2022年後半読書日記

 

【2022年後半 読書日記】


◎2022年12月25日『1793 (小学館文庫)』ニクラス・ナット・オ・ダーク

◎2022年12月20日『風前雨後 現代日本のエッセイ (講談社文芸文庫)』中野好夫

◎2022年12月14日『ガリヴァ旅行記(新潮文庫)』ジョナサン・スウィフト

◎2022年12月12日『ウクライナ戦争 (ちくま新書)』小泉悠

◎2022年12月4日『失われた時を求めて6~第三篇「ゲルマントのほうII」~(光文社古典新訳文庫)』マルセル・プルースト

◎2022年11月21日『由煕 ナビ・タリョン (講談社文芸文庫)』李良枝

◎2022年11月20日『日本茶の世界 (講談社学術文庫)』高宇政光

◎2022年11月16日『失われた時を求めて5~第三篇「ゲルマントのほうI」~(光文社古典新訳文庫)』マルセル・プルースト

◎2022年11月8日『あこがれ』瀬戸内寂聴

◎2022年11月5日『その昔、N市では カシュニッツ短編傑作選』マリー・ルイーゼ・カシュニッツ

◎2022年10月24日『セカンドハンドの時代 「赤い国」を生きた人びと』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

◎2022年10月12日『失われた時を求めて4~第二篇「花咲く乙女たちのかげにⅡ」~(光文社古典新訳文庫)』マルセル・プルースト

◎2022年10月9日『ユリイカ2022年7月号 特集=スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ』

◎2022年10月2日『世界史で読み解く名画の秘密』内藤博文

◎2022年10月2日『絵画で読む「失われた時を求めて」 (中公新書)』吉川一義

◎2022年9月16日『失われた時を求めて3~第二篇「花咲く乙女たちのかげにI」~(光文社古典新訳文庫)』マルセル・プルースト

◎2022年9月8日『リ・アルティジャーニ :ルネサンス画家職人伝』ヤマザキマリ

◎2022年9月7日『プルーストと過ごす夏』アントワーヌ・コンパニョン

◎2022年9月4日『失われた時を求めて2~第一篇「スワン家のほうへⅡ」~(光文社古典新訳文庫)』マルセル・プルースト

◎2022年8月21日『バッハ: ヨハネ受難曲』カール・リヒター

◎2022年8月19日『失われた時を求めて1~第一篇「スワン家のほうへⅠ」~(光文社古典新訳文庫)』マルセル・プルースト

◎2022年8月18日『世界』2022年9月号(Vo.961) 岩波書店

◎2022年8月15日『21世紀版少年少女世界文学館セット』講談社

◎2022年8月14日『LGBTの不都合な真実』松浦大悟

◎2022年8月13日『電子出版とは何かを問い続けて』萩野正昭

◎2022年8月11日『一杯の珈琲から』エーリヒ・ケストナー

◎2022年8月10日『ケストナーの終戦日記』エーリヒ・ケストナー

◎2022年8月8日『ローヤリングの考え方』榎本修

◎2022年8月7日『新しい世界史へ 地球市民のための構想 (岩波新書)』羽田正

◎2022年8月5日『尊厳 その歴史と意味 (岩波新書)』マイケル・ローゼン

◎2022年8月2日『歴史と向き合う 日韓問題―対立から対話へ』朴裕河

◎2022年7月29日『 IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』フランシス・フクヤマ

◎2022年7月26日『映画を早送りで観る人たち』稲田豊史

◎2022年7月24日『「歴史の終わり」の後で』フランシス・フクヤマ

◎2022年7月19日『方法叙説 (講談社学術文庫)』ルネ・デカルト

◎2022年7月18日『失敗しないためのジェンダー表現ガイドブック』新聞労連

◎2022年7月17日『朝日新聞政治部』鮫島浩

◎2022年7月14日『危機の二十年-理想と現実 (岩波文庫)』E・H・カー

◎2022年7月3日『印(サイン) エーレンデュル捜査官シリーズ』アーナルデュル・インドリダソン

◎2022年7月1日『旅は終わらない 紀行作家という人生』芦原伸

 

◎2022年12月25日『1793 (小学館文庫)』ニクラス・ナット・オ・ダーク

☆☆☆猟奇的でサディスティックな殺人と暴力に必然性はあるか?

スティーグ・ラーソンの『ミレニアム』三部作やヘニング・マンケルの『刑事ヴァランダー』シリーズなど、北欧ミステリーは愛読しているが、この歴史ミステリーは今ひとつだった。

確かに、フランス革命当時のストックホルムの様子はよく調べて再現されているし、革命の波及を恐れる政府の対応もさもありなんと思わせる。

しかし、ミステリーの中心である殺人があまりに猟奇的で嫌悪感を免れないし、それが物語のプロットに必要だったとも思えない。

同様に、売春婦や浮浪者を引っ立てて奴隷労働させるサディスティックな描写もやりすぎ感が強い。

2部のブリックスの物語と第3部のアンナの物語は最終的には本筋と交錯するのだが、途中までは全く別の主題を扱う物語として展開されていて、本筋の推進力と緊張感を削いでいる。

フランス革命の扱い方も、民衆煽動と恐怖の伝播という側面のみが強調され、それが大団円のオチにつながるのだが、疑問の残る終わり方である。

 

 

◎2022年12月20日『風前雨後 現代日本のエッセイ (講談社文芸文庫)』中野好夫

☆☆☆☆☆敗者への慈しみ溢れる歴史論、戦中派の反骨精神を示す時事論評

『ガリヴァ旅行記』(新潮文庫)の中野好夫氏の名訳に感銘を受け(レビュー済み)、こちらのエッセイ集も読んでみた。

全体は4部構成で、歴史上の人物像に関する「歴史と運命」、文学論を展開する「文学と人間」、戦後政治や社会にかかわる「戦後日本に生きる」、自らとその家族(妻の父土井晩翠のことなど)にかかわる「小さな自画像」であり、中野好夫氏の人となりと考え方が概観できるようになっている。

 

ガリバー旅行記については「風刺文学序説」の中で触れられているが、ここでは風刺文学が「自虐的知性の産物」でありかつ「考える能力の産物」であるとして、日本にすぐれた風刺文学が少ないことが考察される。夏目漱石やシェークスピアに対する論考でも、前者については明治日本の浮ついた「一等国」への反発と批判が、後者では中世的な戒律から解放されたルネサンス人の饒舌とナンセンス的要素が着目されている。

こうした不羈独立の自由人の精神が発揮されるのが、戦後政治と社会への積極的発言であり、サンフランシスコ講和条約の片面講和や、左右を問わず政治スローガンの標語化が厳しく批判される。「役者としての政治家」(M・ウェーバーの『職業としての政治』のもじりか?)では、吉田首相やマッカーサー元帥、スターリンなどがその代表格として俎上に上げられていて笑える。もちろん、これらの反骨の論考の背後には、あの戦争を止められなかった戦中派知識人の痛恨と自責の念があり、それが端的に示されているのが戦没学生の手記に寄せた「怒りの花束」である。

 

私が最も興味深かったのは、第1部の「歴史と人間」である。ここには江藤新平、徳冨蘆花、川路聖謨、新井白石、スコットといった人々が論じられているが、共通するのは歴史における敗者の側面への注目である。江藤新平は佐賀の乱の首謀者として処刑され、徳富蘆花は国粋主義者として活動した兄蘇峰と対照的に明治国家の重圧の苦悩を生き、川路聖謨は幕末の外交家として手腕を発揮しながら江戸幕府滅亡に殉じ、新井白石は徳川吉宗の享保の改革で失脚引退を余儀なくされる。こうした人々の功罪を超えて、中野氏の眼差しからは歴史と時代の中で敗者となった運命への深い慈しみが感じられる。

特に、南極点一番乗りをめざしたスコットにはかなりの頁が割かれており、残されたスコットの日誌から、アムンゼンに極地到達で遅れ、帰還途中で遭難に至る経緯が詳しく紹介されている。スコットとアムンゼンの競争は子どもの頃に少年雑誌で印象深く読んだが、詳細を知るとその悲劇性があらためて強く感じられる。気象条件の悪化で進めなくなるくだりなどは、まるで新田次郎が描いた八甲田山雪中行軍の遭難事件のようである。寒冷地の厳しい気象が悪化すれば、いかなる探検家も登山家も遭難は免れない。馬橇と犬橇の差とか技術の問題ではなく、まさにギリシャ悲劇の描く「運命」なのである。

 

 

◎2022年12月14日『ガリヴァ旅行記(新潮文庫)』ジョナサン・スウィフト

☆☆☆☆☆痛烈な風刺と文明批判には中野好夫氏の名訳がふさわしい

孫に贈った少年少女版世界名作全集に『ガリバー旅行記』が入っていたので、あらためて本書を読んでみたが、実は文庫本で400頁を超える大著である。少年少女版では第1編の小人国と第2編の大人国だけのようだが、本書の白眉は第3編と第4編、とりわけ第4編のフウイヌム国にある。

 

解説によると、著者スウィフトは貧しい生い立ちの中で努力して、一時は政界の名士たちとも交わったようだが、栄達の夢は叶わず、政治と社会への悲憤慷慨の思いと厭世観を強めていったらしい。

本書は全体的に社会風刺と文明批判が貫かれているが、第1編と第2編がチクリと刺すような風刺に止まっているのに対し、第3編、第4編と進むにつれて批判のトーンが強まり、第4編では馬の種族「フウイヌム」を主人とし、人間の種族である「ヤフー」を奴隷とする逆ユートピアで強烈な文明批判を展開するのである。そして、第3編までの航海では、母国イギリスへの帰還と家族への再会を喜ばしく描いていたのが、第4編では、主人公はフウイヌムの国に止まりたいと強く願い、「ヤフーの国」に帰還するのを忌み嫌うまでになる。

フウイヌム国の居住者(馬)たちは理性的存在にして悪を知らず、戦争も裁判もないという。ジョージ・オーウェルはこれをナチスドイツのような独裁国家と見なしたが、スウィフト的にはユートピアか天国のイメージであろう。

ちなみに、貴族と並んで弁護士や裁判官が徹底的に批判され、「衡平法裁判」で当事者双方がスッテンテンにされると著者自身の経験から書かれているが、この主題は後にディケンズが『荒涼館』で「ジャーンダイス訴訟」として描いたものである。

 

ところで、大航海時代以降、西欧の知識人たちの間では「善き野蛮人」bon sauvageという観念が文明批判の論拠として用いられるようになった。文明が人間を堕落させ、悪徳をはびこらせたという議論である。健康で善良、悪徳を知らないフウイヌムの社会は、モンテーニュからモンテスキュー、ルソーへとつながる「善き野蛮人」のバリエーションと位置づけられるだろう。

著者はさらに進んで、ヨーロッパ諸国の植民地拡大に対して厳しい批判を突きつけている。すなわち、新領土が発見されると、「さっそく船が派遣されて、原住民たちは放逐されるか、殺戮されるかするし、酋長たちは拷問の苦しさにすっかり所有金を吐き出してしまう。あらゆる残忍、貪婪が公々然と許容され、大地は民の血に腐臭を放つのだ。そしてこの敬虔きわまる遠征に従事する呪うべき殺戮者の一隊こそ、実に彼らのいわゆる偶像崇拝者である蛮民どもの改宗、開化を目的に送られるという、近代植民の実状である。」

ここには、スペインの中南米における残虐行為を厳しく告発したラス・カサスの声さえ感じられる。

 

なお、翻訳は1951年の古いものだが、さすがに英文学の大家中野好夫氏の訳だけあって、この風刺文学のトーンにふさわしい名訳だといえる。「我輩は・・・である」という文体は、スウィフトに関する論考を書いた夏目漱石を想起させる。

 

 

◎2022年12月12日『ウクライナ戦争 (ちくま新書)』小泉悠

☆☆☆☆☆ロシアの軍事・外交の専門家による説得的な分析

著者の小泉悠氏は、ウクライナ戦争勃発以後、たびたびテレビのニュース解説に登場しており、その冷静で豊富な情報量に基づくコメントにはいつも感心していた。

著者の経歴を見ると、外務省の専門分析員、ロシア科学アカデミーの客員研究員等の経験を持つ、まさしくロシアの軍事・外交の専門家である。

しかし、そうした専門家にして、今回のロシアのウクライナ侵攻は直前まで予想できず、外交的な脅しの手段と見ていたというから、いかに非合理な決断(「プーチンの野望」)であったかがわかる。この点、私自身がまず第一に想起したのは旧ソ連のハンガリーやチェコへの軍事侵攻であり、「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれた冷戦時代の勢力圏思想であるが、KGB出身であるプーチンの思想もそれに近いのだろう。

 

本書で解明されている「特別軍事作戦」の内容は、首都キーウ近郊の空港を占拠する「斬首作戦」でゼレンスキー政権中枢を排除し、内通者による全国掌握を行うというものだった。実際にも、FSB(かつてのKGB)による内通者はウクライナ全国に多数いたという。しかし、空港の占拠はウクライナ軍の滑走路破壊で目的を達せず、内通者らは実際に侵攻が起きると職場放棄して逃亡するだけで役に立たなかったというから、旧ソ連とKGBの威光も行動力も地に落ちていたのだろう。

