2021年前半読書日記

 

【2021年前半 読書日記】


◎2021年6月25日『社会思想としてのクラシック音楽(新潮選書)』猪木武徳

◎2021年6月20日『決定版 日中戦争(新潮新書)』波多野澄雄他

◎2021年6月16日『後期日中戦争 太平洋戦争下の中国戦線 (角川新書)』広中一成

◎2021年6月14日『リニア中央新幹線をめぐって――原発事故とコロナ・パンデミックから見直す』山本義隆

◎2021年6月12日『BAD BLOOD シリコンバレー最大の捏造スキャンダル 全真相』ジョン・キャリールー

◎2021年6月7日『誘拐 P分署捜査班 (創元推理文庫) 』マウリツィオ・デ・ジョバンニ

◎2021年6月5日『【合本】憲法判例百選I・II(第7版)』長谷部恭男他

◎2021年6月4日『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改康之

◎2021年6月3日『自由の限界 世界の知性21人が問う国家と民主主義』鶴原徹也

◎2021年6月1日『国際人権入門 現場から考える (岩波新書)』申惠丰

◎2021年5月29日『ポスト社会主義の政治 ――ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの準大統領制 (ちくま新書)』松里公孝

◎2021年5月23日『小説と映画の世紀』菅野昭正

◎2021年5月16日『言語の七番目の機能 (海外文学セレクション)』ローラン・ピネ

◎2021年5月10日『言語学者が語る漢字文明論 (講談社学術文庫)』田中克彦

◎2021年5月5日『ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』田中克彦

◎2021年5月2日『平山郁夫の世界』平山郁夫

◎2021年5月2日『「敦煌」と日本人 シルクロードにたどる戦後の日中関係』榎本泰子

◎2021年4月26日『人新世の「資本論」 (集英社新書)』斎藤幸平

◎2021年4月24日『ベルリン1945 はじめての春(上下 岩波少年文庫)』クラウス・コルドン

◎2021年4月21日『ベルリン1933 壁を背にして(上下 岩波少年文庫)』クラウス・コルドン

◎2021年4月18日『ベルリン1919 赤い水兵(上下 岩波少年文庫)』クラウス・コルドン

◎2021年4月13日『病の「皇帝」がんに挑む 人類4000年の苦闘(下)』シッダールタ・ムカージー

◎2021年4月8日『病の「皇帝」がんに挑む 人類4000年の苦闘(上)』シッダールタ・ムカージー

◎2021年4月5日『さよなら朝日』石川智也

◎2021年4月1日『行政法NBS 日評ベーシック・シリーズ』下山憲治

◎2021年3月27日『貿易の世界史 ―大航海時代から「一帯一路」まで』福田邦夫

◎2021年3月24日『晩年のカント (講談社現代新書)』中島義道

◎2021年3月20日『新版 「生きるに値しない命」とは誰のことか -ナチス安楽死思想の原典からの考察(中公選書)』森下直貴他

◎2021年3月19日『ロッテを創った男 重光武雄論』松崎隆司

◎2021年3月17日『ルポ「命の選別」 誰が弱者を切り捨てるのか?』千葉紀和他

◎2021年3月9日『李光洙―韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』波田野節子

◎2021年3月6日『無情 (平凡社ライブラリー0904)』李光洙

◎2021年2月23日『堕ちたバンカー ~國重惇史の告白~』児玉博

◎2021年2月17日『ルポ 入管 ─絶望の外国人収容施設 (ちくま新書)』平野雄吾

◎2021年2月4日『古典和歌入門 (岩波ジュニア新書)』渡部泰明

◎2021年1月31日『 Law Practice 民事訴訟法〔第3版〕』山本和彦編著

◎2021年1月23日『憲法判例からみる日本---法×政治×歴史×文化』

◎2021年1月20日『和歌史 なぜ千年を越えて続いたか (角川選書)』渡部泰明

◎2021年1月17日『憲法判例50!(第2版) (START UP)』上田健介ほか

◎2021年1月6日『カムイ伝全集 第一部(1)』白土三平


 

◎2021年6月25日『社会思想としてのクラシック音楽(新潮選書)』猪木武徳

☆☆☆デモクラシーと音楽に関するうんちくと比喩に止まる

新聞書評で、著者は社会思想家にして音楽にも造詣が深いと紹介されていたが、率直に言って期待外れだった。

確かに、著者はセミプロ的な音楽経験を有しており、音楽史に関する知識と経験がうんちくとして随所に語られている。特に、バッハやモーツアルト、ベートーベンらのパトロンとの関係や経済的基盤がブルジョア革命前後で変わっていく様子や、19世紀のナショナリズムとショパン、ドヴォルザーク、ヤナーチェックらとの関係、さらにはシューマンが音楽批評の草分けで、自ら『ダヴィッド同盟』なるグループをつくって活動し、それがワーグナー派とブラームス派の対立につながるといった議論など、興味深い点も多かった。

しかし、大衆社会化と芸術やオーケストラと指揮者といった議論には目新しいものはなく、ショスタコーヴィチの社会主義体制への抵抗に関する長い章は真偽の疑われるヴォルコフの『証言』にほとんど依拠した議論である。

 

社会思想との関係では、著者の専門であるアダム・スミスやトクヴィルからの引用が多く、デモクラシーと大衆社会の負の側面が強調されるが、いわば聖なるものから通俗なものへ、良質なものから安っぽいものへといったステレオタイプであり、社会思想と音楽の関係も比喩的な議論のレベルだけで、それ以上の展開がない。

そもそも近代初頭のスミスやトクヴィルの時代と現代のデモクラシーでは「大衆社会」といっても現代は高度化複雑化しており、個々人の音楽への要求も多様化している。

例えば、著者は現代社会の複製技術により、コンサートホールや歌劇場に行かずに「独りで自室にこもって、高級オーディオセットで再生された音楽を楽しむことがほとんど常態と化した」というが、オーディオ業界は長く不況のどん底であり、レコードやCDも新盤のリリースは大幅に減っている。他方、コロナ禍以前はコンサートホールや歌劇場は活況で、一流アーティストのチケットはすぐに売り切れになっていた。やはりホールでの楽団と聴衆の一体感、生の演奏を聴く集中と感動に代えられるものはないからである。

 

 

◎2021年6月20日『決定版 日中戦争(新潮新書)』波多野澄雄他

☆☆☆☆☆決定版? これでは歴史の共有も相互理解も進まない

日中両国政府の支援により2006年から2009年まで行われた日中歴史共同研究の参加者らによる日中戦争の概説である。ただ、執筆者により内容がまちまちで統一感がなく、また従前の歴史学者の研究とどう違うのかが示されていないため、「決定版」とは到底いえない。

しかも、「 日本が侵略戦争の加害者であり中国が被害者である、という基本的な視点が読み取れない場合には中国側は公表をはばかるであろう」という序文の言葉に端的に示されているように、日本の立場を擁護する偏った姿勢が論文の随所にあらわれている。

 

張作霖爆殺事件が関東軍の組織的犯行であった疑いが濃いこと、満州事変後は日本政府の不拡大方針にもかかわらず満州国を樹立し、反対派の犬養首相を5.15事件で暗殺して独立承認を強行したこと、日本の立場にも配慮したリットン報告書さえ拒否して、ついには国際連盟脱退に至ったことなどの日中戦争に至る前史はほぼ従前の認識通りである。なお、国際連盟脱退の理由は実はよくわからないとされ、脱退演説で有名な松岡洋右外相も脱退論者ではなかったという。連盟が勧告案を採択しても脱退しない「居直り」策もありえた(連盟には制裁手段はない)というが、結局は日本の行動に国際的な支持を得る見込みがなかったということであろう。

その後、日中関係を安定化しようとする政府や軍の試みがあったものの、華北分離工作から双方の対立と衝突の「負の連鎖」が続き、第2次上海事変から本格的な戦闘拡大に至る経緯も、おおむね従前の研究を踏まえたものである。満州事変で主役となった陸軍が対ソ戦を意識して日中戦争拡大には消極的で、華中・華南に影響力が強かった海軍が全面戦争推進派となるが、政府が軍を抑えられずに戦争が拡大するという構図は変わらない。

 

南京事件については、周知のとおり犠牲者数に議論があるが、日本側の推計でも「上限を20万人として、4万人、2万人など」とされ、共同研究の日本側報告書(北岡伸一)でも虐殺事件があったことを認めている。しかし、本書では、中国側の「副次的要因」として中国軍の南京防衛作戦の誤りと民衆保護対策の欠如といった点がことさらにクローズアップされており、責任転嫁の感を免れない。

さらに首をかしげるのは第5章の国際メディア論で、国際メディアが日本の侵略や空爆を非難したのは効果的な写真や蒋介石夫妻をアイコンとした中国のプロパガンダによるもので、日本が国際世論の支持を得られなかったのは宣伝戦に失敗したからだとされる。しかし、日本がどれほどプロパガンダに注力しても、他国に攻め込んで戦線を拡大している以上、「自衛のための戦争」などという主張が国際世論に受け入れられるわけがなかろう。

6章の「傀儡」政権をめぐる議論についても、中国側に協力者がいたからといって傀儡性(日本の指揮監督下にある)が薄まるわけではなく、協力者の立場を長々しく議論する意味がわからない。

 

唯一、第7章の経済財政面からの論考は出色であり、欧米列強の対中投資の7割が集中する上海での戦争拡大が日本非難を強めたこと、国際連盟脱退が日本を物質を得られない「持たざる国」にし、重要な輸出相手国である中国を失い最大の貿易相手国である英米を敵に回したことで「経済的な敗戦」となったことがデータで説得的に示されている。

 

なお、日米開戦後の「後期日中戦争」については、カイロ宣言以降の戦後の国際構想と終戦処理の問題として論じられているが、日中2国間の局地戦争が世界戦争に拡大した以上当然である。持久戦に持ち込まれついには南方進出と日米開戦戦に至ったことで、日中戦争においても日本の敗戦は確実となり、蒋介石は「戦勝国」として有利な地位を占めることに活動の重心を移していく。

