2023年前半読書日記

【2023年前半】

 

◎2023年6月30日『言葉と歩く日記 (岩波新書)』多和田葉子

◎2023年6月26日『白鶴亮翅』多和田葉子

◎2023年6月24日『カラー版 名画を見る眼Ⅰ (岩波新書)』高階秀爾

◎2023年6月23日『源氏物語の世界(新潮選書)』中村真一郎

◎2023年6月19日『国籍と遺書、兄への手紙』安田菜津紀

◎2023年6月18日『フランス語の余白に』蓮實重彥

◎2023年6月17日『資本主義の本質について(講談社学術文庫)』コルナイ・ヤーノシュ

◎2023年6月15日『法の近代 権力と暴力をわかつもの (岩波新書)』嘉戸一将

◎2023年6月11日『特捜部Q―カールの罪状―』ユッシ・エーズラ・オールスン

◎2023年6月9日『モーツァルトを聴く人 音楽の肖像』堀内誠一・谷川俊太郎

◎2023年6月8日『大逆事件――死と生の群像 (岩波現代文庫) 』田中伸尚

◎2023年6月7日『死刑すべからく廃すべし』田中伸尚

◎2023年6月4日『敗者としての東京 ─巨大都市の「隠れた地層」を読む』吉見俊哉

◎2023年5月29日『韓国現代詩選〈新版〉』茨木のり子 (編集, 翻訳)

◎2023年5月25日『文藝春秋2023年6月号』

◎2023年5月24日『告発 ハンセン病医療 -多磨全生園医療過誤訴訟の記録-』

◎2023年5月24日『マリコ、東奔西走 (文春e-book)』林真理子

◎2023年5月22日『ポー傑作選3 ブラックユーモア編 (角川文庫)』

◎2023年5月21日『生きることの意味を問う哲学:森岡正博対談集』

◎2023年5月15日『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 (角川文庫)』

◎2023年5月12日『ポー傑作選1 ゴシックホラー編(角川文庫)』

◎2023年5月11日『朝鮮大学校物語 (角川文庫)』ヤン ヨンヒ

◎2023年5月9日『兄 かぞくのくに (小学館文庫)』ヤン・ヨンヒ

◎2023年5月6日『詩のこころを読む (岩波ジュニア新書)』茨木 のり子

◎2023年5月3日『茨木のり子詩集 (岩波文庫)』谷川俊太郎選

◎2023年5月1日『ハングルへの旅 新装版』茨木のり子

◎2023年4月29日『ウクライナ戦争をどう終わらせるか (岩波新書)』東大作

◎2023年4月27日『李朝残影~反戦小説集~ (光文社文庫)』梶山季之

◎2023年4月24日『82年生まれ、キム・ジヨン(ちくま文庫)』チョ・ナムジュ

◎2023年4月23日『六十七番地の子どもたち』リザ・テツナー

◎2023年4月20日『スウェーディッシュ・ブーツ』ヘニング・マンケル

◎2023年4月16日『ポパー 批判的合理主義』小河原誠

◎2023年4月9日『大江健三郎自選短篇 (岩波文庫)』

◎2023年4月8日『リベラリズムへの不満』フランシス・フクヤマ

◎2023年4月4日『珈琲と煙草』フェルディナント・フォン・シーラッハ

◎2023年4月1日『万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)』大江健三郎

◎2023年3月24日『現代ロシアの文学と社会 :「停滞の時代」からソ連崩壊前後まで』大木昭男

◎2023年3月21日『女たちの沈黙』パート・バッカー

◎2023年3月18日『The Lost King 』(映画)

◎2023年3月18日『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』(映画)

◎2023年3月15日『寒波 P分署捜査班』マウリツィオ・デ・ジョバンニ

◎2023年3月13日『忠臣藏とは何か (講談社文芸文庫)』丸谷才一

◎2023年3月12日『最後の決闘裁判 』(映画)

◎2023年3月10日『工藤會事件』村山治

◎2023年3月7日『なぜ理系に女性が少ないのか (幻冬舎新書)』横山広美

◎2023年3月5日『作家の証言 四畳半襖の下張裁判 完全版』丸谷才一編

◎2023年2月27日『新興国は世界を変えるか(中公新書)』恒川惠市

◎2023年2月25日『八甲田山 』(映画)

◎2023年2月22日『名優が語る 演技と人生 (文春新書)』関容子

◎2023年2月20日『信仰の現代中国:心のよりどころを求める人びとの暮らし』

◎2023年2月15日『東京藝大ものがたり』あららぎ菜名

◎2023年2月9日『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場弦

◎2023年2月5日『千年の歓喜と悲哀 アイ・ウェイウェイ自伝』艾未未

◎2023年1月30日『芙蓉の干城 (集英社文庫)』松井今朝子

◎2023年1月27日『歴史の逆流 時代の分水嶺を読み解く (朝日新書)』長谷部恭男他

◎2023年1月25日『壺中の回廊 (集英社文庫)』松井今朝子

◎2023年1月24日『カウンセラーとしての弁護士』デビット・バインダー他

◎2023年1月21日『真珠湾の冬 (ハヤカワ・ミステリ)』ジェイムズ・ケストレル

◎2023年1月15日『愚者の階梯 (集英社文芸単行本)』松井今朝子

◎2023年1月12日『日本に住んでる世界のひと』金井真紀

◎2023年1月6日『地図と拳 (集英社文芸単行本)』小川哲

 

◎2023年6月30日『言葉と歩く日記 (岩波新書)』多和田葉子

☆☆☆☆☆バイリンガルで活躍する作家の思考と日常が垣間見える

著者は東京生まれで22歳でドイツに移住し、本書の時点で31年間ドイツに居住して活動している作家・詩人である。日本語とドイツ語の両方で作品を発表しているが、日本語で発表した作品をドイツ語に自ら翻訳することはないという(本書では、初めての挑戦として『雪の練習生』をドイツ語に翻訳する試みが何カ所かで触れられている)。

本書はこうした著者が日本語とドイツ語で行う作家活動と言語について日記形式で省察したエッセイである。

例えば、新年の挨拶をドイツでは「Guten Rutsch !(よいすべりを)で、「新年にうまくすべり込む」という意味らしい。日本では「すべる」はあまりイメージがよくない(受験にすべるなど)が、「Rutsch」には旅の意味もあり「よい旅を!」ならば視界が開けると著者は考える。

また、我々がよく使う「神経に障る」という言葉はオランダ語の「神経zenuw」由来で、あの杉田玄白らの『解体新書』以来なのだそうだが、それ以前はなんと表現したのかと著者は問い、『枕草子』なら「にくきもの」だろうという。

さらに、「考え事をする」は「sich einen Gedanken machen」であり、「sich einen Kopf machen」といえば「必要もないのにくよくよと考えこむ」という慣用句になってしまう。これを著者は、考える器官であるべき頭(Kopf)が考える内容(Gedanken)になってはいけないと解釈する。

このように日々の創作や翻訳で気づいた言語の問題を摘出して考察していく作家らしい鋭敏な感覚が刺激的であり、教えられることが多い。

 

日記に記された著者の日常は実に活動的であり、ドイツと日本のみならず欧米各国やトルコなどに頻繁に呼ばれて朗読会や大学の研究会に参加している。著者によれば、ドイツ語と日本語の「二つの言語は無数の別の言語と親戚友人関係を結びながら、網でできた巨大な球の一部を形成して」おり、著者はミツバチのように花から花へ飛び移って蜜を少しずつ混ぜていくのだという。

 

なお、トーマス・マンの『魔の山』と『ベニスに死す』の文体への言及もあり、『魔の山』については著者自身の部分翻訳もある。『魔の山』も『ブッデンブローグ家の人々』も最近は翻訳がなく、池内紀氏に新訳を期待したが残念ながら亡くなってしまった。著者が現代にふさわしい翻訳をしてくれないものだろうか。

 

 

◎2023年6月26日『白鶴亮翅』多和田葉子

☆☆☆☆☆鶴のように諸民族の争いを超越したい

多和田葉子さんの著作を読むのは初めてだが、独特の饒舌と物語の筋からの脱線、多言語間の表現や思考の違いに対する興味関心などが著作の随所に示されており、これらを楽しみながら読み進められた。

面白いのは主人公が家電と対話する場面がたびたび出てくることで、炊飯器やCDプレーヤーがおかしな関西弁で話す。もちろん主人公の心の中の対話を小説的に表現しているわけだが、おなじみの関西の家電メーカーを想起させてクスッと笑った。

 

しかし、小説全体を貫くモチーフは民族の壁をどう乗り越えるかという重いものであり、ベルリンに居住する主人公はドイツ人だけではなく、ロシア人、フィリピン人など様々な出自と民族とのつきあいの中でデリケートな民族問題への無知を痛感しつつ学んでいこうとする。

特に、隣人のMさんはドイツ人といっても「東プロイセン」出身であり、現在はポーランド、ロシア、バルト三国に分かれたその地域からドイツへ帰国/移住した際の様々な差別と苦難の陰影を抱えている。そして、同じ差別体験を持つMさんのパートナーは自らを今は同化して存在しない「プルーセン人」と称している(東プロイセン地域はもとは中世の「ドイツ騎士団」が北方十字軍の名の下に軍事的に侵略して植民した地域である)。

本書の表題である「白鶴亮翅」(はっかくりょうし)とは主人公がMさんに誘われて習い始めた太極拳の形で、白い鶴が羽を広げるような姿勢を取るのだが、その師範はもちろん中国人であり、そこから主人公はかつて日本が満州と中国を支配しようとした民族問題にも思いを馳せる。

Mさんは、「自分がどこの国の人間かというようなことは忘れて、ちょうど空を飛ぶ一羽の鶴のように、人間界の愚かな争いを空から見て、どうしてあんなに愚かな戦いが起こりえるのか、と心底疑問に思わなければいけません」と語るのだが、自らの体験を踏まえたその言葉は重い。本書は元は20222月から8月までの新聞連載小説だが、折しもウクライナ戦争勃発の時期と重なっており、その不穏な空気を日本よりも近いドイツで感じながら著者は連載を書き継いだのではないか。

 

なお、新聞連載小説ゆえかオムニバスふうに挿話がちりばめられており、最後のほうには劇的な盛り上がり(『罪と罰』のパロディー?)も用意されている。

また、クライストの『ロカルノの女乞食』の翻訳作業と幽霊話を絡ませているところは、小説の構成として巧みである。

 

 

◎2023年6月24日『カラー版 名画を見る眼Ⅰ (岩波新書)』高階秀爾

☆☆☆☆☆電子版の大画面で画像を見るのがお勧め

青版を学生時代に買って愛読していたが、カラー版が電子書籍で出たと知って速攻で入手した。

あとがきを見ると青版は1969年発行であり、その後の美術史研究の成果は補充されていないようだが、大家の解説による名著であることに変わりはない。

 

電子版で見ると画像が美しい。

紙版だと印刷の出来映えや色合いが問題となるだろうが、電子版なら原画を撮影した画像であり、原画の色がほぼ忠実に再現されている。しかも、タブレットの大画面で画像を拡大すれば細部がよくわかり、かなり引き延ばしても解像度が高いので十分鑑賞に堪える。

新書版だとやはり画像サイズが小さいし、特にボッティチェリの『春』のような大きな絵画はとても小さくなってしまうが、タブレットを横長に回転したりさらに拡大したりすれば大きな画像で鑑賞できる。

 

岩波はなかなか電子書籍化を進めてくれないが、『カラー版 名画を見る目Ⅱ』も電子版を早く出してほしい。

 

 

◎2023年6月23日『源氏物語の世界(新潮選書)』中村真一郎

☆☆☆☆☆「紫式部はプルーストの双子の姉妹」!? 深い教養に裏打ちされた王朝文学論

本書は1968年に出版されたものだが、源氏物語を中心とした王朝文学を見通しよく整理し、その世界文学史上の位置づけを明快に示した好著である。

著者の中村真一郎氏は1907年生まれの文学者であり、そのバックグラウンドはプルーストやネルヴァルらの20世紀フランス文学だが、本書を読めば日本古典への造詣も大変なものだということがよくわかる。明治・大正の文豪の作品を読むと日本古典や漢詩文の深い素養に舌を巻くことが多いが、著者はその最後の世代に属すると言ってよいのではないか。

 

第Ⅰ部では、なんといっても紫式部とプルーストの対比に意表を突かれるが、源氏物語の初の英語翻訳(ウェイレー訳)を読んだ1920年代の西欧知識人は、「レディー・ムラサキはプルーストの双子の姉妹かと思った」という。確かに、貴族社会のサロンの人々やその爛熟的な恋愛模様を外から観察し、人間の内面に分け入って描いた点で紫式部とプルーストは通じるところがある(英訳すると平安貴族社会も19世紀フランス貴族社会も見分けがつかないかも)。

特に、著者は19世紀的な写実主義、自然主義文学ではとらえきれない「人間性の真実」という点で、源氏物語を含む王朝文学は普遍性・現代性があると強調している。

 

第Ⅱ部では、源氏物語の世界が「小説観」、「後宮」、「須磨・明石」などの視点で描かれるが、中には「下町」や「学者グループ」、「死の美学」といった斬新な観点の指摘もあり、源氏物語の理解が深まる。

しかし、本書の白眉は第Ⅲ部の源氏物語の女性像である。著者は女性像を6つのグループ(①藤壺、葵の上ー六条御息所、②空蝉-夕顔、末摘花ー源典侍、③紫の上-明石の上-女三の宮、④様々なタイプの愛人、⑤内大臣の娘たち、⑥宇治の3姉妹)に分けて考察しているが、バラエティに富んだ多数の女性像を実に見通しよく分類しており、源氏物語に慣れ親しんだ読者にとっても参考になるはずだ。ちなみに、この女性たちの中で老年にして好色無類の源典侍だけは当時の実名で書かれており、実は紫式部を圧迫した兄嫁への復讐らしい(解説によると、角田文衞氏の研究を踏まえたものとのこと)。

なお、源氏物語の女性像といえば女性作家や女性研究者たちの独擅場の観があるが、本書では随所に著者の男性目線の感想が示されているのが面白い。例えば、上記①では、「一体、男性は葵の上のような、執こくない女性に物足りない思いをする方がいいのか、六条御息所のような、死後もたたるような執着に圧倒される方がいいのか。これは難かしい問題だろう」、上記②では、「空蟬と夕顔。このどちらに男性はひきつけられるだろうか。・・・一方は男の心を、その知的な微妙な駆け引きによって、活発にさせ、生きている喜びを感じさせてくれる。別の一方は、完全に心を眠らせ、休息させてくれる」・・・といった具合である。いわば「雨夜の品定め」を著者がやっているようなものだ。

 

その他、第Ⅳ部の竹取物語の再評価、第Ⅴ部の王朝のエッセー(土佐日記、蜻蛉日記、更級日記、枕草子、方丈記、徒然草)の文学的位置づけも実に秀逸である。特に後者については、作者が官人から女房、さらには隠者へと移り、「我が中古から中世へかけての精神文明の変遷に立ち合うことになる」と著者は述べている。

 

 

◎2023年6月19日『国籍と遺書、兄への手紙』安田菜津紀

☆☆☆☆☆在日の人にとって日本は故郷 なのにこの生きづらさはなぜなのか?

著者はフォトジャーナリストであり、本書は著者自身の父親のルーツを取材し追跡するノンフィクションである。さすがに随所に調査した現地とめぐりあえた人々の写真が添付されているが、人々の表情がとてもいい。

調査の端緒は、亡くなった父親が韓国出身であることを戸籍から偶然に知るところから始まる。著者の母親は日本人だが、父親の出自を娘に隠していたわけだ。ところが、父親のことを韓国領事館で調べても韓国籍で届け出はなく、事実上無国籍状態だったことが判明する。これも国籍を奪われた在日特有の問題なのだが、これが出自探しを困難にする。

結局、父親と祖父のルーツはなんとかたどれたが、早くに亡くなった祖母のルーツは不明のままである。

そして、著者の父親と兄の死がいずれも自死であったというショッキングな事実が最後に明かされる。著者とは母親違いの兄が生まれたのは父親が日本国籍を取得する前で、父は朝鮮人差別を恐れて兄を認知していなかった。

在日の人たちにとって、この日本社会の生きづらさは一体何なのであろうか。

 

著者は1987年生まれで、父の出自を知るまでは在日の人たちの問題に関心を持つことはなかったようだが、出自探しの学習と調査を始めると在日の人たちの苦難と差別の歴史にたどり着くのは容易だった。

やがてすさまじいヘイトスピーチの被害を知り、著書自身も父の出自を明らかにしたことで匿名のヘイト攻撃を受けることになり、損害賠償訴訟の原告となる。

奇しくも本日(2023619日)、この裁判で、差別的表現が許されない侮辱行為に当たるとする原告勝訴判決が東京地裁で言い渡されたとのニュースが出ていた。

思うに、まだ昭和の時代までは、陰湿な朝鮮人差別はあったものの、声高なヘイトスピーチなどというものはなかったはずだ。戦前戦後の時代を知る人たちは、かつて日本人が朝鮮の人たちにしてきたことや在日の人たちの置かれた苦難の理由を体験的に理解しており、露骨な差別的言動をしないだけの良心があったのではないか。そうした体験がなく、日本は悪くないという歴史修正主義や北朝鮮の拉致被害などしか知らない世代が増えたことが、現在のヘイト問題につながっているのだろう。しかし、在日の人たちがなぜ日本にいるのか、なぜ日本国籍を失ったのかなどは少し調べればわかる。無知のベールをかぶって匿名で陰湿な攻撃をするのは、人間として恥ずかしいことだ。

 

ちなみに、本書でもヘイト攻撃に対抗する中で人と人とのつながりが広がったという話が出てくるが、そうした活動の拠点として紹介されている川崎市の「ふれあい館」館長の崔江以子(チェ・カンイジャ)氏は、川崎市差別根絶条例につながる活動を評価されて2020年度東京弁護士会人権賞を受賞したことを付記しておく。

 

 

◎2023年6月18日『フランス語の余白に』蓮實重

☆☆☆内容はいいのだが、古書の写真版のよう

大学の教養課程で蓮實重彦先生のフランス語の授業を受けた懐かしさから本書を買ったが、電子版といっても倉庫に眠っていた古書を写真版にしたようなプリントレプリカ版で、紙の色が茶色く変色しており、活字もやや不鮮明なところがある。

1870円もするのだから、OCRソフトでデジタル化するか、せめてもう少しきれいな版にしてもらいたい。☆3つにしたのはそのためである。

 

私が蓮實先生の授業を受けたときはまだ本書は発行されておらず、2年生でモーリス・ブランショの文学評論を講読する授業だった(とても難解だった)。

本書は「フランス語をはじめて学ぶ人びとを対象とした教科書」と書いてはあるが、全8課の冒頭のテキストが第1課はフランス共和国憲法第1条、第2課はポール・クローデル、第3課はギュスターヴ・フローベール・・・と、かなり歯ごたえがある。また、各課の文法解説はごく簡単なもので、フランス語の例文がたくさん列挙されている(翻訳文はない)。まさに、授業で教師が解説することを想定した教科書なのであるが、それでも1年生には難しいのではないか。ひととおり初級文法を学んだ学生か、ある程度フランス語に親しんだ人の復習用には使えると思う。

 

とはいえ、蓮實氏のファンならば、もってまわった気取った文体で書かれたとても長い序文や、末尾の風変わりな著者紹介に痺れるのではないか。例えば、序文には上記の各課冒頭のテキストを「ただ盲滅法に書き写し、ついには原典を見ずに全文がすらすらと書き綴れるようになってほしい」などと利用者への要望が書いてある。これを実践した学生がどれだけいるかはわからないが・・・。

