2021年後半読書日記
【2021年後半 読書日記】
◎2021年12月28日『会社法入門 新版 (岩波新書)』神田秀樹
◎2021年12月27日『差別はたいてい悪意のない人がする:見えない排除に気づくための10章』キム・ジヘ
◎2021年12月23日『平成金融危機 初代金融再生委員長の回顧』柳澤伯夫
◎2021年12月22日『新基本民法3 担保編(第2版)』大村敦志
◎2021年12月15日『新基本民法2 物権編(第2版)』大村敦志
◎2021年12月15日『南北朝時代―五胡十六国から隋の統一まで (中公新書)』会田大輔
◎2021年12月13日『新基本民法5 契約編(第2版)』大村敦志
◎2021年12月8日『新基本民法4 債権編(第2版)』大村敦志
◎2021年12月5日『台北プライベートアイ (文春e-book)』紀蔚然
◎2021年12月2日『中世イタリアの都市と商人 (講談社学術文庫)』清水廣一郎
◎2021年11月29日『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで (中公新書)』伊藤俊一
◎2021年11月25日『新基本民法1 総則編(第2版)』大村敦志
◎2021年11月22日『鴨川ランナー』グレゴリー・ケズナジャット
◎2021年11月17日『ヘルベルト・ブロムシュテット自伝 音楽こそわが天命』
◎2021年11月15日『「木」から辿る人類史 ヒトの進化と繁栄の秘密に迫る』ローランド・エノス
◎2021年11月9日『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて (岩波ジュニア新書)』東野治之
◎2021年11月8日『新基本民法6 不法行為編(第2版)』大村敦志
◎2021年11月6日『母の日に死んだ 刑事オリヴァー&ピア・シリーズ』ネレ・ノイハウス
◎2021年11月2日『アーサー王ここに眠る (創元推理文庫)』フィリップ・リーブ
◎2021年10月29日『First Stage ビジネス法務の基礎』森島昭夫
◎2021年10月27日『デジタル・ファシズム 日本の資産と主権が消える』堤未果
◎2021年10月25日『消費者法判例百選(第2版) 別冊ジュリスト』
◎2021年10月24日『九十三年』ヴィクトル・ユゴー
◎2021年10月17日『ヴィクトール・ユゴー 言葉と権力 (平凡社新書)』西永良成
◎2021年10月14日『風と共に去りぬ(六) (岩波文庫)』マーガレット・ミッチェル
◎2021年10月12日『風と共に去りぬ(五) (岩波文庫)』マーガレット・ミッチェル
◎2021年10月10日『風と共に去りぬ(四) (岩波文庫)』マーガレット・ミッチェル
◎2021年10月8日『風と共に去りぬ(三) (岩波文庫)』マーガレット・ミッチェル
◎2021年10月5日『風と共に去りぬ(二) (岩波文庫)』マーガレット・ミッチェル
◎2021年10月3日『風と共に去りぬ(一) (岩波文庫)』マーガレット・ミッチェル
◎2021年9月30日『ウィーンに六段の調 戸田極子とブラームス』萩谷由喜子
◎2021年9月29日『罪と罰3 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
◎2021年9月26日『罪と罰2 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
◎2021年9月24日『罪と罰1 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
◎2021年9月22日『LGBTを読みとく ─クィア・スタディーズ入門』森山至貴
◎2021年9月21日『白痴4 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
◎2021年9月18日『白痴3 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
◎2021年9月15日『白痴2 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
◎2021年9月11日『白痴1 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
◎2021年9月8日『希望の未来への招待状:持続可能で公正な経済へ』マーヤ・ゲーベル
◎2021年9月7日『悪霊3 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
◎2021年9月5日『悪霊2 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
◎2021年9月1日『悪霊1 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
◎2021年8月27日『科学と宗教と死 (集英社新書)』加賀乙彦
◎2021年8月27日『加賀乙彦 自伝 (ホーム社)』加賀乙彦
◎2021年8月25日『雲の都―第五部 鎮魂の海―』加賀乙彦
◎2021年8月20日『子宮頸がんワクチン問題――社会・法・科学』メアリー・ホーランド他
◎2021年8月20日『雲の都―第四部 幸福の森―』加賀乙彦
◎2021年8月15日『殉教者 (講談社文庫)』加賀乙彦
◎2021年8月13日『悲劇の世界遺産 ダークツーリズムから見た世界』井出明
◎2021年8月9日『資本主義だけ残った――世界を制するシステムの未来』ブランコ・ミラノヴィッチ
◎2021年7月28日『禁忌 (創元推理文庫)』フェルディナンド・フォン・シーラッハ
◎2021年7月26日『夏に凍える舟 (ハヤカワ・ミステリ)』ヨハン・テオリン
◎2021年7月23日『赤く微笑む春 エーランド島四部作』ヨハン・テオリン
◎2021年7月17日『手/ヴァランダーの世界 刑事ヴァランダー・シリーズ(創元推理文庫)』ヘニング・マンケル
◎2021年7月14日『オリンピック秘史 120年の覇権と利権 』ジュールズ・ボイコフ
◎2021年7月7日『株式市場の本当の話 (日経プレミアシリーズ)』前田昌孝
◎2021年7月3日『維新史再考 公議・王政から集権・脱身分化へ』三谷博
◎2021年12月28日『会社法入門 新版 (岩波新書)』神田秀樹
☆☆☆☆☆経済情勢激変に対応する商法・会社法改正の意義をコンパクトに概説
会社法は2005年にできた新法であり、それ以前は商法の一部として規定されていた。
本書は新書版のコンパクトさにもかかわらず、会社法の意義とその内容(機関、資金調達、組織変更等)をわかりやすく解説し、とりわけ数次にわたる商法・会社法改正の社会的背景に踏み込んで言及している。
株式会社は今日の資本主義経済の中枢であり、それだけに政治経済の影響を大きく受ける。会社法制定と改正の背景は言うまでもなく経済のグローバル化と世界的金融危機等である。その意味で、本書は無味乾燥な法律解説ではなく、一見複雑極まりない会社法制を今日の企業活動の実態、資金調達や組織変更の自由化とガバナンスの強化といったダイナミックな視点から理解できるように構成されている。
なお、本書の第5章では著者は会社法は「国の経済政策の重要な制度的インフラ」であるとし、その将来像については、IT革命と証券市場の変化の中で、株主の基本的権利を確保し、会社の活動を事前に制約する規制を撤廃することだと述べていることを付記する。
◎2021年12月27日『差別はたいてい悪意のない人がする:見えない排除に気づくための10章』キム・ジヘ
☆☆☆マジョリティは「特権」を享受しているのか?
表題に著者の言いたいことが凝縮されており、プロローグを読めばその問題意識は示されているが、にわかには共感しがたい主張である。著者によれば、それは私がマジョリティの特権を享受しているからだということになるのだろうが・・・。
プロローグでは、以下の例が挙げられている。
1.ヘイトに関するシンポで著者自身が「決定障害」という言葉を使って、後で批判された。
2.韓国への移住者に対し「もうすっかり韓国人ですね」と言う。
3.障害者を励ます意図で「希望を持ってください」と言う。
1は「障害」という言葉を冗談のように軽く使用するのは不謹慎という意味ならわかるが、「障害」という言葉自体は中立的で客観的な言葉である。というか、障害の定義と認識がなければ障害者差別をなくすという議論もできない。
2と3は「代表的な侮蔑表現」なのだそうだが、侮蔑かどうかは前後の文脈次第というほかない。相手を褒めたり、落ち込んでいるのを励ます文脈で言った言葉の前後を切り取って侮蔑表現と非難するのは揚げ足取りであり、それで「悪意なき差別者」などというのはいかがなものか。
著者は、「自分には何の不便もない構造物や制度が、だれかにとっては障壁になる瞬間、私たちは自分が享受する特権を発見する」と述べて、「男性特権、階級特権、文化特権、国籍特権、異性愛者特権、非障害者特権、言語特権」などを例示するが、「特権」とは特定少数の集団や階層の受ける特別に有利な地位や利益のことをいうのであって、このように概念を拡張すべきではなかろう。不当に享受する特権なのか、正当に得られた権利なのか、権利ほど確立していない利益にすぎないのか、様々な議論がありうるところを不平等なものは特権であると乱暴に決めつけても説得力はない。
そもそも、「差別」や「不平等」という言葉さえ、法的には合理的な区別なのか不合理な差別なのかという困難な議論がある。
今日、女性差別や人種差別が違法不当なことは社会的コンセンサスができていて、差別解消が具体的課題となるが、文化や国籍の相違についてはどこまでその社会が包摂していくかというインクルージョンの問題であろう。
民主主義の大原則は「今日の少数派は明日の多数派」なのであって、自由な言論と説得による多数派形成が議論の基本である。本書の他の箇所の指摘には頷ける点や鋭い観点も多いが、マジョリティは特権を享受する差別者であるという上から目線の論調は不毛な反発と対立を招くだけである。
◎2021年12月23日『平成金融危機 初代金融再生委員長の回顧』柳澤伯夫
☆☆☆☆金融自由化とバブル処理の備忘録 白眉は長銀破綻処理
著者は大蔵省出身の政治家で、1980年衆議院初当選、98年以降は初代金融再生委員長、金融担当大臣を歴任というから、まさに平成バブル経済の生成と崩壊、その後の金融危機対応の中心にいた人物である。
本書に書かれたことのほとんどはすでに新聞や経済論説等で知られていることだろうが、当事者の証言として生々しい。全体に事実経過を中心に淡々とまとめた備忘録という印象であるが、さすがに専門的で高度な内容である。
戦後の大蔵省による護送船団型の銀行行政の転換、80年代の金融自由化進展とバブルの生成・崩壊の仕組みが説得的に回顧されているが、金融自由化の副作用と株式バブルによる企業の時価増資の流行で長信銀(興銀、長銀、日債銀)が貸出先顧客を失って経営危機に陥ったことなどはまだ記憶に新しい。
特に、破綻した長銀の処理でアメリカの投資ファンドであるリップルウッドが譲渡先となるに至る経緯(その後、新生銀行となる)は本書の白眉である。譲渡先候補となったリップルウッドとその対抗馬であった中央信託・三井信託連合とのそれぞれの交渉経過がかなりのページを割いて詳細に描かれており、当時の政策決定がよくわかる。一般国民の目から見ると、巨額の公的資金を長銀破綻処理に投入しながら投資ファンドの企業再生ビジネスの餌食にされたような観があったが、リップルウッドの熱意と提示内容に対し、中央・三井連合の提示内容はいかにも見劣りがしており、やむを得ない選択であったと思われる。
その後、著者は森内閣と小泉内閣でも金融担当大臣として不良債権処理にあたるが、最後は公的資金の追加投入に反対して小泉内閣の金融担当大臣を更迭され、竹中大臣登場となる。このあたりの経緯については、不良債権処理と公的資金の投入をめぐる日銀速水総裁との論争として紹介されており、著者の不良債権処理促進策は明示されているが、更迭後の竹中大臣による処理、さらにはその後の安倍内閣の推進したゼロ金利政策・アベノミクスといった今日に至る問題については全く触れられていない。平成金融危機の当事者として、現在に至る金融政策について論評してもらいたかったところである。
◎2021年12月22日『新基本民法3 担保編(第2版)』大村敦志
☆☆☆☆☆債権の担保という機能的観点で、物的担保と人的担保を統合
このシリーズ共通だが、民法典を機能的に再編成してわかりやすく示すため、本編では担保物権(留置権、先取特権、質権、抵当権)に加えて、本来は債権編の多数当事者の債権債務で説明される保証と連帯債務を「人的担保」と位置づけ、「担保法」として説明されている。
債権の担保は金融や商取引で大きな役割を果たすものであり、特別法も多いが、民法の担保法はその基本法として重要である。
本書では、「担保の女王」である抵当権を中心に、非典型担保である譲渡担保や仮登記担保等もその社会的役割をわかりやすく説明しており、さらに特別法や執行法、倒産法での扱いについても触れている。
また、人的担保については、債権法改正による保証と連帯債務の規定の変化が図表を用いてわかりやすく解説されている。
なお、各項目で重要判例は指摘されているが、その内容については判例百選等で参照する必要がある。
◎2021年12月15日『新基本民法2 物権編(第2版)』大村敦志
☆☆☆☆☆近代的所有権論の意義から説き起こす物権法概説 法人論を追加
シリーズ共通の特徴だが、民法の条文をわかりやすく再構成して示す。
本書では、物権法は人と物の関係であるとして、近代所有権論の意義とその今日的変容から説き起こしている。
特に、物権変動論はかねて学説・判例の議論が多いところであるが、やはり難しい。それでも本書は学説の対立を丁寧に整理しており、議論の分かれ目とその実益がよくわかるようになっている。
私が物権法を初めて学んだのは鈴木禄弥教授の『物権法講義』だったが、コロンブスの卵のような「なし崩し的物権変動説」の斬新さと切れ味に感動したことを覚えている。著者も二重譲渡が可能なのは売主に権利が残っているからというが、これも物権変動の段階的理解ということだろう。
なお、本書では民法総則に属する法人論が一般法人法も含めてかなりの紙面を割いて解説されているが、これは共有の団体法的側面を踏まえたものである。
◎2021年12月15日『南北朝時代―五胡十六国から隋の統一まで (中公新書)』会田大輔
☆☆☆☆三国志を上回るめまぐるしい権力闘争の厳しさ
「南北朝時代」といっても日本の室町時代ではなく、中国の北魏による華北統一(439年)から隋による中国統一(589年)までの150年間を扱った激動の中国史である。
著者によれば、この時代は地球全体の寒冷化を背景に匈奴などの遊牧民が大移動して、中国のみならずローマやペルシアなどの古代帝国に大打撃を与え、遊牧民と農耕民の衝突と融合を繰り返したのだという。
本書に登場する北魏をはじめとする北方の遊牧民の起こした国家は、農耕民である漢民族の支配を意識し、漢民族の儀礼や官僚制を取り入れて中華帝国の樹立をめざすが、他方で漢民族化に反発する遊牧部族の反発と反乱のダイナミズムが国家の相次ぐ興亡を招くのである。
それにしても遊牧民族の気風と文化はたくましいというか、実に荒々しいものがある。本書では北魏の「子貴母死」制が紹介されているが、これは皇帝の実母や外戚による権力掌握を防ぐために皇太子決定後にその生母を殺す(死を賜る)という驚くべきものである。しかも、実際にこれが代々実行されていたという。
また、これは北朝のみならず南朝にも共通するが、歴代皇帝の多くが20代や30代の若さで死んでおり(毒殺や暗殺もあったのではないか)、易姓革命で王朝が交代すると禅譲した皇帝はほとんどその直後に殺されている。北方遊牧民の荒々しい気風に加え、激動の時代の権力闘争の苛酷さを反映しているのだろう。
私個人としては、日本の法隆寺釈迦三尊像をはじめとする精悍な飛鳥仏像に影響を与えた北魏に興味があったが、北魏は太武帝の廃仏政策の後、文成帝が仏教を復興し雲岡をはじめとする石窟寺院を興したため、国家仏教の性格が濃いという。
なお、「匈奴」や「鮮卑」や「柔然」といった北方民族の呼称は漢字で書かれているが、もとより漢字表現は漢民族によるものであり、漢字が表意文字ゆえに漢民族の異民族蔑視が文字に反映している。英語表記などを参考に本来の発音に近いカタカナ表記にできないものだろうか。
◎2021年12月13日『新基本民法5 契約編(第2版)』大村敦志
☆☆☆☆☆契約法を類型に再構成 民法改正の経緯が詳しい
債権総論に続く債権各論の契約法である。
本シリーズ全体の特徴だが、民法の条文を大胆に再構成して、わかりやすく見通せるように工夫されている。
本書では契約法を、1.財貨移転型の契約(売買)、2.財貨非移転型の契約(使用型=賃貸借、信用型=消費貸借等、役務型=雇用・請負・委任等)、3.組織型の契約(組合等)、4.好意型の契約(贈与、使用貸借等)の4類型に分けて論じており、契約総論の同時履行の抗弁や契約解除は売買の項目で説明される。わかりやすく合理的な構成である。