戦後処理については比較的詳しく論じられており、国民党と共産党の双方が日本軍の軍備を利用しようとしたことや日本の技術者が留用されたことが紹介されている点は興味深く読んだ。

 

戦後の国共内戦と国民党の敗北により中国の国際的地位が著しく低下した結果、最大の戦争被害国である中国が戦犯追及や賠償問題で先鋒に立ち得なかったと本書は指摘しており、「日本にとっては、そのことは日中戦争の責任という問題を正面から受け止める機会が失われ、中国との戦争の記憶が国民から遠ざかることを意味した」と結んでいる。

これは今日においても確認すべき重要な指摘であろう。

 

 

◎2021年6月16日『後期日中戦争 太平洋戦争下の中国戦線 (角川新書)』広中一成

☆☆☆☆知られざる「後期日中戦争」、しかし想像通りの展開

太平洋戦争期の日中戦争については、「日中15年戦争」という割には、確かにこれまで語られていない。本書はその空白を埋める試みではあるが、あとがきで著者自身が課題として書いている通り、江南に派遣された名古屋第3師団の活動が中心で、華北戦線等には全く触れられていない。

また、戦争の推移についても、太平洋戦争の対応に規定されたという想像通りのもので、歴史認識を変えるほどではない。

従来の歴史研究者が太平洋戦争期を書かなかったのは、日米開戦によって日中戦争の帰趨がはっきりしたからであろう。この点、「アメリカには負けたが、中国に負けたわけではない」という陸軍関係者の発言は負け惜しみの妄言というしかない。なぜなら、日本軍の侵攻に対し中国が組織的対抗を続けて持久戦に持ち込んだことが、日米開戦へとつながったからである。攻め込まれた中国側としては防衛戦争を持久戦で続け日本軍を消耗させて撤退させれば勝利なのであり、他方、攻め込んだ日本側は早期に中国を降伏させるか有利な講話を得られなければ即ち敗北である。

これは、ヨーロッパ戦線でナチスドイツがソ連領内に深く侵攻しながら持久戦に持ち込まれて敗北したのと同じである。その意味で、日中戦争は独ソ戦と対比しうるものであり、アジア太平洋戦争の中心をなすものといってよい。

 

それにしても、本書で明らかにされた作戦だけでも大本営の戦争指導のお粗末さは十分示されている。

太平洋戦争開始直後の第二次長沙作戦は香港侵攻の陽動作戦のはずだったが、阿南司令官らの思惑に押されて侵攻した結果、中国軍の術中にはまり「希に見る負け戦」となる。

また、ドーリットル空襲で衝撃を受けた大本営は、米軍に利用された浙江省の空港の破壊のために浙かん作戦を実施するが、梅雨の時期の苦難の行軍の中で、731部隊製造のコレラやペストの細菌兵器や毒ガス兵器が使用され(国際法違反である)、自軍にもその被害が出てしまう。

さらに、1944年の戦争末期には、制海権と制空権を米軍に奪われたために武漢地区から北部仏印への輸送路確保を目指した大陸縦貫鉄道作戦、さらには敵飛行場を攻撃して日本本土空爆を阻止することをも目的とした大陸打通作戦が実施されるが、1500キロに及ぶ長大な戦線を維持する兵員と物資の補給ができるわけがないうえ、長距離戦略爆撃機B29の登場、日本軍の意図を見抜いた中国側の線路と鉄橋の破壊で、作戦自体が無意味になった。

こうした無謀な作戦で過酷な行軍を強いられた兵員の悲惨さと、物資の補給に代えて現地略奪を方針化された現地住民の甚大な被害はいうまでもない。

 

なお、敗戦後の日本兵の扱いが抑留で悪名高いソ連と中国の温和な対応が異なる理由について、著者は、国民党が共産勢力との対抗に日本軍を利用しようとしたことに加え、蒋介石ら軍幹部が日本留学で日本軍幹部と人的交流があったことを挙げている。

 

 

◎2021年6月14日『リニア中央新幹線をめぐって――原発事故とコロナ・パンデミックから見直す』山本義隆

☆☆☆☆☆「陸のコンコルド」 原発事故とコロナ問題からリニアを再考する

「なぜリニアなのか?」という疑問を押し切り、JR東海が安倍首相のバックアップを得て着工したリニア中央新幹線だが、本書を読んで改めて問題点の大きさを痛感した。静岡県知事の抵抗もあるが、今からでも計画の撤回を検討すべきだと思う。

著者は『重力と磁力の発見』等の多数の著書のある物理学者・科学史家であるが、本書は一般読者にもわかりやすく書かれており、JR東海や政府の公表データと関係者の過去の発言等を中心に紙版で192頁の薄さにまとめられている。

 

著者が指摘するリニアの最大の問題点は電力消費量の巨大さであるが、それだけでなく東京一極集中のさらなる強化、環境破壊、巨額の費用負担等々、いずれも深刻なものばかりである。

電力消費量については、JR東海や政府の試算でもリニアは東海道新幹線の4~5倍に達するという。リニアは真空中を走るのではないから、時速500キロの超高速度で走行すると膨大な空気抵抗がかかる。さらに磁力の反発を利用する仕組みも電力に依存する。「超伝導」は電気抵抗ゼロというが、超伝導状態にするためにはヘリウムにより絶対零度を維持しなければならず、そのために電力が消費される(ヘリウムはアメリカの独占状態で、コストも高いという)。したがって、莫大な消費電力をまかなうために原発の稼働と増設が不可避なのである。

東京一極集中については、新幹線によって名古屋や大阪が日帰りできるようになった結果、企業の本社機能が首都圏に集中し、名古屋・大阪経済圏は地盤沈下した。また、新幹線の途中停車駅は駅周辺(最近は駅ナカ)は開発されても、人口は減少し商店街は寂れている。リニアで東京大阪間が1時間余りとなれば、この「ストロー現象」がさらに進むというわけである。新型コロナウイルス防止のために「人流抑制」などと言われている時代に、首都圏への人口集中は全く逆行している。

環境破壊で重大なのは残土処理である。90%が地下を走るというリニア中央新幹線工事で搬出される残土は約5000万立方メートル、1日3000台のダンプで10年分だというから驚く。地下水系への影響や強力な磁力の人体への被害も懸念されている。活断層も通る大深度地下で車両停車等の事故が起きたときの被害は想像もつかない。原発同様、「絶対安全神話」はありえないのである。

コロナ禍でテレワークが進み、東海道新幹線さえ赤字を出している。今後、人口減少とテレワークの推進によってリニア事業の採算はまったく取れないだろう。そのツケはリニア以外の鉄道料金増額や公費援助につながる。著者は品川-名古屋2027年開通から名古屋-大阪2045年開通までの10年以上の間、東京大阪間を移動する人はわざわざ名古屋で乗り換えるのだろうかと書いているが、まさにそのとおりである。

いくら速くても、快適さも安全性もなく、採算も取れない事業は廃れざるを得ない。まさにリニアは「陸のコンコルド」なのである。

 

なお、第4章はリニアとは直接関係のない文明論的考察や戦後の経済史に対する批判であり、往年の東大全共闘議長のアジ演説を彷彿させるのはご愛敬というべきか。

リニアの問題点を知るためには第3章までで十分であり、できれば新書版などの普及版にして、左右の立場を問わず多くの人に読んでもらいたい。

 

202176日追記)

 熱海で大規模な土石流被害が生じたが、被害拡大の原因は5万立方メートルの盛り土だという。リニア工事による5000万立方メートルもの残土がどのように処理されるのか、しっかり監視すべきである。

 

 

◎2021年6月12日『BAD BLOOD シリコンバレー最大の捏造スキャンダル 全真相』ジョン・キャリールー

☆☆☆☆☆WSJ記者の分厚い取材が語る迫真のルポ

シリコンバレーのベンチャー企業をめぐる壮大な詐欺事件を扱ったノンフィクションである。

著者はウォールストリート・ジャーナルの調査報道記者で、ピューリッツァー賞を2度受賞した経歴を持つ。さすがに一流のジャーナリストの著作だけあって、綿密かつ丁寧な取材に裏付けられた事実の積み重ねが有無を言わさずに語りかける迫真性がすばらしく、読者をぐいぐいと引き込む力がある。

 

それにしてもベンチャービジネスの闇がこれほど鮮やかに示された事件はないのではなかろうか。

指先からとる1滴の血液であらゆる病気の検査ができ、注射で何度も血液採取して検査する苦痛から解放される。どこでもできる簡単な検査だから、がんや難病の早期発見が可能になる。こんな夢のようなプロジェクトをひっさげて、大学中退の20歳そこそこの女性がビジネスを立ち上げ、シュルツ氏やキッシンジャー氏のような大物(元国務長官)を取締役に巻き込み、さらにはマティス将軍(トランプ政権下の元国防相)まで引き込んで、巨額の投資を集めてしまう。大変なエネルギーとプレゼン能力であることだけは間違いないが、何ら科学的裏付けも実績もないビジネスがこれだけ巨大に立ち上がってしまうことに驚く。

著者によると、未上場のベンチャーゆえに事業内容が公開されず、内実が把握できないことに加え、「男性 が支配するテクノロジー業界に風穴を開ける女性起業家を社会が待ち望んでいた」ことが事件の背景としてあるという。

他方、本書ではカリスマ的経営者の絵に描いたようなワンマン経営の欠点も十分示されている。ビジネスの成長が最優先で技術と科学の裏付けがない。技術者達の懸念と警告がすべて無視され、辞職や解雇で次々と人材が離れていく。科学の裏付けがなく人材を大切にしないベンチャーが没落するのは当然といえば当然である。

 

なお、本書で企業の用心棒のように描かれている大ローファームはまさに悪徳弁護士集団というほかなく、訴訟社会の闇もまた感じさせられた。社員のメールをチェックし、辞めた後もしつこくつけ回して守秘義務違反で訴訟を起こすと脅迫し、告発を妨害する。著者とWSJにも妨害と圧力がかかるが、これをはねのけたのはさすがである。この大ローファームは、著者のルポで内実が暴かれた後は、弁護方針の対立で(巨額の弁護士費用が払われなくなったからか?)この企業の代理人を降りたというが、本書で描かれた悪どさからすれば、弁護士倫理違反はもとより詐欺の共犯として告発されてもおかしくないだろう。