 

ちなみに、私が大学1年で初級フランス語文法を学んだのは福井芳男先生で、第1課は命令文や短文がテキストになっているオーソドックスな教科書(『マニュエル・フクイ』)だった。しかし、第2課のテキストは学生集会の会話で、「気をつけろ。警察官がたくさんいる」というようなものまであり、福井先生はこれを「ポリ公がたくさんいるぞ」と江戸っ子弁で訳されていた。大学とは面白いところだと感動したものである。

 

 

◎2023年6月17日『資本主義の本質について(講談社学術文庫)』コルナイ・ヤーノシュ

☆☆☆☆8回もの社会変革を体験した東欧知識人の社会主義総括

著者は1928年ハンガリー生まれの経済学者であり、著者自身が劇的な政治体制の転換を「八回も体験し、見てきた」と言うだけあって、その言葉は重い。

その政治体制の転換とは、著者によると、「私の国での戦争、ホロコースト、ナチスの支配からの解放、共産党を通じての社会主義の到来、一九五六年のハンガリー革命とその敗北、社会主義再建、一九六〇年代の市場社会主義と人間の顔をした社会主義の実験とその失敗、社会主義体制の崩壊と資本主義体制への回帰、民主主義による独裁との置き換え、現在の金融・経済危機」を指している。

 

本書は独立した論文(エッセイ)からなる第1部、第2部と2つの短い補論からなっているが、私は社会主義崩壊後の社会変化を扱った補論1とマルクスの評価を行った補論2から読み始めた。

補論1はフランス革命の原点であった「自由、平等、博愛」のそれぞれの目標に沿った検討がなされる。まず、「自由」については、指導部の解任が平和的な選挙によって行われる「民主主義の最低条件」は東欧のEU加盟諸国は実現しているが、自由の重要性は十分理解されておらず、政党間の対立から汚職やデマゴギーが生じており、ある階層は強い指導者を求めているという(現在のオルバン首相の権威主義体制を念頭に置いているのだろう)。「平等」については、旧社会主義は「ある種の灰色の平等と、所得不平等に対する徹底した抑圧」であったと評価され、資本主義移行後は格差や差別があらわれたとする。「博愛」は「連帯」と読み替えられるが、旧社会主義は「時期尚早の福祉国家」であったという。その意味は、福祉政策を実施する資源やインフラが伴わないため実現にはほど遠かったということだ。この点は西欧諸国を含め福祉国家政策に共通する問題だが、著者は普遍的な給付を必要な人々への給付に絞るという原則などの4つの選択肢を示したうえ、現在の東欧諸国は明確な原則のないままに抵抗論やポピュリスト的な政策などの間を行き来しているといい、今後の展望に危惧を示している。

補論2は、著者自身がかつては信奉したマルクスに対する評価であるが、著者は「社会主義体制に対する知的責任」という言葉で厳しい総括をしている。すなわち、私的所有と市場経済の廃止とプロレタリア独裁というマルクスの理論は、人々に知的な影響を与え社会的行動を促した結果に責任があるというのである。著者は、マルクスの影響を最も受けたとしつつ、自らはマルクス主義者であることを明確に否定するのである。

 

次に、第1論文は、「イノベーション」(技術革新)を資本主義のただ1つの長所にして、その革新的でダイナミックな性質だとする論考である。

社会主義との対比で示される論述はわかりやすいが、著者は「A.分権的創意性、B.巨額の報酬、C.競争、D.広範囲の実験、E.投下を待つ資本準備、融資の柔軟性」に整理して、資本主義がイノベーションをもたらす理由を説得的に示している。

しかし、著者は資本主義と技術進歩の因果関係が多くの人々に十分理解されていないと強調し、「最も苛立たしい」のは、ポピュリストが通信などの革新技術を用いて反資本主義を扇動することだという。

他方、現在の中国のような技術革新の成果を悪用した政治的検閲(ジョージ・オーウェルの『1984年』が現実味を持って引用される)については、どんなに独裁者が努力しても現代技術は分権化を推進するだろうと楽観している。

2論文は、資本主義の無計画な「過剰生産」とかつて社会主義が批判した点について、「余剰経済」と積極的に位置づけるユニークな論考である。

 

 

◎2023年6月15日『法の近代 権力と暴力をわかつもの (岩波新書)』嘉戸一将

☆☆改憲論や民営化が意識されているようだが、具体的展開はない

主権とは何か、法とは何かについて語っているが、抽象的で法哲学?的な議論に終始していて、具体的に何を言いたいのかはっきりしない。

 

冒頭からラ・フォンテーヌ寓話を引用して、権力と暴力を分かつものは何かというテーマが提示される。

現代世界で言えば、ウクライナに対する軍事侵攻、ロシア国内での反戦運動に対する警察の弾圧、さらには天安門事件や香港の民主化運動に対する中国政府の実力行使、西欧諸国におけるポピュリズムの台頭など、権力と暴力を考察する実例は枚挙に事欠かないのだが、これらの具体例が俎上に上げられて議論されることはない。

また、本書の文中では現在の憲法改正論議や公的セクターの民営化も触れられるが、言葉だけさらりと書かれるだけで、その考察が全く展開されないから、著者の思想がどう適用されるのかわからない。

ローマ法や中世神学の主権論は延々と紹介されるが、それが現代立憲主義の課題にどう関わるのかがわからない。

権力と暴力(著者の言う「政府と盗賊」)の区別についていえば、ルソーが社会秩序の基礎は「合意」conventionにあると述べたように、近代国家は理論的には非神学的に基礎づけられており、社会的な合意形成のあり方に法学や政治学は苦心してきたはずである。

 

さらに、著者は、日本国憲法第1条の象徴天皇制について、象徴は「可視化・現前化された法秩序の単一性と永続性の問題の重要な要素なのである」と太字で強調するが、「象徴」に積極的意味を付与しないというのが憲法学の通説である。つまり、第1条は主権が国民に存することの反面として、天皇は象徴に「すぎない」というネガティブな規定だと理解できる(大日本帝国憲法第1条の否定)。

他方、著者は西田哲学を援用して主権一般を「絶対無」と位置づけるが、その論理的展開や帰結がわからない。戦前の天皇は「絶対無」どころか、カール・シュミットの決断者のような役割を負わされたのではなかったのか(絶対無がブラックホールのように恣意的権力の源泉となったともいえる)?

主権者が万能の決断者のようにならないためには、権力分立によるチェックと抑制、あるいは「憲法改正の限界」のような具体的な制度提言が求められるのであり、「主権は無である」と言葉で定義したところで何らかの制約となるとは思えない。

岩波新書で一般読者に向けて書く以上、著者の論理が現代的な課題と具体的にどう切り結ぶのかを示す必要があろう。

 

 

◎2023年6月11日『特捜部Q―カールの罪状―』ユッシ・エーズラ・オールスン

☆☆☆☆☆原題はなんと「塩化ナトリウム」 その意味は?

このシリーズはずっと読んでいるが、手に汗握るサスペンスとミステリーの謎解きの面白さはこれまでどおりである。ただし、犯人は早い段階で特定され、その人物像や動機の解明が謎解き的な部分となっている。

 

前巻ではアサド捜査官の家族を巻き込んだ連続テロ事件だったが、今回は「必殺仕置人」のような事故を装った連続殺人事件である。

モラルを意に介せず、法の抜け穴を使って悪事を繰り返す悪人たちを私的に制裁する行為は、ネット上の暴露・糾弾行為などにもつながる問題だが、それがエスカレートすると名誉毀損や業務妨害などの犯罪行為にもなる。やっている本人たちは自分流の「正義」を実行しているのだろうが、それが独りよがりの思い込みであるが故に過剰な制裁になったり、無関係の第三者を巻き込んだり、さらには事実無根あるいは的外れな言いがかりであったりするわけだ。もちろん法治国家で私的制裁は許されない。

本書では私的制裁が連続殺人事件にまでなるが、なぜか殺人現場に塩が置いてある。実は、本書の原題は「塩化ナトリウム」、つまり食塩なのだが、その意味は何か?

日本人なら、大相撲の土俵の塩や葬式の清め塩のような「穢れを清める」イメージを連想するのだが、そうではないようだ・・・。

 

本書では、連続殺人と並行して、シリーズの最初から小骨のように引っかかっていた「釘打ち機事件」の捜査がいよいよ本格的段階に進み、カール・マーク自身への具体的嫌疑が追及されていく(それが日本語訳の題「カールの罪状」になっている)。

次号が最終巻だそうだが、さてどのように展開するのか。待ち遠しいところである。

 

 

◎2023年6月9日『モーツァルトを聴く人 音楽の肖像』堀内誠一・谷川俊太郎

☆☆☆☆☆音楽付きの朗読で聴きたい

堀内誠一&谷川俊太郎の奇跡のような素晴らしい1冊『音楽の肖像』(レビュー済み)に感動してこれも買ったが、こちらは谷川俊太郎の音楽への愛、特にモーツアルトへの深い愛情が感じられる詩集である。

初出は1971年から2021年までの折々に書かれた詩を集めたものであり、中には著者と父谷川徹三(哲学者)と母との生々しい葛藤を垣間見せるものもある。

堀内氏の絵は表紙と絵本がカラーで、他はデッサン風のカットであり、『音楽の肖像』ほど豪華でないが味わい深い。

どの詩も印象的だが、「人を愛することの出来ぬ者も モーツアルトに涙する」とか、「音楽のようになりたい/音楽のようにからだから心への迷路を/やすやすとたどりたい」といった人の魂を音楽で清めるような詩的表現がすばらしい。

 

せっかくだから各々の詩にふさわしいモーツアルトの曲をバックに流しながら、素晴らしい朗読で詩を聴きたいと思う。そのような企画をしてほしいものだ。

 

 

◎2023年6月8日『大逆事件――死と生の群像 (岩波現代文庫) 』田中伸尚

☆☆☆☆☆世紀の思想弾圧事件を克明に描く 補遺では新たな再審請求への希望も

本書は雑誌『世界』の連載を元に2010年に単行本が出版されたものだが、私は『世界』連載中から注目して読んでおり、単行本も発行直後に購入した。

今回、大逆事件の死刑執行に立ち会った教誨師を描いた著者の新刊『死刑すべからく廃すべし』を読んでレビューした際に、この岩波現代文庫版の『大逆事件』に補遺が追加されているのを知り、本書をあらためて購入した。

本書に克明に描かれているとおり、大逆事件はまさに国策の冤罪であり、世紀の思想弾圧事件である。長野県安曇野山中の小規模な爆裂弾製造実験から大規模な陰謀事件をでっち上げ、これを天皇・皇室に対する大逆罪と描き、蜘蛛の糸のようなか細いつながりで芋づる式に幸徳秋水をはじめ全国の社会主義者や無政府主義者を大量検挙し、根拠薄弱なまま密室裁判で被告人24名全員を死刑にした(そのうち12名は直後に恩赦で減刑するが、これはドストエフスキーがペトラシェフスキー事件で連座して死刑判決を受けたときの帝政ロシアと同じやり方である)。近代刑事法の観点でいえば、「予備罪」の構成要件のあいまいさが思想弾圧に最大限悪用されたといえる。

本書で著者は大逆事件の死刑囚らとその家族の悲劇を丹念に取材し、その全体像を見事に描いている。

現代文庫版では巻末に死刑判決を受けた26人の生年、出身、職業、プロフィールが一覧表でまとめられているが、死刑囚の出身は北海道から九州まで全国に広がっており、職業・階層も様々であるが、なかでも高知5名、和歌山4名、熊本4名など自由民権運動の伝統や社会主義、無政府主義の影響が見られた地域に多いことがわかる。

 

特筆すべきは追加された補遺で、新たな再審請求の動きが報告されている。

本書の単行本発行後の2011年に、著者のところに当時の大阪弁護士会会長(日弁連副会長)の弁護士から連絡があり、これを機に再審請求の検討が始まったというのである。検討の過程では、事件のきっかけとなった「爆裂弾」が七味唐辛子の小さな缶と同じ形の物だったという驚くべき事実が紹介されている。

もちろん100年以上前の事件の再審請求は容易ではない。何よりも再審請求の資格のある遺族が生存し、その協力が得られるかどうかが最も困難である。

現時点でまだ再審請求はなされていないようだが、国家レベルの名誉回復と復権が求められる。

 

なお、本書は文庫版で450頁以上に及ぶが、小さな活字でぎっしり詰められており、とても読みづらい。50代以上の老眼の読者はまるで想定していないかのようだ。

岩波は『世界』をはじめ電子書籍化が極めて不十分だが、幅広い層の読者に読まれるべきこうした書籍こそ優先的に電子書籍化してほしい。

 

 

◎2023年6月7日『死刑すべからく廃すべし』田中伸尚

☆☆☆☆☆大逆事件の刑死に立ち会った教誨師 明治人の気骨を感じる

著者田中伸尚氏は『大逆事件』(岩波現代文庫)の著者であり、他にも政教分離訴訟を闘った宗教者などの信念の抵抗者を扱った著作で知られる。

本書で取り上げられる田中一雄は1890(明治23)年から1912(大正元)年まで2つの監獄で200人に及ぶ死刑囚の教誨を行い、そのうち120人あまりの記録を私的に書き残した教誨師である。

著者の関心はこうした死刑囚の中に大逆事件の受刑者である幸徳秋水らも含まれることにあるのだが、大逆事件の受刑者らの記録は残念ながら外形的な事実にとどまっていて、他の受刑者のような教誨のやりとりや交流は記載されていない。著者によれば田中は「急に口が重くなって、ほとんど無口になる」わけだが、これは判決から死刑執行までわずか6日で教誨の間もなかったことに加え、やはり国策的な重罪ゆえに私的な記録もはばかられた(禁じられた)とみるべきだろう。

大逆事件について著者は上記作品で全死刑囚とその家族の悲劇を丹念に取材しているが、まさに国策の冤罪であり、世紀の思想弾圧事件である。長野県安曇野山中の小規模な爆裂弾製造実験から大規模な陰謀事件をでっち上げ、これを天皇・皇室に対する大逆罪と描いて全国の社会主義者や無政府主義者を根こそぎ検挙し、根拠薄弱なまま密室裁判で被告人24名全員を死刑にした。そのうち12名は直後に恩赦で減刑するが、これはドストエフスキーがペトラシェフスキー事件で連座して死刑判決を受けたときと同じやり方である(ただし、ペトラシェフスキー事件では死刑囚21人全員が死刑を免じられたから、帝政ロシアのほうがまだ温情があった)。

著者は、大逆事件で刑死した森近運平の手紙を引用しているが、「裁判官の真実が被告の真実を圧倒する。茲に現時の国家組織の特色を発揮するのである」という無念の言葉に明治国家の本質があらわれている。

 

こうした大逆事件での沈黙に対し、田中は大逆事件以前の死刑囚の記録は受刑者の生い立ちや教誨のやりとりが細かに記載している。その中には凶悪な強盗犯や情欲殺人犯も多数いるが、田中は長く監獄に留めて粘り強く教誨を行い受刑者の心を解きほぐせば、「社会に害毒を流すことはなくなる」という強い信念で臨んでいる。田中は明治初期の集団的教誨から個別面談方式に改めた改革者でもあり、まさに矯正教育の実践者であったといえる。

著者はこの田中がどのような人物なのかを調査していくのだが、資料がほとんどなく、元会津藩士で明治5年に死刑執行直前に刑の免除を受けたこと以外はわからない。それ以上はミステリーの謎解きのような展開となるが、戊辰戦争後の「朝敵」として会津藩が苦難の途をたどる中で通貨偽造犯として刑を受けたのではないかと推測されている。いずれにせよ、戊辰戦争とその後の自らの受刑体験がバックボーンとなったのだろう。

さらに、もう1人、著者は田中の手記を託された原胤昭についても書いている。原は江戸町奉行所与力の家に生まれ、明治維新後に洗礼を受けたキリスト者であるが、福島事件に関する筆禍事件で石川島監獄の囚人となった体験から監獄の教誨に携わるようになる。教誨師としては北海道の囚人開拓の過酷な現場作業の改善にも取り組んでおり、後には東京出獄人保護所を設けて大勢の出獄者の更生事業を行った。大変な社会事業家である。田中が原に手記を託したいきさつや田中と原の関係も不明だったが、著者はこちらは資料を発掘して両者の信頼関係を解き明かしている。

田中にせよ原にせよ、戊辰戦争とその後の武士の反乱などの激動の時代を生き、政治犯の処刑をたくさん見てきた明治人の信念の強さと気骨に感銘を受ける。

死刑廃止論との関係では、明治期においても第1回帝国議会から死刑廃止請願が出されており、刑法改正草案が提出された1907年には『監獄協会雑誌』(現在の『刑政』)が死刑反対論を特集したというから驚く。これには田中を含め89人の監獄職員が投稿し、うち40人が死刑廃止を主張したとされる。

 

ちなみに、田中が教誨師として勤務し大逆事件の死刑が執行された市ヶ谷監獄跡地には、1964年に日弁連が刑死者慰霊塔を建立し、毎年9月に地元町内会と慰霊祭を行っている(2011年の慰霊祭の際に撮影した写真を添付する)。

 


 

◎2023年6月4日『敗者としての東京 ─巨大都市の「隠れた地層」を読む』吉見俊哉

☆☆☆「敗者」の視点に特権性があるか? 後半はファミリーヒストリー

一極集中の進む東京圏(神奈川、埼玉、千葉を合わせて3600万人!)の成り立ちと現在を3度にわたる「敗北と占領」という観点から把握しようとする試みである。3度というのは、徳川家康による江戸占領、戊辰戦争の薩長による江戸占領、1945年の敗戦による米軍の占領を指す。

しかし、徳川家康以前の古代の渡来人の開拓から、源頼朝による関東支配にもかなり言及されている反面、最も身近な戦後史は著者のファミリーヒストリーが中心となっていて(任侠の世界を垣間見るような意外な面白さはあるが)、全体像がつかみにくい。

 

むしろ、私が興味深かったのは古代以来の関東と江戸・東京の成り立ちが描かれている箇所である。

例えば、縄文時代は関東平野はまだ多島海状態であり、弥生時代を経て渡来人が九州から海を伝って関東の島々や川を遡上した地域を征服して町をつくったといい、関東各地に渡来名称の地域(狛江、新座など)があるとする。このあたりは江上波夫の「騎馬民族征服説」の残響を聞くようで面白い。

また、徳川家康の江戸開府で、巨大な江戸城の掘や運河を開削する残土で江戸湾が埋め立てられ現在の東京の基礎ができたこと、東京に寺が多いのは参勤交代の大名と家臣によるものであり、江戸の膨張に伴って寺は外に向かって移転していったことなどもなるほどと思わせる。

明治以降の東京については、著者のファミリーヒストリーとも重なるが、渋谷や新宿は近隣の軍事施設とともに発展し、戦後は進駐軍の拠点ともなったという軍都としての性格が興味をひく。

 

ただ、著者の強調する「敗者」の視点は今ひとつピンとこなかった。

敗者といっても近代以前は支配者の交代にすぎない。薩長に江戸を占領されたといっても、敗者である徳川氏とその家臣団は旧来の支配者であり、被支配者である大部分の民衆が敗者となったわけではない。

近代の「総力戦」の結果としての米軍の占領については、民衆も「敗者」といえるかもしれないが、これとて支配階層の敗北とはレベルが違うだろう。

歴史が勝者の視点だけから把握できないのは当然であり、それゆえに社会史や民衆史といったジャンルがあり、支配される民衆の日記や聞き書き等が史料として利用される。支配し改革を進める側の視点も、それに抵抗する側の視点も、さらには改革にしぶとく適応する人々の視点もいずれも重要なのであって、敗者の視点に特権性があるとは思えない。