興味深いのは、アメリカが早い段階からロシアの侵攻を予測し、軍事情報を積極的に全世界に公表して警鐘を鳴らしていたことである。本書も指摘するように、アメリカ政府の情報は実に正確であり、そのとおりの侵攻が起きたことに驚く。また、こうした情報公開はITを活用した民間情報も加わり、ウクライナの対応と反撃に有利に働き、ロシア非難の国際世論の形成にも大きな役割を果たしている。

アメリカは当初、ゼレンスキー大統領に亡命を勧めたというが、ゼレンスキーはこれを拒否して国内から発信を続けた。著者はこれを「有事のリーダー」にふさわしい振る舞いだったと書いているが、ウクライナの抵抗の中心として彼の果たした役割は大きかったといえる。

 

それにしても、ブチャの虐殺をはじめ、民間住宅やインフラ攻撃などに見られるロシアの軍事作戦の残酷さには驚くが、本書ではロシアの軍事理論として、ポポフらの唱えた「新型戦争」が紹介されている。これによると、「最も恥ずべき手段」、すなわちフェイクニュースなどの情報戦と反ロシア派の中心人物の暗殺などのテロを組み合わせた闘争手段を用いることに加え、戦争を長引かせて破壊と混乱を広げるために、主な標的は一般市民、特に女性、子ども、老人などの弱者になるという。本書が書かれたのは本年9月であるが、その後のロシアの空爆と電力インフラ攻撃はまさにそのとおりのことをやっているというほかない。

 

なお、本書では「プーチンの主張を検証する」として、「ネオ・ナチ」論や化学兵器・大量破壊兵器の開発、さらにはNATO拡大などが俎上に上げられているが、いずれも根拠薄弱で侵攻の理由となりえないことは言うまでもない。

「おわりに」で著者が書いているように、戦争の第一義的責任がロシアにあることを明確にしない停戦論では解決にならない。大国の侵略が成功したという事例を残さないよう、日本としても難民の援助や地雷除去などの非軍事的支援に取り組むべきであるという指摘は、全く同感である。

 

 

◎2022年12月4日『失われた時を求めて6~第三篇「ゲルマントのほうII」~(光文社古典新訳文庫)』マルセル・プルースト

☆☆☆☆☆祖母の臨終の描写は圧巻で感動的

第6巻は前半の3分の2がヴィルパリジ夫人のサロンが舞台となり、ドレフュス事件を背景に上流階級の人々の観察が微に入り細を穿って描かれる。

ヴィルパリジ夫人については、「偉大なもののすぐ脇を通りながら、それを深く突きつめることもなければ、ときにも気がつかない」とされ、「中身はとことん浮ついたことばかり」と辛らつに評価される。そして、夫人のサロンに出入りする人士も「医者や公証人ふぜいの細君」といった人々である(貴族から見た医師や公証人の評価が面白い)。しかし、新聞で話題にされるのは「真のサロン」ではなく、こうした「自称サロン」のほうなのだという。

そして、このような自称サロンを舞台に設定していることが、プルーストがサロンや上流階級の人々に一定の距離を置いて、シニカルに観察していることを示している。サロンで交わされる会話も、上流階級の退屈なものではなく、皮肉や当てこすりの火花が飛び、ドレフュス事件や反ユダヤ主義をめぐる緊張感あふれるやり取りで飽きさせない。

そうした中で、第5巻で主人公の憧れの対象として登場したゲルマント公爵夫人も、いわば金メッキが剝がれるように描かれている。「夫人は詩人や音楽家と席をともにしても、今食べている料理や食後のトランプ遊びのことしか話題にしないのが一種のエレガンスだと考え」、ただの一言も詩の話をせずに会食を終わるというように。結局、主人公が憧れていたのは「ゲルマント」という名前の持つ「黄色に染まった小さな森や謎めいた田舎」の魅力だったのである。

 

こうした前半と対照的に、後半で描かれる祖母の臨終は、死にゆく人間の赤裸々な真実に迫る圧巻の叙述である。祖母は糖尿病から腎不全、尿毒症を発症していくわけだが(現在なら人工透析を必要とする患者であろう)、著者は病状の進展と当時の治療を実に細かく、医学的なディテールに立ち入って描いていく。その中には、うっ血をたくさんのヒルを使って吸い取らせる当時のグロテスクな治療法まである。

プルーストは、病気になると私たちは自分が1人で生きているのではなく「どこか異なる世界の存在」に結びつけられていることに気づくという。その存在とは「私たちの肉体」のことなのだが、ここには心身二元論の深淵な考察がある。

死にゆく祖母の描写だけでなく、それを取り巻く様々な人々の悲喜こもごもの反応もバラエティーに富んでいて読んで飽きさせない。もちろん、主人公と母は祖母への心配と悲しみで圧倒されているが、女中のフランソワーズは悲しみつつも仕事のルーティーンに拘り、見舞いに訪れたゲルマント公爵は場違いな儀礼に徹する。そして、呼ばれて駆け付けた高名な医学教授は、モリエールの喜劇役者のようなふるまいで、与えられた役割を果たして帰るのである。

 

巻末の祖母の死に顔の描写については、これほど死者の姿が美しく感動的に描かれたのを私は見たことがない。

最後のところを引用する。

「祖母の両親が娘のために婿を選んだ遠い昔の日々のように、祖母は純潔さと従順さが繊細に象られた顔立ちに戻り、頬は、歳月が少しずつ破壊してきた清らかな希望や幸福への夢、無邪気な陽気さとともに輝いていた。祖母から立ち去った生命は、同時に生への幻滅も持ち去っていった。祖母の唇のうえに微笑みがひとつ浮かんでいるかに見えた。死は中世の彫刻家さながら、この死の床に祖母を、うら若き乙女の姿で横たえたのである。」

 

*この8月に高遠訳を第1巻から読み始め、ようやく第6巻まで読了したが、第7巻はまだ出版されていない。高遠氏の訳業の成就を祈りつつ、次巻を楽しみに待つ。

 

 

◎2022年11月21日『由煕 ナビ・タリョン (講談社文芸文庫)』李良枝

☆☆☆☆「どこに行っても非居住者」 在日2世の引き裂かれた自我を描く

著者は1955年生まれの在日2世であり、本書は1982年から88年にかけて発表された短編をまとめたものである。

最初の「ナビ・タリョン」(嘆きの蝶)は、著者を彷彿させる主人公の在日女性が、両親の離婚裁判を背景に、日本社会で差別されることを常に意識して生きる生きづらさに苦悩し、「ウリナラ」(わが祖国)である韓国に憧れを抱き、ついに韓国へ渡航する。しかし、韓国語の発音やパンソリの歌唱を笑われて、ウリナラにも怯えを感じてしまう。自分は「日本の匂いをプンプンさせた裸体の奇妙な異邦人」なのだと。

これに対し、最後の「由熙」では、「ナビ・タリョン」とは逆の視点で、在日の留学生由熙を下宿人として受け入れた主人公の「オンニ」が由熙の苦悩をなんとか理解しようとするが、結局、果たせずに終わる。主人公の下には日本語で書かれた由熙の分厚い書き置きが残されるが、その内容は最後まで明かされず、解き明かされない謎として読者に投げかけられている。

 

日本で生まれ、日本語を母語として話しながら、在日朝鮮・韓国人として差別された人々の異邦人感覚(「どこに行っても非居住者」)、いわば引き裂かれた自我の悩みを、在日2世・3世あたりまでは誰もが持っていたのではないか。日本人だけでなくウリナラの人々にも十分理解できないその悩みを、著者はその鋭敏すぎる感性をそのままに提示する形で、見事な日本語で表現している。

 

ちなみに、著者自身による年譜を見ると、1973年のところに、「京都府立鴨沂高等学校三年に編入。日本史の教師である片岡秀計先生との出会いを通して、自分の血、民族のことを考え始める」とあるが、実は私も1974年入学の同高校出身者であり、日本史の片岡先生のこともよく覚えている。当時、京都には被差別部落もまだ残っており、在日の人々と接する機会は多かった。

当時と現在とでは日韓関係は政治的・経済的・文化的に大きく変貌を遂げているが、こうした在日の人々の苦悩の歴史は記憶にとどめておくべきである。

 

 

◎2022年11月20日『日本茶の世界 (講談社学術文庫)』高宇政光

☆☆☆☆日本茶もかつては輸出商品だった。

日本茶の歴史を鎌倉時代にまで遡ってわかりやすく解説した本だが、特に明治以後に「茶」が輸出商品として重視され、国際市場の需要と密接に絡んで産業として拡大していった経緯が興味深い。

 

江戸時代以前は上流階級の一部が茶の湯をたしなむ程度で、庶民は農家の畦等でつくられた自家製の番茶を飲んでいたという。

それが、明治政府の産業政策で、生糸に並ぶ輸出商品として茶が重視された。輸出用に「煎茶」が開発され、紅茶まで一部ではつくられたというから驚く。

しかし、インドやセイロンの紅茶生産が進むと、欧米への日本茶の輸出は振るわなくなる。著者は、欧米人の紅茶への嗜好に加え、煎茶は紅茶よりも保存に難があり輸出すると品質が劣化するからだろうと述べている。

ただ、戦後もしばらくの間は煎茶の「グリ茶」や「玉緑茶」が旧ソ連の中央アジア圏や北アフリカに輸出されていたという。イスラーム諸国では緑茶に需要があったのだ。しかし、これも中国の緑茶生産に押されて、輸出商品としての日本茶の歴史は終わる。

結局、日本茶の市場は高度成長期以降の日本国内の需要に振り向けられることになり、その主力はかつての番茶から煎茶に変わったのである。急須で煎茶を淹れる「淹茶法」は1970年前後に急速に普及したものだというから、それほど昔の話ではない。

著者は、江戸時代以前の各地の番茶づくりや、煎茶でも「蒸し」ではない「釜炒り」の再評価を求めているが、どうだろうか。早速、無農薬有機栽培の番茶を試してみることにする。

 

 

◎2022年11月16日『失われた時を求めて5~第三篇「ゲルマントのほうI」~(光文社古典新訳文庫)』マルセル・プルースト

☆☆☆☆☆主人公の貴婦人への憧憬と貴公子の娼婦崇拝が世紀末的雰囲気を醸し出す

リゾート地のアバンチュールのような華やかな雰囲気だった第4巻からさらに数年経ち、物語は一転して大人の雰囲気が漂う世界に入る。

主人公はゲルマントの館の一翼にある家に祖母とともに住んでいる。古い城館の調度品や美術品、使用人たちの生活の微に入り細を穿った描写が、おなじみの息の長い筆致で続くが、やはりディテールを楽しむつもりでのんびり読んでいく。

物語の前半はゲルマント公爵夫人を中心とした大貴族の暮らしぶりと、新興市民階級の劇場での彼らへの注目ぶり、主人公の公爵夫人への憧れ等が語られる。主人公は公爵夫人を「本気で愛していた」とまで述べており、毎朝出会うように待ち伏せるといったストーカー的行為までしてしまうのだが、その最中にも寄宿学校の女生徒や「白い服を着た牛乳売りの少女」に脇目を惹かれそうになる。第3巻でも「牛乳売りの娘」が出てきたが、やはりこれはゴヤの絵のイメージであろうか。

 

しかし、主人公は女性への愛をここでは普遍的愛情の一部に同化させる考察を展開する。すなわち、女性への愛情のうちに人間はそれまで眠っていた多くの要素を入れるが、それらの要素は当の本人とは本来関係がない。私たちのなかにある何かがこうした個別の感情をさらなる真実へと導き、もっと一般的で人類全体に共通する感情に合体させようとするのだと。

いわば「恋愛のイデア」を通じて人類全体に共通する普遍的な愛情に同化するプラトニズムといってよい。

 

他方、物語の後半では公爵夫人の従兄弟のサン・ルーと愛人の関係が長々と語られるが、この愛人は主人公が第3巻で「ラシェルよ、主より」と福音書にちなんだあだ名をつけた娼婦であり、いわば「スワンの恋」のオデットのような存在である。実際、娼館では主人公に20フランで提供されたこの女性にサン・ルーは10万フラン費やして恋を成就させたという。

読み進めていくうちに「スワンの恋」がフラッシュバックされるような観があるが、貴公子のサン・ルーが娼婦を女神のように崇拝してのめり込んでいくのと、前半の主人公の公爵夫人への憧れとがドラスティックに対比され、それらが相乗して世紀末的雰囲気を強めているのである。

 

最後のところで、サン・ルーが「ラシェル」と喧嘩別れした後で、軍人らしい暴力沙汰に及ぶのは意外な展開だが、物語のアクセントとなっている。

なお、全体を通じて当時フランス社会を二分したドレフュス事件が要所要所で言及され、主人公やサン・ルーはドレフュス派である。プルーストの社会問題への関心が窺われて興味深い。

 

 

◎2022年11月8日『あこがれ』瀬戸内寂聴

☆☆☆☆☆寂聴さんが「はあちゃん」だった頃

作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなったのは昨年(2021年)11月だが、本書は20191月から202111月までに発表された短編集であり、まさに99歳で死去する直前まで旺盛に執筆活動をされていたことがわかる。20219月に発表された「星座のひとつ」などは、まるであの世から原稿を送ってきたかのような、此岸と彼岸を超越した不思議な感覚になる作品である(それゆえ、短編の最後に配列されているのだろう)。

