利や名誉を侵害された場合は法的制裁も認められる。アッラーや預言者といえども例外ではない。日本でもサルマン・ラシュディの『悪魔の詩』の翻訳者が殺害される事件が起きたが、いかなる意味でもこのような言論へのテロは擁護できない。

他の一連のテロ事件についても、著者は過去の欧米のイスラム支配やアフガン・イラク戦争を挙げて理解を示すが、前者を非難することでテロが少しでも正当化されるものではあるまい。

同様に、タリバンによる女性差別やバーミヤン大仏の破壊も、著者の非難の矛先は過去の欧米の支配に向けられる。欧米に非難する資格があるのかと。

しかし、このような議論がもたらすものは憎悪の悪循環であり、分断の克服どころではなかろう。

 

イスラムを理解してから批判せよと著者は繰り返すが、我々が最も大切にしている民主主義と自由、人権、男女同権といった価値を、預言者ムハンマドの言葉の範囲内でしか認めない人々をどう理解せよというのだろうか(著者によれば、予言者の言葉の解釈はアラビア語のできるイスラム学者が行うという)。

 

◎2023年9月30日『報道弾圧 ―言論の自由に命を賭けた記者たち』東京新聞外報部

☆☆☆☆☆まさに命がけの取材報道 言論・報道の自由の最前線を行く

本書は201922年に東京新聞と中日新聞に掲載されたシリーズ記事に基づく。

執筆者は特派員経験のある記者たちで、フィリピン、ロシア、中国、中東、ミャンマーの独裁または権威主義体制と最前線で闘う記者たちの活動状況を伝えている。

それにしても、冷戦崩壊後の世界の混乱と続発する戦争のなかで、権力に迫り真実を伝えようとする記者たちがいかに危険に満ちた活動をしているのかを改めて痛感する。国際NPO「ジャーナリスト保護委員会」(CPJ)の調査によると、1992年以降に拷問やテロ、戦地取材などで命を落としたジャーナリストらは、236月下旬時点で2202人に上っているという。こうした中でフィリピンのレッサ記者らが2021年にノーベル平和賞を受賞したが、ジャーナリストが受賞するのは1935年以来とのことである。前回はドイツ再軍備の報道だったが、記者がこの賞を受賞するのは決してよい時代ではない。

実際、紹介されている記者たちの活動は国家によるひどい人権侵害と自由の抑圧の下であり、現代ではSNSやインターネットが権力の武器として活用される中で、新聞・雑誌の廃刊やテレビ局の閉鎖、記者自身の拘束といった攻撃を受けつつも、様々な技術を駆使して報道を続けているのである。

 

では、なぜそうまでして記者たちは活動を続けるのか。

中国で政府のコロナ対応を批判して投獄され、ハンガーストライキを続ける元弁護士の市民記者張展は、「身の回りで起きた罪悪と不正義を無視できない。この社会で生きる人々の苦しみを座視できない。うそや欺瞞を受け入れられない。暗黒とともに生きることを望まない」という言葉を伝えた。

また、シリアで拘束され、イタリア政府の努力で解放されたフリージャーナリスト、スーザン・ダボウスは、「ジャーナリストが現場に行かなければ、民主主義に必要な知る権利は守られない。医師が現場に行かなければ患者を救えないのと同じです」と語った(イタリアでは日本のような、記者の「自己責任」だの「政府に迷惑をかけた」などといった議論はない)。

いかにネットやSNSが普及した時代でも、いやそうしたインフラが権力の支配やフェイクニュースで歪められやすいからこそ、現場で取材して真実を報道する記者の活動が民主主義と自由にとって重要なのである。

 

本書では最後に日本の状況についても触れてある。

2022年度の報道の自由度ランキングで、日本は対象180カ国中71位だった。G7中最下位で、台湾38位、韓国43位からも水を開けられている。民主党政権時代は11位まで上昇したが、第2次安倍政権以降急激に低下した。指摘されているのは2013年の「特定秘密保護法」制定であり、行政機関によって秘密指定がなされると取材活動が大きく制約される刑事罰まで受ける。また、テレビ報道番組に対する政府・与党幹部の圧力も問題とされた。

直接的で乱暴な弾圧はないとはいっても、報道を萎縮させ自主規制を強いる様々な圧力には要注意である。


◎2023年9月26日『福田村事件』辻野弥生

☆☆☆☆タイムリーな復刊だが、映画のほうはフィクションで脚色されている

関東大震災時の流言飛語による朝鮮人虐殺は多くの文献にあるほか、当時の警察や裁判所の公文書で確定されている。

にもかかわらず、小池東京都知事は大震災記念日に朝鮮人虐殺の追悼文を止め(石原慎太郎知事までは出していた)、松野官房長官は公文書で確認できないとしらばっくれる。

こういうご時世に、映画化と併せて本書が復刊されたのは実にタイムリーである。福田村事件とは、四国の行商人らが朝鮮人と間違えられて虐殺された事件だからである。

 

ただし、映画のほうはかなり脚色されているようだ。

例えば、映画で重要なエピソードとして登場するハンセン病患者は原作にはまったく登場しない。福田村の被害者達がかつては地元の香川県でハンセン病患者に詐欺的な薬種売買をしていたというものだが、これでは被害者を故なく貶めるだけでなく、ハンセン病患者の差別的境遇を脚色として利用したことになる。ハンセン病患者の描き方も、世間一般の差別偏見を助長するひどいものである。

告発映画であればこそ、ノンフィクションに徹すべきではなかったか。フィクションが少しでも混ざれば虐殺の根幹事実さえ疑問とされかねない(歴史修正主義者の手法である)。

 

そうした意味からも、ノンフィクションで資料多数の原作が同時に復刊されたのは時宜を得たものだったといえる。


◎2023年9月24日『上昇(アップスウィング)』ロバート・D・パットナム他

☆☆☆☆☆データが示す1960年代を頂点とする上昇と下降 日本はどうか?

単行本で464頁の大著だが、注と資料が半分近くを占め、グラフも多数あるため、読み通すのは難しくない。また、叙述もデータとグラフに基づきわかりやすく説得力がある。

論旨は明快で、アメリカの経済、政治、社会、文化のいずれをとっても1960年代が上昇のピークで、その後は下降に向かっているというものだが、それが各分野の膨大なデータからどの分野でも「逆U字型グラフ」で鮮やかに示されている。データの収集と処理だけでも大変な労作である。

 

著者が比較対照するのは1860年代から90年代のアメリカで、マーク・トウェインが「金ぴか時代」と嘲った時代以降の歴史であり、この時代が現代アメリカと非常によく似ているという。その後、アメリカは大恐慌と2度の大戦を越えて1960年代まで上昇を続けた。

すなわち、経済においては階層間の不平等の是正が進み、政治においては党派間の妥協や協調が進み、社会においては諸団体への参加と連帯が進み、文化においてはコミュニティを重視するものが主流となった。

ところが、1960年代から70年代以降は、すべての分野で逆流が生じ、経済的格差の拡大(とりわけ高所得層への富の極端な集中)、政党間の対立の激化と妥協の消失、社会的連帯の衰退と大衆の孤立(特に労働組合や宗教団体の衰退)、文化における自己中心的個人主義の拡大である。例えば、「アメリカン・ドリーム」とは、本来は人が出身階層や環境にかかわらず能力を十全に発揮し、他者から認められる社会秩序の夢という道徳的・公共的理想を意味したが、1960年代以降は個人的な物資的成功のシンボルに変化していった。

なお、人種とジェンダーの問題は同様ではないが、1970年代以降は平等政策へのアクセルが止まったという。

 

こうした著者の分析からすぐに想起されるのは、20世紀後半の社会福祉国家の行き詰まりと新自由主義の台頭であるが、著者は各分野の上昇と下降は絡み合っていて因果関係を定めるのは困難だとする。

では、どうやって上昇するのか?

著者はトクヴィルがかつて表現した「アメリカの理想」、すなわち個人の自由と共通善のバランスを取ることをめざし、そのためにかつての改革者たちの「人道的で情熱的な時代精神」から学ぶ必要があるとする。すなわち、彼らは「全員が良心と高まる政治的意識に気を留め、階級間の連携構築、草の根組織化と政治的権利擁護のための無数の活動に関わった一般市民」であり、その積極的行動主義(アクティヴィズム)が政治を動かしたというのである。

 

実は、こうした歴史状況は戦後アメリカを後追いしてきた日本にも当てはまるのではないか。

戦後の復興から高度成長期を経て、日本社会でも平等と連帯を求める動きは強まり、住民自治を掲げる革新自治体も多数誕生した。労働組合運動や学生運動も活発だった。ところが、1970年代以降は各分野で後退が始まり、新自由主義と規制緩和の時代以降は格差拡大と自己中心的個人主義が広がり、社会的連帯は弱まる一方である。

本書の鮮やかなデータ分析は日本社会の「上昇」を考える上でも参考になるだろう。


◎2023年9月15日『神』フェルディナント・フォン・シーラッハ

☆☆☆自己決定権で正当化される「姥捨て」?
 単行本で168頁の小冊子であるが、安楽死をめぐる重い倫理的議論が展開されている。
 ドイツでは2015年に連邦議会が自死の介助を医師が行うことを処罰する法律を制定したが、2020年に連邦憲法裁判所がこれを違憲無効としており、本書はまさにホットなテーマを扱ったものといえる。
 医師の臨死介助のうち、①消極的臨死介助(延命医療の中止)、②間接的臨死介助(緩和ケアの投薬で死期を早める)は日本でも容認されているが、③自死を希望する者に安楽死用の薬剤を投与する自死介助まで容認できるのかどうか?
 実は、欧米諸国の多くは③の自死介助まで容認している。その根拠は啓蒙合理主義に由来する「自己決定権」であるとされる。