特筆すべきは、債権法改正が行われた箇所について、新旧条文の対比と説明がなされているだけでなく、改正が検討されたが改正に至らなかった項目も「Unbuilt」として示されており、論点がわかることである。
なお、補論の「類型思考と法」では、契約を法文で類型化して示す意義が不法行為法と対比しつつ論じられており、思考の整理になる。
◎2021年12月8日『新基本民法4 債権編(第2版)』大村敦志
☆☆☆☆☆債権とは何か、その実現と機能を見通しよく示す。ただし、多数当事者の債権は担保法へ
民法改正の重要な部分である債権総論である。
本書では法改正がなされた多数の箇所について、その経緯と趣旨が解説されているが、周知のとおり総じてこれまでの判例学説の到達点を踏まえた改正であって、新しい法制度を創出するものでなかったことがわかる。
この点に関しては、最後の「補論 歴史と法」で著者の法思想が示されているが、よく問題にされる理論と実務の関係については、①理論主導パターン(例:損害賠償)、②実務主導パターン(例:債権者代位権)、③妥協パターン(例:詐害行為取消権)として整理されており、学説の役割は「創りつつ壊し、壊しつつ創る」ことだとされる。
本書は債権総論の教科書としては異例の薄さだが、多数当事者の債権債務関係は本書ではなく担保編で論じられる。
他のシリーズ同様、民法の条文を大胆に再構成しており、債権(契約)の成立から実現(弁済、履行強制)、損害賠償、相殺、債権者代位等々と全体を見通しよく示している。
制度趣旨の説明が丁寧でわかりやすい反面、判例や学説は簡潔に紹介される程度なので、判例百選等の参照が必要である。
◎2021年12月5日『台北プライベートアイ (文春e-book)』紀蔚然
☆☆☆☆☆ハードボイルド風のテンポのよい翻訳 興味深い日本人論も
台北のうらぶれた古い路地奥の探偵事務所で鬱々と顧客を待つ探偵。まるでレイモン・チャンドラーのハードボイル探偵小説のような味わいであり、翻訳もその雰囲気を十分出していて楽しめる。
ただし、物語は一見無関係な被害者の連続殺人事件という現代的なシリアルキラーもので、台湾では過剰に張り巡らされているという防犯カメラやハイテク機器が活躍する。
おまけに、主人公がえん罪事件の被疑者となってしまうスリルまである。台湾の刑事司法制度は日本統治時代の影響か、警察捜査はやはり自白偏重のようだが、被疑者取り調べの録画・録音などは導入されていることが本書でも描かれている。
著者はアメリカで博士号を取った演劇学部元教授とのことだが、司馬遼太郎や横溝正史などの日本の作家からの引用も多く、日本通でもあるようだ。
興味深かったのは、シリアルキラーが社会秩序の厳しい国ほど多いというパラドックスで、アメリカが最も多いのは一見自由のようでピューリタニズムの厳しい戒律があるからだと著者は論じる。アジアでは日本が最も連続殺人事件が多いそうだが、それは神道に仏教、武士道が混じり合った「桜花主義」のせいだとして、次のようにいう。
「日本人が生まれつき、他の人種より優秀だということはないはずだが、彼らは桜花主義の触媒のなかで、白鉢巻をしめて『必勝!』と大声で叫ぶ儀式により、穢れのない美と排他精神を守りとおし、ついには自分 たちに自己催眠をかけてしまった。」
日本人としては異論もあるところだが、日本と関わりの深い台湾の知識人である著者の見方として、謙虚に受けとめるべきであろう。
これがシリーズ第1作とのことだが、第2作が楽しみである。
なお、主人公が長くうつ病を患う一方、演劇仲間を激しく批判して人間関係を破壊してしまうというくだりは、主人公がたびたび服用する抗うつ剤の副作用(過剰に攻撃性を増したり、自殺衝動を強めたりする)が暗示されているのではないかと思われる。
◎2021年12月2日『中世イタリアの都市と商人 (講談社学術文庫)』清水廣一郎
☆☆☆☆☆中世イタリア都市と地中海交易に関する興味深い論考
本書の原本は1989年発行だが、中世イタリア都市と地中海交易について現地の史料に基づき非常に興味深い論考を展開している。
本書の最後の論文(『イタリア中世都市論再考』)によると、かつてはアルプス以北の中世都市が「打って一丸とした市民の共同体」(コミューン)なのに対し、イタリア都市は都市貴族を支配階層とするヒエラルキーに分化した封建的社会と論じられていたらしい(西欧中心史観である)。著者はこれを「到着点から出発して歴史を説明する」ものとして批判するが、確かに中世イタリア都市は当時の先進地域だったはずだし、北方都市に支配階層のヒエラルキーがなかったわけがない。
これに対し、著者は社会史の手法で中世都市の市民の実像と地中海交易を明らかにしていくが、とりわけ興味深かったのは本書の前半の3つの論文で示される地中海交易だ。
まず、地中海交易といえば香料などの奢侈品がイメージされるが、それだけではなくオリーブ油やワイン、穀物等の日用品も重要な商品だった。とりわけ、ジェノヴァの主たる交易品だった明礬は毛織物工業の必需品であり、原産地の黒海のトルコ沿岸からジブラルタル海峡を越えてフランドルまで運搬していたという。
著者は海上交易に活躍したガレー船と帆船の構造と役割を詳細に論じており、これが非常に面白い。人力で漕ぐガレー船は速度が速く方向転換も容易なため軍事力に優れているが、乗組員が多いうえに荷物が少ししか積めない。したがって、ヴェネツィアはガレー船を軽くて高価な香料や絹織物の運搬に用い、重くて安価な穀物や塩は帆船で運んだ。他方、ジェノヴァの明礬貿易は巨大な帆船を用いたという。
本書の後半の論文では中世イタリア都市民の構成が論じられ、職人や農業労働者の北イタリアなどからの移動が史料に基づき紹介されるが、私個人としては第6論文の「公証人」の活動が興味深かった。
公証人は契約や相続等に関わる文書作成を行うわけだが、公証人ギルドに属する自由業であり、ラテン語等の修得が試された。1293年のピサの公証人数は232人であり、同じ頃にジェノヴァでは200人、フィレンツェでは600人と、人口150~160人あたり1人の公証人がいたというから、その多さに驚く。公証人は自由業の傍らで都市の書記等の官職にも就き、行政官を補佐する実務家として重要な役割を果たしていたのである。
◎2021年11月29日『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで (中公新書)』伊藤俊一
☆☆☆☆荘園750年の歴史を気候変動データを交えて描く
新書とはいえ、大学の歴史学講義のように史料と事例紹介を中心に荘園の歴史を描いており、読み物としてはかなり歯ごたえがある。
地球温暖化の検証のため過去2000年の気温変動を明らかにするPAGES2kNetworkのデータ(東アジアは西暦800年以降)を用いて、歴史上の大飢饉や農業生産力の変化を分析をしているところが新機軸である。
前近代の農民像と言えば、士農工商の身分社会で土地に縛り付けられたイメージだったが、本書によると古代の農民は自由に移動し、あるいは「逃散」により重税に対抗しており、下人といえども逃亡できたらしい。確かに、三世一身法や墾田永年私財法は農地開拓のためのもので、開拓を行ったのは貴族や豪族であるが、墾田の農民は近隣から動員するしかなく、労働力不足で流動的だったのであろう。農民像については、著者自身があとがきで「(網野善彦氏による)非農業民より前に、農業民の方がわからなくなっているのが現状と思う」と書いていて、史料にあらわれない歴史の死角となっているのだろう。
他方、本書の中心となる荘園支配の推移については、元は土地の豪族であった郡司の一族が開発に関わり、律令国家体制の下に組み込まれて国司(受領)の支配に入るが、度重なる荘園整理令にもかかわらず、さらに摂関政治から院政時代へと中世荘園の領域が拡大し、平家政治、鎌倉幕府の武家政権時代にもその命脈をつなぎ、室町時代後期の応仁の乱のころに歴史を終えたという。鎌倉幕府の置いた地頭は、荘園の荘官として、本家・領家・荘官の支配関係に組み込まれたとされる。
荘園の多重・多層的な支配関係は、ヘーゲルが「主人と奴隷の弁証法」で描いたように、相互の承認があってこそ成り立つものであり、その裏付けは公権力による法制度の維持である。律令国家の権力が及ぶ限りににおいて貴族や寺社の荘園支配は続くが、国家権力が衰えるに従い貴族や寺社の支配は荘園の土地と人への直接的支配から地代収取権へと空洞化していき、最後は現地支配勢力である国人領主・国衆に取って代わられたわけである。
◎2021年11月25日『新基本民法1 総則編(第2版)』大村敦志
☆☆☆☆☆民法の考え方や思想をわかりやすく解説
民法(債権法)改正を機に、数十年ぶりに民法総則のテキストを読んでみた。
初学者むけに基本概念の解説をわかりやすくしているが、それだけでなく民法の考え方と思想を重視しているところが特徴的である。
それは、民法総則の条文に沿ったパンデクテン方式の叙述(これがわかりにくく、初学者の躓きの石である)ではなく、総則を再構成して、1.契約の成立、2.契約の効力、3.代理の3章立てとしたことに示されている。
昔、法学を始めた頃に四宮和夫の名著『民法総則』をいきなり読んで全く歯が立たなかったことを思い出すが、本書は導入としては非常にわかりやすく、かつ、著者の問題意識も示されていて興味がわくのではないか。
ただし、判例の紹介はさわり程度であり、判例百選等を併用する必要がある。
◎2021年11月22日『鴨川ランナー』グレゴリー・ケズナジャット
☆☆☆☆「世界言語」の話者ならではの疎外感
京都には神社仏閣や史跡巡りの観光客が国内外から多数訪れるが、京都市民の憩いの場といえばやはり鴨川である。市民の努力によって美しく整備されているせせらぎの両岸の土手を散策したりジョギングしたりする人は、昔も今も多い。
表題の小説では、高校時代の旅行で京都を訪れ、四条大橋から眺めた鴨川の風景を「御伽噺」のように感じたという外国人の主人公が、日本語を習得して英語学校教師として念願の京都近郊に赴任する。
物語は主人公を「きみ」と表現する2人称の特殊な文体で書かれているが、これは現在の著者と距離を置くためだろうか。日本社会に1人の人間として迎えられたい主人公の疎外感を、英語と日本語のコミュニケーション問題に焦点を当てているのが独特である。
英語をネイティブとして話す話者は、英語が「世界言語」であるがゆえに、日本でも英語でコミュニケーションできてしまう。主人公は修得した日本語で話したいのに、相手が英語で応答するために「外国人」扱いの感覚を拭いきれない。日本人が第2外国語である英語で応答すると、どうしても教科書的な英文での応答となる。また、英語が苦手な者は英語コンプレックスゆえに会話自体を避ける(日本語で応答すればよいのに)。
短編『異言』のほうでは、主人公が英語の堪能な日本人の彼女から英語でしか話してもらえず、「世界中どこでも英語で話が通じてありのままの自分でいられるからうらやましい」と言われて驚く場面がある。まさに、英語が世界言語であるがゆえに、英語のネイティブスピーカーが感じる疎外感というべきであろう。
ただし、表題作は物語の人間関係が淡泊であり、主人公の悩みも観念的にすぎるように感じる。
これに対し、福井を舞台にした『異言』のほうは、テーマは共通しつつも、英会話学校の倒産の憂き目に遭った主人公のドラマとして、悲喜こもごものストーリー展開が工夫されている。
結婚式場の「牧師」のアルバイトというのは驚きだが、本当なら業界にとっては「不都合な真実」ということか・・・。
◎2021年11月17日『ヘルベルト・ブロムシュテット自伝 音楽こそわが天命』
☆☆☆☆☆まさに「音楽の伝道師」 意外と頑固な一面も
1927年生まれで94歳の高齢ながら、年間80回以上の公演を世界中でこなし、毎年のように来日している巨匠ブロムシュテットのインタビュー形式による自伝である。インタビューは公演の合間にドレスデン、コペンハーゲン、ライプツィヒ、ルツェルン等各地で行われているため、ややまとまりに欠けるが、巨匠の長い音楽人生と音楽観が縦横無尽に語られている。
私個人としては、1980年代のN響指揮者時代からテレビで見ていて、その端正な指揮ぶりに注目していたが、実演に接したのは2000年代に入ってからである。ゲヴァントハウス管弦楽団との来日公演でブルックナー第5交響曲を聴き、この長大な難曲をオケを完全にコントロールして演奏する指揮ぶりに深い感銘を受けたことを覚えている。
ブロムシュテットはバッハやベートーベン、ブラームス、ブルックナーなどの古典音楽の権威というイメージだったが、本書によると若いころは現代音楽のほうに興味を持ち、反ロマン派的な心情の持ち主だったという。実際にも、北欧のニールセンなどの現代作曲家のCDをリリースしているほか、任地のドイツやアメリカの現代作曲家の曲も研究して演奏している。オケとうまくいかないときは団員全員にとって新しい現代音楽をやるのだそうだ。
また、温厚そうな風貌にもかかわらず好き嫌いがはっきりしていて、オペラはほとんどやらないというし、他の指揮者やオケに対する歯に衣を着せない批評も随所にある。現代のポップミュージックに対する批判は厳しく、文化の行く末に対して本気で心配しているという。
父親が少数派のプロテスタント牧師であり、ブロムシュテット自身も熱心な信徒として金曜夕方から土曜は安息日の戒律を遵守しているため、当然ながら公演やリハーサルの日程調整で楽団と衝突する。
とにかく確固とした音楽観と深い音楽への愛情の持ち主であり、それを世界に伝えようという熱い思いが本書全体を通じて感じられ、まさに「音楽の伝道師」というにふさわしい。
昨年、コロナ禍で世界中で演奏ができなかったときには、ルツェルンの自宅から日本へビデオメッセージを発信してくれたが、音楽への愛情をなくさないよう熱く語りかける姿が感動的だった。
なお、冷戦時代のドレスデンSK指揮者時代については、東独国家の厳しい監視体制と官僚的介入が生々しく語られている。ゼンパーオペラ座が建て替え中で、オペラはあまり指揮しなかったようだ。
また、オケの配置について、第一バイオリンと第二バイオリンを左右に振り分けて配置する古いドイツ式のやり方を復活させたとの話は興味深かった。第一バイオリンと第二バイオリンは主従関係ではなく、独立し対話するように演奏するべきだという。第一バイオリンの隣に第二バイオリンが座るアメリカ式配置は、ストコフスキーが1920年代に放送やレコード録音がとりやすいように始めたのだとか。
(2022年10月16日追記)
本日、ブロムシュテット指揮でN響のマーラー第9番を聞いた。しかし、なんとブロムシュテットさんはコンマスのマロ氏に支えられて登場し、座って指揮をしているではないか。これまでかくしゃくと歩いて登場し、大曲を立って振る姿しか見たことがなかっただけにショックを受けた。後で調べたら6月に転んでケガをして入院していたという。その後の演奏会をキャンセルして9月21日に復帰したというが、よく来日してくれたものだ。感謝の一言に尽きる。
演奏はもちろん感動的なもので、N響メンバーも日頃以上に力演していたことは言うまでもない。第4楽章の美しい弦楽合奏と消え入るような終演、その後のとても長い沈黙の余韻。終演後は満場のスタンディングオーベーションで、帰る人はほとんどいなかった。
◎2021年11月15日『「木」から辿る人類史 ヒトの進化と繁栄の秘密に迫る』ローランド・エノス
☆☆☆☆人類史の陰の立て役者としての「木」
パリのノートルダム大聖堂が数年前に火災で炎上した記憶は生々しいが、出火原因は天井を支える梁などの木材が失火で燃えたことだと聞いて驚いた人も多かったのではないか。ゴシックの大聖堂は外見上は堅固な石造りであり、聖堂内に入っても太い石の柱と堅固に塗り固められた天井で、木材の構造は見えないからだ。しかし、屋根を支えている主要な構造は実は木材だったのである。
また、考古学者は文明の発展を「石器時代」、「青銅器時代」、「鉄器時代」と区分するが、実は石器時代以前に膨大な期間に及ぶ木材利用の歴史があり、石器でさえ木を道具や槍などに加工するための道具(石斧等)として用いられたものである。青銅器時代や鉄器時代以後も木材が道具や建築物、船などの主要な素材となっていた。
さらに、人類進化の初期に遡れば、人類は木から地上に降りて直立歩行するようになったのではなく、樹上生活により直立歩行と脳の拡大がもたらされたのだという。確かに、地上に降りても四つ足動物が直立するわけではない。実際にも、初期人類アウストラロピテクスの化石で有名な「ルーシー」は木から落下して死んだという衝撃的な報告が2016年になされたという。
このように、人類史や文明に「木」が果たした重要な役割が見落とされていることを、生物学的知見や技術的知見を豊富にちりばめて解き明かしたのが本書である。
しかし、近代産業化の影響で森林は大きく減少し、現在の世界の森林面積は陸地の31パーセントと、6000年前の約43パーセントから下がり、それによって放出された二酸化炭素は、地球気温の上昇の約20パーセントに寄与しているという。