 

 

◎2021年6月7日『誘拐 P分署捜査班 (創元推理文庫) 』マウリツィオ・デ・ジョバンニ

☆☆☆☆ナポリを舞台にした刑事たちの物語 第2弾

『集結』に続く邦訳第2弾である。

表題は『誘拐』となっているが、イタリア語表題の“BUIO”は「暗闇」という意味であり、英訳の表題も“Darkness”となっている。

元の表題の含意は、誘拐された少年が閉じ込められた部屋の暗闇と少年の家族を取り巻く複雑な人間関係の暗闇、さらには意表を突く結末まで先が見通せないミステリーの謎解きの暗闇をさしているというところだろうか。

第一弾同様、イタリアらしい軽妙でユーモアあふれる筆致で、ミステリーのテンポと流れもよく、一気に読ませる推進力がある。

また、近年の刑事物の定番だが、それぞれが家族関係や恋愛の問題を抱えた刑事たちの人間ドラマが、事件捜査と絡んで描かれ、物語の厚みと面白さを増している。

 

なお、第1弾のレビューでも書いたが、ピッツォファルコーネ署(架空)の所轄地域はサンタルチア港や卵城の近くで、ナポリ湾に面しベスビオ火山を正面に望む抜群に風光明媚な地区と、トレド通りの繁華街を含んでいる。第2弾では、誘拐された子供の家族の住居が壁一面の窓からナポリ湾が見渡せる絶景で、その豪邸ぶりが強調されている。

観光地であるナポリの街の雰囲気も、アラゴーナ刑事が日本人観光客らを押しのけて車を運転していくところなどが生き生きと描かれており、クスッと笑わせる。

イタリア好きに楽しみなシリーズである。

 

 

◎2021年6月5日『【合本】憲法判例百選I・II(第7版)』長谷部恭男他

☆☆☆☆☆208項目のうち80以上が平成判例! kindle版合本は扱いやすい

百選」といっても、第7版となると項目として取り上げられた判例数は208もあり、さらにAppendixとして19の判例が紹介されている。しかも、208のうち80以上の判例が平成の判例であり、第7版では女性の再婚禁止期間の違憲判決、NHK受信料制度合憲判決、GPS捜査と令状主義に関する判決といった最近話題になった判例が追加されている。さすがに時代の流れを感じる。

内容は、いうまでもなく憲法学習者にとって定番の判例教材であり、事案の概要と原審の判断を紹介したうえ、最高裁の判断を詳しく引用する。執筆者は各項目を専門とする憲法研究者多数であるため、ばらつきはあるものの、判例の背景とその意義、多数意見と補足意見、反対意見の分岐、憲法解釈の学説の紹介を要領よく俯瞰的に解説している。判例をどう乗り越えるかという展望に言及している項目もかなりあり、憲法訴訟に関わる実務家にとっても示唆に富むものといえる。

 

今回、上下合本をkindle版で入手したが、PDF形式ではなく通常の電子書籍版なので非常に扱いやすい。パソコンでもiPadでもスマホでも読むことができ、とても便利である。

 

 

◎2021年6月4日『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改康之

☆☆☆「自己から脱け出す」 で、その行き先は?

学生時代にフーコーの大著『言葉と物』を読み、ベラスケスの名画「侍女たち」の視線分析から始まる流麗な叙述とその博覧強記ぶりに圧倒されたが、時代を支配する知(エピステーメー)の根本的な変換という一見鮮やかな主張については、知の構造の一面的な断定、その根本的変換なるものが起こった理由が全く論じられていないこと、さらには「人間の死」という過激なテーゼに疑問と違和感が残った。

1984年のフーコーの死から数十年を経た今、岩波新書に入門書が出たと知り、なぜ今フーコーなのかと思って読んでみたが、2018年に『性の歴史』第4巻が遺族の承認を得てようやく出版されたことはわかったものの、「フーコーは何を為したのか」という著者の問いに対しては、やはり疑問が残るままである。

 

本書はコンパクトながらフーコーの仕事を年代順に、『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』、『知の考古学』、『監獄の誕生』、『性の歴史』と要領よく概観している。ただし、随所に難解な引用があるが、これは元の著作をあたるしかなかろう。これらの著作は医学や文学・芸術、法制度等の広範囲な分野について、一般とは異なる見方を提示しておりそれなりに興味深いものではあるが、各分野の知見に照らせば、いわば突っ込みどころ満載である。

例えば、『監獄の誕生』では、身体刑から監獄へという処罰形式の変化が、君主による反逆者への報復から「規律権力」による監視と管理による従順な人作りを示しているとされ、この規律権力による作用は学校、軍隊、工場などの様々な場所で行われるという。しかし、これは歴史学や法学では身体刑から自由刑へ、あるいは応報刑から教育刑への変化として論じられるものであり、社会全体では国民の教育を受ける権利の確立と拡充という、人道主義と人権思想の文脈で見るのが一般であろう。フーコーの分析からどのような帰結が導かれるかは不明である。

それ以外の、狂気、病気、性(欲望)といった分野の仕事も同様で、独自の切り口で歴史を掘り起こす「考古学」が展開されるが、それが我々にとっていかなる意味があるのかが示されないままなのである。意地悪くいうと、フーコーは人と異なるやり方で思考してみせるが、その意義を突き詰めないで(あるいは袋小路に行き詰まって)途中で投げ出し、著者のいう「自分自身からの離脱」で次々と分野を変えていくようにもみえる。

「現在を別のやり方で考える術を我々に提供してくれる」と著者はいうが、Et alors ? So what ? である。

 

kindle版で購入したが、「扇」や「遡」がおかしな漢字になっており、変換か校正のミスではないかと思われる。これに限らず岩波は電子書籍化では他の出版社より遅ているのではないか。紙の本を重視するポリシーかもしれないが、中高年にとっては重くかさばるうえ文字が小さく読みづらいため、読みたい本でも敬遠してしまう。名著の電子復刻とともに文庫や新書、『世界』も優先的に電子書籍にしてほしい。

 

 

◎2021年6月3日『自由の限界 世界の知性21人が問う国家と民主主義』鶴原徹也

☆☆☆☆混沌とした世界政治への各人各様の未来予測

2016年から2020年にかけて、著者が世界の第一線の知識人21人にインタビューした連載をまとめて出版したものである。

時期的にはイギリスのEU離脱とアメリカのトランプ政権成立から、コロナ禍とトランプ政権の退場までの時期を扱う。したがって、時期によってインタビューの関心も異なるし、知識人の国と立場によって内容もまちまちで統一感はない。そして、そのこと自体が混沌とした現代世界を鏡のように映し出しているともいえる。

エマニュエル・トッドとジャック・アタリの2人のフランス知識人へのインタビューが全体の3分の1を占めているが、ヨーロッパ全体を覆うテロの恐怖や移民問題、左翼の退潮、ポピュリストの進出といった情勢を反映してか歯切れが悪く、自由、平等、民主主義の西欧的価値観への自信喪失さえ感じさせる。

この2人を含め、多数の知識人の日本に対する見方で共通するものは、少子高齢化への対策と移民受け入れの必要性だ。この2つは表裏一体の関係にあるが、日本政府の取っている現在の政策が、子育てや教育への支援が薄く少子化が改善する見込みがない一方、深刻化する労働力不足を補う移民受け入れにも消極的とあっては、誰が見てもお先真っ暗に見えるだろう。

 

21人の知識人の中でもっともスタンスが明快で思想的にも共感を持てたのは、イスラエルのハラリ氏くらいであろうか。さすがに近年著作やテレビ対談で注目されるだけのことはある。

ハラリ氏は、コロナ禍の「真の敵はウイルスではなく人間の心に宿る悪、つまり憎しみ・無知・強欲だ」と言い切り、これに対して、「心に宿る善、つまり共感・英知・利他で対処すべき」であり、「弱者をいたわり、科学を信じ、情報を共有し、世界で協力する」ことだという。実に単純明快で当たり前の主張なのだが、何のためらいも前置きもなく言い切る姿勢が爽やかで好ましい。

同時に、ハラリ氏は人類の存続を脅かす危機として、核戦争と地球温暖化に加え「破壊的な技術革新」を挙げている。これはコロナ禍を通じてAIやIT技術を駆使した監視体制が正当化され、整備が加速していることを指しており、「IT独裁」へ傾いていくのではないかと警告する。AIIT技術の負の側面に対する重要な指摘として、留意しなければならないだろう。

 

 

◎2021年6月1日『国際人権入門 現場から考える (岩波新書)』申惠丰

☆☆☆☆☆「グローバルスタンダード」は人権状況にも適用されるべき

国際人権の観点から日本の人権状況を考えるための好著である。

「入門」とあるように、著者の問題意識のエッセンスをわかりやすく説明したものであり、本格的な議論はさらに専門書に進む必要がある。

本書の構成は、国際人権基準とそのシステムを概説したかなり長い序章と、重要性の高い4つの各論(「不法滞在外国人」の人権、ヘイトスピーチ、女性差別と性暴力、学ぶ権利実現のための措置)といくつかの興味深いコラムからなっている。

 

序章で解説されている国連憲章や世界人権宣言の内容、特に人権に関する詳細で踏み込んだ基準については改めてよく読む価値がある。そして規範としての国際人権規約と人権条約については、日本も批准しているものが多く、実際にも日本の裁判例で規範として引用されている。

4つの各論については現にホットな政治的争点となっているものであり、著者の考えに対する反対意見もあり得るところだが、まずは日本政府のとっている人権に対する姿勢が国際基準、まさに「グローバルスタンダード」に適うものなのかどうかを知ったうえで、客観的な目で考えることが重要である。

 

 

◎2021年5月29日『ポスト社会主義の政治 ――ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの準大統領制 (ちくま新書)』松里公孝