 本書では、まず著者シーラッハが戯曲で問題を提示する。自死を希望するのは健康体でありながら妻に先立たれて生きる意欲を失った高齢者であり、これに対し倫理委員会が参考人として法学、医学、神学の代表者を聴取して議論を交わすという展開だが、結論は示されない。付録として、倫理学と法学の立場から3本の論考が掲載されているが、いずれも自死介助を肯定するものである。
 本書の表題が「神 GOTT」とされていることを見れば、自死介助の否定論は生命は神のものという宗教倫理が最も大きいと著者は考えているようだが、戯曲の神学者と弁護士の論争は全くかみあっていない。
 むしろ、医学者との議論に示される、実際に介助する医師の立場のほうが大きな問題であろう。自死について本人に自己決定権があると考えるとしても、それは他者である医師に介助を求める権利まで含むものなのか。ヒポクラテスの誓いの下で患者の生命を守ることを倫理的使命とし、癌や終末医療でも患者の良き生を配慮する医療実践と自死介助は大きな矛盾があるのは否定できない。
 現実問題としては、戯曲で提示される健康体の人の自死(精神病ではないとされるが、うつ状態の希死念慮と診断されてもおかしくなかろう)や、致死的でない不治の病を患う若者の自死まで医師が介助すべきなのか(ベルギーでは未成年者でも自死介助が認められるという)、さらにはナチス時代に行われた「生きるに値しない生命」の排除(障害者30万人が殺害された)まで行き着かないのかという疑問は当然あるだろう。重度の障害者や認知症患者に「安楽死」を求めるという考えは優生思想そのものだからである。
 高齢化社会の下で、医療負担軽減や家族の介護負担の圧迫で「自己決定」が事実上強制される懸念も当然ある。いわば、現代版「姥捨て山」である。

 ちなみに、本書でも引用されている「清算自殺」を提唱した医師ホッヘと法学者ビンディングの安楽死に関する議論については、『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察』(森下直貴ほか編 レビュー済み)に詳しく紹介されている。


◎2023年9月14日『日本の西洋史学 先駆者たちの肖像』土肥恒之

☆☆☆☆西欧中心史観からの脱却 上原編『日本国民の世界史』への道

明治の国策であった西欧化の中で、歴史学でも「お雇い外国人」リースによって西洋史が導入された。

本書は西欧中心史観で始まったリースの時代から第2次大戦時の「大東亜戦争の世界史的意義」の時代までの西洋史学者たちの研究の跡をたどり、補論として戦後の上原専禄による新しい世界史像の試みを加えたものであるが、著者の力点は後者にある。

 

お雇い外国人の時代が短期間で終わると、西欧に留学した日本人研究者による西洋史学の時代が始まるが、著者はその推移を、ドイツ史学の移植、文化史(大類伸のルネサンス論など)、原史料の直接的考究(上原専禄の中世史研究)、近代資本主義研究(大塚久雄)の流れで整理する。ランケの政治史中心の史学からブルクハルトの文化史や経済史へと研究の幅が広がり、戦後に「大塚史学」として一世を風靡した大塚久雄の戦前の研究活動も詳しく触れられており、興味深い。上原専禄は戦前はドイツ中世史の研究者で、文献中心ではなく直接原史料にあたる研究スタイルで画期的成果を挙げたとされる。

しかし、こうした日本人研究者の西欧中心スタイルからの自立の努力が戦時下の「大東亜戦争の世界史的意義」(和辻哲郎)へと行き着いたとすれば皮肉なことであろう。日高六郎は当時の史学者の言葉として「これは植民地解放戦争だよ、歴史が変わるのだ」と談笑していたと記録しているが、本書には多くの歴史学者が時流に迎合した無惨な姿が描かれている。上記の大類伸は1940年の歴史学会で「歴史に於ける自由と運命」と題した講演を行い、「自由の精神よりも運命又は必然というべき大きな力がある・・・」と語ったという。西欧留学や外国文献で視野が広かったはずの歴史研究者たちといえども、大東亜共栄圏のプロパガンダと緒戦の大勝利に惑わされたのであろうか。他方、上原専禄はこの時代は中世史の研究に沈潜していたが、時局を語った論考では、「著大な政治的事件を史的考察の出発点」とする方法は「思考の内面的自律性に欠ける」と留保を付けていた。

 

上原は、戦後はもっぱら新しい世界史像の形成と新制高校の世界史教科書の作成に尽力し(1960年『日本国民の世界史』に結実)、戦前の中世史研究家としての活動はなりを潜めるが、これは戦前の「大東亜戦争の世界史的意義」の時代の歴史学への反省を踏まえたものであろう。

戦後の歴史学界はマルクス主義の発展段階説、社会構成史体系が席捲したが、上原は彼らと協力しつつも一定の距離を置き、文明史的発想が強かったという。すなわち、世界が一体化される大航海時代以前の時代は、世界は①東アジア世界、②インド世界、③イスラム世界、④ヨーロッパ世界が独自の歴史を展開させていたとする。上原は西欧中心史観から脱却し、地域世界の強調を通じてアジア再生を探求しようとしたが、その背景には1955年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)などの新しい胎動に世界平和を託す期待があった(ネルー、周恩来の時代は今や昔ではあるが)。

 

なお、羽田正の『新しい世界史へ』(岩波新書 レビュー済み)でも上原の世界史像が詳しく紹介されているが、著者は上原を克服しようとする羽田と異なり、「新しい上原世界史像」を形成すると述べていることに注目したい。


◎2023年9月10日『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』ナンシー・フレイザー

☆☆☆☆「共喰い資本主義」から「21世の社会主義」へ しかし、そこでいう「社会主義」とは?

資本主義の過去の歴史や現代の新自由主義に対し、その搾取と収奪、矛盾と不合理、人種差別と女性差別、自然破壊等々を指摘して糾弾するのはたやすいし、現に労働運動や反差別運動、マイノリティの権利擁護運動などが多数取り組まれてきている。

しかし、資本主義に代わりうるものが「社会主義」かと言われれば、ソ連・東欧の社会主義国家の破綻、中国の強権的独裁政治などの生々しい体験を経た現在では、躊躇する人が多いだろう。

これに対し、著者は資本主義の「不正義のカタログ」として、搾取などの経済的不正義に、①経済的生産と社会的再生産の分離、②自由な労働者と従属する「他者」の構造的分離、③人間と自然との間の明確な境界といった不正義を加えて、これを「共喰い資本主義」(CANNIBAL CAPITALISM 本書の原題)と呼び、これらすべての欠陥を改善するのが「21世紀の社会主義」なのだという。そして、近年のアメリカでのサンダース議員への支持の拡大などは「社会主義の復活」を示すものだという。

では、著者のいう社会主義とは何か? 本書には「生産手段の公有」だけではなく生産とその背景条件である「社会的再生産、公的権力、自然、富のかたち」の関係を変えなければならないという。ただ、これはラフなスケッチに止まっており、手続的には民主的プロセスで政治的問題として進める必要があるというのみである。

 

斎藤幸平氏の『人新生の資本論』でもレビューしたが、生産手段の公有化といっても現代の多国籍巨大企業をどうやって公有化するのか、その実現のための手続や制度内容が全く不明である。ソ連型計画経済の失敗や官僚主義の腐敗を避ける方法が説得的に示されない限り、民主的プロセスで合意を得ることはできないだろう。

現代資本主義の内部においても、企業統制の議論は活発であり、世論の監視により企業の社会的責任の追及もなされている。

資本主義のリベラルな規制による人権擁護と社会福祉の実現ではなく、なぜ「社会主義」でなければならないのか、さらなる検討が求められる。

*ps:社会主義は「1度の失敗」ではなくソ連、中国、東欧等々ことごとく失敗であるばかりか、スターリンと毛沢東の下で数千万人が殺される巨大な人道的惨禍をもたらした。現代世界でも、ロシアや中国は反民主主義・権威主義化への害悪を流している。その批判的総括抜きで社会主義の展望を語ることはできない。

 

 

◎2023年9月9日『マルモイ ことばあつめ』(映画)

☆☆☆☆☆「皇民化政策」に対する辞典編纂による抵抗を描く

1980年の光州事件を描いた映画『タクシー運転手』と同じ脚本家による作品であり、その名脇役だったユ・ヘジンがこの映画では主人公になっている。したがって、2つの映画ともコミカルでテンポのよい作品となっていて、逃走シーンが見せ場になっている点もよく似ている。

しかし、『タクシー運転手』の敵役が全斗煥軍事独裁政権だったのにたいし、この映画の敵役は植民地支配を行っていた当時の日本(憲兵隊?)である。

物語は主人公が朝鮮語の辞典編纂運動にたまたま関わるようになり、憲兵隊の厳しい弾圧を受けながら、自らもその意義に目ざめていくというものだが、前提として日本の「皇民化政策」に関する基礎知識は不可欠である。