これに対し、著者は、木を育てたり加工したりする木と人間の関係を回復すること、エネルギーを大量消費する鋼鉄やコンクリートの素材を木材で置き換えていくこと(集成材やCLTといった木材加工技術で高層建築を軽量な木材で建てているという)、森を昔のような持続可能な方法で管理すること、辺境農地を自然林に戻す運動などを紹介しており、人類がめざすべき方向を指し示している。
◎2021年11月9日『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて (岩波ジュニア新書)』東野治之
☆☆☆太子の実像は結局よくわからない
他のレビュアーも書いているが、ジュニア新書にしては内容が専門的であり、歴史学を学ぶ学生向けである。内容はほとんど史料批判であり、古代史の乏しい史料の中で歴史学者はこのように学説を立てていくのかが垣間見える点は興味深い。
聖徳太子については、文献としては奈良時代の日本書紀が最も古いものであるが、その段階ですでに太子が伝説的に美化された存在である。著者は、法隆寺の釈迦三尊像の後背にある銘文を手がかりに太子の実像を探ろうとするが、この銘文自体に成立と年代に争いがある。また、釈迦三尊像の来歴も明らかではない(消失した元の法隆寺の本尊は薬師仏とのこと)。
太子の仏教理解を示すものとされる天寿国繍帳や三経義疏注釈についても、その成立と太子との関連に論争がある。
著者の結論は、太子は蘇我系の王族であり、中国の学問や仏教に対する深い知識をもって、蘇我馬子の主導する政治や外交のいわばブレーン的な役割を果たしたのではないかというものである。行動的ではないが、ある意味「過激な知識人」だったと著者は推測する。ただし、こうした太子像は乏しい史料から推論を重ねたものであり、これが「ほんとうの姿」かどうかは依然としてよくわからない。
他方、太子が推古天皇の皇太子として政治を主導したとか、小野妹子を遣隋使として派遣して外交的に活躍したという従来の理解は否定されており、歴史認識を更新させられた。
◎2021年11月8日『新基本民法6 不法行為編(第2版)』大村敦志
☆☆☆☆☆不法行為法の発展とその社会的機能を見通しよく概説
不法行為法は民法709条以下、債権法の最後に規定されているが、当事者が合意によって債権債務関係に入る契約法に対し、当事者が合意によらずに事故と損害の発生により債権債務関係に入る法定債権関係であり、ある意味では一般人にとってより重要な債権債務関係といえるかもしれない。
不法行為法は、交通事故のような典型的な事例から、公害や薬害、医療過誤、さらには大規模な事故や災害の場面で、被害者救済だけでなく法規範創造的な役割を果たしている。
本書はコンパクトながら、こうした不法行為法の債権法における位置づけとその歴史的社会的意義を、判例・学説の発展ふまえて見通しよく概説している。
図表が多数用いられ、各項目の最後にポイントとキーワードがまとめられているのも親切である。
◎2021年11月6日『母の日に死んだ 刑事オリヴァー&ピア・シリーズ』ネレ・ノイハウス
☆☆☆☆☆シリアルキラーとの対決だが、裏の主題は児童虐待
刑事オリヴァーとピアのシリーズはこれで9作目だが、どれも最後まで犯人がわからない手に汗握る展開であり、ミステリーの醍醐味が楽しめる。また、死体解剖など法医学の詳細な専門知識が利用されているのはシリーズ共通である。
本作ではピアが捜査の中心となり、猟奇的なシリアルキラーを追い詰めていく。ピアの生い立ちや家族関係がかなり詳しく語られているのは、本作のストーリー展開と関係がある。
物語は、育児放棄された多数の子どもを養子にしていた里親の家が舞台となるが、里親の想像を絶する虐待が事件と深く関わっており、社会的テーマとして育児放棄と児童虐待問題が実は主題となっていることがわかる。ドイツでは2000年から2012年までに652人の子どもが人知れず産まれ、そのうち278人が赤ちゃんポストに置かれ、43人が誰かに引き渡されているという深刻なデータが紹介されているが、日本ではどうだろうか。
また、この物語では猟奇的殺人事件の捜査と並行して、自ら真の出自を知って母親を探索するチューリヒの女性の物語が語られるが、これがアッという展開で猟奇事件の捜査とシンクロすることになるのも巧みな構成である。
それにしても、ラップフィルムで人間をミイラのようにぐるぐる巻きにして動けなくするというアイデアは実際の事件を参考にしたのだろうか。模倣犯が出なければよいがと思う。
なお、従前のシリーズではあまり評価されていなかったFBI流のプロファイリングが本作では捜査の中心として活躍するが、これは作者の新機軸であろうか。シリアルキラーならではのプロファイリングであろうが、サイコパスと対決するスリラー物ではなく、あくまでも犯行の動機を重視する社会派推理小説であることは変わらない。
最終盤の空港の巨大な地下施設を舞台とした追跡劇は、『オペラ座の怪人』を連想した。
◎2021年11月2日『アーサー王ここに眠る (創元推理文庫)』フィリップ・リーブ
☆☆☆☆神話・伝説の誕生をロマンを剥ぎ取って再現する
アーサー王伝説は騎士道物語の源流であり、19世紀のロマン主義やワーグナーの楽劇(『ローエングリン』や『パルジファル』)にも影響を与えている。
本書はアーサーに従った吟遊詩人ミルディンの従者になった少女を主人公に、アーサー王伝説が創造される場面を再現していく。
ここではアーサーは「王」どころか山賊の首領のように粗暴であり、「円卓の騎士」や「ランスロットの不義の恋」、さらには円卓の騎士の分裂といった物語は、騎士道ロマンの装いを剥ぎ取られ、身も蓋もない暴力や不倫、陰謀として描かれている。
これらをミルディンが手品のようにアーサー王神話としてロマンティックに演出し、物語を広く語り伝える役割を果たすのであるが、中世の吟遊詩人の役割とは実際にこのようなものだったのかもしれない。
なお、主人公の少女グウィナはミルディンによって少年グウィンとして育てられ、さらには王妃の侍女ともなるが、著者がこうした両性を行き来する少女の目から暴力と神話の誕生を再構成するのは、ジェンダー的な観点を意識したものであろう。
◎2021年10月29日『First Stage ビジネス法務の基礎』森島昭夫
☆☆☆☆初学者用に民商法を解説 民法改正等は補遺をダウンロードすべし
大学のビジネス法初学者用のテキスト。
大判で図表がたくさんあって使いやすい。
ビジネスに関わる民法、商法・会社法の基礎がわかりやすく解説されている。
ただし、2016年版であり、その後の債権法改正、会社法改正をフォローする必要がある。
出版社のHPで法改正の補遺をダウンロードできるが、早く改訂版を出版してほしい。
◎2021年10月27日『デジタル・ファシズム 日本の資産と主権が消える』堤未果
☆☆☆☆デジタル化のディストピア 誰が情報を収集・管理・利用し、その濫用をどう規制するのか
コロナ禍で急ピッチに進むデジタル化とIT化に不安を感じる人は多いだろう。
政府はデジタル庁を設置したが、すでに役所の申請手続などのデジタル化は各分野で進められている。
マイナンバーカードによる個人情報の包括的網羅的なひも付けも大きな問題である。
本書は(外国を含む)国家や大企業による個人情報の収集と管理を「デジタル・ファシズム」という視点で提示し、1.政府や地方自治体、2.通貨と金融、3.教育の3つのセクターに分けて、多種多様なデジタル化の問題を指摘する。
デジタル化は利用者にとって便利な側面もあるが、様々なレベルの個人情報が集約されて管理されると、政府にとっては国民を管理統制する極めて有効な道具となり、企業にとっては消費者の動向把握から消費性向の誘導に極めて効果的なツールとなる。こうした情報が海外のサーバーに保管されると、安全保障上の問題にさえなるわけだ。
また、教育がデジタル化されると、教員と生徒の人間的な相互コミュニケーションによる教育的過程が失われていく。
本書ではこうしたデジタル化の寒々としたディストピアが網羅的包括的に提示され、多くの人が気づかずにいた問題点を啓発されるだろう。
ただし、本書の問題提起の多くはいずれも未来予測と推測にとどまり、具体的な被害や事実で裏付けられない(「想像してみよう」というフレーズが随所で繰り返される)。
また、デジタル化の重要法案がマスコミ的に注目される話題で隠蔽されたという再三の示唆も、陰謀論的で首をかしげる。
デジタル化とIT化は時代の趨勢として受け容れざるを得ない以上、誰が情報を収集・管理し、それをどういう手続きで利用するのかという監視とチェックの仕組みを提案すべきである(本書ではEUの規制がごく簡単に紹介されている)。
◎2021年10月25日『消費者法判例百選(第2版) 別冊ジュリスト』
☆☆☆☆☆時代と世相を反映した消費者事件に法はどのように対応してきたか
日々のテレビや新聞社会面で取り上げられる有名な事件がずらりと並んだ判例集であり、113に及ぶ判例の目次を見るだけで興味がかきたてられる。
「消費者法」という名前の法律はなく、基本法である民法を基礎に、その特別法として消費者契約法や特定商取引法、割賦販売法などの消費者法体系がある。
民法は一般的な権利主体たる「人」や「法人」を対象とし、その関係は対等な当事者であるが、具体的な個々人は日常様々な財貨の購買者やサービスの利用者であり、財貨やサービスの提供者である事業者との関係は組織や財力、情報力等の点で対等ではない。そこに消費者被害や悪徳商法が発生する可能性が出てくるわけである。
そのため、時代と世相を反映した消費者事件や悪徳商法は尽きないのであるが、これに対し法や裁判所はどのように対応してきたのか、その努力の跡が裁判例を通じて生々しく読み取れる。
また、27と異例に多いコラムでは、消費者問題の多様な分野について解説がなされており、最前線の問題意識が示されている。
◎2021年10月24日『九十三年』ヴィクトル・ユゴー
☆☆☆☆文豪ユゴーの理想主義と人間愛が結晶した「最後の小説」
『ヴィクトール・ユゴー 言葉と権力 (平凡社新書)』を読んだのを機に、これまで未読だったユゴー最後の小説である本書を読んでみた。
時代背景の1793年とは、フランス革命が王政廃止とジャコバン独裁に進み、これに対する周辺諸国の干渉戦争により共和国が危機にあった時代である。本書はブルターニュ地方の反革命反乱である「ヴァンデの反乱」を舞台に、イギリスから帰還した領主ラントナック、その甥で共和国軍の指揮官であるゴーヴァン、ゴーヴァンのかつての師でありパリから派遣された監督者シムールダンの3人の主人公の物語として進行する。
物語の背景として、当時の革命の熱気にあふれる「国民公会」の様子が詳しく描かれ、ロベスピエール、ダントン、マラーの3巨頭のそれぞれの個性を反映した対話が挿入されており、ユゴーがフランス革命をどのように評価していたのかがわかって興味深い。国民公会の左右を占める山岳派とジロンド党の主立った面々が紹介されるところは、革命戦士のレクイエムのようである。
また、ラントナックが船でモン・サン・ミシェル近くに上陸する前に、荒波の軍艦上で大砲の鎖がはずれて甲板上を転がる突発事故を描いた場面はすさまじい迫力であり、現地近くのジャージー島とガーンジ島で長い亡命生活を送っていたユゴーならではの描写と思われる。
物語は革命の意義をめぐるゴーヴァンとシムールダンの対話を軸に展開し、最後は捕らえられたラントナックの処刑めぐるゴーヴァンの極限状況的な自問自答とその決断で頂点に達する。
ゴーヴァンはユゴーの分身といえるが、革命の理念を厳しく追求する先になお人間的な優しさと温かさをみようとするユゴーの理想主義と人間愛が全編に貫かれている。そして、無垢な幼い子ども3人の人質が、人間性を呼び覚ます鏡のような効果を与えられているのである。
◎2021年10月17日『ヴィクトール・ユゴー 言葉と権力 (平凡社新書)』西永良成
☆☆☆☆☆共和政と自由のために生涯闘った文人政治家としてのユゴー
『レ・ミゼラブル』の著者である文豪ヴィクトル・ユゴーの、文人政治家としての側面に光を当てた評伝である。
実は、『レ・ミゼラブル』こそがナポレオン3世(ルイ・ナポレオン)の第2帝政に対する痛烈な批判として、20年に及ぶ亡命中に書かれたのであるが、そのことはあまり知られていないだろう。
ユゴーは当初はナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)を崇拝し、ナポレオン一族のフランス帰国とルイ・ナポレオンの大統領就任を支援さえしていたが、ルイ・ナポレオンが期待を裏切り、ポピュリスト政治家としての強権政治を始めると厳しい批判に転じ、クーデタ後は亡命を余儀なくされる。この苦い結果は、第2帝政批判の深化を通じてナポレオン崇拝の幻滅へとつながり、ユゴーは「自由主義者」から君主制を否定する「共和主義者」へと変化するのである。
亡命中、ユゴーはさすがに文人らしく、詩やパンフレットを次々と発行して帝政批判を続けるが、本書ではその頃の詩を多数紹介している。
また、亡命中にユゴーが国際会議で演説した「ヨーロッパ共和国」の構想では、諸国統一により戦争を廃止し、軍事費を社会政策と貧困撲滅に充てること、統一通貨ユーロを導入して経済的規制や生涯を撤廃することなどを訴えており、強固な持論であった死刑廃止論ととも今日のEUの理念を体現する政治家であったといえる。
なお、本書では亡命先のジャージー島を「絶海の孤島」と書いているが、実はジャージー島はイギリス領とはいえフランス北西部とは目と鼻の先の距離であり、フランスからの情報はすぐに伝わっただろうし、原稿を送ることも容易だったと思われる。
ユゴーの帰還は普仏戦争でナポレオン3世が敗北し、第2帝政が崩壊した直後であったが、当時起きたパリ・コミューン運動には加わらなかった。ユゴーは「無秩序への激しい憎悪」を持ち、普通選挙が実施されている状態での暴力による変革は認めなかったからだという。
本書では、ルイ・ナポレオンのクーデタやパリ・コミューンに関しマルクスのフランス三部作との比較がなされているが、ユゴーはまさに渦中の当事者であることに加え、暴力革命否定や私有財産制肯定という立場の違いが浮き出ていて、興味深かった。
ユゴーは自らを「社会主義者」だとし、「社会主義は生活を肯定し、共和政は権利を肯定する。前者は個人を人間の尊厳に高め、後者は人間を市民の尊厳に高める」と述べたという。ユゴーの社会主義は共和政や自由と両立するものであり、20世紀的な社会福祉国家の理念を先取りしたものといえよう。
◎2021年10月14日『風と共に去りぬ(六) (岩波文庫)』マーガレット・ミッチェル
☆☆☆☆☆「アンチ・ヒロイン」は不屈の精神で、最後まで懲りない
第6巻は、スカーレットとバトラーの間に娘ボニーができ、バトラーが溺愛の子煩悩ぶりを発揮するところから始まる。
バトラーはボニーのためにそれまでの悪評を改めようと態度を豹変し、アトランタの旧社会との親密な付き合いを再開する。時あたかも南部の勢力が復権して政権交代が行われつつあった時代であり、バトラーの機を見るに敏なオポチュニストぶりは際立っている。
これに対し、主人公スカーレットは自らの製材所事業に固執し続け、アシュリーの反対にもかかわらず囚人労働の搾取を黙認し、子育ての手抜き(現代風にいえば「ネグレクト」である)をバトラーに咎められても改めない。自己愛が強く、他人の気持ちが理解できないところは少女時代から一貫していて、まさにヒロインらしからぬ「アンチ・ヒロイン」の道を歩み続ける。
スカーレットは娘ができた後もアシュリーへの愛に固執し続けるが、その愛はかつてのタラ農園につながる「古きよき南部」へのノスタルジーと幻想への愛であったことが明らかとなる。2人が懐旧の情に浸る場面はオペラの二重唱のように美しく描かれるが、その現場をスカーレットの敵対者であるインディアが押さえる暗転は、まるでワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』第2幕の愛の2重唱が打ち破られる場面のようである。しかし、物語は『トリスタンとイゾルデ』のような「愛と死」の悲劇にはつながらず、メラニーとバトラーの介入により、アトランタ旧社会を二分するドタバタ劇へと展開していく。
メラニーの人物造形は旧社会の「レディ」の典型のように見えるが、実は自らの世界観と人物理解の周りに堅牢な壁を作り、それを破ろうとするものを自らの世界に飲み込む、いわばブラックホールである。メラニーは、アシュリーとスカーレットの背信行為を告げられても、自らの世界に解釈しなおして事態を了解し、反論を許さない。時代の変化にたくましく対応していくスカーレットの対極的存在であり、こうした頑迷ともいえる際立った人物像を創造した著者の力量に感心する。
物語は次々に急展開して悲劇的な様相を帯びていくが、ついにバトラーへの愛に目覚めたスカーレットにバトラーが別れを言い渡し、スカーレットがタラ農園で捲土重来を期すことを誓うところで物語は終わる。
物語の締めくくりとなる“After all, tomorrow is another day.”という言葉は、ヒロインの不屈の精神を象徴している。