☆☆☆☆冷戦終結後の東欧史 継続する「未来への実験」

私が学生だった1970年代後半から80年代前半は、いまだ「ブレジネフドクトリン」によるソ連支配下で東欧諸国はあえいでいた。1950年代のハンガリー、60年代のチェコの民主化運動に続き、70年代はポーランドの自主労組「連帯」がより進化した大規模な民主化闘争を展開したが、戒厳令で一時押さえ込まれていた(ただし、本書でも触れられているが、この戒厳令はソ連の軍事介入を避けるためだったという見方が強い)。当時、ポーランドの民主化闘争に希望を託したジャーナリストの藤村信氏が、その著作の表題で「未来への実験」と表現していたことを印象深く覚えている。

 

その後、80年代末から、このポーランドを皮切りに東欧諸国の社会主義体制が劇的に崩壊し、資本主義へ移行する新たな政治体制がつくられたが、各国の政治体制の変化について詳しい情報はなく、暴力的な政変や革命、最近ではポピュリストの進出がニュースとしては伝わるが、その実態はよくわからなかった。

本書は、著者が多年の現地調査も含む情報収集で、冷戦終結後の東欧の政治史を「準大統領制」という視点で概観した労作であり、貴重な情報を提供してくれる。

ここで「準大統領制」とは、首相のいない「大統領制」に対し、「国民が選挙で選ぶ大統領と、首相が併存する体制」とのことであり、執行権力の二元化を特徴とする。これは旧社会主義国における共産党と議会の二元制に由来するとのことであるが、さらに、この準大統領制は首相の任命方法で、①高度大統領制下準大統領制(大統領が首相を任命)、②大統領議会制(大統領が議会の承認を得て首相を任命)、③首相大統領制(議会が指名した候補を首相に任命)に分類される。

 

著者はこの視点で、ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの5カ国の政治体制の変化を分析していく。各国とも、かつての支配政党であった共産党は社会主義体制崩壊で権威がいったん地に落ちて下野するが、やがて左翼政党として復権して政権の一角にくいこんでくる。他方、急激な資本主義化で誕生したオリガーク(新興財閥)や、リーマンショック以降の経済苦境でポピュリスト政党も進出し(アメリカのトランプ政権誕生と同様の経過)、ロシアやEU諸国との地政学的関係も背景として各国の政治情勢を複雑化している。

また、日本ではあまり知られていないが、欧州評議会のヴェニス委員会(法による民主主義のための欧州委員会)の意見が、各国の憲法改正に大きな影響を与えていることがわかる。

準大統領制という文脈では、ポーランドとリトアニアは大統領・首相・議会の抑制均衡メカニズムを発展させて首相大統領制に到達、アルメニアは大統領優位の下でこれらを再統合、ウクライナとモルドヴァは権力分立・相互不干渉でバランスを図ると分析されている。

詳細は本書を読んでもらいたいが、「準大統領制」の政治制度に絞った叙述なので、読み物としてはあまり面白くない。興味関心のある国だけ拾い読みしてもよいだろう。もう少し具体的な事件や背景に踏み込んだ生々しいエピソードがあればと感じる。

 

いずれにせよ東欧諸国の改革はまだ道半ばであり、「未来への実験」が継続しているといえる。

 

 

◎2021年5月23日『小説と映画の世紀』菅野昭正

☆☆☆☆☆映画化された20世紀小説-興味深い比較考察 

名作小説の映画化は期待外れなことが少なくない。小説で感動したイメージが映像化されていなかったり、ストーリーが寸断されて散漫な印象を受けたりするからである。

しかし、映画化によって作品の主題が鮮やかな映像として感動的に描かれたり、思いもよらない観点から光を当てた解釈が示されて、理解が深まることもある。

 

本書は20世紀の名作小説が映画化された12作を論じたものであり、しかるべき水準に達した小説と映画が、小説の書かれた時代順に論じられている。対象を20世紀の作品としたことについて、著者は、我々に距離の近い世紀であることに加え、「転変に転変を重ねた世紀」について時代ごとの多種多様な局面を反映した選択をし、それによって20世紀の思想史を断片的に通観することが可能になるという。

具体的には、次の12作が論じられる。「ヴェネツィアに死す」「審判」「ドクトル・ジバゴ」「インドへの道」「ゆらめく炎」「誰がために鐘は鳴る」「愛人」「異邦人」「第三の男」「時計じかけのオレンジ」「存在の耐えられない軽さ」「薔薇の名前」・・・多くの人はこれらのいくつかは小説または映画、あるいはその両方を読むか見るかしたのではなかろうか。

 

著者はこの12作のそれぞれについて、まず小説のストーリーと構成を詳しく紹介し、小説の文学的価値と意義を論じる。これだけでも文芸評論として極上のものだが、次に、その映画化に当たりどのような配慮やストーリーの取捨選択がなされたのかが丁寧に論じられる。言語芸術である小説と映像芸術である映画のそれぞれの特質、その長所短所、両者の間に立ちはだかる障壁が作品ごとに具体的に考察され、実に興味深い。

例えば、「ヴェネツィアで死す」では、小説では主人公がヴェネツィアに至るまでの経緯が詳しく描かれているが、映画では大胆にカットされる一方、ヴェネツィアのホテルに集う紳士淑女のきらびやかな装いやサロンの雰囲気が映像で表現され、上流階級の世紀末的な頽廃が強調される。

また、「ドクトル・ジバゴ」では、革命前後のロシアの激動の中で主人公らがたどった複雑で錯綜する長編ストーリーが映画ではかなり省かれ、登場人物も減らされており(それでも3時間半近い上映時間である)、激動の時代を描くというより恋愛メロドラマ性を帯びた作品となっている。

さらに、「異邦人」については、カミュの原作に忠実に映像化したというヴィスコンティ監督(「ヴェネツィアに死す」と同じ)の言葉にほぼ沿った映画となっているが、著者は、これは表面をなぞっただけの皮相なものであると批判し、小説の示す「不条理 absurde」の底辺にある時代性を暗示的にでも示す映像が可能だったのではないかとする。これに対し、「存在の耐えられない軽さ」では、小説の重要な主題であるニーチェの「永劫回帰」と20世紀文明の「キッチュ」(紛い物、通俗性)批判が映画では回避されているが、これは賢明であったと評される。

「薔薇の名前」については、あの中世の修道院を舞台としたおどろおどろしい連続殺人事件の小説的な企みとその映画化の工夫もさることながら、ウンベルト・エーコがこの小説を書いた動機には当時のイタリアを震撼させたモーロ首相誘拐殺人事件があり、この事件を現代の政治・社会を覆う混沌、乱脈、猥雑、俗悪を示す記号とみて修道院の内実になぞらえた寓意が込められているという指摘には、今さらながら教えられた。

このように12作はそれぞれ独立した読み物となっており、読者は興味のある作品から読めばよい。そうすれば、また原作を読み映画を見る楽しみが増えるはずである。

 

なお、値段はKindle版でも5000円を超える高さだが、12作に及ぶ極上の文芸+映画評論に加え、各作品の印象深いシーンのカット写真が掲載されていることを考えれば、価格に見合う価値が十分あると思う。

 

 

◎2021年5月16日『言語の七番目の機能 (海外文学セレクション)』ローラン・ピネ

☆☆パロディとしてもミステリーとしても楽しめない

ロラン・バルト、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ルイ・アルチュセール、ジュリア・クリステヴァ、さらにはウンベルト・エーコといったかつて一世を風靡したポストモダンの哲学、言語学、記号学のきら星のような有名人を実名で登場させ、ミステリー仕立てにした小説である。

しかし、その内容については、著者の博学と勉強ぶりに敬意を表して星2つにしたが、私はパロディとしてもミステリーとしても楽しめなかった。

 

小説は、実際に起きたバルトの交通事故と死亡が実は殺人事件であったという想定から始まり、事故前にバルトが所持していたとされる「言語の7番目の機能」について書かれた書面の追跡を縦糸に物語が展開する。その過程でフーコーやデリダらが言語の機能をめぐる丁々発止の議論を交わし、それが物語の横糸をなすパロディとなる。しかし、引用されている議論は断片的なものの寄せ集めで、元々が難解な言説を切り取って引用または変容したものであるため、理解不能な言説のオンパレードとなっている。おそらくその理解不能ぶりがパロディなのだろうが、これらのポストモダン哲学者や言語学者らについて多少は学んだことがある読者でないと、パロディかどうかもわからないと思われる。

 

より大きな問題は、実名小説としての事実とフィクションの扱いである。この小説の中で、バルトの事故死やアルチュセールの妻絞殺事件、ボローニャ駅の爆破テロは実際に1980年に起きたことであり、当時学生だった私は大きなショックを受けたことを覚えている。しかし、2004年に膵臓がんで死んだデリダが、この小説では犬に噛まれて死んだことにされ、フーコーが葬儀の弔辞を述べているのは明らかに事実に反する(フーコーは1984年にエイズで亡くなった)。実名小説の作法としてこれはルール違反であり、それだけで読む気をなくさせる。フーコーの描かれ方もあまりに下品であり、性の歴史へのラディカルな挑戦者を不当に貶めるものである。クリステヴァのパートナーであるソレルスの扱いもひどい。これらの人々や関係者から、よくも名誉毀損で問題にされないものだと驚く。

ちなみに、「訳者あとがき」を見ると、訳者も「風刺の度が過ぎる」と感じたそうだが、著者は風刺ではなく「嘲笑」であると答えたという。著者のルサンチマンで実名小説を書かれたら、読者はたまったものではなかろう。

 

他方、ミステリー小説としては、言語学者ロマン・ヤコブソンが著書で書かなかった「言語の7番目の機能」の争奪が動機となって殺人事件やスパイ合戦が起こるわけだが、事件の動機としてのリアリティと説得力が弱すぎる。ミッテランとジスカール・デスタンが争ったフランス大統領選挙の候補者討論と、グロテスクな秘密討論クラブの討論試合が背景となっているが、言語学者の理論を記した書面が虎の巻のようになって討論の帰趨が決まることなどありえない。言語による説得は経験と熟練による実技の分野に属するものであり、その目的と相手に応じて、政治家の弁論術、法廷弁護士の弁論術、ヒトラーのような大衆扇動術、宗教家の説教術、熟練の営業マンのセールストーク等々のその道のプロが存在するのである。したがって、ミステリーとしても砂上の楼閣で、リアリティと説得力を欠くといわざるをえない。