 

ほとんどの短編は寂聴さんがまだ幼い「はあちゃん」と呼ばれていた徳島の時代のエピソードであり、大正末から昭和初期の懐かしい雰囲気に満ちている。「はあちゃん」の家は父親が指物師の親方で10人ほどの弟子を住み込ませており、香川の素封家出身の母や神戸のクリスチャンの叔母(「アーメン・ソーメンのおばさん」)、5歳年上の姉、履物屋の「久おじ」、近所の「やいと婆さん」といった人々を配して、様々なエピソードが語られる。中には殺人事件かと思わせる物騒なものまである。

しかし、なんといっても幼い子どもの目から見た職人の世界や人形浄瑠璃一座の巡業、サーカスの楽しみといった昔の日本の情景描写が素晴らしい。ガラス職人が真っ赤に熱したガラス棒から瓶を作る工場に入り込み、危ないと叱られながら飽きずに眺めるエピソードなどは今では到底考えられないが、私自身の昭和の子ども時代を思い出しても、草ぼうぼうの空き地や廃材置き場、狭い路地(「ろうじ」)など危険な遊び場はたくさんあって、しょっちゅうケガをして帰ったものだ。

また、菊江叔母の入院見舞いに訪れた病室で、窓際のハエが手足をすり合わせるのを見て、叔母のケガが早く治るようにハエが「ずっとさっきから拝んどるじょ」と声を張り上げたという「蠅」のエピソードは、子どもながら素晴らしい感性に感嘆するほかない。

 

 

◎2022年11月5日『その昔、N市では カシュニッツ短編傑作選』マリー・ルイーゼ・カシュニッツ

☆☆☆☆☆女性心理の闇を現実と非現実の狭間で描き出す

著者カシュニッツは初めて読むが、酒寄氏の新訳ということで読んでみた。

訳者あとがきによると、短編15編を酒寄氏と担当編集者の話し合いで「編んで」配列したとのことであり、短編集を編む面白さが強調されている。したがって、全編を最初から全部読むことがお勧めである。といっても200頁余りの分量なので、一気に読み通せる。

 

内容はシュールで幻想的な物語やオカルティックな物語、さらにはゾンビブームを先取りしたようなSF調の物語、ドイツ女性版浦島太郎のような物語まであるが、後半は夢幻的要素を含まない通常の短編小説に移行する。

ほとんどが承認欲求のある女性心理の襞に分け入って、無意識の暗部をえぐり出すような心理小説であり、いわば日常生活の中に潜むホラーを描いたものといえる。

ただ、最後まで読み進めていくと、真に怖いものは夢や幽霊ではなく人間であると感じさせる配列である。オイディプスの解いたスフィンクスの謎の答えが「人間」であったように、短編の最後は「人間という謎」Rätsel Menschで閉じられる。

 

なお、唯一著者の名前が主人公となっている「六月半ばの真昼どき」は『オデュッセイア』の魔女キルケーの物語が下敷きとなっているが、オデュッセウスが海神ポセイドンの怒りのために海上をさまよう航海のイメージは『船の話』にも関連する。『船の話』の不気味なイメージは「さまよえるオランダ人」の伝説をも想起させる。

部屋の中に大きな鳥がいる「ロック鳥」はカフカ的な物語だが、ロック鳥といえば千夜一夜物語の「シンドバッドの冒険」に由来するのではないか。実はロック鳥は、フェニックスやグリフィンといった神話的伝説とも関連しており、そのイメージが利用されたのであろう。

 

 

◎2022年10月24日『セカンドハンドの時代 「赤い国」を生きた人びと』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

☆☆☆☆☆「大祖国戦争」と「収容所群島」の苛酷な体験を経て、モラルハザードの時代を生きる人々

著者スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチがノーベル文学賞を受賞する決め手となった作品である。

1990年代から2010年ころまで、すなわちソ連崩壊後の激動と混乱を生きるロシアの人々への膨大なインタビューで構成された大著であり、封印されてきた旧ソ連時代の体験談と様々な意見・感情が生々しく描かれるとともに、旧ソ連崩壊後の新時代に対する期待と幻滅、さらには怒りと反発がこもごもに語られる。

 

全体を通じて強く印象づけられるのは旧ソ連時代のあまりにも苛酷な共通体験、すなわちナチスドイツに侵攻され国家存亡の危機に陥った独ソ戦(「大祖国戦争」)と、それと前後するスターリン時代の粛正と強制収容の嵐である。独ソ戦ではソ連側に軍民合わせて2700万人もの死者が出たとされるが、スターリンの粛正の犠牲者も800万人から1000万人と言われている。第二次大戦の日本人の死者は200万から300万人と言われているが、これと比較しても想像を絶する膨大な犠牲者数である。しかも、スターリン時代以後も「収容所群島」(ソルジェニーツィン)と言われる時代はペレストロイカの前まで続いたのである。また、戦争についても、独ソ戦だけでなくアフガン戦争、チェチェン戦争、そして今ウクライナ戦争と、旧ソ連崩壊後も続いているし、冷戦時代はずっと戦争準備の時代だったといえる。

本書のインタビューの中では、多数の人が「私たちは戦争をしていたか、戦争の準備をしていたかのどちらかだ」あるいは「戦争か流刑か」と、戦争体験と収容所体験、流刑体験を語っている。こうした苛酷な共通体験が国民の人格や思想形成に暗い影響を残さないわけがない。アフガンやチェチェンの戦争から帰った元兵士たちが社会に適合できずにウォッカに溺れ、殺人事件やDVを引き起こす一方、戦争の莫大な犠牲を払った国家のためなら反対派の苛酷な弾圧も容認し、進んで密告者や弾圧者となるのである。すなわち、戦争体験が「非国民」を排除し、反戦思想や運動を抑圧する土壌となるわけである。

 

他方、本書の前半では、1991年の保守派のクーデターに対する抗議行動に立ち上がった人たちも多数登場する。彼らは自由で人間的な社会を求めたが、その期待はただちに幻滅へと転化した。エリツィンとガイダールの改革は理想なき拝金主義、暴力が横行する無法な原始資本主義であり、旧ソ連時代は保障されていた生活の安定も破壊された。文字通り「モラル・ハザード」の時代である。そうした中でスターリン待望論や「鉄の腕で幸福に追い込む」時代を懐かしむ風潮まで出ているという。これが今日のプーチン独裁の背景となったのであろう。

著者は『ユリイカ20227月号』のインタビュー(レビュー済み)で、著者も含めロシアの知識人が旧ソ連崩壊後に民主主義を根付かせる対話をしてこなかったという痛切な反省を語っているが、旧ソ連時代の苛酷な共通体験を持つ人々には、自由と民主主義を受け入れる準備ができていなかったというほかない。

 

なお、本書の最後の方で紹介されている「レーナの話」は、夫と3人の子がありながら見知らぬ終身刑の囚人に恋をして出奔する女性の実話で、著者は「いたってロシア的な話」という。ロシアのキリスト教的伝統なのか、囚人を「受難者」として憐れみ、手紙を書く習慣があるのだそうだ。『罪と罰』のソーニャを思い浮かべればなるほどと思うが、レーナの場合は18歳のときに夢の中に出てきた夫をずっと求めていたというから、まるでワーグナーの『さまよえるオランダ人』のゼンタである。

 

 

◎2022年10月12日『失われた時を求めて4~第二篇「花咲く乙女たちのかげにⅡ」~(光文社古典新訳文庫)』マルセル・プルースト

☆☆☆☆☆プルーストの描く「リゾート地のアバンチュール」

第二編のⅡはジルベルトとの恋愛が終わってから2年後に設定されている。

病弱な主人公は大西洋岸の保養地バルベック(架空の町)で一夏を過ごすのだが、そこでのアバンチュールが描かれている。もちろん、プルーストらしい濃密な人物描写と心理描写、とても息の長い文と段落で延々と比喩が重ねられる小説世界は一層の冴えを見せて読者を惹きつける。

 

ここではなんといってもアルベルチーヌ、アンドレ、ジゼルといった活発で光り輝くような美少女たちと主人公との出会いと親密な交流が、誰もが体験する10代の少年少女時代の甘酸っぱく懐かしい異性関係を読者にも呼び起こす。表題の「花咲く乙女たちのかげに」は原文では“ À l’ombre des jeunes filles en fleurs”で、「花咲く乙女」”jeunes filles en fleurs”とは思春期の瑞々しい少女の意味である。

主人公は祖母やフランソワーズに付き添われなければ外出できないほどの病弱で、午前中はせっかくの夏の海岸の光の下で外出もさせてもらえない。これに対し、美少女たちはいかにも裕福なブルジョアジーの娘らしく、当時流行し始めた自転車を押し、ゴルフやテニスに興じる健康的で活発な少女たちとして主人公と出会うのである。

上流階級で文学や芸術に深い知識と関心を持つ主人公が、対照的なまばゆいばかりの少女たちに対し憧れを抱き、特にアルベルチーヌには恋心をもってあれこれ仕掛けるのに対し、少女たちが時には軽やかに、時には誘惑的に対応していく掛け合いが見事である。病弱で上品な主人公が健康で活発な少女たちに囲まれて、あたかも弄ばれているような、あるいは保護下に置かれているような観さえある。それが「 ~のかげに」“À l’ombre de~”ということであろう。

 

ちなみに「花咲く乙女」というイメージからは、プルーストがたびたび引用するワーグナーの楽劇『パルジファル』に登場する魔法の花園の乙女たちを連想する。実はこの花園は魔法使いクリングゾールが聖杯騎士たちを誘惑するために出現させたものなのだが、病弱な主人公が、それでも少女たちへの欲望を観念的自己愛的に発展させていくイメージと重ね合わせられているのかもしれない。

また、バルベックへ向かう途中で出会う「牛乳売りの娘」も主人公を惹きつけて止まない印象的な存在として描かれているが、私はゴヤの最晩年の傑作「ボルドーのミルク売り」を連想した。プルーストもゴヤを見たのではないか。

 

 

◎2022年10月9日『ユリイカ2022年7月号 特集=スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ』

☆☆☆☆☆アレクシエーヴィチのインタビューは必読

『戦争は女の顔をしていない』の著者であり、ベラルーシの作家としてノーベル文学賞を受けたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの特集である。

本書の特集はノーベル文学書を受賞した彼女の文学世界全般にわたるものだが、とりわけ本年5月のインタビューはウクライナ戦争を考えるうえで必読といってよい。なぜなら、彼女は父親がベラルーシ人、母親がウクライナ人であるという人間関係の関わりに加え、彼女の文学世界が旧ソ連時代の独ソ戦、アフガン戦争を多数の兵士とその家族ら聞き取りを基に構成され、ソ連崩壊後の混乱からプーチンの独裁政権までをつぶさに観察してきた人だからだ。

 

インタビューを読んでまず印象深いのは、彼女も含めロシアの知識人が旧ソ連崩壊後に民主主義を根付かせる対話をしてこなかったという痛切な反省である。エリツィンやガイダルはあまり国民と対話せず、民主主義は共産主義に打ち勝ったと思い込んでいたが、大部分の人は行動を起こさず、「人間の顔をした社会主義」でよかったと思っていた。そして、弱肉強食の原始的な資本主義が導入されるとスターリン時代を懐かしむようになり、そうした人々がプーチン支持層をつくっているというのである。いまや「まともな小説を書いていた有名作家」はみんなロシア国外に出て行き、ロシアでは「バリケードで闘う革命をおこなさない限り、自由を手に入れることはできない」とまでいわれる惨状である。

これに対し、アレクシエーヴィチは、「ロシアのファシズム」が近づき、すでに戦争を起こしているときに、作家たちは傍観していられないし気楽な小説を書いている場合ではない、「闘いに加わらなければなりません」と強く決意を語っており、今はベラルーシの革命とウクライナの戦争を扱った本を書いているという。

 

ウクライナ戦争については、NATOの東方拡大や軍事支援を問題視したり、ウクライナ政府の過去の対応を批判する議論もあるが、アレクシエーヴィチはそうした立場とは対極にある。彼女は、ウクライナは「かつてのソ連構成国のうち、最初に民主的な道を歩み始めた国家」であり、マイダン革命以降の自由を求める運動がプーチンには脅威になったのだと。そして、ウクライナ国民の抵抗に感動し、ロシアに対し全世界が一丸となってウクライナを支援するのは自由を守りぬくための闘いであると断じるのである。

ここにはただの反戦・非戦論者ではない、戦闘的民主主義者としての作家の顔がある。

 

 

◎2022年10月2日『世界史で読み解く名画の秘密』内藤博文

☆☆☆名画の基礎知識ではあるが、首を傾げる解説もある。

ジョットからピカソまで、28項目にわたって名画とその時代背景、世界史との関わりを解説しているが、内容は基礎知識に属するものがほとんどである。

名画を生み出す画家とその工房にはパトロンが不可欠であり、かつては王侯貴族や教会、大商人、近代以降は大資本家や国家、さらには市民階層がパトロンとなった。当然ながら、パトロンたちには歴史の変動のなかで栄枯盛衰があり、そのため画家たちも歴史の変動と無縁ではいられない。したがって、名画の時代背景を知ることはその理解を深めることにつながるわけである。