ただし、「レットは取り戻せる。・・・相手に照準を合わせて落とせなかった男はこれまでいなかったもの」とつぶやく、最後まで自己愛の強い、懲りないヒロインなのではあるが。
なお、訳者解説では、スカーレットとメラニーを「ダーク・レディ」と「フェア・レディ」、バトラーとアシュリーを「ダーク・ジェントルマン」と「フェア・ジェントルマン」に分類して論じているが、長い物語を理解する視点として参考になる。
◎2021年10月12日『風と共に去りぬ(五) (岩波文庫)』マーガレット・ミッチェル
☆☆☆☆☆激動のアトランタ社会で主人公の運命も変転する
第5巻は第4部の後半、主人公スカーレットの父ジェラルド・オハラの不慮の死から始まる。
スカーレットはタラ農園の今後をウィルと妹スエレンに委ね、アシュリーとメラニー夫婦をアトランタに強引に呼び寄せ、自らは製材所の事業に奔走する。
物語は引き続きアトランタで展開するが、アトランタ社会は支配者である連邦政府と旧来の州政府が対立する激動が続いており、解放奴隷や貧困白人の流入で社会不安が強まっていた。
こうした中でスカーレットが暴力事件に遭い、憤激したKKK団への取り締まりで夫フランクは死亡、その後の関与者の捜索といった事件が次々と起こる。フランクの死に衝撃を受けたスカーレットは、良心の呵責に苛まれるが、バトラーの巧みなカウンセリングで負担を軽減され、その場の勢いで結婚申込みを受け入れてしまう。一見ドラマチックな場面であるが、スカーレットはバトラーの愛を信じておらず、また自らも愛があると思えない。バトラーの財力への打算的な期待もある。
スカーレットとバトラーの結婚はアトランタの旧社会、特に保守的な「レディ」たちを憤激させるが、スカーレットは金策から解放され、傲慢で派手な生活にのめり込んでいく。バトラーからは「悪銭身につかず」と警告されるが、お構いなしである。型破りなヒロイン像はここでは悪女ぶりがさらに進んで、危うい段階に突入したといえる。
それにしても、このように我が道を突き進むスカーレットが、相変わらずアシュリーを偶像のように崇めて愛し続けるのは全く不可解といわざるをえない。アシュリーとスカーレットは趣味も教養もあわないし、何よりも時代に臨む意欲と姿勢が全く違う。旧来の南部社会の価値観に固執し、「神々の黄昏」を傍観するかと思えば、KKK団の危険な活動に関与するアシュリーに、スカーレットのようなヒロインを惹きつける魅力があるとは思えないのだが・・・。
(第6巻へ続く)
◎2021年10月10日『風と共に去りぬ(四) (岩波文庫)』マーガレット・ミッチェル
☆☆☆☆☆スカーレットはブリュンヒルデか? 型破りなヒロイン像
第4部は南北戦争の終結、南部連合の敗北から始まる。
訳者解説によれば、南北戦争の死者は戦病者も含めて62万人で、これは今日までアメリカが経験したいかなる戦争と比べても突出している。ちなみに、同時代の日本の戊辰戦争の死者は西南戦争を含めても3万人程度であり、南北戦争がいかに悲惨な内戦であったかがわかる。
本書では灰燼に帰したアトランタの市街と北軍による苛酷な占領政治が描かれており、まるで第2次大戦後の占領下の東京を彷彿させる。本書の発行とその映画化が第2次大戦を前後して行われ、世界中で大ヒットしたのは、戦乱の悲惨とそこから立ち上がる人々の姿が同時代体験のように感動を呼んだからである。
それにしても、主人公スカーレットの変貌はすさまじい。タラ農園が重税で奪われる危機感から金策に奔走し、次々と大胆な行動に出る。バトラーからの借金が失敗するや、妹の婚約者を奪い再婚。さらには製材事業に乗り出す。古い文明と価値観の崩壊の中で、文字通り「金がすべて」的な行動に出たといえるが、南部の保守的な女性観からはかけ離れた存在となり、理解者であるバトラーから「孤独という罰」とまで言われる。スカーレットをここまで型破りなヒロインに造形した著者の意図が興味深いところである。
実は、スカーレットは金策に奔走する前にアシュリーに駆け落ちを誘うが、アシュリーは時代の変化に冷めた傍観者的態度で終始し、「ゲッターデメルングを目撃するのは、愉快でなくても面白いこと」だという。「ゲッターデメルング」Götterdämmerungとは言うまでもなくワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』4部作の最終夜『神々の黄昏』を念頭に置いたものであり、アシュリーのいう「神々」とは南部の奴隷制農園の貴族的支配者のことを指す。さらに、著者がこの楽劇にインスピレーションを得たとすれば、没落する神々の王ヴォータンはタラ農園の主人だったジェラルド・オハラであり、神々に反逆するニーベルング族のアルベリヒとその子ハーゲンは解雇された元畑監督で戦後は自由民局長としてタラ農園奪取を狙うジョナス・ウィルカースンというところだろうか。そうすると、タラ農園の誇りを守り、自己犠牲を厭わずに大胆な行動に出るスカーレットは、ヴォータンの最愛の娘にして強い意思と行動力の持ち主であるブリュンヒルデということになるのではないか。
なお、第4部では奴隷解放に対する著者のシニカルな姿勢や悪名高いKKK団への言及もある。
解放された畑奴隷はアトランタに大量に流れ込んできたが、占領政治の無策のために貧民として放置されるか畑労働者として戻るかしかない。北部から来た「レディ」たちがスカーレットに「子守にアイルランド人を」と頼む場面は、南部人以上に黒人差別意識の強い北部人の矛盾を示している。
こうした中で、黒人には選挙権を与え、南部人には選挙権は与えないという逆差別的政策が南部人の憤激を呼び、KKK団結成の背景となったとされる。ただし、KKK団は当初から過激な暴力で取り締まりの対象であったことが本書でも描かれており、主人公も心情的には理解しても同調してはいない。
(第5巻へ続く)
◎2021年10月8日『風と共に去りぬ(三) (岩波文庫)』マーガレット・ミッチェル
☆☆☆☆☆内戦の過酷さと南部の貴族社会の終焉
第3部は北軍のアトランタへの侵攻とそれを防衛する南軍の激しい攻防戦、アトランタの陥落前夜の阿鼻叫喚と人々の脱出劇を描く。主人公のスカーレットはメラニーの出産を助けて最後までアトランタに残るが、バトラーの助けでメラニーと子らを連れて命からがらタラへと避難する。しかし、タラで待っていたものは荒れ果てた農園と畑奴隷の逃亡、打ちひしがれた人々であり、しかも北軍兵士による略奪まで受ける。スカーレットの親しい人たちも戦乱の中で多数死亡した。
アトランタ生まれの著者マーガレット・ミッチェルは、内戦である南北戦争の過酷さを臨場感あふれる筆致で描き出しているが、南北戦争の記憶がまだ生々しく伝えられていたのであろう。
こうした過酷な内戦の中で、主人公たちの生活と価値観は当然ながら大きく変化していく。
スカーレットは、家族や奴隷たちに何でもしてもらっていたお嬢様暮らしから、苦難の逃避行と荒れ果てたタラの生活を支える責任を果たす、たくましい女性へと成長していく。また、メラニーも芯の強さを発揮してスカーレットを支え、二人の連帯感が強まっていく。バトラーのような強い男に頼りたいという心理を一方で持ちつつ、状況に迫られて自立していく女性像が描かれていて興味深い。
かつての南部大農園での貴族的な生活は完全に崩壊し、いまや毎日の食糧の確保のために主人公やメラニーらも奔走しなければならない。そうした生活と価値観の大転換を著者は、「・・・が去って行った」(gone)という表現をたびたび用いて強調している。
なお、スカーレットの子の幼いウェイドは戦乱と逃避行のショックで、いわばPTSDのような状態となってしまう。戦乱が子供に与える影響について著者がきめ細かく描いていること感心する。
他方、主人公らに付き従った黒人奴隷たちは、状況の変化に対応できない無能な存在のように描かれている。特に、綿花摘みの厳しい労働を主人公らもしているのに、屋敷奴隷たちが強く拒絶する場面は印象的である。奴隷制度は奴隷自身に差別意識を植え付けて身分的に固定化し、人間的な成長や発展を妨げていることがよくわかる。
巻末の訳者解説ではタラ農園の前史として、原住民のチェロキー部族から白人たちが悪辣な方法で土地を奪い、軍隊の力ではるか西部オクラホマの居留地まで原住民を徒歩で追いたてて約4000人が死んだ「涙の道」のことが詳しく書かれている。本書の物語の射程外だが、黒人奴隷とともにアメリカ史の影の側面として重要である。
(第4巻へ続く)
◎2021年10月5日『風と共に去りぬ(二) (岩波文庫)』マーガレット・ミッチェル
☆☆☆☆☆アトランタの物語 銃後の社会の喧噪を描く
第2部はアトランタを舞台にした物語である。
アトランタは鉄道の起点として発展し、南北戦争当時は前線へ軍隊と物資を輸送する拠点として急速に膨張した。
第2部ではそうしたアトランタの猥雑ともいえる活気と流入した様々な住民、さらには前線から戻されてくる負傷兵たち、南部の「大義」の下に南軍を支援する人々が描かれる。
物語の山場となるスカーレットがバトラーの指名を受けて踊る劇的なシーンも、南軍支援のためのチャリティーでの出来事である。
ちなみに、アトランタといえばCDC(疾病予防管理センター)を想起するが、CDCは1946年に南部のマラリア対策のために設立されたとのこと。しかし、この小説で描かれる南北戦争の負傷兵を治療した病院やスカーレットらも参加した多数の医療ボランティアの存在も関連するのではなかろうか。
そうしたアトランタの活気にもかかわらず、主人公スカーレットは若くして未亡人となった生活を鬱々と送っている。当時の社会は喪に服した女性に厳しい自制を課していたが、スカーレットの若い生命力はそうした生活に我慢できずに、チャリティーをきっかけに自由を取り戻す。厳しい社会規範と自由を求める女性の生命力とのせめぎ合いが第2部前半の見所であり、未亡人たちも負傷兵看護に動員されていた戦時都市アトランタの状況が規範を打ち破ることを可能にしたといえる。
ただ、スカーレットは南部の「大義」に共鳴せず、周囲の熱狂のなかで冷めている。また、「大義」を全く信じないバトラーはもとより前戦で戦うアシュリーもまた「大義」を疑っており、南部人の中に冷めたキャラクターを配している点が興味深い。
他方、アシュリーの妻メラニーとスカーレットは義理の姉妹関係であるが、アシュリーの恋敵として常にメラニーを意識するスカーレットに対し、メラニーは鈍感力を発揮してスカーレットを頼りにする奇妙な関係として描かれる。いわばボケとツッコミのようで、コミカルでさえある。
物語の後半では、戦況が南軍に不利に傾く中で、主人公とメラニーを含む人々の悲喜こもごも、微妙な心理の変化が巧みに描かれる。
なお、巻末には訳者の奴隷制度に関する長い解説があり、スカーレットが頼りにする黒人奴隷「マミー」が実名で呼ばれず、混血でなく生粋の黒人であることが強調されるのはなぜかといった、今日に続く黒人差別問題のルーツが詳しく紹介されていて、参考になる。
(第3巻へ続く)
◎2021年10月3日『風と共に去りぬ(一) (岩波文庫)』マーガレット・ミッチェル
☆☆☆☆☆南北戦争前夜の南部農園と自負心の強い少女
映画で有名なこの小説を読むのは実は初めてであり、映画も見る機会がなかったが、遅まきながらチャレンジすることにした。
第1部は南北戦争前夜のジョージア州、主人公の父が開拓したタラ農園の生活を中心に、少女スカーレットの物語が紡がれる。
なんといっても興味深いのは黒人奴隷解放前の南部社会である。奴隷は売買されて農園主の所有物となり、家付き奴隷と馬具製作などの職人奴隷、畑労働に従事する畑奴隷などに区別され、畑奴隷が最も低い「落ちこぼれ」として扱われている。綿花農園は数十人から100人を超える黒人奴隷を使用し、農園主一家はこの第一部で描かれるようなバーベキューパーティーをそれぞれ近隣農園主を招いて大規模に催す優雅な暮らしぶりをしている。
黒人奴隷を有する差別的な社会制度は白人自身にも影響しないわけがなく、白人でも奴隷を持たない貧乏白人やアイルランド移民なども蔑視の対象だったことが、登場人物の言葉の端々にあらわれる。
物語はアイルランド移民の父親とフランスの上流階級出身の母親をもつスカーレットの恋愛と結婚をめぐって展開するが、スカーレットは「レディ」である母親ではなく、父親の気質を強く受けた気性の激しい娘として描かれる。いわば少女漫画の女王様的存在であり、周囲の男性すべてを自分に惹きつけないと気が済まない。そして、相手の気持ちもかまわず、婚約者がいてもおかまいなしで、自分の愛情を押し通そうとするのだが・・・。
なお、翻訳はわかりやすく、登場人物の個性が生き生きと訳し出されている。注釈も詳しく、参考になる。
レビューのなかには人物紹介や解説が「ネタバレ」との批判が散見されるが、本書に限らず有名な古典的作品に「ネタバレ」もなかろう(謎解きミステリーではないのだから、古典は筋を追うのではなくゆっくり味わって読むものだ)。
また、主人公の母親の出身である「ロビヤード家」はフランス語読みでは「ロビヤール」だが、アメリカに移民すれば英語読みのロビヤードでよい。シャルルがチャールズとなるのと同じである。
(第2巻へ続く)
◎2021年9月30日『ウィーンに六段の調 戸田極子とブラームス』萩谷由喜子
☆☆☆ブラームスの逸話は第8章のみ あとは華族たちの明治史断面
新聞書評でブラームスに箏曲を演奏して聞かせた日本人女性がいたと知って読んでみたが、肝心のブラームスの逸話は第8章のみであり、民族音楽に関心のあったブラームスが戸田極子(きわこ)の演奏する箏曲を楽譜に書き込みをしながら聞いたという程度である。当時、極子の箏曲を五線紙に写し取った楽譜が出版されたことやブラームスのクラリネット五重奏曲にその影響があるという推測などは興味深いが、いかんせん情報が少なすぎる。
本書の大部分は岩倉具視の娘であった極子と、明治維新後に極子と結婚した元大垣藩主の戸田氏共の夫婦を中心とした人々の物語である。明治維新前後の歴史や鹿鳴館についてもかなり書いてあるが、ほとんどは広く知られている歴史であろう。
明治維新後、廃藩置県と秩禄処分により士族の大部分は失業したが、藩主クラスは華族に列せられて優雅な殿様生活を送った。本書に登場する戸田伯爵夫婦やその関係者も、大部分は華族の範囲内で姻戚関係を築き、家の跡継ぎづくりが大きな関心事であることがよくわかる。戸田夫婦は跡継ぎの男子を亡くして娘米子に元高崎藩主の家から養子を迎えるが、米子が早世すると、血筋を維持するために、氏共が奉公人に産ませたまだ16歳の娘を養子の妻にあてがうという醜悪なことまでしている。
そうした旧大名華族たちの明治における人脈づくりや「家」の維持に興味がある人には、面白い本かもしれない。
なお、本書によれば、戸田夫婦がウィーンに公使として赴任したのは、首相官邸で催された仮面舞踏会で伊藤博文首相が引き起こした極子に対するセクハラスキャンダルのもみ消しではないかとのこと。
今の時代なら元勲伊藤といえどもセクハラで失脚だろうが、瓢箪から駒でブラームスと箏曲の縁ができたことになる。
ちなみに、エピローグで紹介されている「ヘーデンボルグ3兄弟」の演奏はテレビで見た。この3兄弟の母親の戸田悦子氏が戸田極子とは先祖を同じくする遠縁だというが、交流があったわけでもなさそうで、「極子の音楽遺産」とは牽強付会にすぎよう。
◎2021年9月29日『罪と罰3 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
☆☆☆☆☆スヴィドリガイロフは主人公の分身 「死か、それとも生きて苦しみを受けるか」
第3巻は紆余曲折をたどる複雑な構成であり、主人公ラスコーリニコフが苦悩を経て罪を告白し、さらには自首するに至るまでを、作家が技巧を凝らし考え抜いて描いたものである。
まず、マルメラードフの葬礼の宴席で、肺病病みの妻カテリーナが興奮状態に陥り、家主や間借り人と大騒動を引き起こす。ドストエフスキーお得意のカーニバル的な場面であるが、そこにルージンがソーニャを陥れる悪巧みが挿入され、にわかに緊張が高まる。この悪巧みはルージンの思惑通り展開するが、最後に決定的な証人が現れて、一挙に形勢が覆される。まるで被告に嘘を長々と弁じさせてから動かぬ証拠を突きつける反対尋問のように痛快な場面だが、これはドストエフスキーが通いつめた陪審裁判の影響だろう。この小説では、その他にも予審判事ポルフィーリーの捜査手法やエピローグの裁判の場面などで詳細で正確な法律知識が示されているのが興味深い。
ポルフィーリーについては、第2巻のレビューで刑事コロンボのモデルと書いたが、第3巻でも神出鬼没ぶりを発揮し、その話術で主人公を油断させつつ、最後は「犯人はあなたしかいないと確信している」とコロンボのようにズバリと切り込む。その一方で主人公の苦悩にも理解を示し、自首の機会を与える人間味も示している。主人公に感情移入して読むと油断ならない恐ろしい捜査官だが、コロンボのイメージを想像するとユーモラスで人情のある人柄が見えてくる。
第3巻で最大の謎は、怪人スヴィドリガイロフであろう。女好きで少女陵辱や妻殺しの噂にまみれたこの人物にドストエフスキーはなぜ重要な狂言回しのような役割を与え、かなり長いページを割いてその行動を描いたのか?