梶山季之の『李朝残影』(レビュー済み)にその実態が描かれているように、日本政府は「内鮮一体」のスローガンの下で朝鮮民族に日本名への創氏改名や学校での日本語教育を強制した。由緒ある地名も、ソウルは「京城」、ミョンドン(明洞)は「明治町」などと日本風に変えられた。まさに、民族の文化的アイデンティティーの否定である。

この映画で描かれる朝鮮語の辞典編纂運動は、こうした「皇民化」に対する抵抗の象徴として描かれ、各地の方言収集などの粘り強い努力がユーモアを交えて描かれている。

それにしても、長い歴史と独自の文化を持つ民族を日本国民に同化しようとするとは、なんと愚かで乱暴なことをやったものだろうか。今日に至る日本への「恨」を韓国の人々が時折噴出させるのもやむを得ないことだと思う。

 

 

◎2023年9月9日『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』(映画)

☆☆☆☆太平洋戦争激戦地の遺骨収集を背景に人間の欲望を描く

子供の頃にこの映画を見たとき、オパール(実はバルゴンの卵)を求めて南方の洞窟を探検するシーンがとても印象的で怖かった。

今見ると、映画前半のこの探検の物語がとても長い。本郷功次郎演じる主人公の兄が出征先の激戦地ニューギニアの洞窟で見つけたオパールを、戦後の遺骨収集を口実に現地に探しに行くというストーリーなのだが、この映画が作られたのは戦後まだ20年で太平洋戦争の激戦地も遺骨収集も生々しく感じられる時代だった。

怪獣バルゴンはどこかユーモラスで漫画的だが、宝石を求める人間の欲望は最後まで醜く描かれる。

人間の欲望が怪獣を生み出すというモチーフは、現代に恐竜を蘇らせて見せ物にするというあの『ジュラシックパーク』にも通じる。

また、古老の言い伝えのタブーを無視して怪獣や妖怪を呼び覚ますのは、『ゲゲゲの鬼太郎』などでもおなじみだ。

 

なお、ニューギニアの「土人」を演じるのが江波杏子ほか全て日本人というのには笑ったが、これは香港映画や韓流時代劇の悪役日本人を中国人や韓国人が演じるのと同じか。


◎2023年9月5日『キーウの遠い空 戦争の中のウクライナ人』オリガ・ホメンコ

☆☆☆☆☆350年間もロシアの「植民地」だった・・・戦争が「脱露」を促す

日本とウクライナの間を行き来する研究者であり小説家でもある著者の日本語によるエッセイ集である。

ウクライナ戦争について著者自身が日本の記者から多数のインタビューを受けたが、戦争の傷を抉るようなセンセーショナリズムと心ない質問に辟易して、自らがウクライナのことを知ってもらうために書いたという。

まさにその言葉どおり、戦争前後のウクライナ国民の日常生活や心情が、戦争の予感から、家への愛着、宗教生活、女性と子どもの避難、隣国ポーランドの温かい支援など多岐にわたってわかりやすく語られ、さらに1000年にわたるウクライナの歴史や地理的条件などにも触れられており、ウクライナのことをより身近に感じることができる。

また、戦時下でもビジネスを維持し、日常生活を守り、余暇も楽しもうとする不屈の人々の姿も描かれている。

 

実は、私自身も昔はウクライナは旧ソ連の一部という認識で、ソ連崩壊後に独立国家となったことが意外だった。しかし、著者は、ウクライナは1654年のロシア帝国編入以来、ロシア革命直後の1919年に独立した一時期を除いて350年にわたり「植民地」だったのであり、今回のロシアの侵略によりウクライナではかえって民族のアイデンティティーと独立精神が強まったという。当然とはいえ、20年前に比べてロシアに対するウクライナ国民の好感度は90%から34%に激減している。ロシアは図書館や美術館、さらには劇場に対する爆撃を行っており、東部のロシア占領地域では国民詩人シェフチェンコ像の破壊も行っている。ウクライナの民族文化の独自性を消そうとする意図的なものだという指摘は説得力がある。

「ウクライナの人々は自分の故郷を、そして尊厳を守るために懸命に戦い、今回のトラウマを成長の糧に変えようとしている」という著者の言葉に共感し、ウクライナの人々を応援したい。

 

なお、ウクライナと日本の関わりは満州国のウクライナ独立派支援に遡るそうだが、旧ソ連時代にも日本文化への憧れがあり、近年は日本のアニメや漫画に興味を示す若者も多いという。

しかし、日本語学習の困難さが留学などの大きな壁になっているらしい。この点は、『漢字が日本語をほろぼす』などで田中克彦氏が指摘したとおりであり(レビュー済み)、漢字学習の困難さが外国人の日本文化への参入障壁となっている。


◎2023年9月1日『大怪獣のあとしまつ』(映画)

☆☆全編パロディだが、おふざけが過ぎる

大怪獣を倒した後の死体処理はどうなるのか?

視点は面白いのだが、それなら真面目に死体処理や環境問題、あるいは科学的研究などの観点で作ればよかった。

総理大臣役の西田敏行ほか、せっかくいぶし銀の俳優たちを閣僚に動員して省庁官の押し付けや利権争いを演じさせたのに、ふざけすぎて風刺になっていない。焼肉屋の排煙作戦とか、水洗トイレ作戦とか・・・!?

若手俳優の恋の鞘当ても場違いだし、最後の「デウス・エクス・マキナ」(機械仕掛けの神)による解決も意味不明である。

パロディは真面目に作らないとつまらないことがよくわかる映画。

 

中国のあの女性報道官に似せた女優が大陸棚を根拠に大怪獣の所有権を主張したり、死体の腐敗ガスによる大気汚染を非難したりする場面には笑ったが。

 

 

◎2023年8月30日『猟犬』ヨルン リーエル ホルスト

☆☆☆☆☆証拠ねつ造始末記 現役警察官による内省の書

主人公ヴィスティング刑事が担当した17年前の女性誘拐殺人事件の元受刑者が、DNA鑑定の証拠ねつ造を訴えて再審請求し、主人公は責任を問われて職務停止となるというショッキングな場面から物語は始まる。

ねつ造の有無が問題なのかと思いきや、タバコの吸い殻のすり替えによる証拠ねつ造は否定しがたい事実とされ、その真相究明と補強証拠探しが物語の1つの柱となる。

同時に、新聞記者をしている主人公の娘が遭遇した殺人事件の追跡が17年前の事件と交錯するように進み、さらに新たな少女誘拐事件の発生も加わり、ミステリーの糸を重層的に紡いでいく。

親子協力しての事件解明はややでき過ぎの感もあるが、捜査のディテールがしっかり描かれていて、読み応えがある。

 

著者は本作品当時は現役の警察官だったというが、証拠ねつ造という警察にとって痛い話を内省を込めてよく書いている。特に、見込み捜査が捜査官の視野を獲物を追う猟犬のように狭くする危険性を繰り返し警告している点は重要である。加えて、重大事件でマスコミや政治家の圧力がある場合の捜査官の追い込まれた心理も冤罪の背景として指摘される。この点、本書では冒頭から最後までマスコミのセンセーショナリズムが批判的に描かれるが、これも現役捜査官の実感なのであろう。

 

 

◎2023年8月29日『警部ヴィスティング 疑念』ヨルン・リーエル・ホルスト

☆☆☆☆☆テーマは見込み捜査とDNA鑑定 訳者あとがきは必見

『カタリーナ・コード』以降の未解決事件四部作の最後であるが、構成の緻密さとミステリーの推進力が最も充実した傑作だと感じた。

物語は休暇中のヴィスティング刑事に謎の手紙が次々届き、過去の確定事件の冤罪を示唆されるところから始まる。他地域の所轄事件だが、警察が確定事件の再捜査を自発的に開始することは普通はない。本書でも当時の担当刑事で現在の警察幹部からヴィスティングは圧力を受けるのだが、上層部の政治的思惑からか未解決事件担当のあのスティレル刑事が捜査を任され、ヴィスティングはその下で働く異例の展開となる。

同時に、ヴィスティング休暇中に起きた殺人事件の捜査が並行して描かれ、過去と現在の事件が対比されるように物語は進行していく。

このあたりの複雑な構成が実に巧みであり、多彩なモチーフを重奏的に絡めるマーラーの交響曲を連想する。

また、刑事捜査と裁判のディテールも相変わらずしっかりしていて、特に過去の事件の裁判で担当刑事が弁護人の反対尋問を受ける場面が素晴らしい。訳者あとがきによると、著者自身が捜査官で担当した同様のケースで無罪判決を受けた苦い経験があるそうだが、そうした体験や他の事件の法廷傍聴を踏まえたものだろう。

 

本書を貫くテーマは、見込み捜査とDNA鑑定である。

早い段階で被疑者が浮上したとき、警察は往々にして他の真犯人の存在を無視したり、被疑者が犯人でない証拠を軽視したりする。

また、DNA鑑定には技術的な精度や鑑定資料の紛れ込みといった問題がある。

これらは冤罪の原因となるのだが、著者は問題点をわかりやすく提示したうえ、単純な冤罪事件としてではなく、ひとひねりもふたひねりも加えてミステリーを展開している。

 

なお、ノルウェーの刑務所では凶悪事件の受刑者でも一時帰宅が制度化されているうえ、恋人との面会は個室で立ち会いなくでき、性交渉もあるのだとか。これが本書ではミステリーのネタとして利用されている。