 

ただ、本書の解説にはいくつか散見しただけでもおかしな部分が見られる。

例えば、ファン・エイク兄弟の「ヘントの祭壇画」について、「フィレンツェのスター画家たちの名画を圧倒しそうな出来」と書いているが、時代的にはこの祭壇画は1432年完成で、ボッティチェリやダヴィンチといったフィレンツェの名画よりもかなり以前の作である。裸体画という点で比較されているマザッチオのフレスコ画「楽園追放」は、裸体表現よりも生々しい感情表現が革新的とされる(ジョットも同じ)。フィレンツェのウフィツィ美術館を訪れた人はボッティチェリらの名画の部屋より前にファン・デル・フースの祭壇画「羊飼いの礼拝」が目に入るが、フースはファン・アイク兄弟を承継するヘントの画家であり、この絵がフィレンツェにもたらされて大きな影響を与えたという関係にある。

また、15項のミケランジェロの祭壇画『最後の審判』がサヴォナローラの神政政治に由来するというのも疑問である。ミケランジェロの弟子であるヴァザーリの『芸術家列伝』にもそのような記載はない。ミケランジェロはサヴォナローラの神政政治を逃れてフィレンツェを去り、サヴォナローラ処刑後に戻ってあのダヴィデ像をつくった。また、その後も『最後の審判』以前に、同じシスティーナス礼拝堂で作風の異なる天井画『天地創造』を描いている。『最後の審判』の屈折した画風は、フィレンツェの共和政が倒され、共和政支持派であったにもかかわらずメディチ大公の庇護を受けて生き延びたミケランジェロの心境をあらわすと見るのが一般であろう(祭壇画には抜け殻となった皮膚として自画像が描かれている)。

さらに、27項のピカソの『ゲルニカ』では、第二次大戦中にこれを所持したことがアメリカの大都市無差別空爆の肯定論理になったと書いているが、ナチスによる無差別空爆を批判したこの絵を所持することがなにゆえにアメリカの無差別空爆を正当化するのか、全く意味不明である。

 

 

◎2022年10月2日『絵画で読む「失われた時を求めて」 (中公新書)』吉川一義

☆☆☆☆カラーはよいが、版が小さすぎる

『失われた時を求めて』を読み進めているが、作品中に草花や絵画、音楽等の詳細な引用と比喩が用いられており、作品の理解に必須といってもよいほどである。最近の翻訳書には丁寧な訳注がついているが、それでも画像がなかったり、小さかったり、白黒だったりで、十分とはいえない。

このうち、草花についてはプルースト自身の描いた花々の絵を掲載した『プルーストの花園 詞画集』(鈴木道彦編)が参考になるが、本書は『失われた時を求めて』に引用された多数の絵画を小説の内容に沿って紹介している。しかも、絵画だけでなく各絵画の引用された箇所のエッセンスと補足的解説を加えており、『失われた時を求めて』の極上の案内にもなっているのである。

ただ、新書版のためにせっかくのカラー画像が小さいのが残念であり、できればもっと大きな版にしてもらいたかった。あるいは、電子版なら画像を拡大できるかと思うのだが(文字も小さいため、電子版も出してほしい)。

例えば、ボッティチェリの『モーセの試練』はスワンの恋の重要モチーフとなっているが、その中の肝心のチッポラの像が小さすぎてよくわからない。

まあ、結局はWebの名画検索等で拡大画像を見るしかないのだろう。

 

 

◎2022年9月16日『失われた時を求めて3~第二篇「花咲く乙女たちのかげにI」~(光文社古典新訳文庫)』マルセル・プルースト

☆☆☆☆☆社交界の秀逸な描写、自己愛的恋愛心理の分析、そして上質なエロチシズム

第3巻は「第2編 花咲く乙女たちのかげに」の「第1部 スワン夫人のまわりで」が収められている。

スワン夫人となったオデットのサロンを中心に据えつつ、主人公のジルベルトへの恋の成り行きが語られていく。

ここでも物語の筋よりも、そのディテールとして語られる思弁的考察や思いがけない比喩、さらには絵画や音楽の豊富な知識の援用が興味深く楽しめる。特に、19世紀後半から20世紀初頭のパリの社交界や風俗が詳細に描かれているのが目を引く。本書では詳細な注釈や図解で女性の服装や馬車の型などが示されており、読者の理解を助けてくれる。また、病気や薬品に関する詳細な医学的知識が随所に援用されているのが面白いが、これは主人公が幼いときから病弱で医師にかかることが多かったからであろうか。

 

しかし、なんといっても本書全体を通じて圧巻なのは恋愛心理の濃密な描写と分析である。

第1編では(第2巻レビューで書いたとおり)スタンダールの「結晶作用」をさらに拡大し膨張させたようなスワンのオデットへの恋が描かれたが、本書ではスワンとオデットの娘ジルベルトへの主人公の恋が、スワンの恋を再現するように描かれていく。両者の恋愛はいずれも成就する過程と喪失する過程が描かれるが、主人公の恋の場合には喪失する過程が自覚的に恋を断念する過程として描かれ、最終的には「ジルベルトを愛していた私の自我の、時間をかけた残酷な自殺行為」であったと総括される。ただし、これは恋愛する男女間の激しい葛藤としてではなく、あくまでも主人公の心理劇として一方的主観的に展開されていくのだ。その意味で、プルーストの恋愛論は自己愛的恋愛と言っていいのかもしれない。

ちなみに、本書でたびたび引用されるワーグナーの楽劇(「パルジファル」や「ローエングリン」など)の登場人物は、どれも肥大化した自我と激しい感情の持ち主ばかりであり、自己の感情を長大な台詞で語るのだが、スワンや主人公の心理描写もそれに通じるところがある。

 

このような濃密な恋愛心理描写の中に、実は上質なエロチシズムがちりばめられていて、読んでいてドキリとさせる。例えば、主人公がジルベルトと手紙の取り合いごっこをする次の場面。

≪彼女は私にくすぐられたかのように笑い声を立てる。私は灌木によじ登ろうとするときのように、彼女の体を両脚で締めつけた。激しい運動のさなか、筋肉を動かし、遊びに夢中になったせいで息切れしそうになった私は、力を出したとき汗が数滴出るように、思わず快楽のしずくを漏らした。・・・ジルベルトが優しく言った、「あのね。もしよければだけど、もう少し続けてもいいのよ」≫

 

なお、本書にもボッティチェリなどの絵画の引用が多数あり、注で画像もつけてくれているのだが、kindle版では画像が横長になってしまう(iphoneの場合)。

引用された絵画の中で、メディチ家の人々を描いたベノッツォ・ゴッツォリのフレスコ画『東方三博士の行列』の中にパリの著名人も描かれているとスワンが言う場面にはクスッと笑ったが、この絵はフィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿内の礼拝堂にあり、近年見事に修復された。必見の価値がある。

 

 

◎2022年9月8日『リ・アルティジャーニ :ルネサンス画家職人伝』ヤマザキマリ

☆☆☆☆☆中世都市の雰囲気がよく描かれている。シリーズ化を期待したい。

表題からミケランジェロの弟子であるジョルジョ・ヴァザーリの『ルネサンス画人伝』を漫画にしたのかと思ったが、そうではないようだ。

画家の伝記というより、ルネサンス絵画の発展をもたらした当時の都市の雰囲気と、画家たちの交流に焦点が当てられている。

 

ヤマザキマリさんの絵はさすがに上手で、なんといってもフィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリ、パドヴァといった中世都市の雰囲気が実によく描かれている。私自身もこれらの都市を何度も訪問しているが、都市が背景に描かれたどのコマをみてもすぐにその場所がわかる。それもそのはずで、フィレンツェをはじめイタリアの都市は旧市街の建物や道路を中世のまま保存していて、旧市街全体が中世の博物館のようになっているからである。イタリア滞在の長いヤマザキさんは、実際に見慣れた都市風景を描いたのだろう(ただし、ヴェネチアのリアルト橋が当時の木造の跳ね橋になっているとか、フィレンツェの城館の建築ブームといった時代考証もきちんとなされている)。

 

登場する画家はボッティチェリからマンテーニャ、ベリーニ、レオナルドあたりまでで、先駆者ジョットの画風の発展と北方由来の油絵の技法の導入が大きな柱となっているが、1冊では到底収まりきれない大きなテーマであり、シリーズ化を期待したい。

なお、全頁カラーにした出版社の意気込みをよしとするが、全体にやや色が暗いように感じた。

 

 

◎2022年9月7日『プルーストと過ごす夏』アントワーヌ・コンパニョン

☆☆☆☆☆超一流の講師8人によるラジオ連続講座38

私は、文学作品はガイド本などは読まずに直接原典を読むべきだという主義だが、プルーストの『失われた時を求めて』に限ってはそうもいかない。なんといっても長大な作品だし、登場人物も多数で、文学や芸術の浩瀚な知識を踏まえた伏線が張り巡らされている。

ただし、あらすじ紹介ではなく、原典の理解を深め、興味を持続させるようなガイド本が望ましい。

 

本書はプルースト研究者や作家、哲学者ら超一流の講師8人によるラジオ講座を編集したものである。

訳者解説によると、「201371日から823日までの月曜から金曜、8週にわたって、毎週1人ずつ」(ジェローム・プリウールの週だけは水・木・金の3回)講義されたということなので、38日間の講義ということになる。各講師ごとに大テーマを設定し、これを5日間に分割して1日ごとに小テーマの解説と対応する原文のかなり長い紹介がつけられている。原文はプロの朗読者によって朗読されたのであろうか。

いわば夏休みの集中講義という観があるが、このような贅沢な番組が放送されるのはさすがはフランスである。ただし、これはプルースト人気の高さを示すものであるとともに、『失われた時を求めて』を全文読んだ人がフランスでも少ないことを反映した夏休みの読書案内なのだろう。

 

ちなみに、各章の大テーマと講師を掲げる。

 第一章 時間 アントワーヌ・コンパニョン(プルースト研究者)

 第二章 登場人物 ジャン゠イヴ・タディエ(プルースト研究者)

 第三章 プルーストと社交界 ジェローム・プリウール(作家)

 第四章 愛 ニコラ・グリマルディ(哲学者)

 第五章 想像界 ジュリア・クリステヴァ(文学理論、精神分析)

 第六章 場所 ミシェル・エルマン(作家、哲学者)

 第七章 プルーストと哲学者たち ラファエル・アントーヴェン(作家、哲学者)

 第八章 プルーストと芸術 アドリアン・グーツ(作家、美術史家)

 

ラジオ講義を編集したものなので読みやすいし、どこから読んでもかまわない。

『失われた時を求めて』を読み進める合間に、気になるところを併読するつもりだ。

 

 

◎2022年9月4日『失われた時を求めて2~第一篇「スワン家のほうへⅡ」~(光文社古典新訳文庫)』マルセル・プルースト

☆☆☆☆☆ディテールにこだわってプルーストを読む

第2巻は第1編「スワン家のほうへ」の「第2部 スワンの恋」と「第3部 土地の名・名」が収められており、第1巻の「第1部 コンブレー」と合わせて第1編が完結し、1913年に出版された。

第1部では主人公の少年時代の回想が一人称で語られたが、第2部では一転して三人称でスワンの恋が語られる。これは第1部で登場したスワンについて、時間を10年以上遡らせて主人公のいない時期と場所での物語となるからだ。そして、第3部では再び主人公の一人称体となり、第1部よりも数年後の話が語られる。

このような構成となっているのは、スワンのオデットへの恋が、その娘ジルベルトへの主人公の恋の前段階として語られる必要があり、かつ、主人公の恋がスワンの恋とあたかも二重写しに重ね合わされるように進んでいくからなのである。

 

まあ、こうしたストーリー展開よりも、訳者のいうようにプルーストの饒舌な心理描写や膨大な比喩のディテールを楽しむべきであろう。

スワンの恋についていえば、傍観的に見れば、スワンとは教養も趣味も異なり、容姿すら自分のタイプでないオデットに入れあげ、どんな不実な対応をされても、それどころか不実な対応をされるほど嫉妬や所有欲が刺激されて恋愛の深みに陥っていく愚かな男(プルーストも不治の病に例えている)に見えるかもしれない。しかし、スタンダールの言うように、恋に熱中する男は自らの主観の中で偶像をつくり上げ、それをどんどん膨らませていくものだ。スタンダールは『恋愛論』の中で、ザルツブルクの岩塩坑の水中に小枝を浸しておくとキラキラする結晶に覆われるという美しい比喩で恋する男の心理を描き、「結晶作用 cristallisation 」という言葉を創出した(ただし、ザルツブルクを訪問した大岡昇平のエッセイによれば、岩塩坑にそのような逸話はなくスタンダールの創作であるとの由)。スワンの恋はこの「結晶作用」をプルースト流に変容したものであろう。