主人公が最後にこの怪人と対決する長い対話で明らかになるが、この人物は主人公の利己主義と犯罪の鏡のような存在であり、いわば主人公の分身なのである。
スヴィドリガイロフはソーニャに、主人公に残っている道は「額にピストルを撃ち込むか、囚人街道を下るか」だと告げるが、その究極の選択は、欲望が実現せず絶望に陥ったスヴィドリガイロフ自身にも突きつけられていた。
主人公は苦悩の末にソーニャに罪を告白し、スヴィドリガイロフとの対話を経て「囚人街道」を選んだわけだが、注意しなければならないのは、主人公は自らの罪を悔いて自首したわけではないということである。
主人公はその傲慢な思想を捨てず、自らがナポレオンのようになれなかったことに苦しみ、その重圧に耐えられずに告白し、自首したのである。
ただ、主人公は「死」ではなく「生きて苦しむこと」を選んだ。そこにはソーニャや妹ドーニャ、あるいは母や友人ラズミーヒンといった、主人公を愛して温かく見守る人たちの存在がある。
死ではなく「苦しみを受ける」こと、これはポルフィーリーもソーニャも語ったキーワードである。自首、裁判、そしてシベリアでの受刑がこの「苦しみを受けること」に当たるわけだが、エピローグの最後のシベリアの場面でようやく主人公には「蘇りの光」が見えてくる。いわば悪霊のように主人公に取り憑いていた「観念」にかわって「生命が訪れてきた」のである。
ただし、更生はまだ始まったばかりだとして、希望の余韻を残したまま物語は閉じられる。
◎2021年9月26日『罪と罰2 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
☆☆☆☆☆ポルフィーリーは刑事コロンボ!? 息詰まる心理戦
第2巻はクライムサスペンスのような展開であり、主人公ラスコーリニコフの揺れ動く精神状態の心理描写と、予審判事ポルフィーリーとの2度にわたる息詰まる対決に読者は一気に引き込まれる。
ただし、その間に主人公の犯罪の背景となった思想が詳しく語られ、その対極となるソーニャとの長い対話が配置されていることは見落とせない。
それにしてもポルフィーリーの主人公への追及は硬軟取り混ぜた見事な心理戦であり、無関係な雑談や冗談を交え、おだてたりなだめすかしたり、わざと事実関係を間違えて相手を引っかけようとしたりといったふうで、まるで刑事コロンボである(実際、刑事コロンボの脚本家はポルフィーリーをコロンボのモデルにしたとのこと)。
他方、ポルフィーリーの追及に立ち向かう主人公の心理の動きやあわや崩壊寸前に追い込まれる動揺ぶりも濃密に描かれ、緊迫感を高めている。
主人公の思想はポルフィーリーとの1回目の対決で語られるが、天才や非凡人には大衆を踏み越えていく権利があるというグロテスクなものである。「ナポレオン主義」と戯画化されているが、訳者によると元はナポレオン3世の著作に由来するとのこと。
他方、主人公は当時のフーリエ流社会主義思想に対しても批判的であり、彼らは論理だけを使って本性を切り捨てる、「生活の、ほんものの生きたプロセスも嫌ってる、生きてる魂なんていらないってわけ!」と厳しく批判する。かつてドストエフスキーが「反動的」と批判された由縁であるが、人口都市ペテルブルクの急速な近代化と社会的混乱を背景とした思想状況がうかがい知れて興味深い。
主人公とソーニャの対話は、舞台がソーニャの賃借している「カペルナウーモフ」の家で行われ、またヨハネ福音書の「ラザロの復活」の朗読が山場となっており、聖書と深く関係する場面である。言うまでもなく「カペルナウム」はイエスが伝導の拠点とし、悪霊を追い出す奇跡を示した場所である。ソーニャは主人公に頼まれて「ラザロの復活」の節を朗読するが、復活の奇跡が顕現する場面ではソーニャ自身が大きな勝利感に包まれる。この時点ではまだ主人公の心には響いていないが、この「ラザロの復活」は『罪と罰』の全体を貫く信仰による魂の救済というモチーフとなっている。
(第3巻へ続く)
◎2021年9月24日『罪と罰1 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
☆☆☆☆☆≪人を殺す≫とはどういうことか? そのすさまじい心理的葛藤と緊迫感を描いた傑作
『罪と罰』を初めて読んだのは中学時代で、その後も何度も読んだが、読むたびにその素晴らしさに圧倒され、小説を読む醍醐味を味わう。
1990年代にはサンクト・ペテルブルクを訪れ、小説の舞台となったセンナヤ広場周辺や冬宮殿を望むネヴァ川の橋のあたりを散策したが、「ラスコーリニコフの家」があったのには驚いた(もちろん観光用である)。
この第1巻は主人公ラスコーリニコフが金貸しの老婆とその妹を殺す場面を最大の山場として、そこまでに至る主人公の葛藤と逡巡の濃密な心理描写が素晴らしい。そして、計画や下見段階では空想としか思えずに一度は断念するものの、いくつかの偶然から運命の歯車が回るように計画の実行に押し出されるその過程の緊迫感が、驚くべきリアリティとスピード感で描かれていく。さらに、殺人の実行と現場からの逃走後は、主人公が精神的動揺で心身ともに病的な状態に陥り、犯行の隠蔽から自首寸前に至る心理と行動が手に汗握るスリリングな筆致で描かれる。
まさに、≪人を殺す≫ということが人間にとっていかに極限的なことであるのかを、犯人の心理面と行動面で描き尽くした傑作といえる。
他方、物語の横糸としては、酒で自滅した元九等官マルメラードフとその家族の悲惨な生活、ソーニャの自己犠牲、母からの長い手紙、主人公が子供の頃見た、痩せ馬を無残になぶり殺す恐ろしい夢といったエピソードが巧みに組み合わされて、主人公の人間的側面が浮き彫りにされる。
ここに描かれているのは「冷酷な殺人鬼」ではなく、人間味と情愛あふれる主人公がニヒリズムに傾く理性の罠によって殺人に至るドラマなのである。
(第2巻へ続く)
◎2021年9月22日『LGBTを読みとく ─クィア・スタディーズ入門(ちくま新書)』森山至貴
☆☆なぜかくも攻撃的で上から目線なのか?
身近なところでLGBT法案に関する議論に接する機会があったので、参考文献として挙げられた本書を読んでみた。
しかし、冒頭の「はじめに」から最後まで、この問題を知ろうとしないのは差別者という攻撃的で上から目線の論調が続く。
例えば、「私はセクシュアルマイノリティに対する偏見を持っていませんが・・・」という人はセクシュアルマイノリティを見下す心が見え隠れすると決めつける。しかし、「が」の後に続くのは何も否定的な言葉とは限らない。ニュートラルな疑問もあるはずだ。
また、「共感」や「善人アピール」も褒められたものではなく、「もっと知りたい」という知識を得る姿勢が必要だという。しかし、このように善意でマイノリティに接近してくる人々にダメ出しをして、もっと勉強しろと要求する方が暴力的なのではないか。
著者は良心や道徳ではダメだとまで言うが、その理由は、良心や道徳は「普通」を強制する、「マイノリティもマジョリティと同じく『 普通』の人々であるから差別してはいけない、という論理は、『普通』でないなら差別をしてもよい、の言い換えに過ぎないから」だという。しかし、論理の前提に「普通の」を入れた時点で、論点先取りの誤謬に陥っている。
三段論法の誰もが知っている命題は以下のとおりである。
<人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死ぬ。>
これを、ここで当てはめれば、
<人間は誰もが平等であり差別してはならない。マイノリティも人間である。ゆえにマイノリティはマジョリティと平等であり差別してはならない。>
となるはずである。
つまり、「普通の人間」ではなく、たんに「人間」であることが差別してはならない理由なのだ。その根拠は近代人権思想の大原則である「人間の尊厳」であり、人種差別や障害者差別はこれによって克服されてきた。LGBTがこれらと異なり、さらに知識や学問が要求されなければならない理由は何か?
本書で著者のいう「知識」は、LGBTの個々の精密な定義と差異の理解にとどまらず、その概念が形成されてきた複雑な歴史にまで及ぶ「学問」が要求される。さらに、「クィア・スタディーズ」に至っては、デリダの脱構築やフーコーの性と権力に関する概念が援用される(デリダやフーコーの言説がどのような意義を有するのか疑問だが、わかりやすい解説は何らなされない)。
確かに、正確な知識を得ることや差別の歴史を知ることは有益であろう。しかし、外来語のカタカナを羅列したような、複雑で多岐にわたり、議論の渦中にある学問的な概念を知ろうとしなければ差別者であるというのはやはり過剰な言説であり、「物言えば唇寒し」的な印象を与えるだけである。
◎2021年9月21日『白痴4 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
☆☆☆☆☆公爵はキリストかドン・キホーテか?
第4部は主人公の4人、すなわちムイシキン公爵、ナスターシャ、アグラーヤ、ロゴージンの奇妙な三角・四角関係の矛盾が頂点に達し、一挙に大団円のカタストロフに流れ込む。ただし、ドストエフスキーのストーリーテラーとしての冴えは見事であり、4人の主人公だけでなく脇役たちのそれぞれの個性的な絡みや、西欧化と農奴解放を背景としたロシア社会のカリカチュアもたっぷり描かれ、読者を楽しませてくれる。
圧巻なのはエパンチン将軍の家で催された高位高官を招いての夜会の場面である。これはアグラーヤの結婚相手としてムイシキンを品定めするための格式高い夜会なのであるが、招かれた高位高官に対するドストエフスキーの戯画化がすさまじい。例えば、ある上級官吏についてはこんなふうである。
「政府関連の仕事にかんして驚くほど知識をもち、ほとんど学者はだしとの評判があったが、これがまた、『肝心のロシアのことをのぞけば』すべてのことに通じている、いわゆるオリュンポス神のごとき行政官のひとりで、五年にひとつ『その深さたるや驚くべき』金言を放つだけが取り柄・・・」
このような見せかけだけの「空疎な人々」とは対照的に、ムイシキンは興奮状態で無神論とカトリック批判を長々と弁じ立て、最後は軽い癲癇の発作を起こして倒れてしまう。夜会後にある参加者から「スラブ主義者」と評されるほどだが、後のポーランド貴族(カトリック国である)の扱いなどを見れば、ロシア正教回帰はドストエフスキー自身の考えにも近いのだろう。
では、主人公たちの運命、特にナスターシャとアグラーヤに対してムイシキンはどのような人物として描かれているのか。
第3部のレビューでも書いたが、ムイシキンの2人への愛は男女間の恋愛というよりもイエス・キリストの人間愛に近い。ムイシキンの言葉の端々にも子供を慈しむような愛情であることが読み取れる。ただし、ナスターシャは傷ついた魂を持った子供であり、アグラーヤは純真で一途の子供である。アグラーヤが貴族令嬢らしい傲慢さと強い嫉妬心からナスターシャと直接対決してムイシキンに選択を迫ったとき、ムイシキンが傷ついた魂の救済を選んだのはまさにイエスの愛に近いといえよう。
しかし、その結果はカタストロフである。ナスターシャはムイシキンの無私の愛がかえって自責の感情となって耐えきれずに逃げだし、アグラーヤはムイシキンの真意が理解できないまま絶望する。そして、どちらも悲惨な結末を迎えるのである。ムイシキンはイエスのような気高さと愛情を示したが、行動の結果はドンキ・ホーテのような悲喜劇で終わったと言える。
なお、巻末の訳者の読書ガイドは周到であり参考になるが、やや専門的で細かい。まず本文を読んで小説の楽しさをたっぷり味わい、その後に読むべきだろう。
訳注は丁寧でわかりやすく、kindle版では注がその場でポップアップされて便利である。
◎2021年9月18日『白痴3 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
☆☆☆☆☆公爵をめぐる恋のさや当て? 「イッポリートの告白」の圧巻と謎
第2部で様々に張り巡らされた伏線と仕掛けを受けて、第3部は物語の佳境に入る。
舞台は引き続きパーブロフスクの別荘地で展開するが、まず目を引くのはアグラーヤのムイシキン公爵に対する謎めいたアプローチである。やがてその背後にはナスターシャからアグラーヤに宛てた3通の手紙が存在することが明らかになるが、アグラーヤは最後にはムイシキンに対して一緒にイタリアに行こうとまで言い出す。ここには純粋で気性が激しく、貴族令嬢としての生活を捨てても飛翔を求める新しい女性の姿が感じられる。
これに対し、ムイシキンはナスターシャを愛していないといいつつ、アグラーヤの誘いにも煮え切らない態度である。ムイシキンの愛は男女間の恋愛というよりもイエス・キリストの人間愛に近い。無私で高潔な態度が女性を惹きつけるが、恋愛感情には応えられないのである。ストーカーのようにナスターシャにつきまとって離さないロゴージンの執着とは対照的である。ナスターシャをめぐるロゴージンとムイシキンの奇妙な三角関係に、アグラーヤの純粋で激しやすい愛情が絡んで物語の縦糸が紡がれる。
物語に変化とスピード感をつけているのはエリザベータ夫人やラドムスキー、レーベジェフといった脇役たちが次々と引き起こす事件や饒舌な語りであるが、各人の性格や思想を独立したポリフォニックな語りで描くドストエフスキーの手腕は見事で、読者を飽きさせない。
特に、この第3部では結核病みのイッポリートの長大な「告白」が圧巻である。迫り来る死を前にした切迫感に満ちたこの告白は、生命の輝きの謳歌、個人の行動や思想が撒いた種が与える影響など多面的な要素を含むが、ロゴージン邸で見たホルバインの『死せるキリスト』の解釈にはムイシキン以上の絶望的な衝撃が伝わる。ただ、この告白はニヒリスト的な無常観、無神論が色濃く、死を目の前にして「もしもぼくがいま、相手かまわず、たとえば十人ばかりの人間をいちどに皆殺しにしたとする」としても裁判所は裁くことができないとさえいう(現代における自暴自棄による通り魔的殺人を連想する)。そして、イッポリートは自分自身の意思でできる唯一の事業として、「告白」の直後に自殺を敢行しようとするのだが、これは惨めな失敗に終わる。
『悪霊』の「スタヴローギンの告白」以上に長大な告白をここで挿入しつつ、その結末をあえて戯画化したドストエフスキーの意図は謎であるが、ニヒリスト的な無神論とその帰結として選択された自死のいわば傲慢さへの批判ということであろうか。
◎2021年9月15日『白痴2 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
☆☆☆☆☆愛憎の交錯する心理劇、一転してドタバタのホームドラマに
第2部は第1部のムイシキン公爵登場がもたらした大騒動から半年経過している。その間にムイシキンはモスクワで遺産相続の処理だけでなく、ロゴージンやナスターシャとの関わりも続いていたとされるが、詳細は語られない。ムイシキンはモスクワでの疲れからか、癲癇の病状が徐々に進行しつつある。
第2部前半の山場はムイシキンとロゴージンの愛憎相半ばする深刻な対話と対決である。ロゴージンは粗暴な悪漢ではなく、感情が豊かで激発しやすい人物として造形されている。ムイシキンがナスターシャを情熱的に愛することなど考えられないのに対し、ロゴージンは「苦しむことも哀れむこともできる、大きな魂がある」とされ、「共苦」がロゴージンを導くとさえ言われる。『カラマーゾフ』の長男ドミートリーへとつながる人物類型だろう。
ロゴージンとの対決はムイシキンの癲癇発作によって断ち切られるが、癲癇発作直前に生命感覚と自意識が異常に研ぎ澄まされる詳細な描写は、ドストエフスキー自身の経験を踏まえたものである。
第2部後半は一転して、パーブロフスクの別荘にエパンチン家やイヴォルギン家が一同会したホームドラマが展開し、ムイシキンの遺産相続をめぐる三面記事的な騒動が加わり、ドストエフスキーお得意のカーニバル的なドタバタ喜劇となる。
ここでは上級貴族であるエパンチン家の人々から農奴解放で増大した中下層階級まで多彩な人々が登場するが、いずれもムイシキンの高潔さに引き寄せられ、思わぬ告白をしたり真情を吐露したりするのが面白い。ムイシキンはキリストというよりもいわば狂言回し、トリックスターのようである。
なお、ムイシキンの手足となって助ける少年コーリャと、その友人で結核病みのイッポリートの2人の少年は明暗対照的に描かれるが、第2部の最後で迫り来る死を前にイッポリートが一同に語る悲痛な訴えかけは感動的であり、ドストエフスキーの青少年への暖かいまなざしが感じられる。
◎2021年9月11日『白痴1 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
☆☆☆☆☆素晴らしいスピード感と人物造形 福音書を下敷きとした物語
『悪霊1』のレビューでも書いたが、ドストエフスキーは何度読んでも面白い。
他の著作にも共通するが、ドストエフスキーの小説世界はとても狭く、少ない登場人物が、狭い地理的範囲で、ごく短期間に濃密な物語を展開するのである。結婚や借金、賭博といった卑近な話題が物語の縦糸をなしているが、登場人物がいずれも性格的に一癖も二癖もあり、誰もが異様に饒舌に話し、たちまち激怒、興奮、驚愕の渦に巻き込まれる。そして次々と事件が起きて、スピーディーに場面が展開していく。こうしたドストエフスキーならではの誇張されたドラマツルギーが、読者を小説世界に引き込んで離さないのである。ドストエフスキーの面白さは、ストーリーというよりも、登場人物の生き生きとした人物造形と饒舌でポリフォニックな会話の細部にあるといっても過言でない。
この第1部は物語の導入部であるが、ムイシキン公爵の登場とロゴージンとの出会い、エパンチン将軍の家での3人娘との対話、下宿先のガブリーラの家での家族との対話とナスターシャの突然の訪問、ロゴージンの大勢を連れての闖入、さらにはナスターシャの誕生日会の大騒動と、次々と場面転換して事件が進行するスピード感が素晴らしい。クライマックスのナスターシャが10万ルーブルの包みを暖炉に投げ入れる場面は、まるで映画のシーンのような緊迫感である。
ドストエフスキーは主人公のムイシキン公爵をイエス・キリストに見立てたといわれるが、まさに物語の随所に福音書を下敷きにした場面が描かれる。例えば、ムイシキンがスイスの村で療養中に子供たちから親しく愛されたのはイエスと弟子や信者たちの姿を彷彿させるし、旅の商人に騙されて捨てられたマリーを村人たちの差別と排斥から擁護したエピソードは福音書の「罪の女」の物語そのものである。マリーを断罪した牧師や村人はいわばイエスを攻撃したパリサイ人であろう。
また、トーツキーに囲われて「堕落した女」というトラウマに苦しむナスターシャに対してムイシキンが「あなたはそんな人ではない」という場面は、マグダラのマリアに対するイエスのようである。
トーツキーとナスターシャの関係についていえば、他の著作同様、ドストエフスキーの児童虐待への関心が下敷きとなっているが、トーツキーが幼いナスターシャの美しさに注目して自らが引き取って養育し、少女が成長したときからは囲い者として暮らすようになったというエピソードは、あの『源氏物語』の「若紫」を連想させる。
しかし、光源氏が少女を人間的に尊重し紫の上として妻に迎えたのに対し、トーツキーはナスターシャを欲望の対象としてのみ扱った。そこでナスターシャはトーツキーの縁談話を機に反逆者となったのである。
なお、エパンチン将軍の3人の娘たちとの会話でムイシキンが場違いにも長々と話す死刑囚の物語は迫力満点で鬼気迫るものがある。これはドストエフスキー自身がかつて思想犯として死刑宣告を受け、執行直前で恩赦された事件を踏まえたものである。この小説当時のロシアは西欧化政策の一環で死刑は廃止されていたが、ドストエフスキーは死刑で人を殺すのは「その罪と比較にならないほど大きな罰」だと書いている。死刑廃止論の系譜として位置づけられよう。
◎2021年9月8日『希望の未来への招待状:持続可能で公正な経済へ』マーヤ・ゲーベル
☆☆☆☆☆とてもわかりやすい。しかも、課題を明確に示している。
地球環境危機や新自由主義経済の下における貧富の差の極大化を論じた本は多いが、本書は問題点を非常にわかりやすく示し、それだけではなく課題を実現可能なものとして明確に示している。
「持続可能な社会と経済」という観点から見て、現在の世界は限界に近づいているという認識は多くの人に共有されているのではないか。国連SDGsなどもそのための取り組みである。
1987年に国連に提出された「ブルントラント報告書」は将来世代を見越した持続可能な開発の指針を示したが、他方、同年にノーベル賞を受賞した経済学者のロバート・ソローは「人間は破壊した自然を技術で置き換えるだけでよい」と述べたという。本書では、その極端な例として、大量死が問題化しているミツバチの代わりにミツバチ型ドローンで受粉するという驚くべき実例を挙げているが、このような対策が「持続可能」なわけがない。
二酸化炭素排出削減のために開発されている電気自動車にしても、本書が指摘するように、エネルギー消費が伴う以上は発電や充電設備の建設等が必要となる。たとえ電気自動車であっても、中国やインドなどの世界の膨大な人々が自家用車を持った場合の環境負荷は想像を絶する。名著『自動車の社会的費用』(1974年)で宇沢弘文が指摘した自動車の社会と環境への負荷と、公共財の重要性に関する議論はますます切実なものとなっているのである。
ケインズは人間が物質的欲求を満たす時点が2030年ころに来ると推測し、そのときは週15時間労働で必要は満たされ、そして、「余暇ができれば、私たちは自分の健康を気にかけ、人間として の可能性を十分に発揮し、友人や家族といっしょの時間を過ごし、教養をつんで芸術と文化に没頭する」と考えたという。
どうしてこのような社会ができないのだろうか?