なお、「クレオール」や「サバルタン」のような学術用語をここで用いる必要があるとも思えないし、東京の貧民窟の話で突如挿入される「ポスト構造主義のコロニアル的な脱構築」なる概念装置(jargonの見本)も、具体的にそれで何が解明されるのか不明である。

山口昌男、鶴見俊輔、加藤典洋らの敗者論も援用されるが、敗者の思想の系譜の紹介として興味をひく程度である。

 

 

◎2023年5月29日『韓国現代詩選〈新版〉』茨木のり子 (編集, 翻訳)

☆☆☆☆☆よい詩は民族の感情と理性の結晶

50代でハングルの習得を始めた茨木のり子氏が韓国の現代詩の訳詩集を出して、読売文学賞を取る。その努力にまず頭が下がる。

訳された詩のほとんどは1980年代のものとのこと。時代は軍事独裁政権が打倒されて民主化する前夜の時代である。日本の植民地統治時代から南北分断国家としての独立、朝鮮戦争の大動乱と軍事独裁政権へと続く苛酷な体験と虐げられた民衆の歴史を抜きに韓国現代詩は語れない。

私の学生時代はまだ朴正熙や全斗煥の独裁時代で、詩人金芝河が死刑判決を受けて日本でも抗議活動が行われていた。

本書で初めて接する金芝河の詩は血の出るような激しさの片鱗はあるものの、憤りが昇華された落ち着いたトーンのものである。「俺は三十三歳/腐敗堕落の始まる年齢」の一節はドキッと突きつけるものがあるが、金芝河が死刑判決を受けたのが33歳だったとのこと。「ベートーベンが死んだ日に マルクスが生まれた」と繰り返す『僕らが やろう』は当時の民主化運動の気概を感じる詩だ。

洪允淑の『人を探しています』は不思議な味わいのある詩だ。恋人を探す恋愛詩のようにも読めるし、南北分断の離散家族への思いを歌っているようにも見える(訳者は過去の自分だという)。

李海仁はキリスト教への厚い信仰心を歌うが、修道院を味噌や醤油の甕置き場に例える感性が面白い。『誰かがわたしのなかで』も『恋』も純粋な神への帰依を歌った清新さに感動する。

申庚林は急激な近代化による民衆生活の変化を歌った社会派詩人であるが、私は民衆の遊びとソウルの貧しい居住区をかけた『月を越えよう』の諧謔性が面白かった。

「光州世代」(1980年の光州事件を体験した世代)といわれる河鐘五の民衆詩も情愛に満ちているが、特に『忘憂里で暮らしながら』は分断国家と民族の悲劇への強い想いを伝える(忘憂里とはソウル郊外の墓地のこと)。

呉圭原の風刺詩『わが頭の中にまで忍び込んできた泥棒』、『童話のことば』も飄々としているが、独裁政権下では命がけの表現だろう。

 

訳者はあとがきで、「いい詩は、その言語を使って生きる民族の、感情・理性のもっとも良きものの結晶化であり、核なのだ」というが、まさに同感である。

 

 

◎2023年5月25日『文藝春秋2023年6月号』

☆☆☆☆☆宝塚セクハラ事件は「冤罪」か? その他、見所多し。

いくつか気になった記事があったので、電子版で購入した。

○もっとも驚いたのが、今年の1月に週刊文春が報道した宝塚歌劇団の演出家セクハラ事件(いわゆる「文春砲」)で加害者とされた演出家の手記だ。同じ出版社だからまるでマッチポンプなのだが、記事の位置から見て反論権を保障したというべきか。内容は、セクハラは全くの冤罪で退職を強要されたというもので、地位確認の訴訟を提起したという。告発者である演出助手とのLINEのやりとりなどの証拠もあるようだが、痴漢冤罪などと同様に「セクハラ冤罪」も今後問題となるのだろうか。

○反論の手記ということでは、共産党から除名された京都の元幹部活動家へのインタビュー記事も掲載されている。反論権の行使という観点でいえば、文藝春秋ではなく除名前に共産党の機関誌や雑誌に反論・弁明が掲載されるべきだったと思う。

○スクープ扱いで注目したのは朝日新聞阪神支局を襲撃した「赤報隊」に関する記事だが、何名かの右翼の大物の実名も挙げて追跡し、かなりいい線まで迫っているように思うが、決定的なところまでは至っていない。30年以上追跡を続ける取材チームの努力には頭が下がるが、被害者の朝日新聞は追跡調査を続けているのだろうか。

○その他、タイガース結成の頃を語る『甦るグループサウンズ』の対談記事や亡くなった坂本龍一氏を偲ぶ塩崎泰久氏らの対談など見所が多い。さすがに老舗の月刊誌だけあって編集が工夫されていると感心する。

 

 

◎2023年5月24日『告発 ハンセン病医療 -多磨全生園医療過誤訴訟の記録-』

☆☆☆☆☆強制隔離政策の下では患者の権利も蔑ろにされる

らい予防法の廃止は1996年。その後、強制隔離政策の責任を問う国賠訴訟が提起され、20015月には画期的な熊本地裁勝訴判決と小泉首相の控訴断念声明を経てハンセン病問題は解決に向かい、近年はハンセン病患者家族の偏見差別被害の訴訟も話題となった。

ところが、全国に13ある国立ハンセン病療養所に関し医療過誤訴訟が提起されたのは本書の多磨全生園訴訟が唯一なのである。

ハンセン病国賠訴訟の中では、原告たちが療養所内でいかにひどい人権侵害を受けたかを語り、熊本判決に詳細に事実認定されている。断種・堕胎はもとより「患者作業」による病状悪化や手足の切断、失明、さらには人体実験のような新薬の投与による死亡例などもある。

それにもかかわらず、個々の医療被害に対する医療過誤訴訟は提起されてこなかった。

その理由はまさに強制隔離政策がつくりだした患者抑圧体制にある。療養所内に隔離されている患者は療養所に逆らえない。療養所を訴えることなど思いもよらないし、訴訟に対する社会の理解などハンセン病への差別偏見の下では全く期待できなかった。唯一の訴訟であるこの多磨全生園訴訟の原告は社会復帰者だったが、それでも提訴に至るまでは大きな障害と入所者らの強い反対があった。

本書は、第Ⅰ部でこうした困難を極めた提訴の経緯と訴訟の経過を、当事者本人と支援者、代理人となった弁護士らが解説し、第Ⅱ部と巻末の資料では訴訟記録がほとんど掲載されている。近時話題となっている裁判所訴訟記録の保管問題で、御多分に漏れず本件訴訟の記録はすでに廃棄されているとのことであり、その意味でも貴重な記録といえる。

なお、本件訴訟の意義について語った神美知宏全国ハンセン病療養所入所者協議会事務局長(当時)ほかのハンセン病市民学会における貴重な発言も、本書の第Ⅲ部に記録されていることを付記する。

 

 

◎2023年5月24日『マリコ、東奔西走 (文春e-book)』林真理子

☆☆☆☆☆林真理子さんの本音トークはサイコー

本書は2022年の週刊文春連載のエッセイをまとめたものだが、なんと34巻だとか。たいしたものである。

これまでは文春を立ち読みするくらいだったが、日大理事長に就任した林真理子さんがどのような活躍をされているのかと思い、単行本も買ってみた。

さすがに職業作家の長寿エッセイだけあって、自由自在にのびのびと本音トークを展開する。すべてに共感とはいかないが、一般庶民に近い目線でその折々の時事問題や趣味、仕事について語る姿勢が好ましい。

2022年はウクライナ戦争に悲憤慷慨し、プーチンがコロナにかかったらいいのにとまでいう(同感である)。安倍元首相の殺害事件の衝撃や、その後の統一協会問題について自らの体験を語る。

その他、コロナ明けの海外旅行や市川團十郎襲名のことなど、興味は尽きない。

で、肝心の日大理事長の活動については、残念ながら語れないことが多いようだ。しかし、理事会だけの出勤かと思いきや、毎日朝から日大本部に出向き、全国の日大関係施設の視察もしているとのことで、大変な労力を費やされている。母校への愛情と書かれているが、頭が下がる。

今後の活躍に期待したい。

 

なお、長谷川町子の漫画「エプロンおばさん」でしし鍋を注文したら店の女将が鶏肉を混ぜるという話が書いてあるが、いくらなんでも猪の肉と鶏肉がわからないわけがないと首を傾げた。しかし、数話後を読むと編集者のチェックで当初の記載は鴨鍋だったのが変更されたとわかり納得したが、鶏肉は変更しなくていいのか疑問が残る(しし鍋なら混ぜたのは豚肉だったのではないか?)。

あと、林真理子さんはホリエモンとは仲が良さそうだが、2ちゃんねるのひろゆき氏は数カ所でネット暴力の元祖とばかり厳しく批判している。評価基準の分かれ目が興味深いところだ。

 

 

◎2023年5月22日『ポー傑作選3 ブラックユーモア編 (角川文庫)』

☆☆☆☆巻末の『ポーの文学闘争』を最初に読んだほうがいい

本書に収められた大部分の短編は、19世紀前半のアメリカ文学界におけるポーの激しい闘争を反映した作品である。

訳者はこうした歴史的背景を巻末の『ポーの文学闘争』で詳しく紹介しているが、背景知識がないと何のことかよくわからない作品が多い。冒頭の『Xだらけの社説』は、東部のボストンを中心とした超絶主義者への当てこすりだし(Xとは伏せ字のことだが、植字工の言葉がなぜか九州弁に訳されている)、次の『悪魔に首を賭けるな』もそうである。

それにしても、ポーは実生活ではまさに闘争的で激しい性格だったようで、敵も多かったことがよくわかる。

 

文学闘争関係以外では、『天邪鬼』が『黒猫』などで描かれた「やってはいけないと思うと、逆にやってしまう」人間心理を詳しく展開した作品である。自らが犯した罪を悪魔に魅入られたように告白してしまう最後の場面は、まさに鬼気迫るものがある。理性の警告にもかかわらず危険な断崖絶壁に吸い寄せられるように近づく心理についていえば、順風満帆な成功を収めている人がキャンダルの当事者になったり、予想外の陥穽に落ちたりするのは現在もよく見ることだ。

『鋸山奇譚』は怪談なのかミステリーなのか一見わかりにくいところにポーの巧みな創作術が感じられるが、小道具として医療用の蛭が用いられているのが興味深い。実際、20世紀前半まで医療用の蛭は広く用いられており、プルーストの『失われた時を求めて』でも描かれている。

なお、最後の『独り』と題された詩はポーが20歳の時の作品であり、ポーが早くから独自の強い感性を自覚していたことがわかる。それをポーは守護霊demonと結びつけているが、ソクラテスのいう「ダイモン」の声のようなものだろう。

 

 

◎2023年5月21日『生きることの意味を問う哲学:森岡正博対談集』

☆☆☆わかりやすい言葉で自分の哲学を語るのはいいのだが・・・

森岡氏はアカデミズムと一線を画した異色の哲学者である。

本書が対談形式であることも森岡節を一層際立たせているといえる。

 

そもそも「哲学」という言葉が哲学を一般人から遠ざけている。日本語の「哲学」は明治の知識人西周が漢字を当てはめて翻訳したものだが、もとはギリシア語に由来する“philosophy”、すなわち「知を愛する」ことにほかならない。それゆえ、プラトンの対話編ではソクラテスが弟子やソフィストたちと様々な論題を日常用語で対話しつつ問題を発展させていく。本書では永井氏との対談で触れられる「哲学対話」がまさにそうした試みである。

こうした誰にもわかる言葉で問いを発して議論をし、考えを深めていく姿勢は好ましいし、欧米の輸入哲学だけで自分の哲学を語らないという森岡氏のアカデミズム批判も頷ける。

 

反面、森岡氏のそうした姿勢の根っこにある自己の内面への執着がどこまで普遍的な学問へと開かれているのか?

例えば、本書の最初の対談では「反出生主義」が取り上げられる。「生まれてこないほうがよかった」という論題がまともに提起され、しかも、それを徹底しようとした「反出生主義者」が自死してしまう事件まであったというから驚くが、これに対して森岡氏は「誕生肯定の哲学」をめざすとしつつ、人類が絶滅する可能性は「肯定的に確保しておくべきだ」という。しかし、ソクラテスのいう「死の訓練」はより善く生きることと同義のはずだ。私のような凡俗には自己保存本能は与件であり、もはや神の領域としか思えない。

「生まれてこないほうがよかった」という言葉で私が想起するのは、マタイ福音書のイエスの言葉である。これは最後の晩餐でユダの裏切りを予見していう言葉だが、子どもの頃に聖書を読んだとき、その救いのない厳しさに衝撃を受けた。もちろん、これは裏切りという行為に対して発せられた言葉であり、上記のような人間存在自体を否定するような問いかけにはやはり疑問が残る。

森岡氏は自らの「加害者性」にも強いこだわりを示し(「血塗られた」とまでいう加害体験は具体的に語られないのだが)、日本人の戦争加害責任や男性のジェンダー的加害者性ゆえに、被害者と「連帯」できるはずがないとまで断言する。結局、「加害者としての私が私自身に向かって何を言えるか」という哲学的内省に向かうのだが、それでは被害者への償いも謝罪も何もしないだけだ。これについては、対談者の小松原氏から「本来の加害から逃げているのではないか」「自分以外の被害については、あくまで第三者として考えるべきだ」と反論されるが、そのとおりだろう。

このように自己の個人的体験への強いこだわりに今ひとつ理解できないところが多いのだが、「誕生肯定の哲学」や、アカデミズムのみを志向するのではなく「よりよい社会をつくる」ことをめざすというポジティブな思考は評価したい。

 

 

◎2023年5月15日『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 (角川文庫)』

☆☆☆☆☆あの古典ミステリーを新訳で読む 付録のポーの死因もミステリー?

『モルグ街の殺人』や『黄金虫』、さらには『盗まれた手紙』といえば、誰もが一度は読んだことがあるだろう。まさにミステリーの古典である。

改めて新訳を読むと、シャーロック・ホームズの原型がポーのデュパンであることがよくわかる。

ホームズのような科学捜査の色彩はそれほどでもないが、当時の様々な知見を動員した推論が展開されているのが興味深い。付録の「ポーの用語」には、ポーが用いた様々な概念や当時の学説が詳細に紹介されている。

ただ、現代の読者には推論の過程や種明かしが冗長でくどく感じるかもしれない(例えば、『黄金虫』の暗号解読や『盗まれた手紙』の人物分析など)。これはミステリーにまだなじみのない読者に丁寧にわかりやすく解説する必要があったからだろうか。

なお、巻末の「ポーの死の謎に迫る」は、それ自体がミステリーのような面白い読み物である。ポーの死因について様々な説があるとは知らなかったが、訳者の結論は脳腫瘍とのことである。

 

本巻には「黄金郷(エルドラド)」、「アナベル・リー」の有名な詩が収められている。訳文も工夫されているようだが、やはり詩は原文で読みたい。

ちなみに、英語版はkindleでわずか100円で全集(“Edgar Allan Poe: The Complete Tales and Poems”)が入手できた。

 

 

◎2023年5月12日『ポー傑作選1 ゴシックホラー編(角川文庫)』

☆☆☆☆☆19世紀的な怪奇譚と虐げられた者たちの復讐劇

久しぶりにポーを読んだ。

新訳であり、訳者あとがきによるとポーの原文の凝りにこだわって訳出したという。確かに、訳語の選択やリズムに工夫を凝らした訳文のように感じる。

また、各短編ごとに作品解題が付されているうえ、巻末には「数奇なるポーの生涯」として長文のポーの伝記が掲載されており、とても参考になった。

 

この第1巻は「ゴシック・ホラー編」と銘打たれており、グロテスクな怪奇譚や復讐劇が多い。

ほぼ同時代のホフマンのロマン主義的作品を想起するが、ホフマンよりもポーのほうがホラー色が強い。

『黒猫』は動物虐待が、『跳び蛙』は障害者虐待がテーマとなっているが、いずれも虐待者に対して恐ろしい復讐がなされるところに、虐げられた者たちの復讐劇の誇張されたカタルシスを感じる。

 

なお、『跳び蛙』に登場する小人症の道化は、ベラスケスの有名な絵画『ラス・メニーナス』(侍女たち)にも描かれているように、古くから宮廷で使われていた。しかし、こうした障害者の道化が自らの人格と意思を持った存在として描かれ、王と廷臣に復讐までするというストーリーはやはり近代的なものだろう。

 

 

◎2023年5月11日『朝鮮大学校物語 (角川文庫)』ヤン ヨンヒ

☆☆☆☆☆「日本の中の北朝鮮」 著者の実体験に基づく小説

著者の監督した映画「かぞくのくに」の原作である『兄』を読んでレビューしたついでに、こちらも読んでみた。

『兄』のほうは総連幹部だった父を持つ著者の家族、とりわけ「帰国事業」で北朝鮮へ帰国した3人の兄を描いたノンフィクションだが、こちらはフィクションで著者自身の朝鮮大学の体験を踏まえつつ、小説的変容を加えられている(例えば、帰国したのが姉1人になっていることなど)。ただ、作品の迫真性としては『兄』のほうが優れているように感じる。

 

物語は著者が朝鮮大学に入学してから卒業するまでのエピソードであるが、なんといっても「日本の中の北朝鮮」というにふさわしい特殊なキャンパスライフが目を引く。全寮制で修道院のような細かな日課や規則で縛られ、外出もままならず、毎日のように「総括」という名の反省が強いられる。

その中でも主人公は初日から反抗精神旺盛で様々な事件を引き起こし、それが短いエピソードの連作のように描かれるのだが、決定的なカタストロフにはならない。

朝鮮大学からの北朝鮮公式訪問行事を主人公が抜け出して、シニジュ(新義州)にいる姉を訪問する場面が大きなクライマックスとなっていて、帰国者の苦難、ピョンヤンと地方の格差が生々しく描かれている。

著者は同室の学友には「ダンサー」や「小姑」、教員には「金八」や「ルパン三世」といったあだ名を付けるが、これは登場人物のキャラクターを類型化する小説的手法であろう(夏目漱石の「坊っちゃん」を連想する)。

なお、北朝鮮訪問で現地スタッフへの手土産に煙草の「マールボロ」を何カートンも持参する場面があるが、私も崩壊前の旧ソ連に仕事で行った際に同じように「マールボロ」を手土産に持っていったことを思い出した。

 

他方、主人公のように演劇を志す自由な気質の女性が、なぜあえて朝鮮大学に入学したのか? 朝鮮大学は総連幹部と朝鮮学校の教員養成を目的にしている。矛盾を感じ反抗を重ねつつ4年間の大学生活を送るという設定はいかにも無理がある(著者自身は朝鮮大学卒業後は朝鮮学校教員に赴任している)。

また、主人公が日本人の美大生とつきあい、国分寺のカフェで客たちから「俺たちは国籍にはこだわらない」と言われたことに違和感を感じ、「柔らかいカシミアに包まれながら、編み目の中の棘で刺されるよう」とまで反発する場面は読者への問題提起なのだろうが、いささか難解である。主人公は美大生に、「私が在日だってこと、朝鮮人だってこと、気にしてほしいの!」という。これは「在日」の特殊性への日本人の無知と鈍感さを描いたとも見えるが、主人公は美大生に対して、「日本人でも気にしない」と言われたらどう思うかと問いかけているから、もっと一般的な話のように思われる。これに対して、美大生は「悪いけど何言ってるかワケわかんない」と正直に答えているが、この美大生は「鈍感な多数者」なのだろうか?