 

 

◎2021年5月10日『言語学者が語る漢字文明論 (講談社学術文庫)』田中克彦

☆☆☆☆☆漢字文化のまどろみから目覚めさせ、開かれた日本語をめざす

本書は元は『漢字が日本語をほろぼす』という挑発的な題名で出版されたが、学術文庫版に収められるに当たりより穏当な題名とされたうえ、新たに「まえがき」と精神科医で作家である故なだいなだ氏の一文が加えられている。

著者は1934年生まれのモンゴル学を専門とする言語学者であり、『ことばと国家』、『言語からみた民族と国家』、『ノモンハン戦争』など、言語学の枠を超えた多数の著作がある碩学であり、最近も『ことばは国家を超える 』という知的刺激に満ちた生きのいい本を出版している(レビュー済み)。

本書の内容は元の表題にもかかわらず至って真摯なものであり、80代となった著者の日本語への熱い思いにあふれたものである。そのことは、なだいなだ氏の、著者の思いを受けとめかつ自省を込めた一文を読めばわかる。

 

かく言う私自身も漢字文化にどっぷり漬かった読書人であり、こうしたレビューを含め漢字を使った文書を作成する機会が多く、漢字のありがたみを常々感じている方なのだが、著者の鋭くかつわかりやすい問題提起は漢字文化のまどろみから目覚めさせるに十分なものであった。

 

著者の問題提起を漢字否定というたんなる表記上の問題と誤解してはならない。著者の主張の核心は、日本語をより開かれた、アクセスしやすい、民主的なものにするという、≪言語の思想、文字の思想≫にある。

これは、例えば、これから日本語を学ぼうとする外国人が修得しやすい、したがって外国人にも教えやすい日本語表記法、いわば世界に開かれた日本語をめざすということである。世界言語となっている英語と日本語を比較すれば一目瞭然だが、英語の習得にはアルファベット26文字でたりるのに、漢字は数千字も修得しなければならない。本書で紹介されているように、アジアから来て日本で看護師・介護士の資格を取ろうとした人が、「褥瘡」だの「誤嚥」だのが読み書きできないとして国家試験に不合格とされる。こうなると漢字による参入障壁が日本の国益を害しているとさえ言える(「褥瘡」は「床ずれ」、「誤嚥」は「誤って気管に飲み込むこと」等で十分である)。

また、外国人だけでなく、漢字の習得が苦手な日本人や子どもにとっても、漢字は日本語を読み書きする障壁となる。すなわち、著者が繰り返し糾弾するように、日本語の読み書きを特権的な教養階層のものとせず、母語以外の学習者を含む幅広い人々にアクセスしやすい民主的なものにすることをめざすべきなのである。

 

この点で、私は学生時代に強い印象を受けた古代エジプトの「書記座像」を想起する。ファラオの像と並んでなぜ「書記」が偉そうに鎮座した像が作られたのか? それはあの難しい象形文字を読み書きできることが書記の特権的地位の源泉となっていたからである。

著者は、日本語においても平安時代の女房文学はかなで書かれたし、明治時代は「言文一致体運動」があり、第二次大戦後の1970年代頃までは漢字を簡略化しなるべくかなを用いる傾向にあったが、その後は逆流が起きているという(漢字検定の流行などはそのあらわれかもしれない)。最近、感染症対策を報じるテレビニュースで、「じんりゅう」を抑制するなどと意味不明なことばを聞いたが、「人の流れ」といえばよいことであり、漢字の造語能力の濫用というしかない。

専門用語についていえば、明治時代に漢字を駆使して作られた法律用語は口語化が進んでいて、例えば刑法の「贓物罪」(ぞうぶつざい)は1995年の口語化で「盗品等関与罪」と改められた。「贓物牙保」(ぞうぶつがほ)罪と聞いてわかるのは法律専門家だけだが、処罰されるのは一般国民であり、「盗品等有償処分あっせん罪」と改められたのは全く正当なことである。

 

私自身も、文書を作成するときは不必要に漢字を用いず、なるべく柔らかく読みやすい文字表記にすることをかねて心がけているが、著者のめざすハングルやローマ字表記のような表音化の徹底にはなお抵抗がある。著者もただちに漢字を廃止せよとまでは言っていない。

それでも、本書の問題提起は十分傾聴に値し、漢字依存や漢字文化礼賛に重い一石を投じるものだと思う。

 

 

◎2021年5月5日『ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』田中克彦

☆☆☆☆☆日本語=ウラル・アルタイ説概論 まるで講義を聴講しているような面白さ

著者の田中克彦氏は1934年生まれだから今年で87歳となるが、年齢を感じさせない勢いのある生き生きとした叙述で、多数の脱線と雑談あり、先輩・同僚研究者らへの歯に衣を着せない(しかし愛情のある)批判ありで、まるで講義を聴講しているような臨場感と面白さである。

著者の本については、『ことばと国家』(1981年)、『言語からみた民族と国家』(2001年)、『ノモンハン戦争』(2009年)など、これまでも多数読んできたが、どれも言語学の枠に止まらない民族学や歴史学などの学識を踏まえた興味深いもので、反骨精神にあふれた論争的な著作である。

著者の専門はモンゴル学であるが、旧ソ連・ロシアと中国の間で民族的に引き裂かれ、言語と文化の「虐殺」状態にあるというモンゴルへの深い思いと怒りが、著者を駆り立てるエートスとなっているのだろう。

 

本書は「モンゴルの状況を知ろうと挑戦しているうちに人生は消費されてしまい、ウラル・アルタイ説への関心はよどんだままであった」(あとがき)という著者が、80代にしてその関心を呼び起こし、ウラル・アルタイ説の歴史を回顧しつつ、その意義を概説するものである。印欧語中心の比較言語学と対置して議論が進められるが、言語学の詳細な議論に立ち入らないので一般読者にもすらすら読める。

 

ウラル・アルタイ諸語とは、フィンランド語やハンガリー語を含むウラル諸語と、チュルク(トルコ)語とモンゴル語、ツングース語(満州語)を含むアルタイ諸語からなり、朝鮮語(韓国語)と日本語はツングース語に近いとされる(日本語がツングース語の系統という点では、江上波夫の「騎馬民族征服説」を想起する)。

フンボルトの言語類型によると、印欧語は「屈折型」でウラル・アルタイ諸語は「膠着型」なのだという。前者は例えばfoot-feet, man-men, go-wentのように母音を変化させて複数形や過去形をつくるが、後者はそのような母音変化はせずに助詞や助動詞で対応する。また、前者にあるhavebe動詞のような汎用的な所有や存在の表現は後者にはない、等々の14項目に及ぶウラル・アルタイ諸語の特徴が挙げられている。

著者によると、ザメンホフは印欧語を基礎にした膠着型言語でエスペラントをつくったというが、それに先だって森有礼が英語公用語化を唱えたときも膠着語に改良した英語を考えたというから面白い。また、日本人が英語が苦手なのは日本語が膠着語だからで、逆に、モンゴルからきた力士が日本語をすぐ覚えるのは同じ膠着語の仲間だからだという(これは雑談か?)。

 

印欧語の祖先を遡る比較言語学は、印欧語以外の言語を発達の遅れた段階にあるとみる(アーリア人種優越論に通じる)が、著者は言語の祖先捜しは無意味であるとして、上記のように言語類型論の立場からウラル・アルタイ諸語を擁護するのである。

ちなみに、私が学生の頃は構造主義がもてはやされ、ソシュール言語学が注目されていたが、ソシュールの共時言語論や差異を示す記号体系といった議論は、各言語間の優劣を問題にせず言語類型論になじむ。ちなみに、著者が最後に愛読書として挙げた『一般言語学とフランス言語学』の著者シャルル・バイイはソシュールの弟子である。このバイイの著作とソシュールの『一般言語学講義』の翻訳者である小林英夫は「膠着語」を「接着語」と訳しているという。前者は否定的ニュアンスで後者の方が価値中立的だからということであろう。

 

 

◎2021年5月2日『平山郁夫の世界』平山郁夫

☆☆☆☆歴史への眼差しと平和への祈り もっと大判の画像がほしい

山梨の平山郁夫シルクロード美術館や薬師寺玄奘三蔵院などで平山作品はたくさん見ているが、『敦煌と日本人』を読んで改めてこの画集を買ってみた。

カラー写真で62点、平山の60年に及ぶ画業をほぼ網羅し、全作品に学芸員の解説を付し、高階秀爾氏とドナルド・キーン氏の解説を加えた行き届いた作品集である。

ほぼ半数を占めるシルクロードに因んだ作品や日本の寺社を描いた作品では、平山独自の色調と柔らかなタッチが堪能できる。

他方、被爆者である平山が満を持して描いた「広島生変図」では紅蓮の炎で焼かれる街の彼方に不動明王が浮かび上がる。また、サラエボの戦火の跡で子供たちを描いた作品など、平和への祈りが伝わってくる。

 

このように素晴らしい画集であるが、唯一残念なのは大型本でもまだ画像が小さいことである。

というのも作品の多くは六曲一隻または六曲一双の大作であり、圧倒的な迫力で見る者を引きつけるからである。

実物を見るのが何よりではあるが、もう一回り大きな画集か、せめて頁全体を使った構成だったらと感じる。

 

 

◎2021年5月2日『「敦煌」と日本人 シルクロードにたどる戦後の日中関係』榎本泰子

☆☆☆☆☆「敦煌」を切り口に描く戦前戦後の日中関係 Kindle版には口絵がないのが残念

戦前の大谷探検隊から戦後の井上靖の小説「敦煌」、NHKの「シルクロード」、映画「敦煌」、さらには平山郁夫のシルクロード画集まで、「敦煌」という切り口から戦前と戦後の日中関係を描き、現在の大国となった中国の「一帯一路」政策をはじめとする日中関係の問題を考える興味深い著作である。