著者はそのためには、多くの人が価値観を変えること、それだけではなく国家が持続可能性と公共財を重視した社会経済政策をとることを提唱する。
キーポイントは、分配の不平等を是正し、社会的公正を実現することである。
◎2021年9月7日『悪霊3 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
☆☆☆☆☆カーニバルからカタストロフへ 「悪霊」の意味
第2部ではピョートル・ヴェルホヴェンスキーの陰謀計画が示されたが、第3部はその実行から悲劇的結末へと一気に向かう。
その幕開けは、知事夫妻の主催する文学講演会と舞踏会の祭りである。ここではドストエフスキーらしいドタバタ喜劇風のカーニバルが繰り広げられ、知事夫妻のメンツは丸つぶれになり、講演者の文豪カルマジーノフ(モデルはツルゲーネフ)は徹底的に戯画化される。夜の舞踏会は無礼講のどんちゃん騒ぎとなり、その最中に川向こう(貧民街であろう)で放火による火災が発生し、殺人事件まで発覚する。
そして、坂を転げ落ちるように悲劇が展開し、陰惨極まりないシャートフの暗殺とキリーロフの自殺にまで至るのであるが、その間のドストエフスキーの筆致は鬼気迫るものがある。特に、シャートフの暗殺は、その直前に彼の妻が3年ぶりに戻って出産する事件と明暗が際立たせられ、全く救いのない残酷さが強調されている。
この陰惨な殺人と対照的にほのぼのとした筆致で描かれるのが、文学講演で世間に見切りを付けた老ステパン・ヴェルホヴェンスキーの旅立ちと放浪である。奇しくも後のトルストイ晩年の家出を予言するような展開であるが、ステパンは旅先で福音書売りの女性ソフィア(『罪と罰』のソーニャを想起する)と出会い、一緒に福音書を売って歩こうと言い出す。いわば無神論の西欧派リベラリストのキリスト教回帰とロシア民衆の再発見の場面である。
ドストエフスキーが「悪霊」という言葉に込めた意味合いもここで示される。全巻冒頭に引用されたルカ福音書の一節を読み聞かされたステパンは、「これはまさしくロシアそのもの」であり、「何世紀にもわたってロシアに積もり積もった疫病、不浄の輩、悪霊」だという。そして、「ぼくたちは正気を失い、悪霊に憑かれて、崖から海の中に飛び込み全員が溺れ死んでしまう」が、病人(ロシアと民衆)は病から癒えて「イエスの足元に座ることになる」のである。ここではロシアの風土と民衆から遊離したイデオロギーに取り憑かれた人々が厳しく批判され、神への愛(あるいは人間愛)と信仰の重要性が語られているといえるだろう。
最後に、ドストエフスキーの青少年へのまなざしに触れる。『罪と罰』や『カラマーゾフ』でもドストエフスキーは青少年に温かいまなざしを向け児童虐待を批判してきたが、『悪霊』でもそのまなざしは指摘できる。
まず、いうまでもなく「スタヴローギンの告白」における少女陵辱への糾弾である。
次に、非人間的で悪の権化のように描かれるピョートルであるが、この非人間的な人格形成は父親のステパン・ヴェルホヴェンスキーが全く養育を放棄し、父親らしい愛情を注がなかったことと無縁ではあるまい。それゆえステパンは死ぬ間際に、ピョートルやその仲間とまた会って、彼らの中にも偉大な思想が宿っていると知らせたいと嘆くのである。
さらに、ピョートルの忠実な部下で、シャートフの暗殺で冷酷な連絡役を果たしたエルケーリである。他の仲間が暗殺に躊躇して自滅していくのに比して、エルケーリは人間的な感情を全く見せず、逮捕後も悔悟の気色がないにもかかわらず、ドストエフスキーは「彼がまだ年少なこと、無防備であること、彼が政治的誘惑者のファナチックな生贄にすぎない」として同情を寄せている。ここには人格形成途上の少年犯罪への深い洞察が示されている。
◎2021年9月5日『悪霊2 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
☆☆☆☆☆革命運動のグロテスクなパロディ化 ピョートルとニコライの告白の対比
第2部はいよいよこの小説が問題作といわれる革命運動と水面下で進む陰謀が描かれる。
物語は19世紀のロシアの急激な西欧化政策とリベラルな思潮の影響、さらにはフーリエ流の社会主義者や無政府主義者の台頭といった時代背景を踏まえているが、ドストエフスキー自身が過去に社会運動に関与して受刑した経験があるだけに、運動や陰謀に関わる人物像と対話の描写は迫真に迫っている。
それにしても、ピョートル・ヴェルホヴェンスキーに操られる陰謀加担者の語る思想は浅薄な合理主義と無神論のオンパレードであり、ドストエフスキーらしい誇張された荒唐無稽なパロディとなっている。ただ、「かぎりない自由から出発しながら、かぎりない専制主義で終えようとしている」というシガリョーフの理論と絶望は、後のソ連や社会主義国の行方を暗示しているようでもある。
出版差し止めとなった問題の「スタヴローギンの告白」は本書の亀山訳では著者の当初の構想通り第8章の次に入っている(江川訳では巻末の付録扱い)。この「告白」のみがクローズアップされて論じられることが多いが、この位置に入ることで、第8章「イワン王子」でピョートルがスタヴローギンに向けて訴える長大な告白との対比が明確になる。ピョートルは自らを社会主義者ではなくペテン師であると自認しつつ、グロテスクな陰謀の計画を得々と語り、神を嘲る教師や教育のある殺人犯を弁護する弁護士、殺しの感覚を経験するために百姓を殺す高校生、犯罪者を次々に無罪にする陪審員、リベラルでないことにびくつく検察官や行政官らも仲間だという。ここには『罪と罰』における価値観の混迷と神の存在をめぐる葛藤がより鮮明に提示されている。ピョートルはこの価値の顛倒と混迷の中でスタヴローギンが「イワン王子」として登場して陰謀を成就するよう求めるのである。
他方、「スタヴローギンの告白」では、修道院のチホン主教にスタヴローギンが自らの許されざる罪とそれによる「悪霊」に悩まされていることを告白する。ここでタイトルの「悪霊」が明示されるが、この「悪霊」とはいわばスタヴローギンの良心であり、スタヴローギンはチホンに「受難と自己犠牲の願望にとりつかれている」と喝破される。
いまやスタヴローギンはかつての仲間であったピョートルとは全くかけ離れた思想的境地に立っていることを、第8章と「告白」は対照的に示しているのである。
(第3部へ続く)
◎2021年9月1日『悪霊1 (光文社古典新訳文庫)』ドストエフスキー
☆☆☆☆☆「ドストエフスキー・ワールド」に引き込まれる
ドストエフスキーは何度読んでも面白い。冒頭から物語の展開にぐいぐい引き込まれる。
『悪霊』を読むのは実は3度目である。1度目は学生時代、2度目は40代で、3度目は60代となった現在である。『罪と罰』や『カラマーゾフ』をはじめとした主要著作も同様である。ただし、前回の『悪霊』は江川訳で、今回は江川訳をところどころ参照しつつ亀山訳を読んだ。
『悪霊』は一般に思想小説と言われ、確かに19世紀中頃のロシアの混迷した思想状況を反映しているが、読者はそのような先入観を持たず、また、解説書から入ろうなどとも思わずに、まずは原作を読むべきである。そして、「ドストエフスキー・ワールド」の面白さを体験すべきである。
『罪と罰』や『カラマーゾフ』などの他の著作にも共通するが、ドストエフスキーの小説世界はとても狭い。少ない登場人物が、狭い地理的範囲で、ごく短期間に濃密な物語を展開するのである。結婚や借金、賭博といった卑近な話題が物語の縦糸をなし、あたかも家庭小説のようだが、登場人物がいずれも性格的に一癖も二癖もあり、誰もが異様に饒舌に話し、議論が始まると激怒、興奮、ヒステリーの渦に巻き込まれ、そして次々とスピーディーに事件が起きて場面が展開していく。現実にはありえないアンチリアリズム小説なのであるが、これは読者を小説世界にぐいぐい引き込むための誇張された描写であり、ドストエフスキーならではドラマツルギーである。したがって、読者は物語のあらすじを追って読むのではなく、登場人物の饒舌な会話につきあい、丁々発止のやりとりを楽しみながら読み進むとよいだろう。
ドスエフスキーは登場人物のキャラクターを注意深く描き分けており、シャーロック・ホームズのように人物の顔つき、服装、仕草、話しぶり、癖等を細かく描写しているのも見落とせない。
なお、亀山訳ではステパン・ヴェルホヴェンスキー氏が会話で頻繁に差し挟むフランス語が原文のフランス語表記のままで、括弧書きで日本語訳が書いてある。江川訳ではフランス語ではなくカタカナ表記に統一されているが、当時のロシア知識人のフランス文化コンプレックスを誇張した雰囲気が原文のほうがよく出ていて、面白く読めた。
ただ、亀山訳は訳注が全くなく、巻末に読書ガイドと人名解説があるのみである。これはやはり不親切であろう(江川訳では本文中に括弧書きで事件や人名の訳注がついている)。
(第2部へ続く)
◎2021年8月27日『科学と宗教と死
(集英社新書)』加賀乙彦
☆☆☆☆☆様々な死と向き合った著者の語りかけが心に響く
著者が本書を書き上げたのは2012年1月。東日本大震災と原発事故の痛恨の体験の最中に本書は書かれた。
自伝的大河小説である『永遠の都』と『雲の都』、あるいはその後に書かれた『自伝』を読んだ読者には、本書の内容はそれらとかなり重複しているが、本書は著者の幼年期からの人生体験を死と向き合うという観点でまとめ、わかりやすく語ったものである。
戦時中、とりわけ陸軍幼年学校でたたき込まれた「死は鴻毛よりも軽し」という価値観。これは大空襲による多数の無残な死と敗戦の体験により覆される。
東京拘置所医官時代以来の死刑囚と無期囚の研究。その中で知り合った死刑囚正田昭との長い交流とキリスト教との出会い。著者は科学的な心理探求では言い表せない「魂」があると考えて小説家へと転身する。
阪神大震災で著者は精神科医として現地のボランティアに従事したが、地震と津波は戦災の記憶と重なり、平和な社会を死と直面させた。
そして、妻の突然の死と自らの心停止体験。
こうした様々な死と直面して、著者は生の貴重さを改めて感じ、必ず来る死の瞬間までどう生きるのかと問いかける。これが最終章の「生を支える死と宗教」という考察につながる。
周知のとおり著者は洗礼を受けたキリスト教徒であるが、ここで語られる宗教はもっと広く、いわば無宗教の拝金主義、即物主義に対する宗教性である。特に親鸞の教えはイエスの教えに近いと著者はいう(「阿弥陀」の仏典の原義は無限の光あるいは無限の暗黒である)。科学の発展とともに宗教も発展しなければならない、「よりよく生きることは立派に死ぬこと」であり、それには宗教が大きな意味を持つと語りかけるのである。
◎2021年8月27日『加賀乙彦 自伝
(ホーム社)』加賀乙彦
☆☆☆☆☆『永遠の都』と『雲の都』完結後の著者インタビューに基づく自伝
20世紀の激動の時代を背景とした自伝的長編大河小説『永遠の都』、『雲の都』の著者加賀乙彦の唯一の自伝である。インタビューに基づいて構成されているため、会話調の読みやすい文体であり、本文は長くない。また、本文に関連する多数の著作からの引用が随所に付されており、著作の理解を深められるようになっている。なお、巻頭に著者の幼年時代から最近までの写真が多数掲載されているのもファンにとってはうれしいところだ。
構成は以下のとおり。
プロローグ(妻の死と東日本大震災の体験が書かれている)
第1部 2.26事件から敗戦まで
第2部 フランス語修業と医学生生活
第3部 フランス留学
第4部 『フランドルの冬』から『宣告』へ
第5部 いかにしてキリスト教徒となりしか
エピローグ
この構成を見ればわかるように戦前の少年時代から戦後の医師としての修業時代が大部分を占めている。『永遠の都』と『雲の都』の第2部あたりまでで、『雲の都』第4部の1970年代以降はほとんど触れられていない。やはり戦争と焼け跡の強烈な体験と青年時代の修業の日々が印象深いということだろう。
一番強く感じたことは、作家デビューが遅かったにもかかわらず、著者は少年時代から文学に親しみ、学生時代や留学時代から小説家を意識していたということだ。そして、精神科医として勤務する傍ら、文学同人として活動し、多数の作家と交わっていた(本書には立原正秋、辻邦生、埴谷雄高、大岡昇平といったきら星のような作家たちとの交流が生き生きと描かれている)。医師やセツルメント活動は著者にとって小説とは無関係の寄り道ではなく、小説家の基礎をなす社会の現場として目的意識的に位置づけられていたのである。
その他、印象に残った点を挙げる。
・『永遠の都』は東京を舞台としているが、これは大江健三郎が愛媛、中上健次が紀州を舞台にした豊穣な小説を描いたことを意識し、著者の故郷である東京を永遠に変わり続ける故郷として描いたのだという。
・『永遠の都』で圧倒的存在感を発揮している主人公時田利平は母方の祖父をモデルとしているが、小説中で印象に残る場面、例えば利平が毎朝風呂に入って浣腸と胃洗浄を行う場面や様々なアイデアの発明品を売り出したことは事実に基づいているとのこと。
・『永遠の都』で小暮悠太の母初江の不倫はさすがにフィクションだと思っていたが、実際に起きたことだという。ただし、小説で描かれる葉山の海岸でのロマンチックな恋愛ではない。当時著者は小学生だったというが、『女の一生』や『テス』、『緋文字』、『布団』といった小説をすでに読んでいたので母の恋愛に違和感をそれほど持たず、かえって不倫を義父(小説では利平)に言いつけた父に反感を持ったというから、実に早熟である。
・著者は上智大学時代に外国人神父が猫背でなくしゃんとした姿勢なのは運動をしているからと聞いて、アイススケートを始める。しかも、きちんと指導を受けてフィギュアのコンパルソリー(図形を描く規定演技)を70歳まで25年間やっていたという。『湿原』の主人公がフィギュアスケートをする場面がとても詳細に描かれていて不思議に感じたが、納得した。
・死刑囚正田昭を描いた『宣告』を読んで遠藤周作は「無免許のキリスト者」と評したそうだが、後年の著者と妻の洗礼式では遠藤周作夫妻が代父母になったという。洗礼に至る信仰の道は体験者でなければ理解できないところがあるが、真摯な人生を生きる者にはいつか召命や回心の機会が訪れるのかもしれない。