LGBTの差別問題でも、たんに「差別しない」というだけではなくもっと知るべきだという議論があるが、差別せずに公平に接する態度が「良心的な排除」(岸正彦氏の解説)というのは、自ら壁をつくるようなものだと思う。

 

 

◎2023年5月9日『兄 かぞくのくに (小学館文庫)』ヤン・ヨンヒ

☆☆☆☆☆「帰国事業」や「帰国者」の実像 悲劇を軽妙なタッチで語る

映画は見ていないが、本書は映画の原作として書かれたものであろう。そのため、場面が切りのいいところで裁断され、時系列が前後して語られる。

北朝鮮への「帰国事業」を在日コリアンの、しかも総連幹部を親にもつ家の実話として語ったノンフィクションであり、帰国事業の実態や帰国者の苦難が生々しく描かれている。内容は深刻な悲劇そのものなのだが、語りは軽妙でコメディタッチになっているのはやはり映画を意識してのことか。

特に、兄たちが帰国する前の著者の少女時代の家庭風景は大阪の庶民生活そのもので、吉本のギャグが飛び交うところや、「いい加減にしなさい」というキメ言葉などは関西の人なら笑えるところだ。

 

本書は著者の3人の兄がいずれも帰国事業の対象となり、帰国後は3者それぞれの運命をたどる姿が描かれる。北の国家体制に順応できなかった長男、順応した次男、さらにはエリートコースに乗った三男と絵に書いたように運命は分かれるが、北の社会で生きるためには「思考停止」するしかないという苛酷な実情がよくわかる。

また、日本からの帰国者は差別の対象となる一方、日本にいる親や親戚からの仕送りの有無が向こうでの待遇をわけることが次男の再婚、再々婚の悲喜劇として描かれている。

他方、北の映画撮影スタッフとのコミカルなやりとりや、厳しい耐乏生活をたくましく生き抜く国民の一端も描かれており、情報の乏しい北朝鮮社会の実情が興味深い。

なお、著者は初監督作品『ディア・ピョンヤン』発表後に総連から北への入国禁止処分を受けたとさらりと書いているが、その間には総連や家族との様々なやりとりや葛藤があったはずだ。経緯を詳しく知りたいところだが、公にしづらい事情があったのだろうか。

 

ちなみに、私は著者より少し年上で同じく関西(京都)で育ち、近くには朝鮮学校(中学・高校)もあった。祖父母が駄菓子屋をしていてお好み焼きもやっていたので、朝鮮学校の生徒がよく来ていたが、制服の黒い詰め襟やチマチョゴリを着たあの生徒たちの中からも、本書のような帰国者がやはり出たのだろうか。

 

 

◎2023年5月6日『詩のこころを読む (岩波ジュニア新書)』茨木 のり子

☆☆☆☆☆現代詩の幅広さと深さ、そして詩の持つ力を伝える名著

本書は数ある岩波ジュニア新書の第9番で1979年に発行されているが、私が読んだ電子書籍版発行の時点(2011年)で紙版は71刷を重ねており、今なお色褪せない名著である。

ジュニア新書といいつつ、内容は大人の読者にとっても読みごたえがあり、現代詩の幅の広さと深さ、そして何よりも詩の持つ力を伝えてくれる。

 

以下、いくつか紹介する。

○会田綱雄の『伝説』 湖の蟹に人間の生活と人生を象徴させ、美しいイメージの世界を描く。

○岡真史の『みちでバッタリ』 少年の淡い恋愛感情をほほえましく感じさせる。12歳で自殺したこの少年詩人について、著者は「良い詩は瞬時に一人の人間の魂を、稲妻のように見せてくれることがある」と評している。

○黒田三郎の『僕はまるでちがって』 恋する男性の気持ちの変化を見事に表現。著者は「自分の思いを深く掘り下げていくと・・・全体に通じる普遍性に達する」とし、それではじめて表現の名に値するという。同じ詩人の『夕方の三十分』は、夕食をつくる男と幼い娘の愛情溢れるやりとりが楽しい。

○松下育男の『顔』 恋人の顔を「にんげんとしては美しいが/いきものとしてはきもちわるい」と書いてしまう面白さ。詩の表現の新しさを感じる。

○工藤直子の『てつがくのライオン』 ライオンが「てつがく」を気に入っているという主題が意表を突き、加えて、ライオンの友達がカタツムリという設定もさらに意外な面白さで、その会話がとても楽しい。

○濱口國雄の『便所掃除』 国鉄労働者だった詩人。便所掃除が詩になるという驚き。著者は「きわめて斬新、前衛的、堂々」とした詩だ評するが同感。かつては、便所掃除は新入りの重要な仕事だったという。

○岩田宏の『住所とギョウザ』 少年の日の在日朝鮮人の友人と差別の苦い体験を、子どもらしい正義感とペーソス溢れるタッチで描く。

○金子光晴の『寂しさの歌』 昭和205月、敗戦直前の時期に故郷山梨で密かに書き綴った憤りのこもった力作。「無知とあきらめと、卑屈から寂しさはひろがるのだ」という詩人の怒りがこれ以上なく伝わってくる。著者は、この詩と谷川俊太郎の『愛』が「双子座のように似ている」という

○河上肇の無題詩・『老後無事』・『味噌』 有名な経済学者だが詩人でもあったとは知らなかった。しかし、この無題詩は獄中で旧友が大臣になったと聞いて書かれたもので、「私の生涯は/外にゐる旧友の誰のとも/取り替へたいとは思はない」と言い、出獄後の『老後無事』では「羨む人は世になくも、/われはひとりわれを羨む」と言う。その誇り高い境地が力強く歌われていて感動する。

 

 

◎2023年5月3日『茨木のり子詩集 (岩波文庫)』谷川俊太郎選

☆☆☆☆☆「男前」とはこの人のこと 大岡信との対談は必読

 自信溢れる生き方を貫く女性を「男前」と最近は言うらしいが、この茨木のり子さんこそそうした形容にぴったりの女性ではないか。

茨木さんは1926年生まれで戦中に青春期を送った世代だが、戦中派ならではの苦い思いが最初の詩集『対話』(1955年)に結晶している。穏やかな海を見ながら戦時中を回顧する「根府川の海」は印象的だ。他方、「内部からくさる桃」では時流に流されることへの憤りが、「人々は/怒りの火薬をしめらせてはならない/まことに自己の名において立つ日のために」と強いトーンで歌われる。

とにかく曖昧さや難解さ、あるいは婉曲や韜晦といったものとはほど遠い、明確な姿勢が直球で読者に投げかけられる。まさに、「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」である。本書に収録されている大岡信氏との対談では、「もう少しヤワな部分が出てもいいのじゃないか」と指摘されるほどだが、茨木さんは「女言葉的なもの」が好きではないと応じている。

しかし、こうした姿勢が高飛車な感じでなく、またイデオロギッシュでもなく、女性らしい感性に裏打ちされているところが詩人として魅力であろう。「大学を出た奥さん」などはキャリアを捨てて旧家に嫁入りした女性を描きつつ、最後は「村会議員に」と暖かく応援している。

先輩詩人金子光晴氏の思い出を書いたユーモア溢れるいくつかの詩や『ユリイカ』の編集者伊達得夫氏を追悼する心温まる詩(「本の街にて」)も素晴らしい。さらには、中国から北海道の炭鉱に文字通り強制連行され、逃亡して終戦後14年間山野で1人暮らした劉連仁を歌った長文の叙事詩「りゅうりぇんれんの物語」は詩の持つ迫真の表現力を示している。

上記の大岡氏との対談は詩論、芸術論としても興味深く必読だが、大岡氏は茨木さんに亡夫の詩を書かないのかと促し、茨木さんは書きためているが今は発表できないと答えている。茨木さんの死後、この書きためられた愛惜の想いに満ちた珠玉の詩が『歳月』として発表された。本書の編者である谷川俊太郎氏は、この『歳月』には「もっとも生な茨木さんが息づいて」おり、これをもって「茨木さんの詩集は成就した」と書いている。

 

 

◎2023年5月1日『ハングルへの旅 新装版』茨木のり子

☆☆☆☆☆「隣国」の文化と人々への敬意と愛情溢れる学習ガイド

著者の茨木のり子さんは詩人で1926年生まれだが、50代でハングルの学習を始めたという。本書は自らも学習者の視点で書かれたハングル学習者へのエッセイであり、したがって先生が生徒に教えるような堅苦しさはない。しかし、詩人らしい感受性と読みやすい文体で書かれた文明論として、とても興味深く読める。

ただし、ルビは振ってあるもののハングルの読み方や構造などの初歩的な知識はあった方がよいだろう。

本書の初版は1986年で、韓国ではまだ漢字混じりのハングルだったが、現在では人名を含めほとんど漢字は使われない。日本人にとっては馴染みにくい文字だが、それだけ民族固有の文字(世宗治世の創出)としての誇りが高いということだ。

なお、著者は「隣国」の言葉という表現を用いているが、これは地理的に日本と最も近く歴史的に深い関係のある隣国という意味に加え、朝鮮半島が「韓国」と「北朝鮮」に二分され、「コリア」という言葉も当時はまだ日本語としてこなれていなかったからである。

 

興味深かった点をいくつか挙げる。

・庄内地方をはじめ各地の方言がハングルに似ている箇所が多く、古代日本語と古代朝鮮語の類似性が指摘されている。7世紀までは大和王権と朝鮮半島の交流は活発で言語の不自由はなかったとも。

・ハングルの諺が原文対訳で多数紹介されており、比較文化論として楽しめる。

・韓国は陶器の国なのに民間の食器は金属製が多いのは、度重なる戦乱で逃げるときに持ち運びやすいから、さらには秀吉の朝鮮出兵時に多数の陶工が日本に連れて行かれたからだという(著者の質問への現地の人の答え)。

・植民地官僚だった浅川巧は朝鮮の文化に親しみ、朝鮮服を着てロバに乗って全朝鮮を行脚し農林業の指導をし、現地で死んだ。死後50年後に著者が墓参したときも現地では慕われていたという。

・最後に、若々しい清冽な詩を残した尹東柱が紹介されている。3年間日本で暮らし、最後は特高警察に捕まって福岡で獄死したが、研究者がその足跡をたどっても記憶している日本人はいないという(!?)。

 

 

2023429日『ウクライナ戦争をどう終わらせるか (岩波新書)』東大作

☆☆☆和平調停の可能性はともかく、どうやって実現するかは不透明

著者はウクライナ戦争を「どう終わらせるのか」について、戦争開始時の昨年224日ラインまでロシアを押し戻し、クリミアやドンバス地方の一部は交渉の中で解決を図るとする調停案を繰り返し示している。

しかし、現時点でロシアがウクライナ東部4州を占領し、自国の一部と宣言している以上、224日ラインまでロシアを押し戻すためには、ウクライナは反転攻勢の戦闘を続け、米欧日はそれを支援し続けなければならないだろう。すなわち、即時停戦ではなくウクライナが反撃戦争に勝利する必要があるということだ。

著者の言う「和平調停」はその後にはじめて可能になる。

 

ウクライナのNATO加盟問題については、フィンランドやスウェーデンが中立政策を捨ててNATO加盟を表明し、すでにNATOに加盟しているポーランドやバルト三国が反ロシアの姿勢を強めている現在、ウクライナがNATOに加盟しないとする意味はロシアにとって大きくないし(元々侵略の口実だったと思う)、逆に、侵略されたウクライナにとっては加盟は死活問題といえる。

著者は「ロシアとの共存など未来永劫図れない」という意見に対して、第2次大戦中の侵略国家であるドイツや日本とも戦後は共存してきたではないかという。しかし、これはナチスドイツと大日本帝国が無条件降伏して、国家体制が大きく変更されてはじめて可能となったことだ。したがって、平和共存のためには、少なくとも侵略戦争を始め、現在も無差別空爆等の戦争犯罪を続けているプーチン政権が根本的に変革される必要があるのではないか。

NATO対ロシアではなく、NATOにロシアを取り込んで軍事同盟を集団安全保障体制に変革することがめざされるべきである(ソ連崩壊直後にはそうなる可能性はあった)。

 

また、著者は「民主主義対専制主義」の図式にしないことを強調するが、疑問である。

ロシアにせよ北朝鮮にせよ、あるいは台湾の武力統一を否定しない中国にせよ、専制主義国家が平和な国際秩序を脅かしているのであり、民主主義国家が減少しポピュリズムや権威主義の勢力が増加していることに世界情勢の不安定化の要因はある。著者は「最低限の国際ルールを守る国」かどうかを対立軸とするというが、専制主義国家はいともたやすくこれを破ってしまう。現に、ロシアに対する制裁に同調しない国の多くは専制主義国家であり、これらの国々は「最低限の国際ルール」よりも自国の専制支配者の利益を優先しているといえる。

民主主義のルールと価値観を確認し広く共有していくことこそが、やはり国際法秩序にとって重要なのである。

 

 

◎2023年4月27日『李朝残影~反戦小説集~ (光文社文庫)』梶山季之

☆☆☆☆☆植民地統治の矛盾に苦悩する日本人の視点で描く傑作短編集

『族譜』と『李朝残影』は昔読んだが、他の短編と合わせ電子書籍化されたので再読した。

梶山季之といえば大衆小説の人気作家のイメージが強いが、朝鮮、移民、原爆を生涯のテーマとしていたらしい。1930年に朝鮮植民地統治時代の京城(ソウル)に生まれ、敗戦で両親の郷里である広島に引き上げるまで朝鮮で暮らしていた。したがって、本書は植民地統治時代の日本人の実体験を踏まえた小説であり、当時の京城の日本名の地名(例えば繁華街ミョンドン(明洞)は「明治町」など)や日本名の商店や飲食店が多数登場する。

 

本書に収められた5つの短編はいずれも植民地統治の矛盾と苦悩を現地の日本人を主人公に描いた傑作だが、とりわけ『族譜』と『李朝残影』は朝鮮の伝統文化と植民地統治の矛盾、その狭間にいる日本人の苦悩を鮮やかに描いた作品といえる。

『族譜』では700年に及ぶ家系記録(族譜)を引き継ぐ大地主に創氏改名を迫る朝鮮総督府や憲兵隊の悪辣さが生々しい。学徒動員を逃れるために下級官吏となった主人公は、心ならずも創氏改名を再三依頼するものの、両班階級の誇りと族譜の重さに圧倒され、弥縫策で切り抜けようとするのだが・・・。創氏改名は「自発的」にという法の建前にもかかわらず事実上強制的になされており、「裕川仁」と改名した者が不敬(天皇裕仁の名を分断)として憲兵隊の拷問を受けたことが描かれている。なお、現在日韓関係の懸案となっている「徴用工」については、「朝鮮人たちは、夜中に寝込みを襲われたり、野良仕事をしているところをトラックに積み込まれたりして、強引に北海道や九州の炭鉱に、労務徴用者として送られている」という風聞が記されているが、現地では女子の軍需工場等への徴用工もあったことがわかる。

 

『李朝残影』は貴族文化の華ともいえる妓生の舞踊に感動した画学生が苦労して舞踊姿を描くのだが(表題はその絵の題名)、その妓生の日本人嫌いの背後には1919年の3.1万歳事件があったというもの。この事件は、現在では「3.1運動」と呼ばれ、韓国では独立運動の祝日となっているが、朝鮮半島全土に広がった大規模な独立運動であり、その鎮圧の過程で多数の死傷者が出た。驚くべきことに主人公の画学生はこの事件そのものを知らなかったというから、朝鮮総督府はこの事件の存在自体を抹殺し隠蔽していたのだろう。

この他、『性欲のある風景』は日本敗戦当日の勤労動員をサボって玉音放送を聞きそびれた学生の体験をユーモアに描いたもの、『闇船』は植民地統治で成り上がった商人、官僚、軍人の3名が敗戦直後の阿鼻叫喚をなんとか逃れようとあがく様子をシニカルに描いたもの、『京城・昭和一一年』は日本人記者と抗日運動に関わる妓生を描いたものである。

 

 

◎2023年4月24日『82年生まれ、キム・ジヨン(ちくま文庫)』チョ・ナムジュ

☆☆☆☆☆「私もキム・ジヨン」 #MeToo運動よりも根深い女性差別を告発

何を隠そう、実は10年以上前から韓流ドラマのファンである。韓国語を学ぶために見始めたところ、はまってしまい、ほとんど毎日見ている。ドラマでは女性実業家や女性弁護士、女医、女性刑事といったヒロインが颯爽と大活躍しているのだが、本書が大ベストセラーになり、「私もキム・ジヨン」という声が広がったところをみると実際には女性差別は根深いことがわかる。

 

本書は1982年生まれの女性を描いているが、生まれる前から「できれば息子」という差別をうけ、子ども時代は弟との差別、学校では男子生徒との差別、サークルや就職活動や就職後も女性ゆえの不利益を受け続ける。女性差別が社会の日常で当たり前のように通用していることを、中流の比較的裕福な階層の女性の視点で描いているところがわかりやすく、広い共感を得たといえる。

著者は問題提起に客観性を持たせるために、物語の大部分をカウンセリングを受けた精神科医のカルテの体裁にし、随所に注釈で統計データを示して説得力を持たせている。そして、精神科医(男性)が話者となる最終章では、その医師の妻である女医にも同様の問題が起きたことが語られるが、にもかかわらず病院スタッフには「未婚の女性を」という本音が最後に漏れて、男性の意識に辛口の問題提起が投げかけられている。

もちろん、韓国独自の事情として朝鮮王朝時代の長い儒教の伝統や徴兵制による男性の不公平感などもあるが、事情は日本でも大差はない。韓国では夫婦別性で戸籍制度も廃止されたが、子の姓を父母どちらかに届け出る「本貫制度」で大分部が父の姓に届けられているという事実などは、日本の選択的夫婦別姓制度の議論にも参考になろう。

 

働く女性が出産や育児で長期間休業すると、いくら復帰が保証されていてもキャリアの点でブランクが生じてしまう。キャリアを重視する女性は休業期間をできるだけ短くするほかないが、そのためには夫の育児休業を含め育児を社会的に支援する環境が整備されなければならない。それでも子育てでは様々な問題が起きるのだが、問題をまずは認識するところから始まるということだろう。

 

 

◎2023年4月23日『六十七番地の子どもたち』リザ・テツナー

☆☆☆☆☆まさに「子どもたちのオデュッセイア」 続編の翻訳を期待する

1930年代前半の時代を背景に、ベルリンの低所得階層向け共同住宅で暮らす子どもたちを主人公にした物語である。

少年文学らしく、子どもたちの友情や正義感、諍い、そして子どもらしいロマンスも生き生きと描かれているが、時代はナチスが政権を奪取する前後であり、その暗い影は当然子どもたちにも及んでいる。

それでも、子どもたちは失業した友人家族を助けるためにチャリティーの仮装舞踏会を計画し、その計画に共同住宅の大人たちも巻き込んでいく。この仮装舞踏会は本書のハイライトであり、純真な子どもたちの熱意と庶民の助け合い精神が感動的に描かれている。

しかし、時代はそうした庶民の心温まる共同世界を引き裂き、主人公エルヴィンの父は反ナチス活動により収容所に送られ、その後脱出して父子ともにベルギーからパリへと亡命する。また、エルヴィンが心を寄せるミリアムはユダヤ人の家系であったため、先にパリに逃れている。2人は運よくパリで出会うが、やがてミリアムは南米へ、エルヴィンはスウェーデンへとさらに移住していく。スウェーデンといっても首都ストックホルムではなく、鉄鉱山のある北極圏のキルナである。そこで、エルヴィンはトナカイを遊牧するサーミ人たちと冒険の旅に出るのだが・・・