大谷探検隊は仏教者の使命感から、井上靖は文学者の歴史探究心から、平山郁夫は芸術家のインスピレーションから、それぞれが熱情を持ってシルクロードと敦煌に関わった経緯がたくさんのエピソードを交えて紹介されており、いずれも感動的である。

また、こうした宗教者や文化人たちの活動と軌を一にして、日中国交回復と交流にかかわった田中角栄や竹下登ほか政財界の有力者らが、戦前の日中戦争への反省を踏まえつつ、井上や平山らのシルクロードへの思いに共鳴して映画制作や文化財復興事業に協力したことが詳しく記されている。日中戦争を体験した当時の政財界人の見識として記憶に留めたい。

 

実は、私自身も1990年代の後半から2度にわたりシルクロードと敦煌を旅行している。1度目は西安経由で空路敦煌に入り、莫高窟を見学してから列車でトルファンとウルムチに至るコース、2度目はウルムチ経由でクチャの仏教遺跡を見学し、バスで砂漠を大縦断してホータンとカシュガルに至る大旅行であった。 

         (クチャのキジル千仏洞 2002年8月撮影)

日本とは全く異なる気候と風土に圧倒され、ウイグルの人たちの人懐こさとイスラム文化に触れる文字通りの異文化体験で、強い印象を受けた。

        (ウイグルの人たち 2002年8月撮影)

ちなみに、敦煌に空路が開かれる以前、井上靖が初めて敦煌を訪れた1978年当時は、北京から空路蘭州へ、蘭州から夜行列車で18時間で酒泉に着き一泊、酒泉からジープで安西を経由して敦煌に入ったのは北京を出て5日目だったというから、その遠さが推し量られよう。

 

著者によると、シルクロードと敦煌への思いは中国人よりも日本人が強く、その理由は正倉院御物をはじめとして仏教の伝統が保存されていること、シルクロードの東の終着点として日本が世界とつながっていたという意識があったからだという。私も莫高窟やクチャの仏教遺跡を見学して、日本の仏教文化のルーツを感じたのは事実である。

 

残念ながらその後は中国政府のウイグルへの圧政と「一帯一路」政策でシルクロードは大きく変容しているが、いつの日か平和なシルクロードをまた訪れたいと願う。

 

なお、Kindle版には紙版にある口絵がないため、平山郁夫が初めて敦煌を訪れた印象を描いた敦煌全景と鳴沙山の名画などが見られない。改善を求めたい。

 

 

◎2021年4月26日『人新世の「資本論」 (集英社新書)』斎藤幸平

☆☆☆「脱成長コミュニズム」--気候変動に対してマルクス訓詁学が処方箋になるか?

国連SDGsは「大衆のアヘン」であり気候ケインズ主義は幻想である、気候危機を解決するためには帝国的生活様式を改めて脱成長をめざす必要があり、そのための唯一の方策は「脱成長コミュニズム」である、等々・・・。なんともはや大変なアジテーションであり、その気宇壮大さと資本主義を否定する蛮勇に敬意を表して星3つをつけたが、そのめざす具体的社会像とそこに至る道筋が説得的に提示されているとは到底いえない。

 

確かに気候変動は世界共通の大きな課題であり、それゆえに国連もSDGsに組んでいる。また、大量生産・大量消費型の現代資本主義文明とその生活スタイルに対する批判や、欧米先進国の環境保護のしわ寄せが第三世界の環境悪化をもたらすという批判にもうなずける点はあるし、グローバル資本主義の枠内で気候危機が解決できるかという疑問も理解できなくはない。

しかし、SDGsをバッサリ切り捨てて、脱成長コミュニズムしか展望がないという議論はあまりに性急である。

そこで、著者はマルクスの権威を持ち出し、大月書店版全集に含まれない晩年の研究ノートを引用する。曰く、マルクスは従前の生産力至上主義とヨーロッパ中心の進歩史観を否定し、ロシアのミールやゲルマンのマルク協同体といった前近代の共同体を肯定した云々。しかし、さすがにこれは牽強付会というものだ。マルクスはそれ以前の立場を否定したことはないし、研究ノートを何らかの成果として公表したわけでもない。

 

著者は「脱成長コミュニズム」の柱として、使用価値経済への転換、労働時間の短縮、画一的な分業の廃止、生産過程の民主化、エッセンシャル・ワークの重視の5点を挙げるが、その多くはこれまで労働運動や社会運動が取り組んできて実現できない困難な課題である。例えば、生産過程の民主化として、労働者が生産手段を共同管理し何をどうやって生産するかを民主的に意思決定するとか知的財産権の独占を禁止して社会全体の「コモン」(共有財)とするといったことが語られるが、グローバル資本主義の壁をどう打破してこれらを実現するのか? 著者はワーカーズコープなどの協同組合運動や介護労働者の運動を挙げているが、自動車産業やハイテク産業等の現代資本主義の基幹産業でそうした協同組合による自主管理が可能とは到底思えない。

さらに、著者は選挙や議会を通じた改革を「政治主義」として否定するが、現代資本主義との対決は不可避的に政治闘争とならざるをえないのであり、社会運動と政治闘争は表裏一体の車の両輪のはずである。著者は「石油メジャー、大銀行、そしてGAFAのようなデジタル・インフラの社会的所有こそが必要なのだ」として「革命的なコミュニズムへの転換」を主張するが、これがどれだけ困難な政治闘争と強大な権力を必要とするかはいうまでもない(これらの社会的所有や権力のあり方については何ら示されない)。その道筋が示されない限り、「脱成長コミュニズム」は革命の空想とロマン主義に止まらざるを得ないだろう。

 

 

◎2021年4月24日『ベルリン1945 はじめての春(上下 岩波少年文庫)』クラウス・コルドン

☆☆☆☆☆敗戦と占領 各人各様の「はじめての春」

1919年のドイツ革命を描いた第一部『赤い水兵』、1933年のナチス支配の確立を描いた第二部『壁を背にして』に続くこの第三部は、敗戦前夜のベルリン空襲からソ連軍との市街戦、戦後のソ連軍支配の6ヶ月間を描いている。第一部の主人公だったヘレの娘、12歳のエンネが第三部の主人公となっている。

 

第三部では敗戦と占領という極限状況の下で、様々な人たちの悲喜こもごもの思いと行動が描かれる。

主人公の家族はドイツ革命以来、共産党に近い立場でナチス支配に抵抗してきたが、迫り来る敗戦によるナチス支配の終焉を息を潜めるようにして待っている。ただ、主人公エンネはナチス支配の影響下で育ったためにヒトラーユーゲントに憧れつつ、徐々にその影響から脱していく。敗戦後に強制収容所から生還したヘレは共産主義の未来に希望を抱いているが、ナチスと変わらないスターリン独裁の実態を知って愕然とする。その他、前線から脱走してきた主人公のおじのハインツ、ナチス支配前夜にモスクワに亡命したがスターリン支配に幻滅して帰国した元「赤い水兵」ハイナー、地下抵抗運動(「Uボート」)を続けたユダヤ人女性ミーツェ(第二部の主人公ハンスの婚約者)が主人公の周辺に配される。

他方、かつてナチスとヒトラーを熱狂的に支持した人たちは、迫り来る敗戦を前に、多くの者はこんなはずではなかったという怨嗟を抱きつつ、ある者は変わり身早く抵抗者を装い、ある者は変化に対応できずに自死を選ぶ。ナチスの蛮行を知らなかったのだと弁明する人々に対し、ユダヤ人がつけさせられたダビデの星を示して、「真実を見たいと思えば見えたはずよ」と糾弾するミーツェの言葉は重い。

 

著者は長い「あとがき」で三部作の意図を詳しく解説しており(必読)、ベルリンの労働者家族を中心とした大河小説とすることで少数ながら抵抗した人々がいたこと、特に不当に無視されている初期の共産主義者の抵抗運動に光を当てたことを明らかにしている。彼らは敗戦までスターリン独裁の実態を知らず、かつ、その多くは戦後の東ドイツの独裁体制の下で迫害されたという。

青少年向けの小説としてはあまりに重い内容を含む三部作であるが、是非とも多くの青少年にチャレンジしてもらいたいと思う。

 

著者が最後に引用している、ニュルンベルク裁判におけるナチス元国家元帥ヘルマン・ゲーリングの言葉を紹介する。

「国民に参政権があろうとなかろうと、指導者の命令に従うよう仕向けることはいつでも可能だ。それは至極簡単なことだ。攻撃されたと国民に伝え、平和主義者のことを愛国心に欠けると非難し、平和主義者が国を危うくしていると主張すれば事はすむ。」

 

 

◎2021年4月21日『ベルリン1933 壁を背にして(上下 岩波少年文庫)』クラウス・コルドン

☆☆☆☆☆ナチスの台頭に左派はどう対抗したか

1919年のドイツ革命を描いた第1部『赤い水兵』に続く第2部は、ヒトラーが台頭して首相に就任する前後の1933年を描いている。第1部の主人公だった少年ヘレはドイツ共産党の活動家となっており、第1部では乳児だった「ハンス坊や」が第2部の主人公となっている。

世界恐慌後の不況と失業者の増大の中でナチスが台頭してくるわけだが、政権は曲がりなりにも左派の社会民主党が担っており、共産党も議会で多数の勢力を維持している。この状況でなぜナチスの独裁が可能となったのかについて、訳者の酒寄氏は以下の4つの理由を挙げている(要約)。

1.世界恐慌の経済危機と社会問題

2.大企業経営者とユンカー(土地貴族)の反ボルシェビズムと国家主義

3.左右の政党がいずれも非民主的思想で共同戦線を拒んだ

4.ヒトラーの危険な発言の過小評価

この小説では、主人公の一家は共産党に近い立場だが、スターリンの社会ファシズム主敵論に従い社会民主党との共同戦線を拒否する共産党指導部には批判的であり、他方、主人公の勤務先の上司は社会民主党だが共同戦線を求める良心的人物として配されている。