 

 

◎2023年8月28日『警部ヴィスティング 悪意』ヨルン・リーエル・ホルスト

☆☆☆☆凶悪犯逃走! 翻弄される警察

今回はいきなり服役中の凶悪犯の逃走劇から始まる。

連続殺人事件の受刑者が別件事件の死体遺棄場所を告白すると欺いて、その現場で周到に準備された逃走を成功させたのだが、もちろん警察にとっては大失態であり、現場責任者として主人公が追及されることになる。

実はこの逃走劇は、未解明事件担当のあのスティレル刑事が共犯者「アザー・ワン」the other one逮捕のために仕組んだものだったのだが、結局、まんまと裏をかかれてしまい、スティレルは主人公と協力して捜査にあたることになる。

物語はこの警察の大失態から始まる異色の展開で、謎の共犯者の巧妙な陽動作戦に主人公らがキリキリ舞いさせられながらもなんとか解明を進め、最後はあっと驚くどんでん返しの結末となる。

 

捜査のディテールがリアルで説得力があるのは他のシリーズ同様で、ミステリーの手に汗握る推進力もよい。

ただ、スティレル刑事のあざとい手法や主人公の娘の捜査への危険な関わりはやはり気になるところだが、著者はストーリーの盛り上げに意図的に用いているようだ。

 

なお、ノルウェーの刑務所の自由な処遇は有名だが、本書でも受刑者が外部と自由に電話連絡できる(20分、看守の立ち会いで)ことなどがわかる。

 

 

◎2023年8月26日『警部ヴィスティング 鍵穴』ヨルン・リーエル・ホルスト

☆☆☆☆特命某重大事件捜査の型破りな顛末

主人公のヴィスティング刑事がなんと検事総長から呼び出され、急死した大物政治家の別荘から発見された大金の出所を探る極秘特命を受けるところから物語が始まる。

今回のテーマはミステリーらしからぬ政治家の汚職や経済犯罪かと首を傾げたが、やがて未解明の大金強奪事件や行方不明事件との絡みが明らかとなり、物語は思わぬ方向に展開していく。

このあたりのストーリーの運び方と構成は見事である。また、捜査のディテールもリアルで手に汗握る臨場感があり、読者を引き込む。

『カタリーナ・コード』で手段を選ばない切れ者として主人公親子を困惑させた国家犯罪捜査局のスティレル刑事が本書でも登場して、重要な役どころを担っているのも見どころである。

なお、物語の背景には、北欧で戦後長く続いた社会福祉国家政策が近年は新自由主義の揺さぶりを受けている事情を押さえておいたほうがいいだろう。

 

ただし、警察幹部ではなく、別系統の組織である検察トップが地方警察の刑事に捜査を依頼するのは違和感のある設定であるうえ、極秘捜査とはいえ、自宅を捜査本部として証拠物の大金が入ったダンボール箱を主人公の自宅倉庫に保管し、ジャーナリストである主人公の娘を臨時の本部員にして危険な秘密捜査をさせるのはどうだろうか。後者はジャーナリスト倫理だけでなく、民間人に危険な犯罪捜査を委ねる点で警察倫理からも問題がありそうだが・・・。

 

 

◎2023年8月24日『警部ヴィスティング カタリーナ・コード』ヨルン・リーエル・ホルスト

☆☆☆☆☆通信傍受の捜査手法がよくわかる

北欧ミステリーのファンだが、このシリーズは初めて読む。

本書では20年以上前の未解決事件の捜査が描かれるが、未解決事件とはいっても表題のカタリーナは不自然な失踪であり、事件性すら疑問である(日本なら捜査に着手しないのではないか)。しかし、ノルウェーの警察はこれを殺人事件として大規模に捜査し、今なお主人公のヴィスティング刑事は記録を持ち帰ってまで調べている。

そこに同時期の誘拐事件で未解決の大事件が交錯して、新たな展開が起きるという物語である。

著者は元刑事ということだが、さすがに捜査のディテールはリアルに描かれており、特に目星をつけた被疑者の通信傍受や発信機の追跡という捜査手法の実態が生々しい。通信傍受は電話だけでなくSNSやインターネットにも及び、ウェブサイトの閲覧状況までリアルタイムで把握される。もちろんこれらは人権侵害の強い捜査だから、嫌疑と必要性を疎明して裁判所の許可を得なければならない。

ミステリーの謎解きよりも、こうした捜査手法で犯人を追い込む手に汗握る臨場感が楽しめる小説だ。

 

なお、この捜査では新聞とテレビが警察捜査に利用され、その場面が物語の重要な筋となっている。一般的な情報提供を超えて、被疑者を追い込む具体的捜査に取り込まれる形でメディアが犯罪捜査に協力させられるのは、報道倫理の点で議論がありうるところだろう。

 

 

◎2023年8月23日『シャイロックの子供たち』(映画)

☆☆☆☆豪華キャストで楽しめる

原作は読んでいないが、銀行関係者が見たらどうだろうか?

支店の営業ノルマの厳しさは昔は有名だったが、パワハラやいじめの横行、さらにはギャンブルや使い込みがこんなに多いわけがないとは思うほどの恐ろしい実態が描かれる。

ただ、金融のプロの銀行員が兄の事業の保証で何億の債務を負い、闇金の取り立てまで受けるというのはちょっとありえない設定ではないか?

なお、最近はコロナ感染予防と人員削減の影響で、銀行窓口は予約しないと対応してもらえない不親切さで、今は昔の感さえある。

 

とはいえ、阿部サダヲをはじめ豪華キャストが実に味のある熱演を見せてくれて、映画自体はとても楽しめた。

 

 

◎2023年8月20日『ギャンブル依存 (平凡社新書)』染谷一

☆☆☆☆日本は「ギャンブル依存大国」 しかし、処方箋の歯切れは悪い

本書は読売新聞の医療健康サイトの連載記事に基づくもので、ギャンブル依存をパチンコ、競艇、宝くじ、闇カジノ、インターネットカジノ等の実例で紹介して、その問題と解決の方向を探るものである。

 

ギャンブル依存のパターンは様々だが、その落とし穴は実に身近なところにある。そして、それが「依存」となると、もはや趣味に「はまる」域を超えて、わかっていても止められない「無間地獄」である。

依存に陥った後の共通のパターンとしては、自己資金が底をついて消費者金融から借り入れ、それが返せなくなると親や妻が肩代わりし、そしてまたギャンブルに手を出して、最後には強盗や横領といった犯罪へと進む。

依存者への対応としては、まずギャンブル依存が薬物依存などと同様の「病気」であるという認識を持つこと、そして依存症の専門医(精神科)の診断を受け、治療施設か自助グループで治療する。治療薬はなく、本人が依存をやめる強い意思がなければ効果はない(なお、借金は安易な肩代わりではなく、弁護士介入による債務整理か自己破産が必要である)。

 

著者はまた、「日本は世界一のギャンブル依存大国」だとして、各国のギャンブル依存の有病者割合がアメリカ0.42%、イギリス0.5%等に対して日本は3.6%とダントツに高いという驚くべきデータを示している。その背景には、パチンコなどの電子ギャンブル機(EGM)の設置台数が日本は457万台と、2位のアメリカの86万台をケタ違いに引き離して多いことがある。

実は、20204月からギャンブル依存への集団治療が保険適用になったのだが、これは「統合型リゾート(IR)」と称するカジノ導入を見越したものだと著者はいう。

こうした重要かつ深刻な指摘にもかかわらず、著者は本書がアンチギャンブルでも反IRでもないと再三断っているが、これは読売新聞記者という立場上の制約だろうか。はっきり言って歯切れが悪い。

「世界一のギャンブル依存大国」でこれだけの依存症有病者がいるのであれば、個人の心がけや依存後の医療的対応の問題ではなく、薬物同様にギャンブル自体の規制強化が議論されるべきではないか。

 

 

◎2023年8月17日『B-29の昭和史』若林宣

☆☆☆☆都市空爆を繰り返させないためにどうすればよいか?