スワンがオデットの偶像を作り上げる際には、ボッティチェリが「モーセの試練」で描いた祭祀エテロの娘チッポラの面影が重要なイメージとして引用されている。この絵はバチカンのシスティーナ礼拝堂にあるが、コンクラーヴェ(教皇選挙)の場所として知られるこの礼拝堂にはあのミケランジェロの天井画「天地創造」と祭壇画「最後の審判」が圧倒的なスケールと人物造形で描かれていて、ミケランジェロ以前に描かれたボッティチェリらの名画はあまり印象に残らない。また、ボッティチェリならフィレンツェのウフィツィ美術館にある「春」の女神フローラや三美神、あるいは「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスのイメージが強いのに、プルーストがシスティーナ礼拝堂のチッポラをここで用いたのはあまりも渋い趣味であると思いつつ、該博な絵画への知識に感心させられる。

なお、スワンはオデットに毎月数千フラン(数百万円?)を与えたり、バイロイト音楽祭にオデットを誘うために2週間の音楽祭の期間ルートヴィヒ二世の作った城を2人で借り切るという豪勢極まりない提案をしたりしており、スワンが上流階級の大変な資産家であることがわかるのだが、その資産の全体像や収入の出所についてはほとんど書かれておらず、物語のリアリティという点で不満が残る。

 

第3部では、主人公のバルベック(架空の都市)を含む大西洋岸地域の荒々しい自然への憧れと、対照的にヴェネツィアやフィレンツェの明るさへの憧れが、その土地の固有の名称の持つ力とともに語られるのが興味深いが、最終段では著者が回顧する現時点からブーローニュの森の情景が描かれ、「もはや優美さ(エレガンス)が姿を消してしまった今日、私はかつて知っていた女性たちに思いを馳せて心慰めるしかない。」と哀惜の言葉が述べられる。

そして、「何かのイメージを回想するとは、何らかの瞬間を愛惜することにほかならない。家々も、道路も、通りもみな、はかなく逃れ去ってゆく。そう、悲しいことに、歳月もまた。」という滋味あふれる言葉で第1編は閉じられる。

 

 

◎2022年8月21日『バッハ: ヨハネ受難曲』カール・リヒター

☆☆☆☆信徒教育用ビデオ?

同じシリーズのマタイ受難曲、ロ短調ミサ曲、ブランデンブルク協奏曲を購入したので(レビュー済み)、ついでにヨハネ受難曲も買った。

演奏時期はマタイ受難曲収録の前年1970年で、演奏者と歌手はほぼ同じだが、場所はディーセンのマリエン・ミュンスター教会である。これはロ短調ミサ曲の収録と同じ場所だ。

しかし、ロ短調ミサ曲が教会内部の映像をバックにした演奏者の映像だったのに対し、こちらは受難に至る聖書の各場面を描いた古いフレスコ画の映像が曲の進行に合わせて静止画で映され、他にも福音書の該当頁がアップで映され、こうした静止画像が全体のかなりの部分を占める。

他方、演奏は細切れに映されるが、全体画像が少なく、演奏者が別々にアップで映されている。教会内の風景はほとんどない。

どうしてこのような画像編集にしたのか、制作者の意図が不明だが、まるで信徒教育用のビデオのようである。

もちろん、演奏自体はマタイ受難曲同様すばらしいものであり、ペーターシュライヤーの福音史家をはじめとする歌手陣も立派であり、リヒターの演奏画像の記録としての価値はある。

 

 

◎2022年8月19日『失われた時を求めて1~第一篇「スワン家のほうへⅠ」~(光文社古典新訳文庫)』マルセル・プルースト

☆☆☆☆☆プルーストを気軽に楽しむ

40年以上前の私が学生時代の頃のことだが、大学1年のフランス語文法の授業で福井芳男先生が、江戸っ子訛り?のフランス語で、「ア・ラ・リシェルシュ・・・」と引用されていたのが、この『失われた時を求めて』À la recherche du temps perdu だった。そのときは息の長い文の例として雑談的に挙げておられたように記憶している。同じく雑談的にだが、蓮實重彦先生の授業では「大病して入院でもしないと読まない本」と話しておられたが、このよく聞く冗句は実はプルーストの弟であるロベールの言葉だったという。実際に原文を読んだのは富永明夫先生のリーダーの授業だったが、もちろん全文ではなく、プチット・マドレーヌを紅茶に浸すあの有名な場面だけである。それでも息の長い文の読解に四苦八苦しながら読んだことを覚えている。

このように、当時のフランス語教師や仏文学者の間ではプルーストは別格の存在感があり、学生たちは畏敬の念をもって『失われた時を求めて』に接していた。

大学卒業後に鈴木道彦氏の翻訳でダイジェスト版(それでも文庫本3巻)を読んだが、全巻はまだ読んでいない。

 

本書の訳者前口上によると、プルーストを読破するという「プルースト教」ではなく、気楽にプルーストの世界に浸ることが勧められている。第1巻が発行された1913年暮れのパリの読者のつもりで読み始めると、第2巻は1919年の発行である。まさにのんびり楽しみながら読めばよいのだ。

『失われた時を求めて』はミステリーのようにストーリーを追って読むのではなく、プルーストの鋭すぎる感受性と文化・芸術への深い素養に裏付けられた回想や雑談が、息の長い文章で延々と続いていくのを味わい楽しみながら、失われた時を再発見する旅をしていくのである。長大な小説だが、速読するのはもったいない。朗読するようなつもりで、ゆっくり味わいながら読むべきである。本書の訳はそれに十分耐える名訳だと思う。

なお、主人公が寝る前の母親のキスに執着する場面で、訳者は“maman”を「お母さん」と訳しているが、私には「ママン」のほうが甘えた感じが出るように思う。ただ、これは読書ガイドで解説されているように、カミュ『異邦人』(窪田啓作訳)の印象的な冒頭「今日、ママンが死んだ。」Aujourdhui, maman est morte.の影響かもしれない。

 

ちなみに、上記の有名なプチット・マドレーヌの場面の本書の訳文を引用する。

「・・・やがて私は、陰鬱だった一日の出来事と明日も悲しい思いをするだろうという見通しに打ちひしがれて、何の気なしに、マドレーヌのひと切れを柔らかくするために浸しておいた紅茶を一杯スプーンにすくって口に運んだ。とまさに、お菓子のかけらのまじったひと口の紅茶が口蓋に触れた瞬間、私のなかで尋常でないことが起こっていることに気がつき、私は思わず身震いをした。ほかのものから隔絶した、えもいわれぬ快感が、原因のわからぬままに私のうちに行きわたったのである。・・・」

このあまりに個人的でかつ感覚的な至福の体験から、失われた時を探す旅が始まるのである。

 

 

◎2022年8月18日『世界』2022年9月号(Vo.961) 岩波書店

☆☆☆なぜ『世界』は電子版がないのか?

興味のある特集なのだが、電子版がない。

仕方ないので紙の本を配送で買おうと思ったが、AmazonPrime会員なのに郵送料が350円かかる。

他の出版物もそうだが、岩波書店は電子書籍で読みたい読者のことを考えていないのかといつもながら思う。

 

競争相手の『中央公論』や『文藝春秋』は紙の本と同時に電子版が出ている。

これでは言論の内容以前に負けているようなものだ。

 

 

◎2022年8月15日『21世紀版少年少女世界文学館セット』講談社

☆☆☆☆よいシリーズだが、内容の更新を期待する

小学3年生の孫娘が、読書好きなのはいいが、『ざんねんないきもの辞典』とか伝記シリーズとかばかりなので、夏休みに文学作品にも親しんでもらいたいと思ってプレゼントした。

しかし、そもそも『少年少女世界文学全集』のようなものがほとんど発行されていない。本シリーズが最も新しそうだったが2011年発行である。全巻の構成は私が50年以上前に読んでいたものとほとんど変わっておらず、翻訳者も中野好夫や坪田譲治といった往年の大家が多いようだ。挿絵は現代風に変えられたようだが。

確かに時代が変わっても子どもに読んで欲しい名作揃いで、翻訳も名訳なのだが、もっと最近の児童文学を取り入れてほしいと思う。

 

少子化に加えて出版業界が苦しい時代なので仕方ないのかもしれないが、子どもに夢を与え視野を広げる良書の出版を期待したい。

 

 

◎2022年8月14日『LGBTの不都合な真実』松浦大悟

☆☆☆☆LGBT問題に左派も右派もないだろうと思う

著作の題にある「不都合な真実」とは、いうまでもなくアル・ゴア元アメリカ副大統領の地球温暖化問題を訴えた著作のもじりであるが、ゴア氏が民主党でリベラルであることから左派やリベラルにとって「不都合な真実」というニュアンスもあるのだろう。

著者自身がゲイであると自認しており、当事者ならではの情報の豊富さと問題関心の鋭さも感じるのだが、随所にちりばめられている左派批判、リベラル批判がステレオタイプで首をかしげることが多い。だいたい、LGBT問題に対する左派やリベラルのスタンスといっても、価値観や性的指向(嗜好?)にかかわる問題について、個人の人権や平等を尊重するという以上に左派やリベラルの共通項があるのだろうか。

例えば、本書で取り上げられているトランスジェンダーのトイレ利用問題などは左派でも意見が分かれるであろうし、男性同性愛者の「ハッテン場」などの話は嫌悪感を持つ人が多いのではないか。

著者は、冒頭で杉田水脈議員の『新潮45』での主張がそんなに問題なのかと疑問を呈しているが、杉田議員の発言が内外の大批判を浴びて雑誌廃刊にまで至った理由は、LGBT問題の理解というよりは、子どもをつくらないのは「生産性」がない等の下品で露悪的な言葉遣いとその思想が衝撃的だったからだろう。

また、著者は同性婚問題で憲法改正すべきだと主張しているが、これが憲法改正で承認しなければならないような問題とも思えない。札幌と大阪の地裁判決はいずれも憲法は同性婚を禁じていないと述べており、国会の立法問題として扱えば社会的承認としても十分と思われる。

 

ただ、LGBT問題に関する著作の多くが多数者は差別者と言わんばかりの上から目線の議論が目につく中で、本書は差別糾弾型の運動ではなく対話による理解を広げることをめざしている点は評価できる。

 

 

◎2022年8月13日『電子出版とは何かを問い続けて』萩野正昭

☆☆☆☆電子出版は出版文化に貢献しうるか

デジタル出版事業のパイオニアである萩野正昭氏のインタビューを中心に構成されているが、分量的には短く、萩野氏の歩みと電子出版の未来に関する問題意識に止まっている。

 

電子出版は最初は馬鹿にされてきたというが、今では紙の出版を圧迫する勢いに至っている。私自身、かつては本の虫で暇があれば書店を回って面白そうな本を買い漁り、家は本棚で一杯という状況だったが、今ではほとんど電子書籍しか買わなくなっている。老眼で字を大きくして読みたいことと、重い本を持ち歩きたくないというのが主な理由だが、こうした利便性には紙の出版は勝てないだろう。

しかし、よい出版があってこその出版文化であり、電子出版で便利になったが読むべきものがなくなっては意味がない。これまで良書を出版してきた中小出版社が苦しくなっている状況は、出版文化にとってマイナスである。萩野氏も、「前提として重要なのは中味」でデジタル技術とは関係ない、書いたものが出版として世の中に出ていくのをデジタル技術でアシストするのだと語っている。

その点では、著作権の切れた名著をデジタル化する青空文庫や絶版となった名著の電子版での復刻などは紙の出版ではできなかったことだし、無名の新人の発表の場が電子出版で広がる可能性もある。

 

インターネットで誰でも発信して発言できても、一方的な主張だけで議論にならないことが多い。萩野氏の言うように、本のよさは「人と人をつなぐ」ことであり、お互いを理解する場となることなのである。

本書では紙の出版の制約や著作権に縛られた出版業界の保守性が再三指摘されているが、電子出版がそうした業界の保守性を打破して出版文化に貢献しうるかが問われている。

 

 

◎2022年8月11日『一杯の珈琲から』エーリヒ・ケストナー

☆☆☆☆祝祭都市ザルツブルクを舞台にした上質なコメディ

主人公のゲオルクは友人カールに誘われてベルリンからザルツブルクへ行くのだが、当時の為替管理法のために国境を越えて現金を持ち出せず、無一文で行く羽目になる。そこで、待ち合わせのカフェで1杯のコーヒーを支払えずに困っていたところ素敵な女性と出会って恋に落ちるという、なんとも絵に書いたようなお話である。

しかし、それが似合うのがザルツブルクであり、時期も夏の音楽祭シーズンである。この小説の主役は実はザルツブルクの街とその文化的香りといっても過言ではない。ザルツブルク音楽祭は1920年から始まったが、この小説ではすでに外国人観光客6万人以上が自動車15000台で訪れたと書いてあり、土産物の「モーツアルト・ボール」(チョコ)まで登場する。そういえば、主人公の恋人「コンスタンツェ」もモーツアルトの妻と同じ名前である。

主人公と恋人がミラベル庭園やレジデンツ広場、美術館、聖フランチェスコ教会等の名所をデートして回る場面はまるで映画「ローマの休日」のようで、とてもロマンチックである。もちろん、主人公は音楽祭プログラムであるオペラ「薔薇の騎士」や「フィガロの結婚」を観劇したり、大聖堂でベートーベンのハ短調ミサ曲やモーツアルトのレクイエムを聞いたりもし、定番の野外劇「イェーダーマン」の上演もある。まるで観光案内である。