このようにナチスの迫害を逃れた子どもたちが難民となって世界を放浪し、その先々で出会う人々との人間味あるエピソードが語られていく。まさに「子どもたちのオデュッセイア」(訳者あとがき)と呼ぶにふさわしい。

 

ちなみに、本書は全9巻のうち最初の3巻であり、この後は戦争の時代から終戦後まで子どもたちの冒険と成長が描かれるようだ。

特筆すべきは、本書が戦後に回顧的に書かれた作品ではなく、著者テツナー自身が夫とともにスイスに亡命し、亡命先で1933年頃から現在進行形で書き続けたことだ。テツナーはドイツで児童文学とともに、ラジオの子ども向け番組に出演しており、子どもたちの様子が臨場感を持って伝わってくる。

戦乱と難民が絶えないこの21世紀においても、本書で描かれたような子どもたちのオデュッセイアは世界中で繰り返されているはずだ。

訳者の酒寄氏には是非とも続巻を翻訳して出版してほしい。

 

 

2023420日『スウェーディッシュ・ブーツ』ヘニング・マンケル

☆☆☆☆☆全編を覆う死の影とそれに抗する老いのあがき

ヘニング・マンケルの最後の作品である。

本書の刊行は2015年夏で、マンケルが亡くなったのは同年10月だが、その前年に回復不能の進行がんを発見されていた。

そのせいか、本書では主人公の身近な友人たちが相次いで亡くなり、主人公自身も死の影をたびたび感じる場面が描かれている。

 

物語は前作『イタリアン・シューズ』(レビュー済み)の8年後に設定され、群島地域に隠棲する主人公は70歳の老いを感じつつひっそりと生きている。氷の貼るバルト海で毎朝沐浴する習慣は変わらないし、偏屈で自己中心的な性格は相変わらずだ。60代の私自身の感覚からすると、70歳にしては老け込みすぎのように感じるが、主人公を含め群島地域の人々の多くは老齢で、老いを意識して生きることを考えさせる作品となっている。

物語は、主人公の島の居宅が火事で全焼する場面から始まる。それまでの人生の一部だった家財道具や本、日記、写真等がすべて失われ、不揃いの長靴しか残されていない。その長靴さえ新しいもの(スウェーディッシュ・ブーツ )を取り寄せるのが思い通りにできないことが老年の悲哀を象徴しているようだ。

しかし、主人公はこうした老いの悲哀に抗するように、かなり年下の女性に恋心を抱いてせっかちなアプローチを仕掛けたりする。せっかちではあるが強引ではなく、相手の意向を尊重するのが老人的な恋の進め方ということか。また、気むずかしい娘との関係の進展も、老いと孤独に抗して人間的な絆を回復していく文脈で理解できる。

小説の構成としては、火事がやがて群島の連続放火事件に発展するミステリー的な展開となっており、社会派らしく移民問題も描かれているが、あくまでも主題は老いと死である。

 

なお、柳沢さんの翻訳はさすがにマンケル作品を熟知したわかりやすいものだが、主人公がパリに赴いた際の地名で「ラテン・クォーター」と訳されているのは、通常はフランス語読みで「カルチエ・ラタン Quartier latin 」。1968年のパリ五月革命で有名になった学生街である(ラテン語を話す地区の意味)。

 

 

◎2023年4月16日『ポパー 批判的合理主義』小河原誠

☆☆☆☆「遅れてやってきた啓蒙主義者」ポパーの生涯と学説を概観

ポパーの大著『開かれた社会とその敵』の新訳が岩波文庫で今年になって始まったが、その翻訳者でポパーの専門家である著者によるポパーの生涯と学説の概観である。元は講談社「現代思想の冒険者たち」シリーズで1997年に刊行されたが、2013年に一部改訂して電子版で出版されたものである。

 

実は、私が学生だった今から40年以上前のアカデミズムでは、ポパーは一目置かれてはいたが、どちらかというと敬遠されていたのではないかと思う。なんといっても上記大著や『歴史主義の貧困』(著者は『ヒストリシズムの貧困』が適切とする)の厳しい論争的内容、すなわちプラトンを全体主義の祖として厳しく批判し、近代におけるその継承者としてヘーゲルの弁証法やマルクス主義の史的唯物論を「にせ預言者」と弾劾し、返す刀でウィトゲンシュタインやフランクフルト学派とも厳しい論争を行うという、アカデミズムの哲学・思想史研究者にとってはなんとも扱いにくい、やっかいな存在とみられていたからであろう。

しかし、本書を読むと、ポパーの生い立ちと著作の時代背景(オーストリア社会民主党の革命運動からヒトラーのファシズムの席捲、戦後は冷戦の厳しい時代)、その下での著作の動機と主張の内容がわかりやすく解説されている。

「批判的合理主義」の核心はドグマを排し反証可能性を重視するものであり、「トライアル・アンド・エラー」による仮説の検証手続を自然科学だけでなく社会科学にも適用するというものであるが、この考え方自体は、自由な言論が保障された社会ではさほど違和感なく受け入れられるのではないか。科学的学説や経済的理論、法廷弁論はいずれも絶対的な真理ではなく、確からしさの程度の差はあれ蓋然的知にとどまる。蓋然的知は、それと矛盾する事実によって反証される可能性がある。そのようにして理論は検証され、発展していく。社会改革についても、「歴史の発展法則」の実現をめざす革命(「ユートピア社会工学」)が批判され、部分的改良を積み重ねていくピースミール社会工学(piecemeal social engineering 漸進的社会工学)が対置されるのである。

これに対し、「真理」を国家や教祖が独占し、その批判を許さない権威主義の下では、このような反証可能性による知の発展は望めない(矛盾する事実や批判があれば、そちらが間違っているとされる)。

また、自由な言論と公共の批判を受け入れる以上、主張や仮説はわかりやすい言葉で説明されなければならない。過度に晦渋な哲学が批判されるのはそのためである。

 

著者はポパーを「遅れてやってきた啓蒙主義者」と評するが、確かに論争的であるにもかかわらずポパーの議論自体は批判に開かれたものである。批判的合理主義や漸進的社会工学も、20世紀の冷戦時代は保守的な現状維持論に感じたものだが、今日ではむしろリベラルな立場からの着実な社会改革論として再評価できそうである。岩波文庫で『開かれた社会とその敵』の新訳が始まったのも、現在のリベラルな民主主義の危機ともいうべき状況を踏まえたものであろう。

 

 

◎2023年4月9日『大江健三郎自選短篇 (岩波文庫)』

☆☆☆☆☆大江の感受性と想像力のすごさ、語り口の変化に注目

先頃亡くなった大江氏の作品はほとんどリアルタイムで読んできたが、岩波文庫版の自選短編集が電子書籍化されたのを機に改めて読み直すことにした(出会いの作品である『万延元年のフットボール』も先頃読み直してレビューした)。

本書は2014年の出版だが、収められた短編で最も新しい作品が1992年である。大江氏がノーベル賞を受賞したのは1994年であり、長編で言えば『燃えあがる緑の木』三部作や『宙返り』なども後の作品である。本書の短編以降には短編を書いていないようだから、作風や手法を発展させる短編の試みは本書で完成の域に達したということなのであろう。

 

そこで、まず後期短編から読み始めた。

『「涙を流す人」の楡』 知人のベルギー大使公邸に招かれた際に見た“orme-pleureur”(涙を流す人の楡)のイメージから少年時代の不可思議な事件の記憶に発展させ、物語を紡ぐ。『懐かしい年への手紙』に登場する「総領事」を連想する外交官が登場する。

『ベラックヮの十年』 ダンテ『神曲』煉獄編第4歌に登場する怠け者の楽器職人ベラックヮのごく短い挿話から想像力を発展させる冒頭から、一転してイタリア語の個人授業を受けていた女性とのきわどいやりとりに物語りが展開する。ドキッとするようなエロチシズムが用いられるのも大江の初期からの特徴である。

『マルゴ公妃のかくしつきスカート』 有名な「王妃マルゴ」が14人の愛人の心臓をスカートのポケットに入れていたという逸話と、富良野のキャバレーのホステスが9人の嬰児を殺して死体を隠していたという事件とを重ねつつ、オーバーステイの外国人女性に恋するテレビカメラマンの物語へと展開させる。

『火をめぐらす鳥』 少年の頃に感動した伊東静雄の「(私の魂)といふことは言へない」という詩の一節へのこだわりから物語を紡ぐ。「螢が火を放って飛び回る虫なら鶯は火を放つように歌いながら飛び回る鳥ではないか」という作家的な想像力が素晴らしい。それはやがて、著者と亡き友人(上記の外交官と重なる)と障害のある息子の魂への想いへとつながり、「死んだ友達の魂が鶯の声のように野や山いたるところで輝き、その魂を追って僕の魂はかさなり、野鳥の声のみを理解する知恵遅れの息子の魂と照らし合うと感じとっていた」という美しいビジョンとなる。

 

大江の感受性と想像力(イマジネーション)の飛翔はやはりすごいと思う。

同時に、後期短編では『懐かしい年への手紙』で示された柔らかでユーモアも交えた語り口と、人間への温かい眼差しが感じられる。これは初期のゴツゴツした語り口の尖った作風から中期の実験的でやや難解な作風を経て、著者が到達した境地であろう。

なお、私小説風に大江自身の私生活が描かれているように見えるが、私生活はあくまでも素材であり、そこから想像力を駆使して物語を紡いでいくのが大江流である。

 

(追記)中期短編に分類されている『静かな生活』と『案内人』は時期的にも作風としても後期に属するものだが、『新しい人よ眼ざめよ』との内容上の連続性で分類されたのだと思われる。知的障害のあるイーヨー=光の成長を扱う一連の物語は、親や家族の時に暗鬱に陥りがちな気遣いを乗り越えて成長する子どもの姿を生き生きと描いており、感動的である。

 

 

◎2023年4月8日『リベラリズムへの不満』フランシス・フクヤマ

☆☆☆☆古典的なリベラリズムの堅持と「中庸の徳」

原書の表題は“Liberalism and its discontents”、すなわち「リベラリズムとそれへの不満」であって、本書の表題は誤解を招く。著者はリベラリズムを左右からの「不満」から擁護するために本書を書いた(カール・ポパーの大著『開かれた社会とその敵』“The Open Society and its Enemies”を連想する)。

近著『「歴史の終わり」の後で』のレビューで書いたように、冷戦終結時の著書『歴史の終わり』で有名になった著者は実は穏健な社会民主主義だったのであり、本書のリベラリズム擁護もそれをさらに進めたものである。

 

著者のいう「古典的リベラリズム」とは、「法律や究極的には憲法によって政府の権力を制限し、政府の管轄下にある個人の権利を守る制度をつくること」と定義されるが、これは「法の支配」あるいは「立憲主義」と置き換えられる。憲法学上では、民主主義(多数決原理)と自由主義(個人の権利擁護)の緊張関係を個人の尊厳を最高原理として統合するものとして説明される。

本書では、このリベラリズムに対して、一方では選挙で選出された権力による行政や司法への攻撃(権力抑制を拒絶し批判的言論を抑圧する権威主義国家の増大)、他方では階級格差是正やマイノリティの平等を求める集団の民主的諸制度に対する攻撃(熟議と妥協の手続を拒否し急激な変革を求める左派の運動)がなされ、リベラリズムへの不満が高まっているのだという。

これに対し、著者は17世紀以降の古典的リベラリズムの歴史を概観した上で、新自由主義とリバタリアニズムの批判、「利己的な個人主義」の問題、リベラリズムが自らに牙をむく「アイデンティティの政治」(人種やマイノリティ集団の承認要求)とマルクーゼ以降の「批判理論」の関係、デカルト以降の合理主義や普遍主義に対する構造主義の批判(フーコーは陰謀論的であり、ラカンやデリダは意図的な難解さで説明責任を回避しているというが、同感である)、さらには近年のマスメディアの支配(イタリアのベルルスコーニなど)やインターネットのデジタル・プラットフォームによる誤った言論の拡散まで論じていく。ただし、論旨としては上記の古典的リベラリズムを左右の批判から擁護するという議論の繰り返しである。

なお、古典的リベラリズムのバックボーンとしては、ルソー→カント→ロールズの自然法的な啓蒙合理主義が再評価されている。

 

結論的には極めて穏健で穏当な社会民主主義がめざされており、国民に必要なサービスを提供するのに十分な人的・物的資源を持つ政府が必要であること、(排他的攻撃的でない)国民意識の醸成と公共精神の涵養が求められている。

著者は古代ギリシャ由来の「中庸の徳」を援用し、次のように結語する。

「個人の自律性が充実感の源であるとしても、・・・ 時には、制限を受け入れることで充実感が得られることもある。個人として、共同体として中庸を取り戻すことが、リベラリズムそのものの再生、いや、存続の鍵になるのである。」

 

 

◎2023年4月4日『珈琲と煙草』フェルディナント・フォン・シーラッハ

☆☆☆☆ほろ苦いエッセイとショートショート

刑事専門弁護士にして作家のシーラッハの48編の「観察記録」(Beobabchtung)である。

といっても、内容は短編小説風のショートショートとエッセイであり、著者の刑事弁士としての経験を踏まえた人生観、あるいはナチス戦犯だった父親の思い出など様々であるが、どれも興味深い。

酒寄氏の翻訳も、さすがに歯切れよくわかりやすい。

 

いくつか挙げる。

1.子ども時代のこと。池のある大きな屋敷で暮らしながら1度もバカンスをしたことがな  く、「幸せな子ども時代などあるわけがない」という。10歳でイエズス会の寄宿舎に送られる。

41967年のデモをめぐる3人の弁護士を描いた映画について書かれているが、3人のうち1人は「テロリストの弁護人」から連邦内務大臣に、1人は緑の党の連邦議員に、もう1人はドイツ赤軍メンバーから極右活動家となって収監される。それぞれの国家観や人間観が比較されている。

14.ブラジルに出張した際の旧友との出会い。かつてのイギリス名門貴族との古きよき時代の懐旧談のうちに父との思い出を回想する。

15.「煙草が吸えないなら天国に行かなくていい」というマーク・トウェインの言葉から、愛煙家らしい喫煙談義が展開される。ついでに旧約聖書の楽園追放についても、「ふたりはこのとき、はてしない退屈を放棄し、頭が空っぽな状態を捨て、まったりした気分に浸りつづけることをやめた」と皮肉られている。

16.ウクライナの女性弁護士がロシアに占領されたドネツク共和国とルガンスク共和国内で横行している拷問や殺人を告発して闘う話が、ナチスのユダヤ人迫害と重ねて書かれている。現在のウクライナ戦争より前のことである。著者はドイツ基本法の根源にある「人間の尊厳」に触れ、「私たちは法を定め、強者を優遇せず、弱者を守る倫理を生みだした。隣人に敬意を払うこと、これこそ、私たちをなによりも人間らしく しているものなのだ」という。

20.音楽大学でピアノを学ぶ日本人女性との交流の悲話。良寛の俳句《うらを見せておもてを見せて散るもみぢ》を教えられる。

24.自国中心主義を堂々と公言するSNSと政治家。裁判所の決定に対する「ドイツ国民を助けず、害する法って何だよ?」というコメントが、ナチス高官の言葉と重ね合わされる。

30.「児童虐待者にも社会復帰の機会を与えなければならない」と言っただけで、マスコミやネットで集中攻撃を受けて、精神的ダメージを受けた女性政治家の話。

45.人間の脳のデータをコンピューターにバックアップすれば永遠に生きられると信じた技術者の話。

 

なお、2でバーバリーをボイコットした「アラブ首長国連邦」の話が出てくるが、同国が成立した1971年以前の事件である。原文は》die Liga der Arabischen Staaten であり、アラブ諸国家の協力機構である「アラブ連盟」の誤訳であろう。

9のスイスにおける死刑に関する国民投票についても、スイスは現在も死刑廃止国であり、背景説明が必要と思う。

 

 

◎2023年4月1日『万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)』大江健三郎

☆☆☆☆☆大江との出会い 青春の思い出の一冊

今年(2023年)になって、加賀乙彦氏、大江健三郎氏という私が長く敬愛してきた作家が相次いで亡くなった。とりわけ大江氏の作品は高校時代に耽読し、その後の私の人生の進路に深く影響を受けただけに感慨が大きい。その大江氏との出会いの作品がこの『万延元年のフットボール』にほかならない。

当時は講談社文庫版で書店に平積みになっており、真っ赤に塗られた顔が大きく描かれたグロテスクなカバーに興味を惹かれて買って読んだことを覚えている。

 

まず、冒頭から異様なイメージに圧倒される。夜明け前の暗闇で「失われた熱い期待の感覚」を探し求める主人公根所蜜三郎(「僕」の一人称で語られる)は浄化槽埋め込みのための庭の穴に降り犬を抱いて考え込む。主人公の友人は朱色の塗料で頭を塗って素裸で肛門に胡瓜をさしこんで縊死し、子どもは重度の障害で養護施設に入れられ、妻はアルコール依存に陥っているのだが、これらのイメージは繰り返し喚起され、小説全体の基調となっている。こうした冒頭の状況提示が、翻訳口調も交えた息の長い、ゴツゴツした文体(悪文ではない)で語られていく。難解でとっつきにくいが、読み進むうちに主人公の限りなく下降していく意識感覚に引き込まれるように小説世界に入っていく。

物語は、60年安保闘争に挫折した「悔悛した学生運動家」として登場する弟鷹四、その心酔者であるハイティーンの「星男」と「桃子」の登場を経て、郷里の四国山中にある窪地の村に舞台を転じるが、そこでも過食症の大女「ジン」(スターウォーズのジャバ・ザ・ハットを連想する)、戦時中に村で強制労働させられていた在日朝鮮人の成功者「スーパーマーケットの天皇」、元は徴兵忌避者の「隠遁者ギー」といった異色のキャラクターを配して、大江ワールドが形成されていく。

鷹四は万延元年の一揆の主導者であった主人公らの曾祖父の弟に倣い、村の青年らを組織して、雪で閉じ込められ交通と通信の途絶えた状況下でスーパーマーケット襲撃の暴動まで起こすのだが、主人公は「社会に受け入れられている人間」と嘲られつつ距離を置き、異邦人として疎外感を深めていく。

暴動の顛末には触れないが、運動が自己目的化しその有効性を考えない点で、あたかも新左翼運動(後の全共闘)に対するカリカチュアのように見える。しかし、万延元年の一揆の真相解明と合わせつつ、最終的に大江はその失敗を描くだけでなく、成果も肯定しているようだ。

冒頭で提示された主題である主人公の「熱い期待」の喪失感と、物語の進行につれて深まる主人公と弟や妻との対立、葛藤は暴動の前後で頂点に達するが、鷹四の自死の悲劇を経た大団円で対立は和解へと向かい、「期待」は回復の兆しを示して小説は閉じられる。いわば魂の死と再生の物語である。

大江氏自身がこの文芸文庫版のあとがきで書いているように、「青春のしめくくり」と「乗り越え点」に位置する著作といえる。

 

 余談ながら、高校時代に文芸サークルの雑誌に短編小説(習作)を書いたが、本書冒頭の実存的ムードと文体に全く影響されたもので、サークル仲間からも大江の影響を指摘された。大学でも大江を耽読していた同級生はかなりいて、中には本書を読んで「穴ボコに入りたいと思った」と言うのまでいたことを懐かしく思い出す。

 

 

◎2023年3月24日『現代ロシアの文学と社会 :「停滞の時代」からソ連崩壊前後まで【電子書籍版】』大木昭男

☆☆☆「ソビエト文学」とは何だったのかを改めて問い直す

本書は1993年に出版された本をほぼそのまま電子版にしたものだが、内容は1980年代から93年まで、すなわち旧ソ連のペレストロイカ時代からソ連崩壊直後の混乱の時代までの論文を集めたものである。

その後のロシアの変貌に関する著者のコメントや他の研究者の解説はなく、本書で言及された現代ロシア作家のその後の活動や著者自身の生死すらわからない。

プーチン時代になって急速な経済発展と権威主義国家化を強めたロシアで作家たちの置かれた状況について、しかるべき解説が必要だろう。

 

それにしても、ドストエフスキーやトルストイらの大作家群を輩出した19世紀ロシア文学に比べ、20世紀のソ連邦の下でのロシア文学はほとんど見る影もない。ショーロホフ、パステルナーク、ソルジェニーツィンは有名だが、後2者は反社会主義的として弾圧された。

本書ではスターリン・ブレジネフ時代の悪名高い「社会主義リアリズム」と「ジダーノフ批判」の問題が指摘されているが、要は社会主義革命に奉仕するよう共産党の「正しい」指導下(検閲)に文学や芸術全般が置かれていたのであり、このような自由のないところで文学が発展するわけがない。せいぜい「政治的プロパガンダ」としての文学か、「小市民的日常」に終始する文学である。

これに対して、著者はドストエフスキーの衣鉢を継ぐ「土壌派」、ロシアの大地と農民に根ざす作家たちに注目し、本書でもワレンチン・ラスプーチンにかなりのページを割き、かつインタビューも掲載している。曰く、インテリゲンチャは無神論的な西欧化ではなく、ロシア正教に基づく教父的態度で民衆を導くべきだというのである。ラスプーチンは1991年のクーデターを引き起こした保守派のメンバーらを含むエリツィン政権批判の民族主義的アピールに名を連ねた。著者は、彼らは「真の愛国心」に出たものと擁護するのだが、帝政ロシアと旧ソ連の大国主義や権威主義を払拭できていたかは疑わしい。

 

1993年の時点で、著者はこうした民族主義的「土壌派」にロシア文学の未来を見ていたのだが、その後の推移はどうだろうか? 