B-29の昭和史』という題名にもかかわらず、本書は航空機による「戦略爆撃」とその将来を視野に入れている。

ライト兄弟による飛行機の実用化は1907年だが、早くも第1次世界大戦前後から戦略爆撃は始まった。しかも、戦闘機による一騎打ちの牧歌的なイメージではなく、当初から戦略的な爆撃が構想され、その中には敵基地のみならず都市への無差別爆撃で敵の戦意をくじくことも含まれていた。しかし、それでも第1次大戦と第2次大戦の間の戦間期においては、反戦思想や人道主義の高まりを背景に、民間人の被害を極力抑えるよう目標を工場などに限って爆撃する「精密爆撃」の考えがアメリカにはあったという。

実は、こうした機運は日本にもあり、国際法の専門家である田岡良一は『空襲と国際法』(1937年)で、「航空機の軍事的価値を活かしつゝ、人道の要求との調和を計る事に腐心する」と書いていた。もっとも、航空機の軍事的価値を認める以上、戦争遂行の必要があれば人道的要求は後退させられるのであり、直後に始まった日中戦争で日本軍は重慶の無差別爆撃を行った。

 

本書はB-29の偵察機としての登場から、本格的空爆の開始、東京大阪などの大空襲、さらには原爆投下までの日本国内の受け止めを、軍部の宣伝、新聞報道、作家の日記等を丹念に拾って紹介している。それぞれが戦時下の国民意識の断面を伝えるものとして興味深いが、当初は恐れを知らぬカラ元気、やがては圧倒的威力への畏怖、そして空爆下の諦観へと進む。これが戦後の占領期や朝鮮戦争の出撃基地化の時代ではアメリカの科学力への崇拝へと逆転するわけだが、都市空襲自体への根源的な批判にはならない(その典型が、こもごもに語られる「B-29は美しかった」という言説である)。

これに対し、著者は、14歳で神戸大空襲を体験した野坂昭如の『火垂るの墓』(1967年)と高畑勲監督によるそのアニメ化(1988年)に言及し、「日本人が銃後の戦争体験としてのB‐29像を手にするまでに、二〇年以上を要した」と書いている。確かに、『レイテ戦記』を書いた大岡昇平のように戦地での体験を語ったものや、本書でも紹介されている永井荷風や谷崎潤一郎の日記のようなものはあるが、空襲被災者が「戦災孤児の物語」を書いた点に『火垂るの墓』の意義はあるのだろう。

 

現代戦争においても都市空爆は繰り返されており、ウクライナ戦争を見ればドローンの無人機攻撃やミサイル攻撃まで加わり、むしろ後者が主流となりつつある。ドローンやミサイルでは「精密爆撃」どころか、学校や病院への「誤爆」が繰り返されることになる。

国際人道法の観点から、非戦闘員や子どもを巻き込む都市空爆を違法として禁止する世論と合意を広げていくことこそ、本書から汲むべきメッセージであろう。

 

 

◎2023年8月14日『ミュージック・ヒストリオグラフィー』松本直美

☆☆☆☆☆「音楽史」とは何か? イギリスの授業を聴講するような臨場感

著者はイギリスの大学で「歴史的音楽学」の教鞭を執る研究者である。

本書はよくある音楽史を書いたものではなく、音楽史自体を対象に、その問題点、その書かれ方の変遷、そしてその将来について論じたものである。したがって、音楽家や名曲・名演奏を網羅的に紹介した本ではない。

しかし、著者の語り口は大学で学生に授業を行うように、豊富なエピソードや脱線を交えつつ展開していくので、とてもわかりやすく興味深い内容となっている。

 

冒頭の導入部分では、音楽史といえば作曲家の肖像画と伝記、生没年の年表が3点セットのようになっているが、これは大変奇妙なことだと指摘される。確かに、「音楽史」でイメージするのはバッハ、ヘンデル、モーツアルト、ハイドン、ベートーヴェン・・・といった大作曲家の肖像画と作品であり、それにまつわる伝記的物語である。古典派、ロマン派といった区別は知ってはいるが、それほど強くは意識していない。あくまでも「天才」である大作曲家個人を中心に歴史が語られる。

著者は、本当は音色や作曲技法といった音楽の内容を語るべきなのに、それはあまりに難しいために、作曲家の肖像や人となりを示して、音楽を語ることに代えたのだという。作品に関する逸話も同様だが、ベートーヴェンの第5交響曲冒頭の「運命はこのようにドアをノックする」という有名な逸話の真偽は実は疑わしく、キオアジ(鳥)の鳴く声を模倣したものとか、毎朝決まったリズムでノックする掃除婦への皮肉(著者お気に入りの説!?)といった異説があるらしい。

 

一般聴衆が聴取できるコンサートが普及したのは18世紀の啓蒙主義の時代以降で、大作曲家や「名曲」が意識されるのもそれ以降ということになる。とはいえ、コンサートといっても長らく社交の場であり、本格的な器楽曲の「音楽鑑賞」はやはりベートーヴェン以降だという(第9交響曲のウィーン初演、バッハのマタイ受難曲のメンデルスゾーンによる再演が画期とされる)。

こうした聴衆の受容スタイルや、時代の変遷による名曲受容の変化なども興味深い。

音楽史の将来という点では、近年のジェンダー平等や反人種差別の波が音楽分野にまで及んでいることも指摘されている。

 

 

◎2023年8月6日『差別と資本主義』トマ・ピケティ他

☆☆☆☆フランス社会の分断の深さを感じる

訳者解説によると、本書は2022年のフランス大統領選挙前に出版された小冊子シリーズから差別と不平等に関わる4冊をまとめたものとのことで、いわば選挙を意識したブックレットである。そのために、フランス国内向けの政策論や提言が細かく言及されており、日本の読者には煩雑に感じるところがあるだろう。

各著者の政治的立場としてはリベラルな左派ということだろうが、フランスの右傾化する政治状況(本書では「ゼムール現象」として取り上げられている)の下では左派というよりも移民排斥・反イスラムの排外主義への批判が強く出ている。

 

最初のピケティの論文によると、フランスの人口の中でイスラム教徒は50年前は1%だったのが現在では78%に増大したという。にもかかわらず、ごく少数のイスラム過激派のテロを理由に、何百万人ものイスラム教徒にテロリストの烙印を押す。この近視眼性をピケティはまず批判する。そして、現在の中道政府でさえも反イスラム的な言動を行ったことが右傾化の進展を勢いづけたのだとし、「(フランス国民の)アイデンティティにこだわることは何もよい結果をもたらさない」と断じる。

実は、こうした「アイデンティティの政治」にかかわる問題は、移民問題を抱える欧州諸国共通の問題であり、ピケティはこれに対し「差別に対決するための普遍的モデル」が必要だとする。その提言はアウトライン的だが、社会的平等の促進、基本所得の引き上げ、雇用の保障、相続財産の再分配といった原則的で一般的なリベラル政策が強調され、他方、「積極的格差是正措置」は偽善であるとして批判される。後者はフランス特有の問題だろうが、とりわけ教育分野では格差是正といいつつ現実には富裕層やエリート優遇策となっているとされる。

社会的不平等という点では、就職活動で履歴書にアラブ=イスラム系とわかる発音の名前を書くと面接を求める回答率が大きく下がるという調査結果が示されている。

また、フランスの宗教的中立政策(laïcité)は有名だが、実は1905年の法制定前からのカトリック教会への補助は継続しているし、カトリック系の学校への特別法による多額の補助もある。さらに、宗教団体への寄付が課税上免除になる制度も、多額の寄付金を受ける教会に対する公的資金の供与方式となっているという。

ピケティは、こうした「偽善」を脱して教育や公共サービスにおける実質的な平等を促すことが「広い範囲の団結」を勝ち得ることになるのだと結論づけている。

 

2論文ではキャンセルカルチャーが論じられており、著者は擁護するようだがどうだろうか? ポリティカル・コレクトネスやジェンダー問題同様、少数者の権利主張が突出すると多数派が遊離して右傾化が進むからだ。

キャンセルカルチャーとは、人種差別や性差別の文化に対する急進的な異議申立運動であり、とりわけ公共空間における銅像の撤去が象徴的である。奴隷制度推進者だけでなく、南北戦争の南軍司令官やチャーチル、さらにはリンカーンにまでその矛先は向けられている。

しかし、これはまさに現代の価値観で過去の人々を糾弾し、歴史と文化を否定することにほかならない。突き詰めれば、ユネスコの世界遺産は多かれ少なかれ他民族征服や奴隷労働の上に立ったものとして破壊されるほかないのではないか。日本の戦国武将や明治維新の英雄の銅像などもすべて破壊の対象となるだろう。

民主的な討論を通じて、多数がその意義を理解して平和的になされるならともかく、急進的な運動として暴力的に撤去がなされるなら、まさにトランプのようなポピュリストにネタを与えるだけだ。

 

3論文は上記のゼムールの政治言語分析であるが、ここに描かれたゼムールはヘイトスピーカーそのものである。論文では人種差別と暴力を扇動する言論が詳細に分析されるが、私はE・カッシーラーが『国家の神話』(レビュー済み)の中でナチズム登場の前史として批判していたゴビノーの『人種論』を想起した。まさに「新しい戦前」というべきである。

 

4論文は、「資本主義の野蛮化」を周縁地域や低所得階層の具体的事例を挙げつつ糾弾しているが、今日における具体的な政策提言に至っていない。これではアジビラである。

 

 

◎2023年8月5日『嗚呼!! 花の応援団』どおくまん

☆☆☆☆今では書けそうにないセクハラとパワハラのギャグ化 しかし面白い

昔、中学高校時代に「週刊漫画アクション」に連載していて、当時の学生にはばかうけだった。

ちょうどブルース・リーの映画「燃えよドランゴン」がヒットしていた頃で、学校では青田赤道のマネをして「ちゃんわちょんわ」と叫ぶヤツとか、ブルース・リーのマネで「アチョー」と叫んでおもちゃのヌンチャクを振り回しているヤツとかがいっぱいいた。

 

しかし、内容は今では書けそうにないセクハラとパワハラのオンパレードで、差別用語や下品な言葉が満載!