物語は、伯爵家の女中と名乗った恋人が実は伯爵令嬢であり、それどころか伯爵一家全員が使用人のふりをして自邸でアメリカ人の富豪一家をもてなしている(喜劇の脚本を書くため)という設定で展開していくのだが、深刻な葛藤やドラマにはならず、軽い上質なコメディで仕上げられている。主人公が恋人の家に泊まって隠れた体験がオペラ「薔薇の騎士」を観劇した時にフラッシュバックされるが、伯爵一家のなりすまし芝居でドタバタの展開となるところも「薔薇の騎士」を彷彿させる。

 

実は、ケストナーがこの小説を書いた1938年はすでにナチス政権となっており、ケストナーは作家活動を禁じられていた。この小説もドイツでは出版できず、国外で出版された。ケストナーがザルツブルクの祝祭空間を舞台としたこうした上質なコメディを書いたのは、ナチス的な文化への抵抗という意味もあったはずだ。

 

なお、本書には訳注がほとんどなく、ザルツブルクの名所や音楽祭になじみのない読者には不親切である(ザルツブルク市の観光HP等を参照されたい)。また、ドイツ語をそのままカタカナにした「フェストシュピール・ハウス」(祝祭劇場)や「ドーム」(大聖堂)などはわかりにくいし、「薔薇の騎士」の登場人物は「伯爵夫人」ではなく「元帥夫人」である。最後に出てくるイタリアワインは「シャンティ」ではなく「キャンティ」であろう。

  

      (ミラベル庭園からホーエンザルツブルク城を望む。2014年8月撮影)

 


◎2022年8月10日『ケストナーの終戦日記』エーリヒ・ケストナー

☆☆☆☆☆「1945年を忘れるな!」 良心の抵抗者が見た敗戦

エーリヒ・ケストナーは『エミールと探偵たち』などの児童文学で有名な作家であるが、ナチス政権下で作家活動と出版を禁止されながらも、トーマス・マンのように亡命を選択せずにベルリンに止まり続けた。

本書は、ナチス崩壊前後の1945年前半の日記を整理して出版したものであり、ベルリンやドレスデンの空襲の下、ナチスドイツの敗戦を感じつつ人々が右往左往しながら生き延び、また敗戦と連合軍の進駐を前に悲喜こもごもに慌てふためく様が生々しく記録されている。

敗戦間近の情勢下でもむなしく虚勢を張るヒトラーやゲッペルスの愚かしさがシニカルに描かれると同時に、大空襲の無差別殺戮を繰り広げる連合軍にも著者の批判の視線は向いている。その姿勢は、最後の追記で広島・長崎の原爆投下を厳しく追及していることにもあらわれている。

敗戦後の戦争責任追及にも同様の批判的視点は貫かれている。そもそも宥和政策でヒトラーを増長させたのは誰なのか、私たちに向かって最初の石を振り上げる権利をあなた方は持っていないと。

 

ナチス独裁を支持した「平凡な市民の行動」の心理について、著者は「独裁下における人間の可変性」という仮説を提示している。すなわち、水が圧力で凝集状態を変えるように、人間も絶えず増大する圧力の下で最初は不安な状態に置かれるが、やがては全く不安がなくなり自発的に権力者に同調するようになる。こうして「良心は曲げることができる」のであり、その時点があの「水晶の夜」のユダヤ人迫害だったという。著者はその夜、暴力と迫害を止めようと乗っていたタクシーから3度降りようとしたが、その都度警官に阻止された。まさに、「逆さまな世界が公然と支配していた」のである。

著者は日記の最後に強制収容所からの生還者から聞いた話を記録しているが、まさしく「身の毛のよだつ」不快極まりない話である。それでも著者は、ガス室での大量殺人、死体の服や歯の金や銀の詰め物の再利用、収容所の医師らによる人体実験等々をあえて克明に記録しており、そこで日記はぶっつりと切れて終わる。

後日の「追記」として、広島・長崎の原爆投下とそれ携わった兵士の精神病発病が記されている。

1945年を忘れるな!」が本書の結語であり、同時に原著の表題である。

 

なお、訳者の高橋健二氏はケストナーとほぼ同年代だが、戦時中は大政翼賛会宣伝部長に就任し、ナチス文学も紹介していたらしい。本書の訳者解説には全くそのことは触れられていないが、どのような思いで本書を翻訳したのだろうか?

 

 

◎2022年8月8日『ローヤリングの考え方』榎本修

☆☆☆☆☆弁護士実務のあり方を丁寧に解説

「ローヤリング」とは聞き慣れない言葉だが、lawyer(弁護士)+ing の造語であり、アメリカのロースクール発祥の言葉である。本書では「弁護士がすること」と一応訳してあるが、弁護士が依頼者とどのように接していくかが主な課題である。

著者は名古屋大学法科大学院等の実務家教員を長く務めており、本書はローヤリングの授業を担当した経験を踏まえて書かれたものである。

したがって、本書はロースクール生の参考書となるのはもちろんだが、現役弁護士にとっても自らの実務を理論的体系的に見直す助けとなるものといえる。

 

近年の弁護士人口急増と地域的職域的配置の拡大により、弁護士は一般国民に身近な存在となっており、インターネット上の弁護士広告も広く行われている。

他方、そうした中でWeb上の法律相談のみで受任に至るケースや、派手な宣伝で大量受任して事件処理が機械化したり滞ったりするケースもあると聞く。

その点では、本書は依頼者の納得を重視した懇切丁寧な法律相談と受任、交渉をめざしており、まさに弁護士実務の「王道」を説くものといえる。

 

なお、著者は本文中と補論で「弁護士像」について詳しく論じているが、これは古くて新しい問題である。

「在野法曹」、「プロフェッション」、「社会生活上の医師」などといった弁護士像のモデルがこれまで提示されてきたが、司法制度改革により透明なルールによる公正な社会の実現を社会の隅々まで、あるいは企業内や官公庁内部にまで及ぼすことが現代の弁護士には期待されており、それに見合った弁護士像の議論が課題となっている。

「基本的人権の擁護と社会正義の実現」(弁護士法1条)という使命は弁護士の存在理由であり、その使命を遂行するための高度の専門知識の確保と、自らの判断と責任で職務を遂行しうる独立性がその核となろう。

 

 

◎2022年8月7日『新しい世界史へ 地球市民のための構想 (岩波新書)』羽田正

☆☆何のための「新しい世界史」なのか?

冷戦終結後、世界のグローバルな交流と一体化が進むかと思われたが、21世紀に入ってテロや戦争が続発し、民主主義国家はかえって減少したと言われている。そして、ウクライナ戦争勃発以降は冷戦時に逆戻りしたかのような世界のブロック化の進展である。

こうした世界の状況を理解する参考になるかと思って本書を読んだが、全く期待外れであった。

 

まず、著者のいう「新しい世界史」の世界史像がわからない。

「地球市民」とか「世界はひとつ」とスローガンのように繰り返されるが、so what ? (それがどうした)である。まるでかつての「宇宙船地球号」とか「世界は一家、人類は皆兄弟」みたいではないか。

過去の世界史として著者が引用する上原専禄の『日本国民の世界史』(1960年)は次のように、世界史教育の理念と目標を明確に語っていた。

「世界平和の維持と創造、政治・経済・社会・文化の諸面における日本の主体性と自律性の確立、国民の生活水準の向上、社会生活の不合理さの除去、個人の自由と人格の尊厳との確保などの問題を考える」

また、戦後のマルクス主義歴史学は労働者・農民階級の解放、搾取の廃絶、植民地支配からの諸民族の解放といった歴史観を示しており、その大本には、「自由の理念の実現」というヘーゲルの歴史哲学がある。

こうした明確な目的意識を持った過去の世界史像に対し、「地球市民」として世界史を語る意味は一体何か?

 

著者は、兼原信克氏に従って、①法の支配、②人間の尊厳、③民主主義の諸制度、④国家間暴力の否定、⑤勤労と自由市場を「重要価値」として挙げるが、このうち①~③は近代西欧由来の立憲主義の中核理念である。ところが、著者はこれはヨーロッパだけではなく、世界各地、過去の日本や中国にもあったというから目を疑う。

著者は①を「いかなる権力も法の下にある」、②を「人間を大切にする」という兼原氏の説明をそのまま引用しているが、これは理念を全く薄めて換骨奪胎したものというしかない。「人間の尊厳」とは個人を最高の価値原理とする思想であり、この価値原理(基本権としての自由と人権)により国家権力や社会的権力を制限するのが「法の支配」(法治主義とは異なる)、それを保障する政治体制が「民主主義」なのである。もちろん、こうした価値理念は過去の日本や中国に存在したわけがないし、現代中国やロシアなどの非民主主義国家にも存在しない。

 

著者は繰り返し「ヨーロッパ中心史観」を否定するが、これは過去にも様々な観点から批判されてきたものだ。

しかし、歴史的事実として、大航海時代以来のヨーロッパ諸国の世界的規模での活動が世界史推進に大きな役割を果たし、産業革命以降は科学技術の革新による生産力の飛躍的増大と軍事力の強化で全世界を席巻したことは否定できない。著者は、ヨーロッパだけでなく世界の諸国民もこれらの歴史に貢献したというが、そうした平板な理解では、歴史の推進力とその反作用、支配と抵抗といったダイナミズムは全く視野の外に置かれてしまうだろう。

著者はまた、時系列的歴史理解も排除し、原因結果での歴史の説明をしないという。しかし、歴史上の大きな変動や事件の原因を探求し、それをもたらした個々人や集団、あるいは文化や思想の役割を解明しない歴史学に一体何の意味があるのだろうか。

 

近代ヨーロッパが世界史に果たした役割を承認したうえで、個人の尊厳や自由、民主主義といった理念を世界規模でどう実現するのか、それが問われているのではないか。

 

 

◎2022年8月5日『尊厳 その歴史と意味 (岩波新書)』マイケル・ローゼン

☆☆☆哲学者の議論は現代の「尊厳」論議に実益があるか?

「人間の尊厳」は近代立憲主義の中核的概念であり、日本国憲法でも「個人の尊厳」が自由主義と民主主義を統括する最上位の価値概念とされている。

本書はこの「尊厳」をめぐる哲学的観点からの概説であるが、哲学史的・思想史的理解を深めることには有益であるとしても、そこから現代的諸問題に実益ある指針が得られるのかが問題である。

 

知識としては、「尊厳」を最も多用するドイツ基本法の思想的淵源がカントとカトリックであり、かつ、両者が対立を含む緊張関係にあるという指摘が重要である。カントは尊厳の根拠を道徳性(内なる道徳法則による自律)に求めるが、現代的にはこれは主意主義的に解されるという。他方、カトリックの尊厳はかつてのヒエラルキー的なものが20世紀には平等主義的に転換したとされるが、尊厳の対象は道徳性よりも神の被造物である人間存在自体に向けられている(ちなみに、カントはカトリックではなく、プロテスタントの中でも内面の心情を重視する敬虔主義の影響が大きい)。

 

では、こうした思想史的理解から現代の諸問題が演繹的に解明されるのか?