ジャーナリスティックな手法で2015年にノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは、現在のロシアの言論圧迫状況の下で良心的な作家はほとんどロシア国外に脱出しているという。

ドストエフスキーは確かに浅薄な西欧化を批判したが、『罪と罰』にせよ『カラマーゾフ』にせよ、帝政ロシアの欧化政策により導入された陪審裁判がなければ生まれなかった。

西欧的価値観と対立的に「ロシア的なるもの」の特殊性を強調するのはいかがなものかと思う。

 

 

◎2023年3月21日『女たちの沈黙』パート・バッカー

☆☆☆☆☆西欧の古典叙事詩を女性の視点で語る

『イリアス』といえば欧米人の古典教養の基本である。日本でいえば『平家物語』を想起すればよい。戦争を題材とした英雄たちの叙事詩であることに加え、盲目の詩人ホメロスの語りという点も琵琶法師の平家語りと似ている。

映画『トロイ』を見た人は原作が『イリアス』と知ったはずだが、あの映画はトロイ戦争を政治経済的側面から解釈し、繁栄するトロイの富をギリシャ都市国家連合軍が略奪する侵略戦争として描かれていた(イラク戦争に対するハリウッド的風刺である)。

 

原典の『イリアス』は、3人の女神が美を競う「パリスの審判」に起因するスパルタ王妃ヘレネの誘拐という神話的説明と、神々と英雄が混然と交流する古代人的世界観を背景にした叙事詩であり、主題である「アキレウスの怒り」の原因とその成り行きが語られる。

本書はこの原典の叙事詩に忠実に沿いつつ、しかしホメロスの語らなかった女性たちの視点でアキレスの怒りとその死までを語っている。また、叙事詩では十分語られないアキレスやパトロクロスの心理描写も加えてあり、『イリアス』全体の現代的解釈となっている。パトロクロスの死からプリアモス王の単身来訪、ヘクトルの遺体返還に至る原典のクライマックスは本書でも読みごたえがある。

 

男性の語る英雄叙事詩は勇壮な戦いと勝利、略奪、そして英雄の死であるが、女性たちのことは語られていない(「女には沈黙こそ似つかわしい」と扱われた)。しかし、これを女性の視点から見れば、平和で豊かな都市が破壊され、夫や子どもが殺され、自らは略奪者に辱められた挙げ句に奴隷とされる。アキレウスの死後のブリセイスのように、男性の物語は墓で終わるが、女性の物語はその後に始まるのである。

このように過去から現在まで繰り返される戦争の悲惨な真実を抉り出すことで、著者は平和への強い祈りを印象づけている。

 

 

2023318日『The Lost King [DVD]

☆☆☆☆神がかり的な王の遺骨発見劇

アイデンティティ・クライシスに陥ったキャリア女性の自己探し、という点では『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』(ミア・カンキマキ著 レビュー済み)を想起するが、こちらはシェークスピアの戯曲で極悪人とされたリチャード三世の名誉回復とその遺骨探しである。

主人公の女性フィリッパは元夫と子育てを協力する関係なのに、仕事を投げ捨ててリチャード三世に没頭するのだから、あきれた元夫がセラピーを受けた方がよいと言うのも頷ける。実際、遺骨が発見できたのはこの映画で見る限り神がかり的な僥倖としか思えないのだが、どれだけの史料的裏付けがあったのだろうか?

それにしてもミア・カンキマキ同様、フィリッパも大変なエネルギーであり、地元大学を説得して協力させた上にクラウドファンディングで多額の発掘費用まで調達する。

シェークスピア風にリチャード三世の亡霊がたびたび登場したり、大学と発見の名誉争いが起きたりするのはご愛嬌だが、コメディタッチでキャリア女性の熱意を後押しする映画である。

 

 

◎2023年3月18日『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け [DVD]』

☆☆☆☆セクハラ告発までのジャーナリズムの苦闘を描く

MeToo 運動を爆発させたNYタイムズの告発記事が出るまでの記者たちの苦闘を描いた映画だが、大部分は2人の女性記者がワインスタインのセクハラ被害者たちを探しだし、労を厭わず何度も連絡と面談を繰り返して説得し、ついには実名の告発までに至るドラマである。

有名監督の支配権力による女優や事務員へのセクハラ、レイプがいかに被害者の心を傷つけ、その告発が困難かがよくわかる。また、告発者の1人であるアシュレイ・ジャッドは本人が演じており、女優魂を感じさせる。

 

しかし、映画という制約からか、焦点が記者の苦労話とワインスタイン個人の告発に絞られ、法的・構造的な問題が言葉だけでスルーされている。

同時期に取材したニューヨーカーの『キャッチ・アンド・キル』(ローナン・ファロー著 レビュー済み)には、マスコミ上層部やエンタメ関連業界の構造的な男性支配とセクハラ隠蔽体質、さらには脅迫的な言動で示談を押しつけ被害者の監視まで行う法律事務所の問題まで詳しく触れられているが、この映画ではワインスタイン側の法律事務所の代表者は中立的な描かれ方をしており、女性の権利擁護で名を馳せながら被害者の告発を抑え込もうとする女性弁護士は一応登場はするものの注意しないとその役割が見えない。

問題をより深く理解するためには、原作や上記著作(いずれもピューリッツァー賞受賞)も読むべきである。

 

なお、邦題の「その名を暴け」には首を傾げる。「SHE SAID」は勇気を出して告発した女性を讃える含意だから、あえて訳せば「彼女の告発」だろう。

 

 

◎2023年3月15日『寒波 P分署捜査班』マウリツィオ・デ・ジョバンニ

☆☆☆☆☆ナポリに寒風は似合わない

ナポリを舞台にした刑事物語3作目で、イタリア好きには堪えられないシリーズである。

本作では寒風が重要な舞台設定となっているが、確かにナポリに寒風は似合わない。ローマよりも南に位置し、ナポリ湾を隔ててベスビオ火山を望む温暖で風光明媚な土地柄である。異例の厳しい寒風は、残虐な殺人事件の困難を極める捜査と、捜査が行き詰まれば署は閉鎖という圧力にさらされた署員の心象を象徴するものだろう。

物語の構成としては前2作同様、複数の事件捜査を並行させるが、本作では父親の娘に対する性虐待の告発という現代的問題にひねりを効かせてある。

署員たちの問題多き私生活が重要な横糸として絡めてあるのも最近の刑事物のお約束だが、家族関係を重視するイタリア人の気風がよく描かれている。

 

なお、翻訳には何箇所か疑問が残った。

・「二重殺人」は英語ならdouble murderだろうが、日本語としてはこなれない。複数殺人とか2人の殺人でよいのではないか。

・「ダブルエスプレッソ」はエスプレッソ・ダブル。

・アラゴーナ刑事が副署長を「大統領」と呼ぶ場面があるが、プレジデンテの直訳にしても違和感がある。

・オッターヴィアが「ルルドかメジュゴリエからレターが来たのか」と夫を傷つけるという記載があるが、どちらも聖母の奇跡が示された土地であり、訳註が必要だろう。

・「遠ざかるラーラを見つめるドクトル・ジバゴと同じく」という絶妙な比喩も映画を見た人ならピンとくるが、やはり訳註が必要か。

 

 

◎2023年3月13日『忠臣藏とは何か (講談社文芸文庫)』丸谷才一

☆☆☆☆☆あの忠臣蔵を御霊信仰で読み解く快著

丸谷才一氏ならではの博覧強記とうんちくが炸裂する快著(怪著?)である。ただ、歌舞伎好きには興味深い話が満載だが、歌舞伎や浄瑠璃の知識がないと面白さが半減するだろう。

「忠臣蔵」といえば、子供の頃にテレビで見た、吉良上野介を山形勲、大石内蔵助を山村聰が好演したドラマのイメージが強い。やはり武士道の忠義話の印象で、忠君愛国の時代ならともかく、今も毎年年末のテレビドラマの定番になったり、歌舞伎の代表的演目で人気を維持し続けているのが不思議だった。

しかし、本書では、冒頭で四十七士討ち入りの派手な火事装束の話やその「遊戯性」から始まり、江戸時代に人気を博した曾我狂言の解説が長々と続く。曰く、曾我兄弟の仇討ちこそ忠臣蔵の原型を成しており、それだけでなく仇の工藤祐経の背後にいる将軍頼朝を呪詛する含みがあるという。吉良の背後には生類憐みの令などの悪政を行う将軍綱吉がいて、浅野内匠頭の御霊を鎮める討ち入りは将軍と江戸幕府にも向けられた象徴的行為として江戸庶民の喝采を浴びたというわけである。

著者は討ち入りを仇討ちとして合理的倫理的に解釈するのに反対し、浅野内匠頭の「わけのわからない逆上」に対する畏怖の念を鎮めるという呪術的宗教的側面を強調する。それゆえ、処罰したのは幕府なのに、主君の吉良への遺恨を晴らす行為となるという。

こうした武士道の忠義話でない忠臣蔵論が、著者の文学史や浄瑠璃、歌舞伎の博識で裏付けられていくが、作家の想像力の飛翔は素晴らしく、世界各地のカーニバルにまで話は及ぶ。

知的刺激に満ちた著者会心の作であろう。

 

ちなみに、武士道倫理で有名な『葉隠』は、赤穂藩士は主君切腹後すぐ仇討ちに決起すべきだったと批判する。いわば結果の成否を度外視した心情倫理で、一族討ち死にした『阿部一族』(森鴎外)にも通じる。町人に身をやつしたり祇園の遊興で敵を欺いたりなどは、武士道ではないというわけだ。

しかし、こうしたバラエティに富んだ人間くさい物語があってこそ、浄瑠璃や歌舞伎の演目として後世の人気を博しているのである。

 

 

◎2023年3月12日『最後の決闘裁判 [DVD]』

☆☆☆☆「羅生門」のような構成だが視点の違いが微妙

妻を陵辱されたという訴えの真偽を神の審判である決闘に委ねるドラマだが、物語を三者の視点から三様に構成する点で映画「羅生門」を踏襲している。

しかし、後者のように事実認識の違いを際立たせるのではなく、同一事実に対する各人の心理的受け止めの微妙な違いを示すものであるため、同じシーンが繰り返される印象がある。

心理劇としては、有能だが女性関係にルーズで、女性が自分に好意を持って受け入れたと思い込むセクハラ男の心理や、乱暴で自己中心的な振る舞いで主君からも妻からも嫌われる夫など、現代的なテーマを盛り込んでいる。

中世の城砦や戦闘シーン、ノートルダム大聖堂建設中のパリの映像(CG)など、スペクタクル的にはよくできている。

 

 

◎2023年3月10日『工藤會事件』村山治

☆☆☆☆組織犯罪には警察と検察が本気で対決する必要 内容は実務専門家向け

「堅気には手を出さない」はずの暴力団が一般市民を次々と襲撃する異常な事件が、北九州市で連日のように報道されたことは記憶に新しい。

本書はその間の経緯と、それに対する警察・検察の苦闘を描いたものである。

ただし、大部分は刑事裁判の事件記録に依拠していると思われ、捜査の手法や公判対策などが詳しく書かれており、捜査や裁判にかかわる実務家向けの内容となっている。

 

まず、なんといっても強力な組織犯罪に対しては警察と検察が一致団結し、総力を挙げて対応すべきことが痛感させられる。当初の段階では警察と検察の間に不信感があったり、現場の組織だけでは対応しきれず、暴力団追放活動に協力した市民が逆に狙われて被害に遭った。その後、警察と検察の上部組織段階で協力態勢をつくってからは反転攻勢が始まり、組織のトップを逮捕し訴追する頂上作戦が展開される。域外からの応援も得て、被害者や元組員からの協力も得られるようになった。

頂上作戦を成功させるためには、犯罪を実行する手足となる組員と組織トップの共謀関係を立証しなくてはならないが、従前は共謀の直接証拠がないため実行犯しか処罰できなかった。これに対し、本件で検察側は、共謀共同正犯理論の進化により状況証拠のみで共謀を立証する作戦をとった。しかし、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の大原則の下で安易な共謀立証は許されない。状況証拠のみで立証するためには、膨大な作業と多数の協力者が必要だったことはいうまでもない。

 

他方、公判の被告側弁護人にはえん罪事件などで有名な人権派の刑事弁護人がついたが、こうした組織犯罪事件を受任する弁護人には葛藤があったはずである。共謀共同正犯理論の厳格な適用という点では刑事弁護活動の意義があるとしても、そのために暴力団の組織体質や「シノギ」活動まで弁護することになれば、弁護士の社会正義という点で疑問が残る。

一審判決で死刑判決を受けた被告人が裁判長を「生涯後悔するよ」と恫喝したのは大きなニュースとなったが、弁護人は頭を抱えたことだろう。

 

 

◎2023年3月7日『なぜ理系に女性が少ないのか (幻冬舎新書)』横山広美

☆☆☆☆理系だけではないジェンダーギャップ

OECD諸国の中で理系学生の割合が日本は最下位というショッキングなデータ示されるが、もちろん女性の能力の問題ではなく、社会的環境や教育の問題である。

女性の理系への壁を取り払う方策として、本書の第10章では次の3つの情報が重要だという。

 A:就職情報(理工系の就職状況はよい)

 B:平等社会情報(平等で自由に生きるため、女性の経済的自立は重要)

 C:数学得意情報(日本の女子生徒の数学の成績はとてもよい)

確かに、こうした情報を女子本人だけでなく親にも提供することは女性の理系進学意欲を高めるためには重要だろう。

しかし、本書でもBの情報は親にはマイナス(女性はそんなにがんばらなくてよいと考えがち)とか、中学女子の数学・理科嫌いは実は「装われたもの」である可能性がある(「女の子っぽくない」という性別役割意識)との指摘もある。親や社会環境の問題がやはり大きいのである。

 

ちなみに、本書では理系の問題が論じられているが、人文・社会科学でも同様の問題はある。

本書でも触れられているとおり、女性政治家の少なさは際立っているが、行政官僚も同様であろう。

司法界については、司法制度改革で女性の法曹界進出が期待されたが、法科大学院入学者で女性が34%程度、司法試験合格者は25%程度にとどまっている(なお、フランスでは司法界は女性多数だが行政官は男性多数で、行政優位社会のジェンダーギャップと言われている)。

人文・社会系についても同様の調査研究を期待したい。

 

 

◎2023年3月5日『作家の証言 四畳半襖の下張裁判 完全版』丸谷才一編

☆☆☆☆☆刑事法廷を席巻した著名作家たちの意気を感じる

法学部の学生なら憲法の授業で必ず学ぶ「四畳半襖の下張事件」だが、判決文以外に裁判記録を読むことはまずない。しかし、こうして作家たちの証言を中心とした裁判記録を読むと、実に驚くべき裁判をやったものだと感動する。

わいせつ文書販売罪による起訴が19732月、第1審判決が19764月で、起訴から判決まで3年以上の審理である。殺人事件などの重罪事件ならともかく、検察の求刑自体が罰金刑で判決も罰金刑の軽罪事件で通常これだけの期間がかかることはまずないし、裁判所が多数の作家を証人として採用することもない。

この事件の弁護人には砂川事件で駐留米軍違憲判決を書いた元裁判官の伊達秋雄弁護団長以下錚々たる弁護団がついたうえ、「特別弁護人」として作家の丸谷才一氏が登場して活躍している。特別弁護人とは専門的知識が必要となる事件で弁護人を補佐する者だが、よく裁判所が認めたものだと思う。やはり著名作家の野坂昭如氏が被告で、マスコミが注目する大事件となったためであろう。

 

それにしても、本書に登場する作家たちの錚々たる顔ぶれと、証言の多彩さは目を見張るものがある。

まず、被告人の野坂昭如氏が起訴状に対する意見で、被告人間の編集会議は「共謀」なのに裁判官3人の協議は「合議」という「法廷方言」はやめろと最初にジャブをかます。

特別弁護人丸谷才一氏の冒頭陳述は、作家・文学者の立場から、永井荷風作とされる『四畳半襖の下張』の文学的価値と表現の自由の重要さを格調高く論じる。証人トップの五木寛之氏は荷風の作品はわいせつの域に達していないと言いつつ、ロシア文学がソ連の言論統制で閉塞状況となっている例を挙げてわいせつ表現を規制することの人間精神にとっての害悪を強調する。井上ひさし氏は「戯作者」の観点から荷風作品のパロディーと笑いを指摘する。吉行淳之介氏は性と精神、人間性の観点の重要性を論じ、荷風作品は江戸戯作の伝統を踏まえ、偽善的な市民生活への冷笑と皮肉を込めて書いていると指摘する。開高健氏はタブーをつくることの愚かしさを禁酒法や北欧のポルノ解禁の例を挙げて論じる。さらに、石川淳氏に至っては、荷風作品を「わらひ」の伝統ととらえ、古事記のイザナギ・イザナミ2神の「みとのまぐわい」や天の岩戸前のウズメノミコトの裸踊りで八百万の神々が大笑いした物語にまで遡る深い洞察を開陳している。荷風の描いた世界は関東大震災で江戸文化が消滅する前の「まだ生きている花柳界」であるという田村隆一氏の指摘も興味深い。

こうした文学的香りの高い証言を質問で引き出す役目は特別弁護人である丸谷才一氏が担っており、時には質問自体が滔々と文学論を展開する場面もあるし、開高健氏とのやりとりなどはユーモラスな漫談のようである。

刑事裁判の審理があたかも著名作家による連続講義と対談のようになっており、傍聴席がどっと沸いたり、笑いが起きたりしたのではないかと想像する。検察官と裁判官はほとんど尋問をしていないが、よくこのような法廷を続けたものである。

関係者略歴によると、1947年生まれの金井美恵子氏を除く全員が戦前生まれであり、戦時中の言論統制の苦い体験を語っている。残念ながらほとんどの作家たちはすでに鬼籍に入ってしまったが、本書は検察官と裁判所に堂々と対峙した戦前・戦中派作家たちの意気を伝える貴重な記録といえよう。

 

なお、本書は作家の証言を裁判記録から再現したものであるが、復刊にあたり伝荷風の問題作がそのまま登載されている(「完全版」とあるが作家以外の憲法学者の奥平康弘氏や国文学者の吉田精一氏などの証言は収録されていない)。参考資料として起訴状や冒頭陳述、論告、判決等も収録されているが、巻末ではなく時系列に沿って起訴状から並べた方が臨場感があると思う。

 

 

◎2023年2月27日『新興国は世界を変えるか(中公新書)』恒川惠市

☆☆☆☆☆民主主義の後退と権威主義の台頭 日本はどう対応すべきか?