◎2021年8月25日『雲の都―第五部
鎮魂の海―』加賀乙彦
☆☆☆☆☆阪神大震災、サリン事件から同時多発テロまでの時代 大団円は鎮魂歌に
『永遠の都』から『雲の都』へと書き紡いできた一族の物語の最終巻である。
この第五巻の時代背景は阪神大震災と地下鉄サリン事件の起きた1995年前後からニューヨークの同時多発テロが起きた2001年までの20世紀末である。同時多発テロは最後に軽く触れられるだけであるが、阪神大震災と地下鉄サリン事件には主人公悠太の子らも大きな影響を受け、悠太自身も大震災直後のボランティアで医師として活動する。震災と大火に見舞われた神戸の焼け跡を、悠太は大空襲後の東京の風景と重ね合わせる。災害や大事件が個々人の運命にもたらす影響を感じさせるとともに、それに力強く立ち向かう若い世代に著者は希望を託している。
そうした主人公の子らの世代に対比して、これまで物語を多彩に彩ってきた登場人物たちはいずれも老境に入り、死の影が漂う展開となる。第四部で著者は、「あらゆる歴史は死者への鎮魂の文章だ。ぼくの文学は死者の追憶なのだ」と慨嘆していたが、第五部の後半はまさに死者の追憶を綴るレクイエム(鎮魂歌)のような観がある。そして、『永遠の都』以来の登場人物である時田利平、間島五郎、脇晋助、菊池透らが繰り返し回想される。
ただ、物語の白眉はやはり悠太と妻千束の最後の日々であろう。断片的な悠太の日記と千束の独白の形式で、幼年時代の千束との出会いから疎開先での再会、紆余曲折を経た晩婚までの経緯が何度も回想されるが、特に夫婦で初めての国内旅行であった金沢と三国への旅と蛍の情景描写は感動的である。なお、著者は実際に妻を2008年11月に亡くしているが、本書では千束は2001年1月に亡くなったことになっている。死の経緯と埋葬までの成り行きはほぼ実際通りである。ちょうど本書を執筆していた最中の妻の死であったと思われ、妻への想いが本書に色濃く反映しているようだ。
こうした鎮魂の物語の中で一服の清涼剤のように描かれるのが信濃追分の芸術村の活動的な人々、特に悠太の亀有セツルメント時代以来の浦沢明夫と菜々子夫婦、初江の姪の火之子親子たちであるが、本巻では悠太が東京拘置所医官時代に精神鑑定した無期囚が仮釈放されて村の一員となる。物語の最後近くにはこの芸術村の紀元2000年正月のつどいが賑々しく開催される様が詳しく描かれ、物語に彩りを添えているが、これはやはり一族の物語である『ブッデンブローク家の人々』(トーマス・マン)の最後近くのクリスマスの場面を想起させる。
著者は私の父親とほぼ同世代であるが、特に『雲の都』第四部、第五部は私自身も体験した同時代の物語として大変興味深く、『永遠の都』と合わせ、20世紀の激動の時代と人間の運命を考えさせる重厚な文学作品として深い読後感が残った。
◎2021年8月20日『子宮頸がんワクチン問題――社会・法・科学』メアリー・ホーランド他
☆☆☆☆☆原題は「裁判にかけられるHPVワクチン」
“THE HPV
VACCINE ON TRIAL -Seeking Justice for a Generation Betrayed”
これが本書の原題である。「裁判にかけられるHPVワクチン -裏切られた世代のために正義を求めて」とでも訳すべきか。
まず、本書はいわゆる「ワクチン反対派」の宣伝本ではない。著者らは法学研究者、弁護士、医療専門ジャーナリストであり、本書の目的は、インフォームドコンセントにより「人々がHPVワクチンについて正しく情報を得たうえで決断を下す」のに役立つことであるとされている(「まえがき」)。
実際、本書はHPVワクチン推進派も含む膨大な医学論文や症例情報が引用して、ワクチン開発、臨床試験、市販後の各段階での検討を行なっており、その上でHPVワクチンの有効性と危険性のさらに深い科学的論争と、副反応被害者による訴えを紹介している。
第5章の「異議の高まり」で紹介されている事例は、日本、デンマーク、アイルランド、英国、コロンビアの5カ国であるが、この中には裁判ではなく行政や医薬品規制当局への申立も含まれている。日本については、日本語訳にあたり原書の情報を更新したとのことである。また、日本語訳には基本用語の解説も付されており読者の理解を助けている。
HPVワクチン(子宮頸がんワクチン)は「がんの予防に効くワクチン」をうたい文句に全世界で巨大製薬企業により販売され、行政により半ば強制的に「推奨」されているところもあるようだが、その有効性についてはあくまでも「前がん病変」の予防までで、HPV感染後数十年後に発症するという子宮頸がんの予防までは証明されていない。しかも、本書によると、近時の研究では前がん病変の39.5%、がん病変の33.5%にしかHPVの存在が確認されなかったという報告があり、HPVががんを引き起こすことさえ疑われているという。
他方、本書に多数報告されたHPVワクチン副反応の症例には極めて深刻なものや死亡例まで含まれている。その多くは多様な痛みや運動機能障害、さらには認知機能障害に及び、重篤な症例では長期の車椅子生活を強いられている。副反応の発症機序にはワクチンに含まれるアルミニウムアジュバント(免疫反応強化のための添加物)の関与や過剰な抗原抗体反応による自己免疫疾患が疑われている。
これに対する製薬企業や行政当局、ワクチン推進派の対応はどの国でも共通している。すなわち、ワクチンと副反応の因果関係を否定し、心身症などの他原因、さらには詐病まで疑う。被害者団体に対しては「反ワクチン派」のレッテルを貼って相手にしない等々である。
しかし、多くの国で膨大な数の被害者が共通の症状を訴えて苦しんでいる事実を心身症などの理由によって排斥することはできないであろう。
正確な情報提供と科学的検証により、被害者救済を行うべきである。
◎2021年8月20日『雲の都―第四部
幸福の森―』加賀乙彦
☆☆☆☆☆三島事件からベルリンの壁崩壊までの時代 一族の物語は憂愁を深める
『永遠の都』、『雲の都』と一族の自伝的な物語を読み継いできたが、『雲の都 ー第三部 城砦』を読んでから10年近くの間を置いてようやくこの第四部を読んだ。そのため、多数の登場人物とその人間関係やエピソードをかなり忘れていたが、さすがに長編大河小説らしい配慮が行き届いていて、ワーグナーの楽劇のように、作中人物の回顧的な語りで読者の記憶が喚起されるようになっている。
第三部は全共闘運動の騒乱で主人公の医学研究が破壊されたところまでが描かれていたが(「城砦」とはもちろん東大安田講堂占拠事件のこと)、第四部の時代背景は、安田講堂事件の翌年1970年に起きた三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷駐屯地占拠と割腹自殺事件から始まる。著者は全共闘も三島も「経済的繁栄にうつつを抜かすという日本人批判は同じ」とシニカルな批判を浴びせており、主人公悠太に、三島は「パラノイアという妄想病」であり、事件を起こして自分の名を全世界に広めた「自己宣伝の天才」とまで酷評させる。その後の連合赤軍の浅間山荘事件とリンチ殺人事件により全共闘運動は失速し、イデオロギーの吹き荒れた学園は沈静化する。本書の時代背景は昭和天皇の死去と天皇代替わりを経て、天安門事件、ベルリンの壁崩壊の激動までを扱うが、著者の目は一貫して時代の空気とイデオロギーの行方を厳しく見据えている。
こうした時代背景の中で、主人公の一族の運命もまたそれぞれの悲喜劇をたどっていくわけだが、この第四部で最も重要なのは、著者の分身である主人公悠太が大学教授から小説家へと自立していくことである。著者の作品名でいえば、処女作の『フランドルの冬』、『宣告』を経て小説家に専念し、本書の最後の頃には『永遠の都』を書き始めているわけだが、このあたりはほぼ著者自身の体験と心理経過を踏まえたものと思われ、作家の誕生の物語として興味深い。
その他の登場人物については、やはり『永遠の都』のヒロインであった初江が第四部では頑固に自己主張する姑として存在感を発揮している。また、悠太の妻千束はピアノ演奏家から2人の子育てに、初江の従姉妹桜子は長男武太郎(実は悠太の子)の反抗に苦しみ、初江の姪の火之子は韓国にわたり仮面劇と映画女優となる等々のそれぞれの道を歩むが、著者は『永遠の都』以来、話者の転換によるポリフォニックな手法を用いつつ物語を立体的に描いていく。
小説に専念する主人公悠太をはじめ登場人物は運命に吸い寄せられるように軽井沢近くの信濃追分の別荘地に集まり、音楽堂と美術館、絵画教室等の芸術村を建設するに至る。これがタイトルの「幸福の森」ということになるのだが、にもかかわらず本書の後半は死の影の漂う憂愁に満ちたものとなっている。
著者の慨嘆を引用する。
「人間はなんと簡単に死んでしまうことだろう。おお、死者への涙が降ってくる。人が死ぬと物語が終わる。しかし、死者の思い出は消えないから、そこから新しい物語が生まれてくるようだ。あらゆる歴史は死者への鎮魂の文章だ。ぼくの文学は死者の追憶なのだ。森よ、雨よ、涙 よ。作者と一緒に泣こうではないか。」
なお、本書では悠太が群馬県草津のハンセン病療養所「栗生楽泉園」に精神科の診療に通う場面があり、ハンセン病強制隔離の歴史とその問題点が物語に組み込まれて詳しく語られるが、著者はハンセン病国賠訴訟熊本地裁判決と国の控訴断念・謝罪後に編纂された「ハンセン病文学全集」の編集委員であったことを付記しておく。
◎2021年8月15日『殉教者
(講談社文庫)』加賀乙彦
☆☆☆☆☆江戸時代初期にエルサレム巡礼を果たし、殉教した日本人がいた
著者である加賀乙彦氏の作品は本書につながる『高山右近』をはじめ主要なものはすべて読んでいる。
本書はキリシタン弾圧の始まった江戸時代初期に、自らの意思で司祭を志してエルサレムを巡礼し、ローマでイエズス会士としての修練を受けた後に帰国し、日本で殉教したペドロ岐部の物語である。
ただし、著者の関心はペドロ岐部がなぜエルサレム巡礼を志して殉教の決意を固めるに至ったかという心理過程と、その出国から帰国に至る長い苦難の道筋にあり、帰国後の布教と殉教については簡潔にあっさりと書かれている。
著者のあとがきによると、ペドロ岐部の出自と出国までの活動、出国からインドのゴアまでの旅程、ローマでのイエズス会での修練と司祭叙階、帰国の苦難の旅路は研究によって解明が進んでいるが、エルサレム巡礼の動機や旅路の詳細は不明な点が多いという。作家の想像力は、ゴアからオスマントルコ支配下のエルサレム巡礼に至る単身での大旅行を、キリストの布教と十字架死を追体験する信仰の証として、また帰国して殉教する覚悟を固めるための旅路として描いている。著者自身、ペドロ岐部の巡礼の旅路をめぐる追体験を経て本書を書いたという。
ペドロ岐部の旅は、1614年のキリシタン追放令によるマカオへの渡航から始まるが、エルサレム巡礼を経てローマに着いたのは1620年、イエズス会士としての修練を経てリスボンから帰国の途についたのが1623年、喜望峰を回る大航海でゴアに着いたのが1624年、その後マニラに到達するも鎖国時代の日本への入国方法を求めてアジアをさまよった末、ようやく1630年に日本への密入国を果たす。16年もの旅である。
ペドロ岐部は、天正と慶長の遣欧使節団のような大名の後ろ盾もなく、単身で、しかもマカオのコレジオの妨害にもかかわらず、この大巡礼の旅を敢行したのであり、その信仰の堅固さと帰国して殉教へと向かう意思の強さには感動以外の言葉はない。
なお、末尾に著者自身の簡潔で要を得たあとがきが付されているが、文庫化にあたり姜尚中氏の解説が加えられている。しかし、後者の「日本という泥沼のような思想の土壌」に関する議論は本書の主題から外れているし、正確性にも疑問がある(ペドロ岐部の殉教は「火刑」そのものではない。また、ペドロ岐部は「平民層」ではなく豊後の大名大友氏の重臣の出自であり、インテリ階層であろう)。
◎2021年8月13日『悲劇の世界遺産 ダークツーリズムから見た世界』井出明
☆☆ダーク「ツーリズム」を楽しむ? 堪能する?
「ダークツーリズム」が世界的に流行しているという。地域振興の起爆剤などとも本書には書かれている。
この言葉は2011年頃から広まったというが、私は浅学にしてあまり意識してこなかった。
とはいえ、それ以前から私はアウシュビッツやホロコーストの歴史遺産、あるいはソウルの西大門刑務所記念館(日本の朝鮮半島支配時代の政治犯収容所)等の施設をたくさん訪問している。が、私はそれらの訪問を「ツーリズム」(観光)だと思ったことはないし、まして、これを「楽しむ」とか「堪能する」などと軽妙なタッチで論じる著者の感覚には強い違和感を感じる。
人間性に反する残虐行為や多数の犠牲者が出た災害を記念する施設の訪問はもっと厳粛なものであり、そこから歴史と人間への省察を深める場でなければならないと思うからである。
本書は世界遺産と「ダークツーリズム」について書いた本であり、世界遺産制度の仕組みやヨーロッパ文明中心的な選定、また、安倍内閣のごり押しが示唆される「明治日本の産業革命遺産」などにはなるほどと思うところもある。
しかし、あらゆる歴史遺産に「ダークツーリズム」の観点を見る著者の論旨には賛同できない。例えば、ある産業遺産が歴史遺産とされるのはそれが産業発展に果たした歴史的意義が認められるからである。もちろん、歴史遺産には「光と影」があり、産業遺産の影には長時間労働や児童労働などの犠牲も伴っていることを知っておくべきではあるが、影の部分がその歴史遺産なのではない。
他方、著者は「負の遺産」という言葉は日本だけのものだと断じるが、アウシュビッツやホロコーストの歴史遺産はまさに光に対する影の部分が歴史遺産なのであり、「負の遺産」というほかない。広島の原爆ドームやソウルの西大門刑務所も同様である。著者は原爆ドームを遺構として残すのではなく復興の町づくりを歴史遺産とすべきだと論じるが、原爆ドームは人類史上初めて核兵器が使用された悲劇の記念として歴史的意義があるのであって、まさに「負の遺産」である。復興の「光」を歴史遺産とする必要は全くなかろう。
◎2021年8月9日『資本主義だけ残った――世界を制するシステムの未来』ブランコ・ミラノヴィッチ
☆☆☆☆☆「超商業化資本主義」のディストピア?