物語はナチスの台頭にもかかわらず内部対立を続ける左翼勢力にやきもきする主人公らをよそに、身近な友人らの中にもナチスの突撃隊に入隊者が続出し、突撃隊やヒトラーユーゲントの粗暴な行動が拡大していく当時の不気味で騒然とした社会状況が生々しく描かれる。家族や友人らが逮捕され、自らも突撃隊の暴力の被害を受けながら、主人公らは抵抗を模索していくのだが・・・。

著者はこうした主人公らの行動を描くことで、当時の絶望的な状況の中でも抵抗運動をを続けた人々がいたことを書き留めたかったのである。

 

なお、ヒトラー独裁への道を開いた国会議事堂放火事件について、従来はナチスの謀略と言われていたが、原注で著者は、ナチスが犯人という証拠はなくオランダ人共産主義者の単独犯であったという警察の認定を支持している。これも苦い事実であるが、歴史の教訓とされるべきであろう。

 

 

◎2021年4月18日『ベルリン1919 赤い水兵(上下 岩波少年文庫)』クラウス・コルドン

☆☆☆☆☆少年の目から見た「革命と反革命」

第一次世界大戦後のドイツ帝国の崩壊と革命の経過を、少年の目から描いた小説である。

岩波少年文庫に収められているが、一般の読者にも十分読みごたえのある作品と言える。

第一次大戦後のドイツについては敗戦後の極度の貧困と莫大な賠償金による天文学的なインフレ、その混乱の中でナチスが台頭してきたことはよく知られているが、1919年のドイツ革命についてはほとんど知られていない。本書の原題は「赤い水兵または忘れられた冬」と記載されているが、実はドイツにおいても忘れられた革命なのだという。その理由は、左派のスパルタクス団を武力で弾圧し、その指導者であるカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクを惨殺した社会民主党政権の今なお触れられたくない過去であるとともに、左派の後継とされた旧東ドイツの独裁政権の苦い経験によるものだろう。

著者は旧東ドイツ出身で西ドイツに亡命した過去を持つが、ドイツ革命が目指したものを再評価しつつ、その後のナチス台頭に至る歴史を考える三部作の第一部として本書を書いたのである。

 

キール軍港の水兵の反乱に始まったドイツ革命は、皇帝を退位させ臨時政府を樹立したが、エーベルト率いる社会民主党は左派スパルタクス団の急進的な要求を抑え、デモや大衆闘争を武力で鎮圧しようとして一進一退のせめぎ合いが繰り広げられる。本書では左派の労働者家族と反乱に加わった水兵らが、主人公である少年との関わり合いの中で生き生きと描かれ、その中で少年自身のハラハラする冒険のエピソードや、仲間の友人たちと学校教師たちの様々な立場からの対応も描かれる。

なんといっても戦争による当時の貧困がすさまじく、特に子供たちは飢えによる栄養失調と病気にあえいでいる。

左派によるデモや大衆闘争はこうした貧困への反発と生活改善を求める参加者で膨れあがるが、当然ながら参加者の多くが社会主義革命を目指していたわけではない。左派が急進的な要求を掲げて行動を先鋭化すると運動参加者の気持ちは離反して孤立化し、政権側の「秩序と安定」プロパガンダと武力による反革命を許す苦い結果となってしまう。

 

これは何も過去のドイツ革命だけの問題ではない。

現在進行しているミャンマーの軍事クーデタに対する反対闘争、香港の民主化運動、少し前の「アラブの春」の政治革命、東欧民主化運動等々、これらはいずれも闘争と弾圧、革命と反革命の同じようなせめぎ合いをたどり、その多くが目指した理想を実現できず、幻滅と反動を許してしまっている。

運動の成否は組織的団結の強さ、方針の的確さ、指揮陣の力量、周辺国の支援等々の様々なファクターで決するが、武力と財力と官僚組織を有する政治権力を倒し、かつ新たに社会を建設するのが困難な課題であることは言うまでもない。

 

 

◎2021年4月13日『病の「皇帝」がんに挑む 人類4000年の苦闘(下)』シッダールタ・ムカージー

☆☆☆☆☆がんの予防と分子標的治療 長い苦闘を経て光明が・・・

上巻では、ガレノスの黒胆汁説からハルステッドの根治手術治療、さらには毒をもって毒を制する式の強力な化学療法の長い苦闘が描かれたが、下巻では置き去りにされていたがん予防の発展と分子生物学の発展に伴うがん遺伝子を標的とした治療法の光明が描かれる。

 

がん予防ではなんといってもたばことがんのエピソードが圧巻である。比較的早い時期からたばこの発がん性は指摘され科学的証拠も積み重ねられていたのに、巨大なたばこ産業の妨害と長年にわたって全社会的に形成されてきた喫煙の習慣が、予防策の発展を阻んできた。これを打破するきっかけとなったのはやはりアメリカにおけるたばこ訴訟であり、とりわけ訴訟の過程でたばこ会社の内部文書が証拠開示され、企業がたばこの危険性を十分認識しながらそれを隠蔽していた事実が曝露されたことによる。まさに訴訟社会アメリカならではのダイナミズムが発揮されたものといえる。

とはいえ、たばこ産業は第三世界に活路を見いだし、政治家と結びついてマーケットを拡大しているというから問題は解決していない。

 

他方、分子生物学の発展は、がんウイルス説から人体を形成する遺伝子本体へと解明を進め、がん遺伝子(src)とがん抑制遺伝子の発見に至る。そして、がん細胞のゲノムの解析から遺伝子を標的とした治療薬の開発が始まるのである。その結果、ある種の乳がんや白血病などは特異的な治療薬の開発により大きな成果を挙げるが、患者は治療薬を飲み続けなければならず、かつがん遺伝子が変異して治療薬耐性を獲得すれば再発する。さらに新たな治療薬の開発が繰り返されイタチごっことなるわけだが、長き苦闘の末の成果であることに変わりはない。

 

このように下巻は20世紀後半の生物学と治療の進展を反映しており、記述はやや専門的にわたるが、巻末に用語解説が付されているのは親切である。

 

なお、第4部のB型肝炎ウイルスに触れた箇所で言及される「日本人研究者(大河内一雄と村上正三ら)」のうち後者は「村上省三」(読みは「むらかみせいぞう」)の誤記である。また、第6部で「ジミーは・・・小児がん患者のイコン的存在」というときの「イコン」(icon 聖像)は、誤訳ではないが通常は「アイコン」と記載すべきところであろう。

 

 

◎2021年4月8日『病の「皇帝」がんに挑む 人類4000年の苦闘(上)』シッダールタ・ムカージー

☆☆☆☆☆患者とその家族に語る「がんの伝記」

著者はがん治療に携わる臨床医であり、巻末の著者へのインタビューによると、本書は化学療法後にがんが再発した患者から受けた質問に対して、「がんの起源にさかのぼり、歴史をとおしてがんという病気の姿がどのように変化してきたかを描き出す」ことで答えた「がんの伝記」なのだという。

そのため、専門家ではなく患者やその家族を念頭に置いたわかりやすい内容となっており、がんの治療や研究に携わったキーマンの人物像やエピソードを饒舌すぎるほど語る読み物となっている。

 

上巻ではがん治療の歴史が語られるが、印象的なのは古代ギリシャの医学の父ヒポクラテスの「見えないところにあるがんは治療しないほうがよい。治療をすると死期が早まり、何もしないほうがより長く生きるから」という言葉(著者は「深遠な見解」と評している)と、これを発展させた古代ローマの医師ガレノスの黒胆汁説である。これらは今日的に言えば転移性がんの外科的処置を戒めるものであるが、古代の臨床家の病気に対する洞察力と患者本位の姿勢を感じさせるものであり、これが中世まで長らく影響を与えたことで著者は「未来のがん患者を救った」とする。

 

しかしその後、近代外科学の発達によりがんは手術によって治療するのが主流となり、それがハルステッドの乳がん根治手術で頂点に達する。周知のとおりこれは腫瘍のみならず周辺のリンパ節や肋骨や鎖骨まで取り去る過激なものであり、患者の身体や生活に与える影響は甚大である。これが長らくがん治療の主流を占めるが、結局は転移性がんは再発し、局部のみの切除(温存療法)と治療効果は変わらないとされるに至る。手術も放射線も局所のみの治療だからである。

その意味で、ガレノスの黒胆汁説が克服されるのは20世紀の化学療法の発展を待たなければならなかったのである(ハルステッドの外科的根治療法はがんの「根治」をめざした点では正しかったが、外科手術で根治することはできなかったと総括される)。

 

*下巻レビューへ続く

 

 

◎2021年4月5日『さよなら朝日』石川智也

☆☆☆リベラルのめざす価値が見据えられているか?