かつて「発展途上国」とか「低開発国」と言われた国家の中で、経済成長率が高く、かつ世界経済に占める重要性の大きな国々29カ国を「新興国」と特定し(その中には中国とロシアも含まれている)、その経済発展の理由と社会福祉制度の発展、民主化のゆくえと政治体制を検討し、その上で新興国が国際関係と世界秩序にもたらす影響を論じたコンパクトながら内容の濃い好著である。

あとがきによると、政策研究大学大学院を中心とした大規模な研究プロジェクトを踏まえたものとのことであり、随所に経済指標や世論のデータや図表が引用されている。

 

前半の新興国が台頭した事情については、グローバル経済との関わりで各国それぞれの政治的経済的要因が概観的に示されているが、ウクライナ戦争以降の現代的関心からいえば、なんといっても後半の権威主義的国家の台頭とその国際秩序に与える影響が重要である。

著者によると、1980年代から2010年頃までは「民主化の第三の波」が新興国にも続いていたが、2010年頃から逆転現象が起き、権威主義の度合いが大きくなったという。

ここで著者は政治体制変動の要因として「需要」と「供給」というカテゴリーを用いて各国の分析を行うが、わかりにくい用語である。この「需要」とは体制変動を求める国民世論と外圧、「供給」とは体制を支える軍隊・警察、官僚機構等の制度と支配イデオロギーと説明した方がわかりやすいだろう。

また、著者は民主主義の最低限の要件として、異議申立の自由、政治参加、少数派保護の基礎的制度の3つを挙げ、民主主義は「政権を握った者が自らの行動に制約を課す、きわめて特殊な体制」であると論じるが、確かに権力を握った者は権力を独占して批判勢力を抑える権威主義への誘惑に駆られやすいといえる。現代の民主主義国家は長い権力闘争の歴史を経て民主主義の諸制度が確立されたのであり、その特殊性は冷徹な認識として共有すべきだろう。

BRICSRはロシア、Cは中国である)などの新興国の台頭と権威主義への逆流現象により世界秩序は影響を受けざるを得ないが、著者はこれを従来の「自由主義的国際主義」からの逸脱と「国家主義的自国主義」への流れとして把握する。しかし、グローバル経済の進展の中で権威主義諸国にもそれを貫けない「限定」がつき、例えば中国は「核心的利益」と位置づけない分野では自国主義でなく国際協調主義を取っているという。そこに国際政治における民主主義と権威主義のせめぎ合いがある。

 

最後に、ロシアと中国という巨大な権威主義国家に接する日本は世界にどう向き合うべきか?

著者は最終章でこの点を論じるが、前提事実として重要なのは、日本の貿易相手国のうち欧米の比率が低下する一方でASEAN諸国などの新興国の比率が増大し、中国が最大の貿易相手国となっているという事実である。

こうした中で日本が自由主義的国際主義を貫くために、著者は、欧米諸国やオーストラリアとの連携を強める一方で、新興国が(イランやトルコのように)権威主義化しないように働きかけることを重視する。具体的には、日米同盟の強化やNATOとの連携、防衛予算の増加、新興国への支援などの政治問題にも言及されている。悩ましい問題だが、理念論ではなく新しい世界情勢を踏まえた現実論として議論すべきであろう。

 

 

◎2023年2月25日『八甲田山 <4Kリマスターブルーレイ>』

☆☆☆☆☆豪華キャストに壮絶なロケ、何度見ても飽きない力作

昔、友人仲間で十和田湖と八甲田山系を周遊旅行したが、その際、八甲田雪中行軍遭難資料館を訪れて当時の資料や生還した軍人たちの写真(凍傷で手足が切断された人が多かった)を見て強い印象を受けた。その後、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』を読み、この映画を見たが、何度見てもよくできた力作である。

なんといっても高倉健と北大路欣也をはじめとする豪華キャストが素晴らしい。高倉健はカッコよすぎて痺れるほどだが、北大路欣也も横暴な上官の下で苦悩する下士官の難しい役を力演している。その上官役の三國連太郎は旧帝国陸軍の階級秩序と強引さをあくの強い演技でよく演じている。往年の名優たちで固めた脇役の中では、村長(むらおさ)役の加藤嘉が実に存在感があっていい。女優陣では軍人の妻を演じた栗原小巻と加賀まりこはさすがだが、案内人役の秋吉久美子のまるで少女のような初々しさが印象的である。

ロケ地である八甲田山系や十和田湖の雄大で美しい景色がふんだんに使われているのも素晴らしい。吹雪の八甲田山中の行軍シーンはすごい迫力だが、どのように撮影したのだろうか?

 

遭難の経緯については、地元の案内人を三國連太郎演じる大隊長が追い返した場面が印象的だが、雪中行軍途中の馬立て場で気象の急激な悪化を理由に行軍中止を進言される場面のほうが重要であろう。いかなる登山家であろうと冬山の気象悪化には勝てない。行軍を継続した北大路欣也演じる神田大尉の判断ミスが大きいといわざるをえない。

 

 

2023222日『名優が語る 演技と人生 (文春新書)』関容子

☆☆☆☆☆きら星のような演劇人たちがすさまじい撮影現場と裏話を語る

仲代達矢と岩下志麻のような大御所対談から、今をときめく西島秀俊と梶芽衣子の異色対談、さらには柄本明や渡辺えりなどのいぶし銀のベテラン俳優たちまで、きら星のような演劇人16人が下積み時代から思い出に残る舞台や映画作品の裏話を対談形式で自由に語っており、演劇ファンには興味の尽きない本である。

 

冒頭の仲代・岩下対談では、映画『人間の条件』の撮影で主人公梶を演じた仲代が「向こうから来る(実物の)戦車の下に潜り込んでくれ」と指示されたとか「10日間で6キロ痩せろ」と言われたといった昔のすさまじい撮影現場の話に目が点になる(確かに、この映画ではノモンハン戦争で進撃するソ連軍の戦車の下に一兵卒の梶が潜り込んで爆弾を仕掛ける間一髪の場面があったし、最後に梶が飢えて倒れるシーンは鬼気迫る演技だった)。また、萬屋錦之介や勝新太郎、市川雷蔵といった往年の大スターたちと毎晩祇園に行ったなどのエピソードでは日本映画全盛期の華やかな雰囲気を感じる。

吉行和子と小林薫の対談では、早稲田小劇場や唐十郎らのアングラ演劇の活気と自由さに感銘を受けた。吉行は元は民藝で15年間活動してキャリアを積んでいたが、唐十郎の脚本に惹かれて民藝を出たという。そのとき宇野重吉からは「ルンペンになる」と止められたが、最終的には吉行の選択を尊重して送り出してくれたというから、宇野もさすがである。

歌舞伎や文楽の話題も随所に触れられ、対談にも松本白鴎や野村萬斎、桐竹勘十郎といった人々も登場するが、演劇というジャンル内で歌舞伎や能、文楽といった古典芸能とも太い交流のパイプがあることを感じさせる。松本白鴎(もと幸四郎)は鳳蘭との対談では、歌舞伎役者としてよりもミュージカル「ラマンチャの男」の俳優として語っている。

 

関容子さんの対談コーディネートはツボを押さえており、各対談の注釈も丁寧で戦後日本演劇史の基礎が理解できるようになっているのはうれしい。

 

 

◎2023年2月20日『信仰の現代中国:心のよりどころを求める人びとの暮らし』

☆☆☆☆宗教の否定から管理/利用へ プロテスタントの増大は対抗軸となるか?

1990年代後半から2000年代初め頃まで、何度か中国各地を訪れ、シルクロードの仏教遺跡にも足を運んだが、敦煌莫高窟のような素晴らしい文化遺産は別として、都市の仏教寺院や道観は建物がけばけばしく彩色され、仏像や関羽像なども真新しく、芸術性にはほど遠い粗雑な造りなのに幻滅したことを覚えている。しかし、それにもかかわらず参拝客は多く、大きな線香を買い求め、地面に倒れるようにして真剣に祈りを捧げていたのが印象的だった。

本書はそうした中国民衆の精神生活を、現地密着型の取材により多様な観点から切り取って描いたものであり、巨大な人口を擁する中国民衆の混迷する精神世界を理解する一助となる。

 

中国の宗教的文化的混迷が始まったのは19世紀に欧米諸国が中国に進出し、清朝の支配が揺らぎだしてからであり、それが清朝崩壊と五・四運動でさらに進んだという。中国革命当初は共産党は伝統宗教や文化を保護する立場だったが、毛沢東の文化大革命で一挙に全否定され、仏教寺院や道観はほとんどが破壊された。文革後は改革開放政策で、いわばイデオロギーなき拝金主義のような時代となり、本書中にも身内や知人以外になにも信用できない縁故主義が蔓延して社会全体が深刻な腐敗に侵されたとされる。

こうした精神的枯渇と混迷状況の中で、伝統宗教である仏教や道教が復活し、民衆レベルで信仰を広げたことは理解しやすい。また、江沢民以降の共産党指導者が宗教による社会統合と倫理の確立を期待したことも、その傾向を後押しした。例えば、胡錦濤は「和諧社会」をスローガンに掲げて、伝統宗教や文化を取り入れ、さらに習近平は地方官僚時代に臨済寺を保護して仏教復興を推進している。

しかし、国家による伝統宗教保護政策は、宗教の管理/利用と表裏一体であり、公認宗教の役員は政府の宗務局が任命している。例えば、カトリックの司教任命はローマ教皇が行うものだが、中国の司教は当局の任命を教皇が追認する(現代版「聖職叙任権闘争」である)。また、共産党の権威に反抗した宗教に対しては、法輪功などのように過酷な弾圧を受ける。

他方、本書ではこうした政府の管理に入りきらない宗教として、キリスト教のプロテスタントを紹介している。プロテスタントは中国でもっとも急増している宗教であり、信徒は5000万から6000万人に達するという。これは仏教・道教の2億人に次ぐ大勢力である。本書で紹介されている成都の王怡氏は元人権派弁護士だったが、中国内で人権派弁護士の活動が困難となってからは、政府の管理下に入らない「家の教会」の牧師として広く影響を与えているという。神と直接向き合うプロテスタントが良心の自由を主張すれば、当然共産党の権威と衝突する可能性がある。プロテスタント勢力の伸長が共産党支配の対抗勢力となるのかどうか(訳者あとがきによると、著者が懸念したとおり上記の王怡牧師は本書刊行後に逮捕され、教会も閉鎖され、9年の禁固刑を言い渡されたという)。

 

 

◎2023年2月15日『東京藝大ものがたり』あららぎ菜名

☆☆☆☆☆反時代的ともいえる苦学生の芸大受験に涙

芸大受験となると幼い頃から英才教育を受け、有名教師についてレッスンを重ねる裕福な家庭環境のイメージだが、そういう芸大受験の先入観を覆す苦学生の受験日記である。

確かに、著者の父は芸大出身の陶芸家で、その点では恵まれた環境にあるが、親子二人三脚で「お受験」というのとは全く違い、父親は愛情を持って見守ってはいるが突き放したような感じである。

しかも、経済的にも浪人生活に親の支援はなく、アルバイトで高額の予備校費用を稼がなければならない。ラーメン屋の店員などの様々なアルバイトをしながらの苦学生活は涙ぐましいが、悠々と都心の有名予備校に通うライバルとのハンデは大きい。三浪もする間にうつ状態のスランプに陥ったことなども生々しく描かれており、身につまされる受験生も多いだろう。

少子化で浪人生が激減し、親の学費援助が当然視される風潮もある中で、実に反時代的な苦学の受験生活だが、それゆえに著者の絵を描くことへの強い愛情と清々しい潔さを感じさせる体験記である。

芸大時代の続編も期待できそうだ。

 

 

◎2023年2月9日『古代ギリシアの民主政 (岩波新書)』橋場弦

☆☆☆☆☆民主主義の理念型としての古代ギリシア 「衆愚」の面目を一新

古代ギリシアの民主政について、従来の理解を一新させる本である。

 

著者は、「順ぐりに支配し、支配されること」というアリストテレスの民主政の定義をまず引用した上で、その成立要件として、①参政権が広範囲の自由人に平等に与えられていること、②一人一票の原則、③民会が最高意思決定機関であること、④役人の抽選制、⑤裁判権が市民団に与えられていることを挙げている。

これは衆議一決的な素朴なものではなく、高度で理念型的といってよい制度であるが、実際に当時の残された史料(碑文や青銅版、パピルス文書)から、アテナイをはじめとしたギリシア都市国家の民主政はほぼこの要件を実現していたという。本書では、こうした民主政の諸制度が具体的実証的に描かれている。例えば、市民が訴人と裁判員となる裁判の法廷弁論が150編も古典作品として残されているというから興味深い。また、有名な「陶片追放」の陶片は多数発見され研究されているが、陶片追放された市民は市民権を奪われず10年で帰国が許されたことから、有力者間の政争がエスカレートするのを防止するための制度だったとされる。

もちろん、このような民主政が最初から実現していたわけではなく、当初はホメロスの『イリアス』に描かれるような貴族の寡頭政治が行われ、次いで僭主のポピュリズム政治を経て民主政へ移行する。ポリスが「戦士共同体」であることから、民主政の担い手は「平民戦士」となるが、まずは裕福になった平民が武具を自弁して重装歩兵となり、次にペルシア戦争の勝利を決定づけたサラミスの海戦で戦艦の漕ぎ手として戦争に参加した下層市民も発言力を得る。こうして、奴隷を所有する裕福な上層市民だけでなく、中下層の市民も対等な発言権を有する民主政が確立したのである。

 

しかも、こうした民主政はアテナイだけでなく、証拠があるだけでも50以上のポリスで実施された。期間も、紀元前508年のクレイステネスの改革によるアテナイ民主政の始まりから、ペリクレス時代の繁栄を経て、ペロポネソス戦争のアテナイ敗北で一時は寡頭政治となるが、その後復活して生き延び、ローマがアテナイを征服する紀元前87年まで命脈を保つのである。著者は、ペロポネソス戦争敗北によりアテナイの海上帝国(デロス同盟)が崩壊したことで諸ポリスが対等の関係となり、民主政の最盛期を迎えたと考えている。

 

実は、こうした民主政の評価はトゥキュディデスやクセノポンといった歴史家、あるいはプラトンの著作、ソクラテスの刑死などにより、従来は衆愚政治といったイメージが強かった。しかし、著作を残した歴史家やプラトンは寡頭政治を担ったエリート階層出身でありイデオロギー的偏向があること、ソクラテスも民主政の制度に対する批判者であり、その弟子たちがペロポネソス戦争後の寡頭政治の中心人物となったことなどが挙げられている。なお、『ソクラテス裁判』(イジドア・F・ストーン)などの近年の研究でも、同様の指摘がなされている。ただ、ソクラテスはペロポネソス戦争の時期に混乱した民会の議長を務めており、自らは民主政に参加していたというのが興味深い。

ペロポネソス戦争の期間、アテナイの市民は居住する地区を捨てて城壁内に密集して居住させられ、戦死者以外に疫病で多数の死者が出た。これが市民の異常心理をもたらし衆愚的な事態を招いたと著者はいう。まさに「戦争は民主主義の敵」なのである。

 

21世紀の現代、民主主義はポピュリズムや権威主義の台頭により混迷の様相を来している。

古代ギリシアの長い民主政の伝統に比べれば、現代民主主義はようやく第2次世界大戦後に確立し、まだ70年の歴史しかない。

近代の代表制民主主義は古代ギリシア人から見れば寡頭政治にあたると著者はいうが、ポリスの公共性に市民が主体的に参加する民主政はもっと見直されてよいと思う(例えば、地方自治や裁判員裁判など)。

 

 

◎2023年2月5日『千年の歓喜と悲哀 アイ・ウェイウェイ自伝』艾未未

☆☆☆☆☆芸術家親子の「チャイナ・オデッセイ」-苦難に抗して自由を求める不屈の精神に感動する

日本ではあまり知られていないが、著者艾未未(アイ・ウェイウェイ)は国際的に有名な現代美術のアーティストであり、その父艾青(アイ・チン)は中国では著名な画家・詩人である。

本書は著者が自らの子のために父親と自分の隔たりを埋めようとして書かれたものとされるが、この親子の歴史はまさしく現代中国における知識人・芸術家の苦難の歴史を語るものとなっている。

 

著者の父はフランス留学からの帰国後、日中戦争の戦禍を避けて中国国内を転々と移動し、さらに周恩来の勧めで延安の共産党根拠地に「長征」して革命に参加したが、新中国成立後は「反右派闘争」や文化大革命の激動にもまれ、東北部の僻村や新疆ウイグル自治区の辺境での生活を余儀なくされる。子どもだった著者も父親とともに苦難の生活を送るが、成人後はニューヨークでの留学と放浪生活を送り、帰国後は政府と対立しながらの芸術活動で、とりわけ四川大地震で多数の学校が倒壊して数千名の子どもが死んだ欠陥建築被害を粘り強く調査・追及したり、それをアートで告発する活動を国内外で展開したりする。まさに広大な中国と世界を転々とする現代版「チャイナ・オデッセイ」なのである。

なお、本文中の随所に艾青の詩や著者の作品、デッサンのほか、歴史的にも貴重な写真が多数掲載されている。

 

すでに楽黛雲(ユエ・ダイユン)の『チャイナ・オデッセイ』(1995年・岩波)でも政治に翻弄される中国知識人の苦難が描かれていたが、本書では著者の父が毛沢東に直接芸術家の自由の重要性を訴える場面が描かれている。しかし、結局、芸術家は共産党に従い革命に奉仕すべき「芸術労働者」のように扱われる。特に悪辣なのはいわゆる「百花斉放・百家争鳴」の宣言で、毛沢東はなんでも思ったことを自由に言ってよいと知識人に呼びかけながら、後で手のひらを返したように右派のレッテルを貼って弾圧した。著者はこれを「計画的な罠」だったと断じているが、独裁者の気まぐれであっても本質は変わらない。その後の文化大革命に至っては、新しい闘争をつくりだす方法として世界を「カオスの中に投じる」大規模な扇動が行われ、周知のとおり知識人だけでなく多数の人々が暴力的に糾弾され、作家の老舎らが殺された。

毛沢東の死とともに文革は終結したが、その後の鄧小平時代以降も中国の政治構造は変わっておらず、自由を求める学生や知識人の活動は天安門事件で暴力的に圧殺され、本書の後も香港の「一国二制度」の自由が事実上否定されている。本書でも触れられているが、獄中でノーベル文学賞を受賞した劉暁波氏が肝がんで十分な治療も受けられないまま死んだことは記憶に新しい。