まず、本書でも引用される中絶禁止を違法としたアメリカの「ロー対ウェイド判決」は人間の選択の自由を尊厳で根拠づけたが、本年624日に連邦最高裁はこれを覆し、中絶を禁止する州法を容認した。周知のとおりこれはトランプ政権時代に連邦最高裁判事が保守派多数で構成された政治的な結果であり、「尊厳」をめぐる哲学的論争によるものではない。他方、ドイツの憲法裁判所は尊厳を根拠に胎児が保護されることを宣言したが(カトリック的である)、その後、妊娠後12週間以内でかつ女性がカウンセリングを受ければ中絶は不可罰としたという。これも現実的な考慮を踏まえた政治的妥協によるものである。

 

また、著者が重視するダシュナー事件と航空安全法についていえば、前者の、誘拐事件の被害者救出のために誘拐犯を拷問で脅すことを禁止する判例法理は、誘拐犯個人の「尊厳」というよりも拷問という捜査手法一般の非人道性と危険性に着目した議論であろう。後者については、著者は自爆テロに用いられる旅客機の乗客は撃ち落とされることに同意するだろうというが、同意を推定することは疑問であり、乗客を「他者を救う手段」とすべきでないとした憲法裁判所の判決のほうが納得できる(なお、インフォームドコンセントを濫用した先端医療の暴走に対し、尊厳は重要な歯止めとなっている)。むしろ、ここでも哲学的議論による尊厳の演繹ではなく、緊急避難等が法的に成立するかどうかの個別具体的な判断と責任の問題なのではないか。

 

さらに、著者が最後に難問として挙げる「尊厳をもって遺体を扱う義務」についても、カントの「叡智界の存在者」といった哲学的議論を援用するまでもなく、端的に「死者の尊厳」を肯定すればよいことだ。その根拠は宗教的な死者理解でも、生前の故人への追慕でも、遺体を人間存在の残像と見るというのでもよい。古今東西どこでも死者の尊厳は埋葬や葬祭で重視されているのだから、その「尊厳」の抽象的議論に実益があるとは思えない。

 

 

◎2022年8月2日『歴史と向き合う 日韓問題―対立から対話へ』朴裕河

☆☆☆☆☆学問の政治化と法至上主義を批判し、歴史に誠実に向き合うことを求める

戦後最悪といわれる日韓関係の大きなトゲとなっているのは、言うまでもなく慰安婦問題と徴用工問題である。著者は慰安婦の歴史的実情を踏まえた『帝国の慰安婦』を書いて慰安婦支援グループから刑事訴追までされたが、著者の問題解決へ向けた真摯な意図は本書を読んでも十分伝わってくる。

本書はまず日本で出版されたが、それは問題が韓国内の支援者にとどまらず日本で慰安婦問題や徴用工問題を支援する学者や弁護士らへも向けられたものだからである。政府間の対立にとどまらない国民感情レベルの対立にエスカレートしている状況について、こうした日韓の支援者らこそ著者の指摘に耳を傾けるべきと思う。

 

著者はまず、「歴史認識における学問の政治化」を批判する。日韓併合条約の無効という学問的主張から、日韓併合時代の関係を「交戦、占領」状態と帰結し、不法な占領ゆえにその下での徴用が「慰謝料」(未払い賃金ではない)の対象として判決で認められる。日韓併合が日本軍の強迫でなされた法的に無効なものであるとしても、その後の植民地時代の統治がすべて不法、無効となるものではない。

また、「交戦」状態の相手国からの慰安婦募集はルワンダやユーゴにおける集団強姦と同一視され、慰安婦は「性奴隷」と定義される。これには、冷戦崩壊後の南北朝鮮交流の機運の中で、北朝鮮の慰安婦被害者の極端に誇張され歪められた訴えも援用されており、国連のクマラスワミ報告等に記載されたという。

こうした学問の政治化やそれを踏まえた弁護士の法律構成と判決は日本統治時代の実態から離れた過剰なイメージに基づいているため、徴用工や慰安婦の当事者を置き去りにし、日韓両国の国民感情レベルの対立をエスカレートさせて、政治的解決を困難にしているのである。

 

日本側にも当然問題はある。

慰安婦問題についていえば、河野談話以来、政府レベルで謝罪と事実上の賠償が繰り返されてきたのに、それを打ち消すような与党内の右派の言動が繰り返されたこと、オバマ政権の仲介による日韓合意では政府として公式に謝罪して賠償を決めたのに、安倍首相が誠実な謝罪の手紙等を拒否(「毛頭考えていない」と国会で答弁)し韓国内の憤激を買って台無しにしたことである。これが田中角栄や中曽根康弘といった老練な政治家なら、慰安婦本人に謝罪するパフォーマンスを見事に演じて韓国内にアピールしたはずだ。

 

結局、こうした過去の歴史に関わる問題は法的責任の争いや国民感情レベルの対立にエスカレートすることを避け、日韓双方が歴史の事実に誠実に向き合って、政治的歩み寄りによって解決するしかないと思われる。

 

 

◎2022年7月29日『 IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』フランシス・フクヤマ

☆☆☆☆階級闘争から「尊厳をめぐる闘争」へ?

序言に書かれているように、本書はトランプがアメリカ大統領に当選したこととイギリスが国民投票でEU離脱を決定したことの衝撃を踏まえて書かれている。

その意味では、まずはアメリカの現代政治状況の混迷とEUの政治的危機を念頭に置いているわけだが、自由民主主義社会と「アイデンティティの政治」に関する考察はより幅広く、示唆に富むものといえる。

 

著者は、現代の自由民主主義国家は、個人の権利、法の支配、参政権という形で最低限の尊厳を国民に平等に認めているが、実際には尊厳が認められる保証はなく、周辺に追いやられた人々や集団が尊厳の承認を求める闘争に駆り立てられるのだという。その最も顕著な例が移民やイスラム主義の問題であるが、他にも人種や少数民族集団、LGBTグループ、難民等も含まれる。しかも、左派政党がそうした少数グループの尊厳や権利擁護に熱心に取り組む反面、従来の支持層であった労働者階層は新自由主義により没落し、彼らのアイデンティティ要求がナショナリズムへと向かう。

このように、著者は人間の行動を単純に経済的動機で理解してきた支配的モデルではなく、尊厳の承認を求める「アイデンティティの政治」で理解する必要があるというのである。

 

確かに、20世紀の社会主義国家の崩壊や社会民主主義政党の退潮は階級闘争型の政治運動を(経済的格差の拡大にもかかわらず)時代遅れのものとしつつあるし、移民をめぐる政治論争やポピュリズムの台頭、その反面で多様性を求めるマイノリティの運動やイスラム急進主義はまさに「アイデンティティの政治」を前面に押し出している。

ここで左派は「アイデンティティの政治」を多文化主義として扱うが、そこには4つの問題点があると著者はいう。

1.狭いエリート制度内の文化や地位向上の問題としてとらえる。

2.その反面、より大きな集団である労働者階級の大量失業や格差拡大に対処する戦略がない。

3.自由民主主義に必要な理性的対話ではなく、感情的な「生きられた経験」が重視される。

4.こうした左派に対抗して右派の「アイデンティティの政治」が活発化する(ポリティカル・コレクトネスへの反発など)。

 

これに対し、著者は法の支配や立憲主義などの自由民主主義の理念をあくまで擁護する立場から、「解決策は、既存の 自由民主主義社会にすでに存在する多様性を考慮に入れた、もっと大きく統合的なナショナル・アイデンティティをつくることに見いだされる」と強調する。具体的には、「市民権と在留資格についてのルール、移民と難民に関する法律、学校教育制度の中での国の歴史を教えるカリキュラム」などである。これらはいずれも大きな政治論争を巻き起こす課題ではあるが、EUの大量移民問題などをみれば、確かに多文化主義だけでは解決できず、どうやって統合するかが大きな課題だといえる。

他方、著者は貧困者や社会の周辺に追いやられた人々の憤りを抑えることも「アイデンティティの政治」として重視しており、それが「オバマケア」や中道政党による社会福祉国家の評価につながっている。

 

 

◎2022年7月26日『映画を早送りで観る人たち』稲田豊史

☆☆やはり「今どきの若者は・・・」風のぼやきでしかない

著者はそうではないと否定しているが、著者よりも世代が上の私から見ても本書は「今どきの若者は・・・」という古来繰り返されたぼやきだと感じる。

 

1に、現代の若者がドラマや映画をスマホやタブレットで見る視聴スタイルの違いに映像の作り手が追いついていない点。これはかつて映画が発明されたときの演劇界の対応、さらにテレビが発明されたときの映画界の対応も同様であろう。音楽でいえば、蓄音機の発明からレコード、CDMP3と技術が進化していくたびに演奏家が繰り返し対応に苦慮した同じ問題である。技術の進化は視聴スタイルを変えてしまい、それに作り手は遅れて対応していくしない。

著者は現代の若者が「コスパ」や「タイパ」を重視するというが、予備校本に頼って古典や名著を読まない受験勉強などを想起すれば、そうした時間節約の「合理主義」は昔から変わらないのではないか。

 

2に、著者自身が「鑑賞モード」と「情報収集モード」と書いているように、倍速視聴は情報収集という目的的行為なのである。例えば、私は本書を倍速以上で読んだが、それは本書が文学作品ではなく、そのテーマに少し関心をもってまさに「情報収集」するために読んだことと、内容がほぼ予想どおりで「斜め読み」できたことによる。速読術とはまさに「情報収集モード」であって、キーワードを拾いつつ目で斜めに本を読んでいく。また、前書きと後書きを先に読んで、つまらなそうな本なら読まないことも多い。ドラマや映画の録画を倍速や飛ばし再生でチェックするのは私自身もよくやることであり、つまらなそうな録画は見ないで消去する。これらは誰でもやる行為ではないか。

これに対して、文学作品を鑑賞するときは音読するようにわざとゆっくり読んで、作家の文体を味わい、場面や登場人物の心理を想像して楽しむ。映画も同じであろう。このような「鑑賞モード」は当然ながら時間と心の余裕あるいは心構えが必要なので、その対象は自分の興味関心のあるものに絞らざるを得ないし、定評ある書評や映画評論で事前にリサーチする必要がある。

 

要するに、情報収集や知識を仕入れるための読書や映像視聴と鑑賞するための読書や視聴は全く別物なのだ。そして、こうした鑑賞へのニーズは現代でも当然ある。

レコード音楽を本物の音楽でないと批判した大田黒元雄を著者は「昔、目くじらを立てた人がいた」と嘲笑するが、今ではレコード会社やオーディオメーカーのほうが斜陽産業であり、他方、コンサートホールや劇場はいつも満席である。「本物の音楽」へのニーズは強いのだ。映画についても、本書には上映時間は1本=2時間という常識が現代でも変わっておらず、かえって延びる傾向があると書いてある。つまり映画館で倍速でなく映画を見る人のニーズは変わらないのである。

やはり視聴者の側の問題というよりも、技術の進化に対応して視聴者を惹きつける作品を作る側の問題が大きいというべきだろう。

 

 

◎2022年7月24日『「歴史の終わり」の後で』フランシス・フクヤマ

☆☆☆☆『歴史の終わり』の著者は、実は穏健な福祉国家論者だった!?

あの『歴史の終わり』の著者であるフランシス・フクヤマの最新刊で、この5月に出版されたと聞けば、当然ロシアのウクライナ侵攻への発言があるのだろうと思ったが、本書が書かれたのは2020年末である。

にもかかわらず、本書の中ではロシアのプーチンを「ポピュリスト組織の国際同盟を率いる立場にいる」と規定し、ウクライナについては特に節を設けて「権威主義の拡大との戦いにおける最も重要な前線国」と位置づけて、その独立と民主主義の維持を注視している。

したがって、ロシアのウクライナ侵攻とそれを契機とした世界の分断と危機を予見していたかのようなインタビューとなっている。

 

それにしても「歴史の終わり」というフクヤマの言葉は、著作の出版が冷戦終結と重なったためにあまりにも有名となって一人歩きしてしまったようだ。私自身も、当時、この言葉を資本主義勝利の浅薄な現状肯定論のように感じていた。

しかし、本書で語られるフクヤマの思想は穏健な自由民主主義そのものである。フクヤマは理想としてデンマークを掲げ、「現代資本主義の黄金時代」はヨーロッパ社会民主主義の福祉国家のときだったというコリアーの主張を肯定的に引用している。また、レーガンから父ブッシュまでは共和党を支持していたが、近年はオバマ、ヒラリー・クリントン、バイデンの民主党候補に投票したと語っている。特に、イラク戦争と金融緩和をアメリカ政治の2つの大きな誤りと批判し、トランプを危険なポピュリストとして厳しく断罪している。著者自身の立場は変化していないが、アメリカ政治の軸が右に大きく傾いたのである。

 

実は「歴史の終わり」という言葉自体がヘーゲル的な歴史の目的論的理解を前提としており、フランス革命による自由・民主主義の達成を歴史の到達点として設定していることを意味している。

本書ではこの「歴史の終わり」が様々な観点からインタビュー形式で検討され、冷戦崩壊後の自由民主主義に対する逆流、ポピュリズムの台頭、中国やロシアなどの権威主義的国家の危険性などが論じられる。

フクヤマは『文明の衝突』のハンチントンのような宗教による相対主義の立場に立たず、自由民主主義を基礎とした世界の構築をめざしている。その際に、ナショナル・アイデンティティの感覚とそれを支える国家の役割を重視するのである(このあたりはルソー『社会契約論』の「公民宗教」の節を連想する)。

 

インタビュー形式なので全体にわかりやすく、著者の主張と問題意識が縦横無尽に語られている。

世界政治の現場を幅広く、かつ歴史的国際的視野で考察した良書といえる。

 

 

◎2022年7月19日『方法叙説 (講談社学術文庫)』ルネ・デカルト

☆☆☆☆☆近代合理精神の自信あふれるマニフェスト 小泉訳は学術性を重視

有名なデカルトの『方法叙説』Discours de la méthode だが、分量的にはとても短い。本書も100頁の薄い本である。

しかし、私が学生時代に本書の原書講読をしたときは、落合太郎訳(岩波文庫)や野田又夫訳(中公「世界の名著」)に頼りつつ、E・ジルソンの驚くほど分厚い注釈書をも参照して、四苦八苦しながら読んだことを思い出す。

この新訳は、デカルト研究者である小泉氏による満を持した翻訳であろう。訳文は訳語の選択や統一性に配慮した学術性重視の訳であり、注釈ではフランス語とラテン語の原文を示して疑問点を説明しているほか、ジルソンの重要な指摘も引用している。例えば、第3部冒頭で、通常は「暫定道徳」と訳される une morale par provision を小泉氏は「暫定」ではなく「備えとして」と訳していること、第4部の通常は「精神と物体の区別」として訳される「精神」を原文の âme の解釈とデカルトの用法に従い「魂」と訳しているところなどは注目される。

 