少し前に『人新生の「資本論」』(斎藤幸平)を読んで「革命の空想とロマン主義」とレビューしたが、本書は同じくマルクスに依拠しつつも、グローバル資本主義の現状を冷徹に分析してその未来を論じる労作である。ただし、その描く「超商業化資本主義」の未来はバラ色ではない。
本書は現在の世界の資本主義をアメリカを代表とする「リベラル能力資本主義」と中国を代表とする「政治的資本主義」に類型化して論じ、さらにグローバリゼーションのもたらす作用を描いていく。
概観すると、前者は1.資本所得と労働所得の両面で貧富の差が拡大し、同じ階層での結婚、高度な教育により所得と富の不平等が世代間で承継される。
他方、後者はテクノクラート的な官僚による高い経済成長が実現されるが、法の支配が欠如しているために固有の腐敗による不平等が拡大し、「政治資本家階級」ともいうべきものができあがる。しかし、腐敗が度を超せばシステムが崩壊するので裁量的に抑制が行われ、常に不安定な平衡状態にある。
さらに、グローバリゼーションを論じた第4章では、市民権の経済資産としての格差により移民の発生が必然的であることがまず指摘され、移民と自国民の折り合いを付けるために軽減された市民権が提案される。次に、ICT技術革命によりグローバルな生産管理が可能となり世界中に投資と技術が移転される「グローバル・バリューチェーン」が成立する。その結果、第三世界での「低開発の開発」が永続するとした従属理論のパラダイムが逆転し、中国やインドなどアジア諸国の経済発展がもたらされる一方、従来の福祉国家の左派政党や労働者は資本と労働双方の自由な移動により仕事を脅かされているという。
著者の描く未来像に関心がある人は、最終章の「5.グローバル資本主義の未来」から読んでもよいだろう。
アダム・スミスやシュンペーター、ハイエク、ロールズらは資本主義の「明るい面」として、商業化社会では取引相手と相互に依存しているため、他者を喜ばせ親切にする行動が広がるという。唯一の価値基準は富の追求であり、富の前で社会階層やジェンダーの差別も消失していく。しかし、富の追求は容易に貪欲と道徳的堕落に転化するのであり、「宗教による抑制と暗黙の社会契約によって社会に対する信頼が維持される」(ロールズ)。ところが、超商業化されたグローバル資本主義の下では道徳は法にアウトソーシングされ、宗教と社会契約による抑制が働かなくなる。内なる行動規範がないために、「誰もが合法と非合法の境界を行くか、あるいは法を破っても捕まらないように工夫することになる」し、「金銭的な解決が道徳観念の欠如をさらに広く拡散させる」。
これはすでに現代社会で広く見られる現象であるが、著者はこうした超商業化資本主義の代わりはなく、システムからの撤退は現実的な選択肢にならないというのである。
さらに問題なのは、「原子化と商品化」と著者が表現する資本主義の家庭と個人への侵入である。以前は家庭内でつくられたあらゆる物やサービスが市場で売買されるようになり、家庭生活への法的侵入が原子化を促す。商品化は個人の生活すべてに及び、料理や子育てなどはアウトソーシングされ、自由時間はウーバーやライドシェアなどに売ることができる。住居も旅行者の宿泊に貸し出す(「民泊」である)。こうして、1.家族構成の原子化、2.新たな活動への商品化の拡大、3.非正規雇用による完全にフレキシブルな労働市場の3つが相互に関連して商品化が個人生活に徹底されていく。
ここにはマルクスの人間疎外論が踏まえられているが、疎外が徹底すると個人は「経済的媒体」に成り下がり、「自身をポートフォリオとする資産管理人」になってしまう。このような私的領域の商品化は「超商業化資本主義の最高点」であるが、これは危機ではなく大半の人は受け入れていると著者は言う。その行き着く先は、「富のユートピアと同時に対人関係のディストピア」である。
では、こうした超商業化資本主義のディストピアしかないのか。
著者は「おわりに」でラフなスケッチを示しているが、リベラル能力資本主義が「民衆資本主義」の段階に移行できるか否かにかかっているという。そこでは、1.資本所得の集中(ならびに富の所有の集中)がより少なく、2.所得の不平等がより縮小し、3.世代間の所得の移動性がより高くなるとされ、そこに移行する明確な目標を念頭に置くことが重要であるという。そして、チェックポイントとして以下の4点を挙げる。
1.中間層の金融資産と住宅資産アクセスへの税制上の優遇措置と富裕層への増税、相続税率の引き上げ
2.公教育予算の顕著な増額と教育の質の改善
3.移民導入に「軽い市民権」を導入し、社会の分断と反発を回避する。
4.政治運動への資金提供を厳しく制限し、富裕層の政治支配を弱める。
すなわち、こうした目標が実現しないならば、リベラル能力資本主義はますます金権主義的なものになり、政治的資本主義に似通ったものになるのである。
なお、本書の英文タイトルは“Capitalism, Alone”(コンマが入る)であり、仏訳は“Le capitalisme, sans rival”(「資本主義、競争相手はいない」)である。直訳すれば「資本主義、唯一の」であろうが、本書の訳でよいのではないか。
◎2021年7月28日『禁忌 (創元推理文庫)』フェルディナンド・フォン・シーラッハ
☆☆☆☆法廷小説でもミステリーでもない問題小説
著者は刑事弁護専門の弁護士だが、本書は法廷小説でも犯罪ミステリーでもない。もちろん、その手法は駆使されているが、著者の関心は社会や周囲の人になじめない人々の心理や行動であろうか。
本書の前半は犯罪とも裁判とも関係なく、鋭敏かつ特異な色彩感覚を持った少年が写真家として独立していく物語を描いている。この写真家は家族や恋人との関係をうまく築けず、恋人からはあなたのことが理解できないと言われる。カミュ『異邦人』の主人公ムルソーを連想させる人物造形である。
一方、著者の分身と思われる刑事弁護士は30年に及ぶキャリアの心労で倒れ、医師の勧めで山岳地帯に転地療養している(トーマス・マンの『魔の山』が意識されている)。しかし、この弁護士はすばらしい自然環境での療養に全くなじめず、登山客に誘われてもにべもなく断ってしまう。そして、妻が止めるのも聞かずに事件の依頼を機にベルリンの事務所にさっさと戻ってしまう。まさに偏屈そのものである。
社会的に成功しているように見える写真家も弁護士も、実は内心では社会との適合に葛藤を抱え、生きづらさを抱いている。それが写真家の引き起こした不可解な刑事事件、弁護士の心労による転地療養として、合わせ鏡のように描かれているのである。
最後に写真家は弁護士に対して「罪とはなんですか?」と尋ね、弁護士は直接は答えないが「罪なものは人間さ」とつぶやく。
刑事弁護人としてはシニカルに達観しすぎのように感じるが、これが著者が刑事弁護人から小説家へと転身したゆえんなのであろう(短編集『刑罰』のレビューを参照されたい)。
ただ、小説としては事件の動機や人間関係などが説明不足で理解困難な部分が多く、不満の残るところである。
◎2021年7月26日『夏に凍える舟
(ハヤカワ・ミステリ)』ヨハン・テオリン
☆☆☆☆☆過去の残響と老いを生きることを考えさせる
エーランド島4部作の最後である。
主人公のイェルロフは84歳と老いたが、物語はイェルロフが少年時代に墓堀人の手伝いをしていた時代に遡る。富農クロス氏の埋葬をしているときに棺からコツコツとノックする音が聞こえる。驚いて棺を開けてみたが死者は完全に死んでいた。この幽霊話のようなエピソードが繰り返し回想され、エピローグでその種明かしがなされるのだが、物語はそのクロス氏の子孫が経営するエーランド島のリゾート施設を舞台に展開する。他方、イェルロフと同年代で埋葬に居合わせた少年アーロンは貧しいエーランド島の生活から新世界を夢見て旅立っていく。このアーロンがもう1人の主人公であり、物語は1930年代からのアーロンの苦難と現在が重ねて語られていく。過去と現在を往復しつつ物語を進行させる手法は3部作に共通するものだが、本巻では現在が登場人物ごとに分けられ、巧みに緊張感を持ったストーリー展開がなされており、著者のストーリーテリングの熟達を感じさせる。
社会派の北欧ミステリーらしく移民問題が取り上げられるが、ここでは1930年代の大不況時代のスウェーデンから海外への移民である。
さらに、本書ではスターリン時代の大粛正が生々しく描かれている。体験談を含む多数の参考文献によるものであり、想像を絶する大量殺人が行われていたことに改めて驚かされ、政権幹部や摘発者らも明日は我が身の恐怖時代を実感する。
こうした過去の物語と現在のリゾート地のギャップが重ね合わされるわけだが、主人公の2人はともに80代の老齢であり、過去の人生の重みを負って生きる高齢者の生き様をも感じさせる作品となっている。
なお、これも4部作に共通するが、邦訳の表題はやはり??である。
スウェーデン語の原題はRörgast(幽霊パイプ?)だが、英訳はThe
Voices Beyond、ドイツ語訳はInselgrab(島の墓)である。
◎2021年7月23日『赤く微笑む春
エーランド島四部作』ヨハン・テオリン
☆☆☆☆☆トロールとエルフの似合う物語
エーランド島シリーズの第三作である。
元漁船長イェルロフは80歳を超えて足腰が衰えているが知恵は健在で、ミステリーの狂言回しを務めている。
物語はスウェーデンのかつてのポルノ産業をめぐる放火殺人事件をミステリーの縦糸にし、横糸に心に傷を負った人たちがエーランド島を舞台に織りなす人間模様が描かれていく。
やはり北の海に浮かぶエーランド島と打ち捨てられた石切場の荒涼とした情景が印象的であり、この場所を背景に妖精エルフやトロールのイメージが効果的に用いられている。
味わい深い佳作と言える。
それにしても邦訳の陳腐な表題はいかがなものか。
スウェーデン語の原題は「血の岩」で、ドイツ語訳はBlutsteinで直訳である。英訳のThe
Quarry(石切場)ならまだいいが、原題のままでもよかったのではないか。
◎2021年7月17日『手/ヴァランダーの世界
刑事ヴァランダー・シリーズ(創元推理文庫)』ヘニング・マンケル
☆☆☆☆☆シリーズ最終作 そして著者自身によるシリーズガイド
中編「手」は刑事ヴァランダーシリーズの最終作である。といっても、かなり前にオランダで宣伝用に書かれたものを出版したとされ、作中の年代としては『苦悩する男』の前の時期に当たる。
物語はヴァランダー自身が家を買う下見に行って人骨を発見するところから始まる。人骨は50年も前の殺人事件によるものであり、被害者は誰かという困難な捜査が描かれるが、やがて主題が第2次世界大戦中の難民・移民問題であることが明らかになっていく。シリーズ第1作の『殺人者の顔』が移民問題を扱ったのと呼応している。
人生に疲れたベテラン刑事ヴァランダー、悩み多き同僚のマーティンソン、気むずかしいが信頼の厚い鑑識のニーベリ、父親と対立しつつも刑事として活躍し始めた娘のリンダ等々のおなじみの配役が、それぞれ人間味あふれる存在として描き分けられているのもこのシリーズの大きな魅力である。
そして、ヴァランダーがルール違反の単独行動で危機に陥るのもおなじみの展開と言っていい。
本書の後半は著者ヘニング・マンケルによるヴァランダーシリーズの解題とガイダンスである。
著者によると、1990年に長期間アフリカに滞在していたときに「劇的にレイシズムが強まっている」と感じ、「レイシズムについて書く決心をした」ことがシリーズの端緒なのだという。それが上記の第1作『殺人者の顔』になるのである。
このように著者の強い正義感と社会問題への関心を殺人事件の捜査という形で反映させてきたのがこのシリーズなのであり、移民問題だけではなく、児童虐待や政治的陰謀、経済犯罪等が事件の背景となる。
著作ガイダンスでは、全著作の著者自身による簡潔な紹介とヴァランダーの人物像、登場人物や物語の舞台となった場所が目録として詳しく書かれている。シリーズの読者はすでに知っていることばかりだが、これから読む人には役に立つだろう。目録はマニアックであり、テレビドラマにもなったこのシリーズがいかに人気があったかを示すものといえる。
◎2021年7月14日『オリンピック秘史 120年の覇権と利権
』ジュールズ・ボイコフ
☆☆☆☆☆IOC貴族たちの「神々の黄昏」
このレビューを書いている2021年7月14日現在、東京オリンピックの開幕直前なのだが、新型コロナ感染問題で東京は4度目の緊急事態宣言が出され、国民の多くは五輪歓迎ムードからほど遠い。
本書は新型コロナ問題以前の2018年出版であり、すでにオリンピックは大きな問題を抱えて曲がり角に立たされていたことがよくわかる。
実際、2024年の夏季オリンピックの招致レースでは、立候補したブダペスト、ボストン、ハンブルクが反対派の国民投票を求める署名運動により撤退した。2022年の冬季オリンピックでも立候補したミュンヘン、ストックホルム、クラクフ、サンモリッツとダボスが費用の高さと国民の支持の少なさ等から撤退し、消去法で北京に決定した。札幌が候補となっている2026年の冬季オリンピックでも、インスブルックが住民投票の結果により2017年に早々と立候補を断念している。
なぜこのようにオリンピックは不人気になったのか?
本書は近代オリンピックを創始したクーベルタン男爵以来のオリンピックの歴史を、その影の面に注目して詳しく叙述している。クーベルタンの理想にもかかわらず、彼自身が持っていた貴族趣味、労働者嫌い、男女差別、人種差別等の保守的傾向がキラニン、ブランデージといった歴代のIOC貴族らに引き継がれる。サマランチに至っては、スペインのフランコ独裁政権の閣僚で、筋金入りのファシストとのこと。さらに、ロス五輪以降はアマチュアリズムが放棄されて商業主義化し、巨大スポンサーなしでは開催できない莫大な経費がかかるイベントとなったのである。
著者は、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』で有名となった「惨事便乗型資本主義」に対比して、オリンピックは「祝賀資本主義」であるとし、ともに(惨事または祝祭の)例外状態において抑圧的な統治方法が入り込む政治的空白がつくられるという。オリンピックは「国家を戦略的パートナーに配し、公民連携を支配的モデルにする」が、その下で大規模な環境破壊、貧困層の強制退去、監視と警備の強化(五輪終了後も続く)などが強行される。経済的には、巨大スポンサーによる民営化五輪となった後も公的負担は莫大であり、後々にまで負債を残す結果となる。
こうしたオリンピックの闇に対する反対運動が起きるのは当然であり、上記の各立候補都市の撤退は反対運動の成果といえる。本書では反対運動や組織について詳しく紹介しており、例えば、2012年のロンドン五輪ではシェークスピア演劇を利用したゲリラパフォーマンスなど創意工夫あふれるデモが行われたという。
残念ながら日本ではこうしたオリンピック反対運動はほとんど紹介されないし、オリンピック批判も少ない。まさに例外状態の政治的空白となっているといえる。
新型コロナ感染問題に加え、香港やウイグルの圧政問題を抱える来年の北京五輪がどうなるかは全く不透明であるが、いずれにせよオリンピック運動が前途多難であることは間違いない。
◎2021年7月7日『株式市場の本当の話
(日経プレミアシリーズ)』前田昌孝
☆☆☆日本経済の現状を株式市場から考える
著者は日経新聞の編集委員だが、株式投資の推進や指南という観点ではなく、距離を置いた冷静な視点で現在の株式市場のあり方を論じている。ただし、折々のトピックスの連載記事を寄せ集めた感じである。
第1章は「投資の神様」バフェット氏を扱っているが、バフェット氏といえども首尾一貫した長期投資を貫いているわけではなく、アップル株のおかげで好成績を残しているにすぎないという。
第2章は投資信託が取り上げられ、小粒投信の手抜きやアクティブ運用の玉石混淆ぶり、情報開示の不十分さといった問題点が指揮される。
第3章はニュースでもたまに報じられる公的年金の運用実態の危うさが改めて浮き彫りにされるが、貸株禁止や空売りについての考察は専門記者ならでは興味深いものである。
アベノミクスが株高を演出する秘訣となった日銀の上場投資信託(ETF)買いは、2010年に始めて2021年2月でなんと時価50兆円を超えたという。日本株の買い手としては、海外投資家が14兆円、公的年金が12兆円で、日銀が圧倒的な存在であり、「個人、証券会社、確定給付型企業年金などからの売りをせっせと吸収していたようなものだ」と著者はいう。つまり、日銀による株価買い支えである。これが市場機能を麻痺させることはいうまでもないが、著者は日銀が考査を通じて経営状態をよく知っている銀行株を大量に取得しているのは利益相反行為だと指摘する。
その他、第4章では金融庁や株式専門家の投資見通しの甘さ、第5章では投資目的の多角的検討がなされ、第6,7章では今後の日本と世界の株式市場の見通しがコメントされる。
超低金利時代が長く続くことで多くの人が投資に誘導されるのは、健全な国民経済のあり方とはいえない。
本書は株式市場の現在を論じつつ、日本経済の歪みを透視させてくれる一助となろう。
◎2021年7月3日『維新史再考 公議・王政から集権・脱身分化へ』三谷博
☆☆☆☆☆これぞ歴史家が描く「明治革命」
明治維新史というと、ペリー来航と尊皇攘夷運動から始まり維新の変革を経て西南戦争で終わる政治史のイメージが強い。また、坂本龍馬や西郷隆盛、あるいはアーネスト・サトウなどの人物に焦点を当てた歴史小説も多数ある。
これに対し、本書はまず「グローバル化の第四波」という17,8世紀の国際情勢から説き起こし、ペリー来航に至る交通・通信技術の飛躍的発展と東アジアの世界秩序の変化の中に明治維新を位置づける。そして、江戸幕府をはじめ日本国内の各勢力がどのように対応したのかを、転機となる時期ごとに分析し、重要人物の役割と位置づけも明確にしつつ描いていく。その結果、明治維新の全体像が、世界的視野の下に極めて見通しよく示されている。ペルシア戦争を描いたヘロドトスの『歴史』のように、これぞ歴史家の手になる著作であると感じる。
明治維新は、将軍(公儀)と天皇(禁裏)が頂点に並立し諸大名が各藩の統治権を有する近世日本の「双頭・連邦国家」体制を、維新後には中央集権国家体制を確立し身分制度も廃絶する大変革を成し遂げた。権力の担い手と支配階級の変化という意味では、まさに「明治革命」というにふさわしいが、この社会全体の激震に伴う戦乱と死者は諸外国の革命に比して極めて小規模に終わった。著者は、こうした大変革を準備した江戸末期の国内状況(知的ネットワークの形成等)、変革をめざす各勢力のめざしたものと行動、その作用と反作用をわかりやすく分析していくが、特筆すべきは「公議」「公論」をキーワードに各勢力間の駆け引きや多数派形成の努力を丁寧に描いているところである。
方法としては、各時期の行動主体を、幕末の動乱では①幕府、②(長州・)薩摩・越前、③志士(+長州)に、公武合体の時期では①朝廷、②幕閣、③参与大名に、その後の大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の戦い以後の各時期についても幕府と有力諸藩らに主体を分けて、その役割と意図、行動の変化を細かく分析していくというものである。
幕末の政変で著者がもっとも重視するのは「安政5年の政変」である。条約勅許問題に端を発した幕府による大弾圧の政変(「安政の大獄」)は、その反作用として桜田門外の変につながり、その後はテロリズムの模倣が拡がっていった。著者はこれを「暴力はいったん応酬が始まると停止困難となる」と評し、その場を支配しているのは「人」ではなく「運命」であるという。そして、この政変のきっかけとなったアメリカ公使ハリスの予定外の神奈川沖来航がなければこの政変は起きず、幕府の政治体制が崩壊するには至らなかったのではないかと述べている。
なお、著者によれば、世界の近代史は民主化の初期には暴力と言論が手を携えて登場することを示しており、この両者がいつどのようにして袂を分かつかが見所とのことであり、日本の場合は西南戦争がその決別の関門となったとしている。
私自身は、大久保や木戸らの政治構想が「王政復古」の名の下に自らの武士階級を含む身分制度の廃絶にまで進んだのがかねて疑問であったが、本書の示唆するところによれば、幕末維新の激動に参加した者は下級武士のみならず町人や農民も全国に多数いて、そうした革命主体の形成が明治維新を支えたからであろうと考えられる。
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