唯一、希望が見えるのは著者のような自由を求める活動を続ける芸術家とそれを支援する人が多数いることである。著者が長期間身柄拘束されたときは世界的に抗議が広がり、また、不当な「脱税事件」の抗告訴訟では短期間に多額の支援金の寄付が集まったという。

著者は自由な言論を抑圧しようとする政府に対し、インターネットやツイッター、さらにはドキュメント制作などの様々な手法で対抗し、長期間の身柄拘束時にも公安当局に堂々と対峙して不利な供述や虚偽の自白には応じない。まさしく不撓不屈の闘争というべきである。本書では、著者が長期間身柄拘束された体験がルポルタージュのように詳細に記録されているが、目隠しをされてどこかわからない収容所に連行される様子はまるでスパイ映画のようだし、その後の公安当局の型にはまった対応はまるでカフカの『審判』のようだ。しかし、これは映画でも小説でもなく、中国で現実に起きていることなのである。

 

最後に、本書の表題となった、著者の父が古代シルクロードの廃墟を訪ねて書いた詩を引用する。

  千年の歓喜と悲哀、出逢いと別れは

  一片の痕跡すらない

  今生きている者は、全力で生きねばならぬ

  大地が記憶してくれると、望んではならぬ

ここには精神の自由を求める芸術家の厳しい覚悟が示されている。

 

 

◎2023年1月30日『芙蓉の干城 (集英社文庫)』松井今朝子

☆☆☆☆☆「軍人さんは、アカよりもたちが悪い・・・」

昭和の戦争前夜を扱った歌舞伎座(文中では「木挽座」)三部作の2作目である。

最後の『愚者の階梯』、最初の『壺中の回廊』と読み進めてきたが(いずれもレビュー済み)、歌舞伎ファンや歴史好きには興味深い歌舞伎ミステリーである。

レビュータイトルは食わせ者の笹岡警部の漏らした言葉だが、満州国建国と国際連盟脱退、さらには五・一五事件と続く当時の危ない世相は、刑事にさえここまで言わせたとしてもおかしくなかっただろう。

実際、本文中に引用される「ゴーストップ事件」(1933年)は、大阪の天六交差点を信号無視して横断した軍人を交通係の巡査が派出所に連行したところ抵抗されて喧嘩となったというもので、軍が「皇軍の威信に関わる」として警察に謝罪を求めたことから、軍部と警察(内務省)の対立にまで発展した。

 

本書の物語は、主人公桜木治郎の妻の従姉妹の澪子が木挽座で見合いをするところから始まるが、見合い相手の軍人が昭和維新をめざす青年将校で、その支援者と愛人が同日の観劇直後に死体で発見されるという偶然から澪子と主人公が事件解明に関わっていくという筋立てである。

戦争前夜の世相を背景に、青年将校を支援するいかがわしいフィクサーと歌舞伎役者を絡めたミステリーはなかなかよくできている。

また、この物語でも稀代の女形荻野沢之丞が物語の進行に重要な絡み役として登場するが、その養子宇源次、さらにその子の藤太郎ともども妖艶な舞踊が見事に描かれ、歌舞伎女形の魅力に魅せられる。

タイトルの『芙蓉の干城』(ふようのたて)の意味は最後に明らかにされるが、「干城」(かんじょう)とは元来は皇帝を守る武士や軍人のことで、上記の青年将校はまさに「皇国の干城となる」と言い残して大陸へ旅立っていく。ちなみに、西南戦争の政府軍側で熊本城を死守した谷干城は「たにたてき」と読む。

 

澪子と青年将校が銀座の資生堂パーラーや日比谷公園の松本楼でデートする場面は、場違いな感じながら昔の白黒映画のシーンのようで面白く感じたことを付記する。

 

 

◎2023年1月27日『歴史の逆流 時代の分水嶺を読み解く (朝日新書)』長谷部恭男他

☆☆☆☆☆政治学、憲法学、歴史学の「学知」が現代を斬る

杉田敦氏は政治学、長谷部恭男氏は憲法学、加藤陽子氏は歴史学(日本近現代史)の知る人ぞ知る代表的研究者である。長谷部氏は衆議院憲法審査会で与党推薦参考人ながら安保法制を憲法違反と明言して話題となり、加藤氏は先頃の日本学術会議委員推薦拒否事件の当事者となったことは記憶に新しい。

この3人が現代日本の政治状況からウクライナ戦争、安倍国葬問題などのホットな話題について、縦横無尽に語り合う鼎談となれば、内容は高度だが面白くないわけがない。

杉田氏の議論では、日本の最大の政党は一貫して「無党派層」であり、日本国民は政党政治を信用していないという指摘、加藤氏の議論ではロシアのウクライナ侵攻は日本の1937年頃の中国侵攻とそっくりという指摘などの歴史学者らしい観点が興味深い。

 

しかし、最も切れ味鋭い学知を示しているのは長谷部氏であろう。

私の個人的関心から言えば、ウクライナ戦争と世界の反応をホッブズとルソーの国家論、カントとヘーゲルの歴史哲学の対立で読み解く視野の深さに感心した。権威主義的国家であるロシアから危険を感じた国民が脱出するのはホッブズ的であり、他方、民主主義国家をめざすウクライナが徴兵のために市民を拘束するのはルソー的(社会契約の一般意志論)である。あるいは、価値観や歴史観の違いを認めて平和共存をめざすのはカント的(理性の限界の自覚)であるのに対し、闘争を乗り越えて民族の歴史的使命の実現をめざすのはヘーゲル的(ただし、ヘーゲルの歴史哲学は自由の理念の実現をめざすものだが)ということになる。21世紀型の新しい戦争といっても、近代の社会哲学や歴史観の対立の射程に逆戻りしているわけであるが、不戦条約以降の侵略戦争違法化の到達点は議論の共通理解となっている。

ロシアとプーチン政権に対する長谷部氏の見方は極めて厳しく、選挙は名ばかりの独裁国家で、憲法は「フェイク憲法」であるとまで断言している(言葉の端々に強い嫌悪感が感じられる)。

 

現代日本の政治状況については、昨今の安全保障をめぐる「核共有」や「敵基地攻撃能力」の矛盾に満ちた危うさや、政治主導といいながら決定の説明をしない政治家といった問題を三者三様に鋭い視点から問題提起されているが、「行政権力の暴走を、無関心な国民が傍観するという流れ」(杉田)をどう止めるかという処方箋は明確に示されないのが悩ましいところである。

 

 

◎2023年1月25日『壺中の回廊 (集英社文庫)』松井今朝子

☆☆☆☆☆梨園を舞台にしたミステリー 著者の歌舞伎への愛が感じられる

三部作最後の『愚者の階梯』を先に読んだが、ミステリーとしてはこちらの方がよくできている。

舞台は歌舞伎の殿堂である「木挽座」、といえばモデルは歌舞伎座しかないのだが、関東大震災後に建築された歌舞伎座がよく描かれており、また、大衆の人気を博していた浅草の映画館や新進の築地小劇場にも触れられており、大正から昭和にかけての東京の演劇界の雰囲気が感じられて興味深い。

とりわけ、歌舞伎役者の階級社会が詳しく描かれているが、こんな感じである。

「歌舞伎役者には江戸の昔から名題、相中、中通り、下立役といった階級があり、明治になってそれが名題、名題下、上分、相中、新相中の五階級になったが、国家が厳然と定めた等級も別に存在する。それは義務づけた納税額による等級で、一等から八等まで分かれていた。」

現在でも、梨園の名家の御曹司の襲名披露は先頃の市川團十郎襲名のように賑々しく行われているが、階級制度はなお健在なのであろうか。

こうした梨園の階級制度と格差社会を打ち破るべく、当時の労働運動の波が歌舞伎座にも押し寄せ、幹部役者も巻き込んだ労働争議に発展しそうになることが事件の様相を複雑にし、ミステリーを面白くしている。

 

全体を通じて作者の歌舞伎への愛が感じられる作品となっているが、末尾の桜木治郎の独白は余韻の深いものである。

「喧騒に満ちた猥雑なまでに活気の漲るあの場所は、一方で滅入るほどに狭苦しくて、埃っぽい、饐えた臭いの澱んだ空気がこもっているのだ。それなのに皆なぜあんな場所に留まって、そこから出て行こうとしないのか、ここで見ていると実に不思議な気がしてくる。

だが己れの出番が来てちゃんと役を果たすまでは、皆そこから出てはならない、それが芝居の約束事なのである。」

歌舞伎の劇場と芝居について述べたこの言葉は、人生そのものの隠喩であろう。

 

ちなみに、著名な狂言作者の末裔で坪内逍遙の弟子とされる主人公の桜木治郎は、あの河竹黙阿弥の養子である河竹繁俊がモデルであろうか。今年は河竹黙阿弥没後130年で、新年から多数の作品が上演されていることを付記する。

 

 

◎2023年1月24日『カウンセラーとしての弁護士』デビット・バインダー他

☆☆☆☆☆弁護士実務におけるインフォームドコンセント

「依頼者中心の法実務」を説いた労作である。

400頁を超えるボリュームであるが、わかりやすくするために実例紹介や問答形式が随所で用いられているためで、読み進めるのは困難ではない。

本書の初版は1982年であり、当時はアメリカでも「依頼者中心の法実務」は弁護士実務としては異端だったという。多くの弁護士は、「何が依頼者にとって最善の結果であり、どのようにそれを実現するかは弁護士が判断すべきである」とする伝統的立場だったというが、いわば専門家のパターナリズムである。

すぐに想起するのは医療の世界で、近年、「患者の権利」あるいは「自己決定権」が強調され、インフォームドコンセントが重要な原則として確立された。すなわち、患者に病状と治療方法について十分な説明をしたうえで、患者の同意を得て治療方法を選択する。専門家である医師を信頼して任せるというのではないのである。

 

本書で展開されている「依頼者中心のカウンセリング」もまた、依頼者の主体性を尊重し、依頼者が十分に納得したうえで法的手段を自律的に決定することをめざしている。そのために、依頼者からのリスニングの方法やインタビューのノウハウが詳細に事例を交えて展開されていく。

実務家として興味深いのは、第8章の「難しい状況下での対応」であり、要領を得ない依頼者や敵対的な(怒っている)依頼者、復讐心に燃える依頼者、嘘つきの依頼者といった、弁護士の多くが出会う悩ましい事例である。例えば、要領を得ない話を長々とする依頼者に対し、本書はまずは共感を示すという方法を提示する。これは実は難しいことで、忙しい弁護士は要領を得ない話にイライラして遮ったり、こうではないのかと逆提示したりするが、それでは依頼者を怒らせる結果になりかねない。

 

日本で法科大学院が創設された頃、関西の私大ロースクールのローヤリングの授業で模擬法律相談を見学させてもらったことがあるが、このときは医学部から講師を招請してコメントを求めていた。医学部でも学生に模擬問診を行わせるそうだが、患者を見ないで病気を見ようとする姿勢がまず批判されるという。つまり、自分の知っている病気の類型に患者の訴えを当てはめようとする姿勢である。これでは患者の本当の病状が把握できないからである。法律相談も同様であり、弁護士が自分の知っている法律知識の類型に依頼者の訴えを当てはめるのではやはり問題の解決にならない。まずは依頼者の悩みを聞いて共感することが重要なのである。

 

このように弁護士実務においてもカウンセリングは極めて重要なのだが、実は本書で十分触れられていない点として、《カウンセリングの限界》がある。河合隼雄さんが心理療法について書いていた本の中で、カウンセリングを受ける患者がカウンセラーの力量で治療できるかどうかを見極めるという指摘があったと記憶している。法律相談も同じで、たとえ法律問題として扱うことが可能であっても、相談者の心の悩みや性格の偏りが弁護士の手に負えない場合は当然あり、うっかり受任してしまうと依頼者とのトラブルに巻き込まれることになる。そうした限界の見極め方についても書いてほしかった。

 

 

◎2023年1月21日『真珠湾の冬 (ハヤカワ・ミステリ)』ジェイムズ・ケストレル

☆☆☆☆太平洋戦争をはさむハードボイルドなスパイ小説

「真珠湾」と表題にあるので、真珠湾攻撃をアメリカ側から描いた歴史小説かと思ったが、真珠湾攻撃や日米開戦の推移自体は背景的に描かれているだけで、物語は日米開戦をめぐる情報戦に巻き込まれて起きた殺人事件とその捜査、犯人追跡が中心となっている。

ただし、ミステリーというよりもハードボイルドなスパイ小説に近く、007やミッション・インポッシブルを連想させる。

 

小説の見どころは、主人公が時代の激動に巻き込まれて、時間的にも空間的にもスケールの大きな物語に展開されているところである。

時間的には、事件が真珠湾攻撃の直前に起き、戦争による中断をはさんで戦後まで事件の捜査が続く。

空間的には、ハワイで起きた殺人事件を追って、太平洋の島々から香港へと主人公の犯人追跡がなされるが、日米開戦により香港で捕虜となった主人公が日本へ送られ、戦後にハワイへと帰還する。当時の太平洋の移動手段は「クリッパー」と呼ばれる水上飛行機で、ホノルルからミッドウェー、ウェイク、グアム、マニラと島々を中継して何日もかけて香港へ行くのだが、ジェット機で行く今日とは隔日の感がある。

 

このように主人公の数奇な運命がダイナミックなドラマとして描かれ、読者の興味を惹きつける仕掛けとなっている。

なお、主人公はハワイはもとより行く先々で女性と出会い、ジェームズボンドのようにモテモテのロマンスとなるが、これもハードボイルドのお約束であろうか。

 

 

◎2023年1月15日『愚者の階梯 (集英社文芸単行本)』松井今朝子

☆☆☆☆歌舞伎座を舞台に戦争前夜の世相を描く

昭和10年の「満州国皇帝」溥儀の初来日と歌舞伎観劇、天皇機関説事件といった二・二六事件前年の戦争前夜(あるいは初期)の世相を背景にした時代小説である。

劇場の舞台裏の大道具や舞台下の仕掛けが用いられているところは『オペラ座の怪人』を連想させるが、連続殺人事件のミステリーというよりも天皇機関説事件に象徴される暗い世相が主題となっているようだ。

歌舞伎十八番の『勧進帳』の弁慶の台詞が「不敬」に当たるとは荒唐無稽の極みだが、著者によると実際に戦時中は勧進帳の台詞が書き換えられていたという。

しかし、著者はこの導入部の事件を天皇機関説事件と重ね合わせて描いており、当時の通説であった美濃部達吉東大教授の国家法人説と天皇機関説が「不敬」と糾弾された荒唐無稽さと、にもかかわらずそれがほとんど反対も抗議もされずに通用していく戦争前夜の世相の恐ろしさを強調しているのである(著者インタビューでは先般の学術会議委員任命拒否事件を念頭に置いているとのこと)。

著者は、帝国陸軍の戦勝に浮かれる人々に対し、「戦争というのは常にあっけなく始まるんだよ。始まったら最後だれも止められない。始める連中は、あとのことなんか何も考えちゃおらんのさ」という宇津木のシニカルな言葉を対置しているが、これが愚者たちが梯子を転げ落ちていくという本書のモチーフにつながっていくのである。

 

なお、本書の舞台となる築地の「木挽座」は歌舞伎座、関西に本拠を置く興業主の「亀鶴」は松竹、その社長の「大瀧」は松竹創業者の大谷竹次郎を容易に連想させるが、モデルとフィクションの境が気になるところである。

 

 

◎2023年1月12日『日本に住んでる世界のひと』金井真紀

☆☆☆☆☆出身国も経歴も多様な20人のインタビュー 移民、難民は我々の隣人

街中に外国の人々を見かけるようになって久しい。

私自身、行きつけの中華料理店では台湾人夫妻、ピザ屋ではイタリア人の店主となじみになっているし、コンビニではアジア系の店員をよく見かける。

しかし、こうした人たちがどのような経緯で日本に来て、母国の家族がどうしているのかなどはほとんど知らない。

 

本書は、出身国も経歴も実に多様な20人の人々へのインタビューで構成されている。

目次を見てわかるように、北マケドニアとかモルディブとかアルメニア等々のあまりなじみのない国の人々も多く、そうした国々の実情が触れられているのも興味を引く。

感心するのは、これらの人々の大胆な行動力と自由な生き方である。文化も宗教も異なる日本に来るのも大変なことだろうに、日本社会に苦労を厭わず飛び込み、アルバイトを掛け持ちして故郷に仕送りする。

冒頭の北マケドニアのペレさんは、本格的なチェリストでありながら上野公園で大道芸でチェロを披露する(東京都では大道芸に厳しい資格審査があるとは知らなかったが)。また、中国の内モンゴルから来たエンゲルさんは、東京の御徒町で宝石商を起業したかと思うと、知り合いのケーキ屋さんの経営を引き継いだりする。とにかく、移民してくる人々はリスクを恐れずに行動する力がすごいのである。その大胆で自由な生き方に、学歴や外聞、ムラ的社会のチマチマとした規範に閉塞している日本人には学ぶことが多いのではないか。

 

もちろん、ミャンマーや東ティモールなどの圧政や内戦を生き延びてきた人々は想像を絶する苛酷な体験を語っているし、その背景に欧米のみならず日本も無縁ではないことがわかれば、移民受け入れや難民救済への理解も深まるはずだ。コンゴのジャックさんのように軍事独裁政権で反政府政党のメンバーとして手配され、家族を惨殺された証拠を示しても難民認定されない日本の現状(難民認定率1%未満!)はもっと広く知られ、改善されるべきだろう。

 

本書はこうした日本で暮らす世界の人々の実情を生き生きと紹介していることに加え、人々の個性をよくとらえた著者のイラストが秀逸で、本書全体を親しみやすいものにしている。

 

 

◎2023年1月6日『地図と拳 (集英社文芸単行本)』小川哲

☆☆☆☆☆満州を舞台にした大河小説 建築と都市計画という視点が斬新

この著者の本は初めて読むが、600頁を超える大作である。

巻末の参考文献を見ると満州と日中戦争に関する文献だけでなく、建築と都市計画に関する文献も含め膨大な資料を渉猟した労作であることがわかる。

 

物語は日清戦争後の1899年の序章から戦後の1955年の終章まで、編年体の歴史書のように時系列で満州を舞台としたドラマが語られる。

この時代の満州は、日本から見れば、戦前の旧日本帝国が日清日露戦争を経て満州開発に着手し、ついには満州国の設立に至る経緯と、日中戦争から太平洋戦争へと戦火が拡大する中で満州がうち捨てられていく過程であり、中国側から見れば、ロシアに次いで日本という外国勢力の支配に抗する民族解放闘争と中国内の国民党と八路軍の国共内戦が展開していた激動の時代である。

それゆえ、従来は<戦争と民衆>あるいは<侵略と抵抗>という視点で歴史や小説が描かれることが多かったのではないか。

これに対し、本書は「地図と拳」という表題の視点で描かれている。「拳」とは軍隊と戦争のことであるが、「地図」とは未開の土地を開発する都市計画とそれに基づく建築を意味している。もちろん、都市計画と建築といえども旧日本帝国の支配政策の一環であり、日本の支配が失われると破棄される運命となる場合もあるが、その土地の風土と民衆に適った都市計画と建築であれば日本の支配が失われても残る可能性がある。このあたりはいわば超時代的でコスモポリタンな建築家の夢想とでもいうべきかもしれない。

 

本書に登場する人物の中には、大日本帝国のイデオロギーを体現した憲兵も配されているが、主たる登場人物はイデオロギー的には比較的自由な学究肌の人物が多い。

 実際にこのようなイデオロギー的に自由な人材が満州開発にかかわっていたのかは疑問であるが、都市開発と建築という視点で満州を描くのは斬新な視点といえる。


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