著作の内容については有名な古典ゆえ膨大な注釈や研究があるが、研究者でない読者はまず素直に読んで、古典の面白さを味わうべきである。なんといっても、近代初頭の大知識人であるデカルトの自信あふれる合理精神と自由な思考に感銘を受けるはずだ。

1部で中世以来の諸学問を批判的に総括したデカルトは、次のように語る。

「教師への服従を脱することが許される年齢になるとすぐに、私は文献の研究から全面的に離れた。そして、自己自身のうちに、あるいは、世界という大きな書物の中に発見される学知だけを探求する決心をして、青年時代の残りを、旅すること、宮廷と軍隊を見ること、多様な気質と身分の人を訪ねること、さまざまな実験結果を集めること、運命の巡り合わせの中で自己を鍛えること、いたるところで現われるものについて反省し、そこから益を引き出すことに費やした。」

まさに青春の旅立ちである。

そして、デカルトはオランダでの軍務と「炉部屋の思索」を経て、従前の知識で根拠のあやふやなもの、少しでも疑わしいものを大胆に切り捨て、ついには「私は思考する、故に、私は存在する。」Je pense, donc je suis. という第一原理に到達する(第4部)。この思考と存在の関係については様々な批判や議論があるのだが、思考する主体=個人を第一の判断基準として打ち立てたマニフェストとして読むべきだろう。

もちろん、デカルトはこの直後に神の存在と完全性に言及することを忘れないし、霊魂の不死にも論及するが、このあたりは議論の筋を理解すればよかろう。デカルト自身が第6部で触れているように、ガリレオの地動説が異端とされた衝撃が叙述に陰影を与えていると読むこともできよう。

 

なお、訳者解説では、「デカルトは、『方法叙説』を通して、その万人の良識に向けて、人間を殺したり死なせたりする学知や技術ではなく、人間を生老病死の苦から救済する哲学と学問の探求を呼びかけている」との興味深い指摘をしていることを付記する(第6部の末尾の注では、軍事技術の計画にデカルトが愛着を示さなかったとするジルソンの解釈を引用している)。

 

 

◎2022年7月18日『失敗しないためのジェンダー表現ガイドブック』新聞労連

☆☆☆☆「失敗しないため」から、思想としてのジェンダー表現へ

出版労連のチームの著作なので「失敗しないため」という実用的・マニュアル的な表題となっているのだろうが、書いてある内容は表面的ではなくジェンダー理解にかかわる思想的な問題ばかりである。

 

1章では、ジェンダーバイアスを感じさせる様々な表現事例が挙げられているが、性別役割分業にせよ、過剰な性別表示にせよ、性の商品化にせよ、そうした表現をキャッチコピーとしてつくって流布してきたのは新聞を含む当のマスコミ自身である。

また、同じ記事でも新聞とネット媒体で表題を変える(PVを稼ぐためにネットでは過剰な性表現にするなど)という指摘は興味深かったが、これもマスコミの愚民観のあらわれである。

性暴力表現に至っては、ステレオタイプで被害者に責任転嫁しかねない表現とか、偏見やセカンドレイプを生む表現といった、被害者に寄り添わない表現や取材方法が問題とされるが、これは近年のMe-too運動でようやく是正されつつあるようだ。

いずれにせよ、これらは日本社会の問題というよりも、企業とりわけマスコミの男性中心的社会の歪みといったほうが大きいのではないか。そうした点を自覚的にえぐり出して、体質改善をはかる自己批判の書として本書は活用されるべきだろう。

 

 

◎2022年7月17日『朝日新聞政治部』鮫島浩

☆☆☆☆新聞ジャーナリズムはどこへ行く?

朝日新聞の政治記者を長年勤めたものの、福島原発事故「吉田調書」問題の担当デスクとして責任を問われ、早期退職した著者の自伝的色彩の強い朝日新聞批判である。

本書の前半から3分の2くらいまでは、著者の駆け出し記者時代から、警察回り、政治家「番記者」時代のエピソードが語られる。よく言われる「夜討ち朝駆け」とか記者クラブ制度とか、番記者と政治家との密着ぶりとかが、当事者の言葉で生々しく語られ、著者の自慢話のようなところもある。しかし、著者自身が後で批判しているように、部外者から見れば「アクセスジャーナリズム」の弊害そのものであり、読んでいて気分のいいものではない。警察や政治家に密着して情報を取るといっても、反面で権力サイドの情報操作の駒とされているわけであり、「特ダネ」を抜くとか他社に抜かれるという業界の競争が一般国民に何の関わりがあるのかと思う。

その点では著者の始めた独立した調査報道こそがジャーナリズムの本来の姿であろうと感じるが、その後の経緯を見れば、大企業で官僚化した朝日新聞社にはこうした方向を育てる気風と力がなかったのであろう。

 

しかし、なんといっても本書の見どころは第6章の吉田調書問題以降の部分である。

「吉田調書」とは福島第一原発事故における吉田所長の事故対応に関する調書のことであるが、これを入手した朝日新聞は著者らの特報チームの取材により、当時の吉田所長の職員に対する福島第一原発での待機命令にもかかわらず職員の大部分が第二原発まで退避したというスクープ記事を掲載した。これが後になって、退避した職員に取材せずに待機命令違反と決めつけたと批判されたわけだが、記事の趣旨は退避した職員の責任を問うことでなく、原発の危機管理体制を問題にすることにあった以上、新聞社としては記事の修正や補足で対応することは十分可能であったと思われる。

ところが、同時期に朝日新聞社が問われた日本軍慰安婦に関する偽証報道の訂正問題や、これを批判した「池上コラム」の掲載拒否問題などの朝日バッシングの渦に巻き込まれる形で、吉田調書批判は社長会見による「誤報・取消」にまで発展する。このあたりの朝日新聞上層部の保身と現場記者切り捨ての過程について、本書は著者自身の体験として生々しく描いており、あの当時の騒動の内幕はそうだったのかと改めて納得した。

 

それにしても、朝日新聞のみならず大新聞の凋落はすさまじい。2009年以前は800万部以上のあったという朝日新聞の発行部数はその後500万部を割り込むまで急減した。安倍政権が朝日をターゲットにしたという点も大きいだろうが、それ以上にネット社会の進展で新聞ジャーナリズム全体が地盤沈下しているのである。本書には東京五輪のスポンサーに大新聞が軒並み名を連ねたという事情も紹介されているが、発行部数減少に代わる収益の柱として、デジタル事業のみならず「不動産事業」や「イベント事業」が打ち出されているという。新聞社が不動産事業?と聞いて驚くが、社屋のテナント料などの賃貸事業らしい。これではますます権力から独立した「社会の木鐸」としての役割は期待できそうにない。

しかし、いくらネット社会が進展しても、現場取材する記者がいなければ権力に切り込んで真相に迫る情報が入手できるわけがない。改めて現場記者を重視するジャーナリズムの再構築が望まれるところである。

 

 

◎2022年7月14日『危機の二十年-理想と現実 (岩波文庫)』E・H・カー

☆☆☆☆☆「ユートピアニズムとリアリズム」 現代世界政治をも照射する名著

1919年から1939年まで、第1次世界大戦から第2次世界大戦の間の戦間期の国際政治に関する論考である。

本書は国際政治学原論のような体裁であるが、そもそも国際政治学は「大規模かつ悲惨な戦争から生まれた」とされ、戦争を防止するというそれ自体ユートピア的な目的をもった新しい学問であるという。

著者自身は19世紀の自由民主主義のユートピアニズムが労働運動やロシア革命の異議申立て、あるいはドイツや日本の台頭で破綻するというリアリズムの立場に立ち、国際政治の基礎にある権力と政治を冷厳に見つめて議論を展開していく。

 

当時の国際連盟の19世紀的な自由主義や利益調和論による平和が大国の現状維持論であり、その変更を求める不満足国との対立を不可避とする等の本書で展開されている議論は、まさに現代世界を生々しく想起させる。

冷戦後の世界秩序への不満から実力による変更を求めてウクライナ侵攻を始めたロシアは第一次大戦後のドイツやイタリアのようであり、国連はそれを効果的に抑止できていない。また、冷戦後の唯一の超大国として世界秩序維持に貢献すべきアメリカの大統領(前)が「アメリカ・ファースト」と宣言して堂々と自国の利益を追求する。さらにいえば、新自由主義による多国籍大企業の利益追求と世界規模での格差拡大はかつての利益調和論の現代版といえる。

 

国際政治においては、中央集権的な権力も強制的な司法機関も存在しない。これは当時の国際連盟も現在の国連も同じである。結局は超大国やEUなどの連合勢力の軍事力と経済力が国際政治の支えとならざるをえない。

こうしたリアリズムの立場に基本的に依拠しつつも、著者はリアリズムの限界として、政治的思考の4つの本質的要素である「有限の目標、情緒的な訴え、道義的判断の権威、そして行動の根拠」をリアリズムが排除することを挙げる。そして繰り返し「道義moralityと権力の妥協」の必要性を強調するのである。

著者はこうした妥協のモデルとして、労働運動における企業との妥協を挙げるが、これは双方の実力を背景としつつ共通の道義に基づく調停がなされることを念頭に置いている。

 

ちなみに、日本国憲法前文の次の一節は、こうした道義(政治道徳)と権力(国家主権)の調和をめざすものだ。

「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」

 

自由民主主義や人権、あるいは民族自決といった「道義」がリアリズムを補完するユートピアニズムとなりうるかどうか、今まさに現代世界が試されている。

 

 

◎2022年7月3日『印(サイン) エーレンデュル捜査官シリーズ』アーナルデュル・インドリダソン

☆☆☆☆私的「捜査」の結末はほろ苦く

北欧ミステリーらしい美しい湖水地方と寒冷な気候を舞台に、さらに幽霊や霊媒といったオカルティックな話題が加わった、酷暑にあえぐ日本の読者にふさわしい読み物である。

アイスランドの湖水の畔のサマーハウスで起きた首吊り自殺事件で、警察は自殺として処理したが、エーレンデュル刑事は死者の友人の訴えをきっかけに、個人的な関心から私的に捜査を始める(私的「捜査」は警察のルールからは甚だ逸脱したものだが、ヘニング・マンケルの刑事ヴァランダー・シリーズでもときどき見かける)。

物語は死者の生前のエピソードと私的捜査の進行が織り交ぜられて語られる巧みな構成であり、読者は、たんなる自殺にみえた事件が30年前の湖での水死事件や医学生たちの臨死実験と絡められて解きほぐされていくスリリングな展開にミステリーの醍醐味を堪能できる。

 

また、刑事物ではもはやおなじみとなった刑事の個人的エピソードも重要なプロットとして利用されており、本作品ではエーレンデュルが娘の要望でしぶしぶ元妻と会う話のほか、少年時代に吹雪で遭難したエピソードが第三者の出版物の引用の形でまとまって示されており、自殺事件への個人的関心と重ね合わされる。

 

ただ、自殺事件の捜査の過程で30年前の未解決の行方不明事件も解き明かされていくが、こちらは偶然ができすぎている感がある。

なお、死者が霊媒師のところで録音したテープに、霊媒師以外の男性の「気をつけろ」という声が録音されているが、これが誰の声かは最後まで解き明かされない。もしかしたら、あの世からの声という意味なのか?

 

 

◎2022年7月1日『旅は終わらない 紀行作家という人生』芦原伸

☆☆☆☆「団塊の世代」の生き方と出版業界の栄枯盛衰を感じさせる自伝

著者は1946年生れで、私よりも一回り上の世代に属する。

いわゆる「団塊の世代」には1年早いが、戦後の復興から高度成長時代に青春を過ごし、独立心旺盛で一人旅の放浪生活や全共闘運動を体験し、大企業のサラリーマンとなるのを潔しとせずに文筆で身を立てようと志す。まさしく「団塊の世代」の1つの典型的生き方である。

著者の生き方の特色は、旅と鉄道にこだわり、自ら編集プロダクションを起業して、作家、編集者、経営者の「三足のわらじ」で出版業界を生き抜いてきた点にある。この点、昭和の出版業界を彩る名編集者や錚々たる著名作家たちが実名で登場し、梁山泊のような自由闊達な雰囲気が伝わってくる。それが平成のバブル崩壊と長期不況、さらにはIT革命により出版業界が大きく変貌していく、まさしく栄枯盛衰が著者自身の人生と重ね合わせて描かれている。

 

私が特に印象深く感じたのは、第15章の東日本大震災後の東北鉄道取材旅行である。

著者は被災直後から3年かけて13回も被災地に足を運び、三陸鉄道などの駅員・乗務員、さらには現地の警官らから被災当時の活動を取材してまとめている(『被災鉄道 復興への道』で交通図書賞を受賞)。

あの巨大津波で鉄道や車両も大きな被害を受けながら、乗客にも乗務員にも死傷者が1人も出なかったというのはまさに奇跡的なことだが、その陰には駅員らの高い安全意識ととっさの機転があったことがよくわかった。津波による多数の死者を出した石巻市立大川小学校では、裏山に避難しなかった教職員の判断の悪さが問題となったが、ここでは駅員らが会社の指示を無視しても自らの安全判断でより高台に乗客らを避難させていたという。著者は「制服を着た人の使命感」と表現しているが、鉄道を支える人々の意識の高さが改めて認識させられた。

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