ただし、いくら昭和の時代でも現実にはありえない話で、吉本ふうのギャグ(あるいは軍隊的組織や権力の戯画化)としてウケていたと思う。「がびーん」とか「役者やのー」とかのギャグはこの漫画に由来する。

実際、今読み返しても面白い。『巨人の星』ほどには洗練されていないが、学生の友情や正義、ほろりとくる人情話的要素も多数ある。

まあ、昭和のギャグ漫画としておおらかに楽しめばよいのではないか。

 

 

◎2023年8月3日『彼女はマリウポリからやってきた』ナターシャ・ヴォーディン

☆☆☆☆ユダヤ人だけではなかったナチスの強制収容所

重苦しい読後感の残る本である。

著者の母親は1920年にマリウポリに生まれたが、第2次大戦中に町はナチスドイツに占領され、夫とともにドイツへと強制労働のために移住させられる。著者が生まれたのは強制移住先のドイツであるが、若くして死んだ母の生涯を探ろうとしても、強制移住や強制収容所の記録は廃棄されている。幸運にもインターネットの探索によりロシアから情報提供の協力者があらわれ、母の姉リディアの家族とも連絡が取れ、リディアの日記も入手できたことから、本書が成立することになる。

 

まず印象づけられるのは、現在のウクライナ戦争でロシアに占領されて廃墟となったマリウポリの苦難の歴史である。アゾフ海に面した気候温暖で美しいこの町は、もとは多民族多文化の国際都市であったが、ロシア革命後の戦乱に巻き込まれ、その後はスターリンの圧政時代となる。貴族出身で裕福だった著者の母親の一族は階級敵として迫害され、邸宅の大部分を革命軍や労働者に占拠される(映画「ドクトル・ジバゴ」の冒頭のシーンと全く同じである)。

ナチスドイツの占領とドイツへの強制移住は、ユダヤ人迫害とホロコーストの影に隠れたドイツ現代史の暗部というべきだろう。ユダヤ人以外にもウクライナなどの占領地域から何百万人もがドイツに強制労働のために移住させられ、そのために大小含めて3万もの強制収容所がドイツ帝国領内につくられたというから驚く(ドイツがこれを謝罪して補償を始めたのはつい最近のことである)。

そして、戦後の解放後も、スターリンの粛清と「対独協力者」への復讐を恐れてドイツに残ったウクライナ人たちは、「無国籍者」としてドイツ国内で苛酷な差別を受けた。これは強制収容所時代にドイツで生まれた著者自身の体験として語られるのだが、精神を病んだ母親と少女時代の著者の葛藤は壮絶であり、最後は母親の自殺の悲劇で締めくくられる。

 

このように本書はマリウポリをめぐる現代史の悲劇と、「収容所群島」というにふさわしい旧ソ連とナチスドイツの実態を一族の歴史に沿って描いた興味深い著作である。

しかし、文学作品としては、叙述が平板で淡々としすぎており、著者や登場人物の感情や思考がほとんど描かれていない。特に、リディアの日記は貴重な記録なのだが、そのまま羅列的に紹介している観がある。ノンフィクションとしては情報不足で憶測が多く、小説としては脚色が足りない。苦難の連続の中にも人間的な交流や喜怒哀楽があったはずであり、戦後の難民住宅の人々の描写などにその片鱗は窺えるが、それが人間的なドラマとして描かれていないために、重苦しい読後感となっている。

事実の空白を想像力で補う小説的手法で描いたほうが、より迫真的な物語として提示できたのではないか。

 

 

◎2023年7月30日『歴史・戦史・現代史 実証主義に依拠して』大木毅

☆☆☆☆『独ソ戦』の著者によるウクライナ戦争分析 現状は「負荷試験」

『独ソ戦』の著者による最新論考集である。書き下ろしではなく既発表の論文をまとめたものだが、とりあえずウクライナ戦争に関連するところを読んだ。

 

まず、ウクライナ戦争は「侵略戦争」で「典型的な不法行為」という評価が明確であり、「どっちもどっち」的な曖昧さがないのがよい。

論考は20224月、6月及び20234月に発表された3本の論文からなるが、論旨は一貫している。

ロシアの当初の「特別軍事作戦」が失敗した経緯は他の多くの論者と同様だが、著者は20226月の論文の時点から戦争が長期化し「負荷試験」となると予測しており、現状を正確に見通している。

長期戦となる理由は、ウクライナが勝利すればプーチンが負けている状態で停戦に応じるはずはないこと、ロシアの戦争目的が政治的・軍事的合理性から逸脱したイデオロギー戦争(ウクライナの「ロシア化」)の色彩を濃くしていることにある。後者については、独ソ戦が絶滅戦争に向かったとする前著の分析を想起する。

長期戦の行方は国民の総力戦であり、それゆえ「負荷試験」となる。著者は、プーチン政権は国民の支持を調達するために、独ソ戦でナチスが行ったようにウクライナの占領地域からの人的物的資源の収奪を行うだろうという。他方、ウクライナは日本を含む自由主義諸国の支援を含む総力戦となるが、著者は、もしウクライナが「負荷試験」に合格しなければ、「戦後まがりなりにも積み上げられてきた国際秩序は烏有に帰し、世界は十九世紀的な暴力による現状変更の波にさらされることになるだろう」とする。ここでも著者の立場は明快であり、「妥協しても即時停戦」論とは一線を画している。

 

なお、軍事専門家らしい分析としては、ウクライナ軍が「任務指揮」(ミッション・コマンド)を自家薬籠中のものにしていたという指摘が注目される。これは指揮官の上下階層の「知識・能力を高度に平準化した上で、権限を大幅に下方委譲し、戦場における臨機応変の対応を可能とする指揮形態」で、現代戦では絶大な威力を発揮するという。

 

 

◎2023年7月27日『カラー版 名画を見る眼Ⅱ (岩波新書)』高階秀爾

☆☆☆☆☆カラー版へのあとがきに注目

カラー版のⅠでレビューしたように、名著に引用された絵がカラー版で面目を一新しており、しかも電子版で大画面で拡大しても画像の解像度が高く、十二分に鑑賞できるのがとてもうれしい。

 

特にⅡではⅠよりも長文の「カラー版へのあとがき」が追加されている。

それによると、著者が旧版を書いた動機は、パリ留学時代にルーブルやフィレンツェの名画をたくさん見て絵画の意味の問題を考えるようになったこと、例えば、ファン・アイク「アルノルフィニ夫妻の肖像」(Ⅰに掲載)について、「アルノルフィニとは誰か、イタリアで何をしていたのか、さらに画中に登場する犬やオレンジが意味するものは何か。一体、彼らは何をしているのか……。」といったように、絵画が「見るだけではなく読む対象」であることを知り、これを他の絵にも応用したいと考えたからだという。

 

また、著者は「私にとっての名画を1点選ぶとしたら」と聞かれたら、マネの「フォリー・ベルジェールのバー」と答えたいと書いている。この絵は有名な絵だが、残念ながら本書のⅠにもⅡにも掲載されていない。著者は女性の後ろにある鏡とテーブルがくっついていて女性の立つ場所がないように見える空間の複雑さを指摘している。ちなみに、Ⅰのマネの項目には「オランピア」が掲載されており、その解説を見ると、マネの革新性は神話でない女性の裸体表現よりも、遠近法などの奥行きを否定し二次元の表面性を強調した点が「西欧400年の歴史に対する反逆」だったという。こうした印象派以降の絵画史の「大変革」に著者の関心はあり、著者はマネの名画を参照しつつ「絵画における近代化の問題」をまとめたいと書いている。

1932年生まれで今年は91歳になる著者の旺盛な研究意欲に敬意を表したい。

 

 

◎2023年7月26日『虎と十字架 南部藩虎騒動』平谷美樹

☆☆☆☆☆着想が面白い 歴史小説としてのディテールもよい

著者の作品は初めてだが、あまりなじみのない南部藩(岩手・盛岡)を舞台にした歴史小説ということで読んでみた。

時代は江戸時代初期の三代将軍家光の時代。仙台には伊達政宗がまだ健在で、キリシタン弾圧が始まった頃である。

冒頭に引用される『徳川実紀』に南部藩主が家康から虎2匹を拝領したことと、その1匹が死んだので虎の皮を剥いで敷物にした話が書いてあるが、虎騒動のミステリーは著者のフィクションであろう。

物語は、虎を檻から逃がしたのは誰かという犯人捜しが、お家騒動やキリシタン弾圧と絡めたミステリーとして展開されており、最後はあっと驚く結末が用意されている。

そうしたミステリーの面白さもさることながら、歴史小説としての時代考証と細部のディテールがしっかりしており、藩の役職名や上下階層、当時の地理や地名などがリアリティを持って描き出されていることに感心する。

ただ、主人公が徒目付(かちめつけ)の役職で藩主の世継ぎや家老たちにほとんど臆せずに接して活躍するのは、上下関係の厳しい封建社会ではいささか不自然に感じるが、これは小説的なご愛嬌か。

 

 

◎2023年7月26日『ケルン・コンサート(CD)』キース・ジャレット

☆☆☆☆☆歴史的名盤 イントロが素晴らしい

40年以上前、高校時代にFMラジオで聞いて以来、レコードもCDも買って何度も聞いているが、やはりいい。

特に、静かに始まるイントロがとても印象的で素晴らしい。MJQの名盤『ジャンゴ』のイントロに比肩するのではないか。

しかし、演奏は紛れもなくジャズであり、自由な曲想が次々に展開していき、キースの歌う声もときどき入っている。

コンサートのライブ録音だが、静かな深夜に1人物思いにふけりつつ聞くのがふさわしいような名盤である。

 

 

◎2023年7月22日『軋み (小学館文庫)』エヴァ・ビョルク アイイスドッティル

☆☆☆☆現在と過去の並行叙述に注意

北欧ミステリーが面白いのは、冬の長い夜を楽しむためだろうか。

小さな島国アイスランドから、インドリダソン、ヨナソンに続くミステリーの新鋭の登場である。

女性作家らしく主人公は女性刑事に設定し、その心の動きや事件関係者の心理描写も女性ならではの感性が感じられる。

また、北欧ミステリーに共通する社会派的問題意識も示されており、岬に面した小さな町の濃密な人間関係を背景に、児童虐待や母子家庭の貧困が事件の糸を紡いでいる。特に、虐待された児童の心理描写やその後の行動への影響については深い考察が感じられる。

 

小説的構成としては、現在の事件の発生と捜査の進行が時系列で語られるのと並行して、被害者の少女時代の物語がやはり時系列で細切れに織り込まれているため、読者は並行する現在と過去の物語に注意して読み進めないと脈絡を見失うだろう。

ミステリーの謎解きはそう込み入ったものではないが、最後に肩透かし的な企みも隠されており、なかなかの出来映えだと思う。

 

 

◎2023年7月20日『ある行旅死亡人の物語』武田惇志、伊藤亜衣

☆☆☆記者の取材活動の実際を知ることはできるが・・・

「行旅死亡人」というからホームレスの行き倒れを想像したが、独居老人の孤独死である。

住民登録がなく身元が不明だが多額の現金が残されていたので、相続財産管理人に弁護士が選任されているが、それ以上の事件性は何もない。

にもかかわらず、著者ら共同通信の記者が興味関心を持って死者の身元を粘り強く追跡する。「沖宗」という変わった姓のハンコから身元を割り出していくその調査と労力は大変なもので、ベテラン記者の調査活動の実態とそのプロ意識はよくわかる。

 

しかし、事件性の全くない個人のプライバシーをここまで暴き、実名と写真を多数掲載することには大きな疑問を感じる。

一応事件性らしきものとしては、北朝鮮のスパイとの関わりがわずかな可能性として示されているが、結局、たんなる憶測の域を出ていない。

この独居老人の孤独死を追跡して報道することに、どのような社会的意義があったのか?

身元判明後に警察は取材に全く協力しなかったというが、個人情報の扱いという観点で警察の対応が正当である。

 

 

◎2023年7月18日『天災か人災か? 松本雪崩裁判の真実』泉康子

☆☆☆☆☆「雪崩は自然災害、登山は自己責任」という常識を覆す

つい先頃(2023628日)、栃木県那須町で登山訓練中に雪崩に巻き込まれて高校生8人が死亡した事故(2017年発生)について栃木県に損害賠償を命じる判決が言い渡された。

実は、全く同様の雪崩事故が長野県五竜遠見で1989年に発生し、長野県の責任を認める判決が1995年に言い渡されていた。その裁判闘争を記録したのが本書である。

 

雪崩の被害に遭ったのは登山の研修に来ていた高校教師であり、県の事故調査報告は「自然災害で不可抗力」とするものだった。しかし、被害者の母親が事故原因に疑問を持ち、執念ともいうべき努力を重ね、雪崩防止の専門家らの助力も得て県の教育委員会や県知事宛の要請を繰り返すがはねつけられ、訴訟の提起に至る。

本書の大部分はその後の裁判闘争を描くものだが、担当した弁護士らは山岳には素人なものの、現場主義の原則に徹して事故現場に何度も足を運び、現場で専門家の解説を受けて事故の発生をリアルに描き出し、裁判の準備を進める。

裁判の決定的な山場は、証人尋問に入る前の段階で裁判官の現地検証を実現したことであろう。裁判官に雪崩事故の現場を見せ、事故の発生をわかりやすく体感させることができれば立証はスムーズに進められる。現地検証を実現する過程は書かれていないが、原告被告間で激しい応酬があったものと思われる。

本書では裁判の経過だけでなく裁判を支える署名運動も書かれている。署名運動はたんに署名の数だけではなく、それに取り組む過程で多くの人や団体に訴訟の重要性を認識させ、社会的注目を集めることに意義がある。本書ではこの運動の中心になった人たちに対する県当局や電力会社の絵に書いたような陰湿な圧力と妨害も描かれている。

 

それにしても、「雪崩の8割は人災」という認識はまだまだ定着していないのではないか。雪の降り重なった層の中に弱い層があり、そこに人が刺激を与えると表層雪崩が誘発される(本書では「雪を切る」と表現されている)。県側の証人となった登山家たちは「雪崩を恐れるのは登山を否定することになる」というが、悪天候については十分気象条件を調査して気象遭難を回避するはずだ。雪崩も地形や雪質の調査によって回避するのは当然ではないか。

 

なお、著者は本書を「書きはじめて10年、書きあげてから5年漂流した」とのことであるが、後者はコロナや「関係者の実名・仮名問題」によるという。しかし、本書の内容の重要性を思えば、1995年の判決から上梓までにあまりにも年月が経ちすぎた。せめて上記の栃木県那須町の事件の前に本書が発行されていればと思う。

 

 

◎2023年7月16日『東北史講義【近世・近現代篇】』東北大学日本史研究室

☆☆☆☆近代の「東北」は敗者の地域から開発の対象へ

『古代・中世編』と同様、比較的若手の研究者による15本の研究論文集であるが、こちらのほうが一般読者を意識した概説的な論文が多く、読みやすい。その反面、各論文の紙数が少ないため十分な展開がなされておらず、より深く知りたい場合は参考文献に当たるしかない。

 

近世のところでは、豊臣秀吉の「奥羽仕置」以降の各藩大名の配置と盛衰が興味深い。伊達政宗をはじめとした奥羽諸藩の「押さえ」として会津が重視されたことはわかりやすいが、江戸幕府による山形藩最上氏や会津藩蒲生氏の改易はどちらも主従関係が安定せず家中騒動が生じていたことが原因であり、幕府による政略的取り潰しではないとされる。戦国以来の大名家臣は自らの軍団を有し一定の独立性を持っていたことから、江戸時代初期は重臣やその子弟らも人質として江戸に参勤していたという(「証人制度」)。

 

近代ではなんといっても戊辰戦争の影響が大きく、奥羽越列藩同盟を結成して薩長新政府に抵抗したことから、「皇化」や「教化」が必要な地域として東北概念が形成された。

明治政府の「東北開発」は大久保利通の建議書に代表されるが、本書では従前の大久保独裁イメージではなく、部下の異論や現地の多様な意図も反映しつつ開発が進められたという。特論では、安積開拓と大槻原開墾を例に東北開発と地域有力者の関わりが論じられている。

また、近年重視されているという「軍都」の観点から、軍隊と近隣地域の密接な関係の形成が論じられており(仙台、弘前など)、経済的依存のみならず地域ぐるみで戦争に関わっていく実態が示されている。

 

最後に、歴史史料の保存問題が東日本大震災を踏まえて論じられているのは特筆すべきである。

民間に保管されていた多くの古文書類が津波で失われたというが、他方、8000人に及ぶボランティアの活動で救出された史料も多数あるという。史料レスキューがたんに地域の歴史を保存するだけでなく、地域の再生と人々のネットワークの構築につながるという指摘は重要である。

 

 

◎2023年7月14日『東北史講義【古代・中世篇】』東北大学日本史研究室

☆☆☆エミシとは誰か? やはりよくわからない・・・

比較的若手の研究者17人による研究論文集であるが、多くはかなり専門的で細かい論点を扱うもので、一般読者向けではない。若手研究者に論文発表の場を提供したような観がある。

しかし、新書版で企画されている以上、一般読者を想定して論点をわかりやすく提起し、大胆な推測も含めて研究の意義を明示してほしい(その意味では、エミシと隼人を比較した辺境史や、古代の大震災、北海道との交流などの大きなテーマを扱う特論が面白かった)。

 

私自身の興味から言えば、「エミシ」(蝦夷)とは一体どのような人たちなのかを最も知りたかったのであるが、エミシを扱ったいくつかの論文を見てもヤマト政権の側から見た辺境の支配拡大をめぐる政治史がほとんどであり、エミシの人種的特徴や言語、生活、文化に言及したものはない。

これは文献史料を基本とする歴史学の限界であろうが、エミシに文字文化が伝播する過程でエミシ側の文献史料も存在するのではないか。

とはいえ、本書の論文でもエミシが狩猟を中心とした生活をしつつ、北海道や南奥羽、新潟と活発な交易を行っていたことがわかるし、ヤマト政権側が支配拡大の拠点として設置した多賀城などの多数の城柵では朝貢と饗宴が行われていたという。また、659年には遣唐使にエミシを帯同して「重訳」の形式で唐の皇帝に謁見したというから、ヤマト政権の支配に入らない異民族として早くから認知されていたことは間違いない。

他方、エミシが縄文人の子孫である原日本人だと考えると、言語も文化も異なるヤマト政権こそが異民族ということになる。実際、弥生時代の稲作文化は大陸から伝わったものだし、江上波夫の騎馬民族征服説を引用するまでもなく、朝鮮半島から多数の渡来人が来航してヤマト政権の中枢にいたことは歴史的事実である。

本書によると、桓武天皇の時代の「蝦夷征伐」の後もしばらくはエミシとの共存の時代が続き、前九年・後三年の役を経て同化が進み、ようやく11世紀の奥州藤原氏の時代にヤマト政権の北東北支配が及んだとされる。したがって、エミシはそれまではヤマト政権にとっての異民族であり続けたわけである。

エミシとは誰か? さらなる研究を期待したい。

 

 

◎2023年7月10日『バレエの世界史 美を追求する舞踊の600年』海野敏

☆☆☆☆☆バレエ史「概論」と古今東西のダンサー&振付家&バレエ団案内

新書版ながらバレエの世界史を要領よく概説し、かつ古今東西のダンサーや振付師、バレエ団を紹介した案内書としても役に立つ。

私自身は年に12度、海外のバレエ団の公演を観に行くくらいで、例によって「白鳥の湖」や「ジゼル」などの古典演目が中心で、プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」はモダンな音楽が好きでバレエも観る程度である。

こうしたバレエの歴史がルネッサンス期のイタリア以来600年の歴史を持ち、都市貴族の余興から宮廷儀礼、オペラバレエ、さらにはオペラからの独立と啓蒙思想期の改革を経て、我々がよく知っているロマンチックバレエやクラシックバレエの確立に至ると解説されると、あらためて今日における興隆の理由が理解できる。

著者のバレエの定義は、「西欧で確立したダンス・デコール(学校舞踊)と呼ばれる舞踊技法を軸とする芸術志向の強いダンス」であり、その舞踊技術は「身体の効率的な運用方法としてきわめて汎用性が高い」という。基本技術として両足のつま先を外側に開く「ターン・アウト」が図解入りで紹介されているが、その効用は、「①股関節の可動領域の最大化、②回転・跳躍力の蓄積、③平衡感覚の鋭敏化、そして④下肢の美しいラインの造形」など多岐にわたり、「完全な修得には幼時からの長時間にわたる訓練による肉体の改造」が必要とされる。また、バレエの「優雅さ」とは、姿勢における「安定と調和」、動作における最大限の<広がり>を感じさせることなのだという。バレエを習っている人には常識だろうが、門外漢にはなるほどと感心するばかりである。

 

ちなみに、バレエ600年の歴史で興味深かったことを挙げる。

○宮廷バレエの発展に貢献したルイ14世は若いときから自らバレエを踊る事を好み、絢爛豪華な「夜のバレエ」では太陽神アポロンを演じており、それが「太陽王」と呼ばれる理由の1つとなったらしい。確かに、ルイ14世の有名な肖像画では、豪華なコートの下に2本の足をむき出してダンスのようなポーズを取っているが、あれはバレエで鍛えた美脚自慢なのだという。

○バレエの振り付けは17世紀に「舞踊記譜法」が発明され(「ボーシャン・フイエ記譜法」)、楽譜と一体となったその譜面が例示してあるが、記号をどう見るのかはよくわからない。

○哲学者デカルトはスウェーデンのクリスティーナ女王から宮廷に招かれ、そこで30年戦争終結を記念するバレエの台本「平和の誕生」を書いた。戦場での死や悲惨を組み込んだ異色のもので、デカルトの平和への思いが込められた作品だったと思われる。

19世紀のロマンチックバレエは、舞台技術、舞台美術、舞踊テクニックの進歩がもたらしたものだが、作品面ではブルジョアジーの好みを反映して、女性ダンサーが注目され、題材としては恋愛、幻想、狂気、異界、異国が好まれた。

○バレエでは振付家の役割が極めて大きいが、中でも19世紀末のマリウス・プティパは古典演目すべてをロシアで上演し、クラシックバレエの様式を確立した。そういえば、最近、プティパ演出の「ラ・バヤデール」の復活公演をテレビでやっていた。等々・・・

 

 

◎2023年7月8日『文藝春秋2023年7月号』

☆☆☆☆「猿之助ショック!」 役者には顧問弁護士がいないのか?

今月号も盛りだくさんで充実しているが、やはり注目したのは猿之助事件についての2本の記事である。

渡辺保さんはテレビの歌舞伎解説でおなじみだし、関容子さんには歌舞伎を題材とした小説が多数ある。したがって、2人とも歌舞伎を愛し擁護する立場から、猿之助の歌舞伎界のリーダーかつ革新者としての重要性を強調し、その早期復帰を願っているのだが、自殺幇助罪で逮捕に至った今となっては残念ながら見通しは暗い。先代団十郎、三津五郎、勘三郎とまだまだ活躍できたはずの名優が病に倒れ、猿之助は期待のホープだっただけに、歌舞伎界は本当に危機だろう。

渡辺さんや関さんのように「パワハラも必要悪」「闇を背負った役者には魅力がある」とまでは言い切れないが、芸事やスポーツ指導では厳しい叱責が必要な場面もあろう。その程度と信頼関係によるのだろうが、問題は週刊誌の報道があたかも死刑宣告のような役割を果たしていることである。この点は香川照之氏の事件のときにも感じたことだが、本人の弁明・反論の機会が全くなく、ひたすら謝罪会見で追い詰められる。その延長線上に今回の猿之助の事件があるのではないか。

このようなスキャンダル報道に対して、役者側は顧問弁護士と相談して法的対応という選択の余地がないのだろうか。少なくとも猿之助が顧問弁護士と相談したという話は聞かない。役者生命を絶たれるほどの重大事件なら、場合によっては報道差止めのような措置もあり得る(有名な「北方ジャーナル事件」など)。少なくとも被害を最小限に止めることはできるはずだ。松竹の他人事のような対応をみても、一門を率いるような有力俳優には個人の顧問弁護士が必要だろう。

 

その他の記事では冒頭の藤原正彦氏「古風堂々」のチャットGPTに対する懸念が注意をひいた。

藤原氏は、問題を①著作権などの知的財産権、②秘密情報の漏洩やフェイクによる名誉毀損、③校閲がないことの3点の懸念を指摘し、このうち③が最も深刻だとする。藤原氏自身の体験として、校閲によって丁寧に原典のチェックや誤解を指摘された経験を挙げ、校閲のない世界は人類を「虚実混沌の巷」に落とし込むと警告するのである。

 

 

◎2023年7月4日『ごまかさないクラシック音楽(新潮選書)』岡田暁生、片山杜秀

☆☆居酒屋の与太話と変わらない

ベートーヴェンはクラシック音楽株式会社の偉大な創業者であり松下幸之助のよう、マーラーは解決できない悩みを売り物にする太宰治のようなものとか、イギリスの作曲家は3流4流ばかりでプロムスの締めくくりにエルガーの「威風堂々」に熱狂するのはアホらしいとか、くだけた対談企画をよいことに言いたい放題。フレンチのレストランでワインを片手に上品な対談ならまだいいが、まさに居酒屋の与太話の類いである。

しかも、音楽の内容についてはほとんど触れず、政治や宗教のイデオロギー的観点に終始するので、途中までは面白くてもだんだんうんざりしてくる。

 

クラシック音楽が啓蒙主義の自由、平等、友愛の思想を背景にしているのはごく一般的な理解であろう。現に、コロナ禍で演奏会が逼塞した後に繰り返し演奏されたのはベートーヴェンで、音楽家だけでなく多くの人々が苦難を乗り越えて生きる力を音楽を通じて得ようとした。

で、そのクラシック音楽の「終焉」をいう対談が未来の音楽として何を指し示すのかと言えば、それが全く明瞭でない。古楽やミニマルミュージックがお勧めなのかと思えば、それは自閉して最後に住み着く洞窟なのだそうだ。クラシックの自由、平等、友愛は「英米本位の平和主義」という近衛文麿の戦前の批判を紹介しつつ、かといって全体主義の音楽を提示するわけでもない。

結局、著者らがめざす世界像や思想があいまいでアンビバレントだから、未来像が提示できないのだ。

 

なお、ショスタコーヴィチをソ連の全体主義の音楽家と決めつけるのはいかがなものか。ヴォルコフの『証言』の真贋はさておいても、ショスタコーヴィチがスターリン体制下で迫害を受けたことは著者らも当然知っているはずだ。ナチス包囲下で書かれた交響曲7番「レニングラード」や、キーウ近郊のユダヤ人虐殺跡地にちなんだ第13番「バービ・ヤール」などは、今はウクライナで演奏されるのに最もふさわしい曲だろう。

 

 

◎2023年7月3日『J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲』キース・ジャレット

☆☆☆☆ピアノでジャズの曲として演奏してほしかった

高校時代にFMラジオでケルン・コンサートを聴いて以来のキース・ジャレットのファンだが、クラシックの曲を演じるときはクラシックらしさを過剰に意識しているような気がする。

ゴールドベルク変奏曲はなんといってもグレン・グールドのピアノ演奏が有名で印象に残っているが、このキースの演奏と比べると、グールドのほうがジャズのように自由な演奏である。

ちなみに、演奏時間を比べるとこのキースの演奏は全体で62分に対しグールドの1981年版は51分で、11分も短い。冒頭と終曲のアリアはグールドのほうがずっと長いのだが、第1変奏になるとグールドは一気にテンポが上がる。その後は緩急自在の自由な演奏を展開し、終曲で再びゆったりとしたテンポで閉じる。

これに対し、キースの演奏は冒頭のアリアのゆったりしたテンポが第1変奏以降も変わらず、丁寧に全曲を演奏していく。テンポを緩急自在に変化させないのはハープシコードを使った制約があるからだろうか。

各変奏をじっくり味わうのにはいいのだが、ケルン・コンサートのような面白さと感動には欠ける。

できればジャズピアニストの本領を発揮して、ピアノで自由自在な演奏をしてほしかった。

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