『論座』に掲載した論文に自ら解題をつけ、井上達夫氏らへの長いインタビューを併せて出版した本である。「さよなら朝日」という挑発的な表題で、第四章の「原発と科学報道」などは過去の原発推進報道が厳しく自己批判されている。しかし、その他の章、特に「リベラル最大の矛盾」として批判されている憲法9条、沖縄、天皇については首をかしげる部分が多い。

 

例えば、憲法9条の解釈と自衛隊の存在が戦後日本のアポリアであることは周知の事実であり、理論的観点から改憲反対派を批判して「立憲的改憲論」を唱えるのは簡単なことだろう。しかし、問題は現実政治の力関係と世論の動向を踏まえて、今どのような政治的主張と運動をすべきかなのである。頭の中だけの理論で正義を主張するのはナイーブにすぎる。現実政治は徹頭徹尾冷徹なプラグマティズムであり、リベラル勢力はそのめざす価値に近づけるかどうか、あるいは価値を損なう度合いがより少ないかどうかで政治決定しなければならない。抵抗手段として、バカバカしく見えても牛歩戦術をとったり議会の欠席や棄権をとらざるをえないこともあるし、ダブルスタンダードの批判をあえて甘受すべき場合すらあろう。

では、リベラルがめざすべき価値とは何か。憲法的価値でいえば個人の尊厳であり、その系として人権と自由等の価値がある。これに対し、著者や井上氏は形式的な「正義」を対置する(井上氏はカントの定言命法のように「普遍化不可能な差別は禁止せよ」という)。その正義を貫いた結果、政治的に敗北して個人の尊厳が侵され、人権と自由、あるいは平和主義が損なわれてもかまわないようだ。

 

クオータ制批判についても同様のことがいえる。現在の女性クオータ制は女性枠を人口比に応じて半数割り当てるというものではなく、例えば2割とか3割以上といったものである。あくまでも現実に存在する男女差別を是正する経過的措置として提案され支持されているのであって、男女の差異を固定化して差別化を図るものではない。しかし、ここでも平等実現のためのプラグマティックな政策に対して、形式的な「正義」の観点から批判がなされる。

 

「天皇と戦争責任」の章はさらに不可解である。そもそも天皇に対する自由な言論を許さない構造をつくったのは、リベラルではなく著者の属するジャーナリズムである。著者は平成から令和への代替わり儀式を例として挙げているが、昭和天皇の死去から大喪、その後の即位の礼・大嘗祭についてリベラル勢力は国会でかなり議論を提起したうえ、全国5地裁で違憲訴訟を提起し、敗訴したとはいえ大阪高裁では国民主権と政教分離原則に違反する疑いが指摘された(平成天皇の生前退位は昭和天皇死去と大喪がもたらした国民主権との葛藤の再現を回避するものであり、秋篠宮の大嘗祭に関する発言は違憲訴訟を踏まえたものという複眼的評価も必要であろう)。

また、熱海にあるA級戦犯追悼施設や浅沼稲次郎刺殺犯、あるいは三島由紀夫をこの章で取り上げる意図もよくわからない。著者は神道理論家の葦津珍彦の「政治と暴力の不可分性」という議論を引用し、言論の閉塞状況がテロを生むと言いたいようだが、気に入らない言論を暴力的に圧殺することこそが問題なのではないか。やはり個人の尊厳、人権、自由といった価値を真正面に据えないから、暴力それ自体を批判できないのである。赤報隊のテロの被害を受けた朝日の記者がこの程度の「政治と暴力」論でいいわけがない。

 

 

◎2021年4月1日『行政法NBS 日評ベーシック・シリーズ』下山憲治

☆☆☆☆☆コンパクトに行政法の全体像を概観できる

Kindle版で利用したが、目次が細かくつけてジャンプできるようになっていて、全体像を概観するのにも各項目を確認するのにも使いやすい。ただし、Kindle版では事項索引と判例索引は項目だけで頁がなく、該当頁にジャンプできるようにもなっていない。

分量はコンパクトだが、最高裁判例だけでなく下級審も重要な裁判例は引用してあり、さらなる学習に役立つように配慮されている。

特に、建築基準法などのよく使用する行政法規を例にとって解説してあるのはわかりやすい。

また、各節ごとに課題が置かれており、学習内容の確認ができるようになっている。

 

初学者の入門用だけでなく、実務家が知識を整理したり確認したりするのにも利用できると思う。

 

 

◎2021年3月27日『貿易の世界史 ―大航海時代から「一帯一路」まで』福田邦夫

☆☆☆大航海時代以降の黒歴史を描くが、その出口は・・・

「貿易の世界史」といっても、大航海時代以降の西欧中心史観である。

前近代に目をやれば、シルクロードの東西交易、ローマ帝国やイスラム世界の地中海交易、さらには中世のハンザ同盟のような都市交易もあるのだが、それらは一切触れられていない。

大航海時代以降を特徴付けるのは西欧諸国の圧倒的な軍事力と科学技術であり、産業革命以降は大量生産による商工業の圧倒的力も加わる。当然、西欧諸国とそれ以外の貿易は不平等不均衡なものとなる。

 

本書では、植民地の拡大やアメリカのフロンティア西漸運動の影の部分として新大陸原住民の殺戮や疫病死、アフリカからの大量の奴隷貿易、さらにはアメリカの黒人差別の黒歴史が詳しく語られるが、世界史に興味がある人ならどれも周知の事実ばかりである。

確かに、今日の人道主義の観点では到底容認できない大量殺戮と人身売買、人種差別の黒歴史であり、世界史の知識として知っておくべきことであるが、そうした歴史の影の部分の上に現代世界が築かれていることを踏まえた展望と指針を指し示すべきなのではないか。

 

著者は冒頭から「貿易は双方に利益をもたらすものか」と問題提起し、それを否定する方向で議論を展開する。

確かに自由貿易は強者の論理であり、自国産業保護育成のための保護貿易政策も否定すべきではなかろう。しかし、前近代を含めた世界史全般を見渡すと、交易が歴史発展の重要な契機であったことは明らかである。また、保護貿易やブロック経済は国家間の対立と戦争の原因となる。

さらに、著者は現代の多国籍企業は国家の枠を超えて活動し、新自由主義の下で貿易よりも投資と金融ギャンブルによる収益が上回るというが、著者はこれに対して「保護貿易は悪なのか」というだけでその具体的な処方箋を示すわけではない(トランプのアメリカ第一主義は保護貿易ではない)。

要するに、出口の全く見えない議論というほかない。

 

むしろ貿易を活発化して相互利益を図るための環境整備とルール作りこそが求められるはずである。

 

 

◎2021年3月24日『晩年のカント (講談社現代新書)』中島義道

☆☆☆☆啓蒙主義者カントの孤高の闘い

『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三大批判書を書いて批判哲学を完成させたカントのその後の晩年までの活動と生活を描きつつ、著者自身のエピソードや哲学への思いをエッセイ風に書いた著作である。

著者の関心は大哲学者カントの「晩年」の老い方から、さらには哲学者一般の晩年のあり方にあるようだが、私が本書を読んで感動したのは、啓蒙の申し子であるカントの面目躍如たる合理主義と理性崇拝の貫徹ぶりである。

 

カントは、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルへと連なるドイツ観念論の起点をなす哲学者として有名だが、他方、「啓蒙の世紀」(Siècle des Lumières)を総括する位置に立つ思想家であり、自らも『啓蒙とは何か』という小著を著し、(本書でも紹介されているが)自宅の簡素な部屋にルソーの肖像画だけを飾っていたというのは知る人ぞ知る有名なエピソードである。

本書ではカントの宗教論『たんなる理性の限界内における宗教』が官憲の検閲にかかり、国王から厳しい咎め立ての手紙まで送られたカントが、面従腹背で申し訳程度の弁明書を送り、国王死後は大胆にもその手紙のやりとりも公開して事実上反旗を翻す経緯が詳しく描かれている。カントは無神論者ではないが、理性の限界を超えた奇跡や啓示を否定し、原罪も聖書の物語も真実であると認めない(ルソー『エミール』の「サヴォアの助任司祭の信仰告白」にカントが心酔していたことを想起する)。官憲との衝突は当然と言えば当然である。

なお、著者はカントの面従腹背を「保身」と評し、ソクラテスの刑死と比較しているが、後者はアテネの民主制を攻撃し有力者たちを例の対話法(「無知の知」!)で次々とやり込めて嘲笑した、いわば確信犯的政治犯であり、問題の次元が違うように思う。

本書では近年国際政治において注目されている『永遠平和論』にも、宗教論の文脈からアプローチしている。すなわち、『永遠平和論』は宗教論が発禁処分を受けた後に書かれたものであり、「道徳と政治の不一致」にもかかわらず永遠平和は決して空虚な理念ではなく、目標に絶えず近づいていく課題であるという哲学者の勝利宣言なのである。

『学部の争い』というカントとしては奇妙な表題の論文も、この文脈に位置づけられていて興味深い。中世以来のスコラ学の伝統か、当時のケーニヒスベルク大学は神学部、法学部、医学部が上級学部でカントの所属する哲学部は下級学部だったというが、この論文でカントは上記の宗教論に関する経緯を序文で公表したうえ、政府のために「有用性」を約束する上級学部(特に神学部)を、真理のみに従う哲学部が制御すると高らかに述べるのである。著者はこれを宗教論への干渉に対するカントの復讐であるとする。

 

その他、カントが晩年に書いた『人倫の形而上学』などについても言及されているほか、哲学者である著者自身の哲学一般と他の哲学者らに対する様々な思いが綴られているが、これらはカントや著者個人に興味がある人には面白いだろう。

 

 

◎2021年3月20日『新版 「生きるに値しない命」とは誰のことか -ナチス安楽死思想の原典からの考察(中公選書)』森下直貴他

☆☆☆☆☆法学者と医学者の安楽死論=優生思想との対決

1920年にドイツで出版され、ナチスが障害者抹殺政策の論拠とした安楽死推進論を全訳し、その批判的解説を試みた小論である。

翻訳された論文は法学者ビンディングと医学者ホッヘによる『「生きるに値しない命」を終わらせる行為の解禁』≫Die Freigabe der Vernichtung lebensunwerten Lebens≪であるが、表題から推測できるとおり「生きる価値のない命」の類型とその否定をあけすけに論じている。法学者からは意思主義・個人主義、医学者からは治療可能性のそれぞれの観点で論じているが、学術論文であるがゆえにオブラートに包まず露骨かつときに攻撃的な論調もあり、読んでいて気分が悪くなる。「第1グループ」とされる瀕死の重傷や重病で確実な死に直面した者に対しては同意と自己決定による正当化がなされるが、「第2グループ」とされる重度精神障害者に対してはそのような正当化すら全くなく、当然のごとく生きる価値がなく「社会の厄介者」であるとして生の否定が帰結される(なお、Vernichtungを本書では「終わらせる行為」と訳しているが、本来は「破壊」や「根絶」といった能動的で強いニュアンスの言葉である)。

しかしながら、この論文は何もナチス時代の過去のものではない。現代の安楽死・尊厳死法制化運動や相模原の障害者大量殺人事件の背景となる優生思想が、これ以上ないほど明瞭に語られているのである。その身近な例として、本書では橋田壽賀子の著書『安楽死で死なせてください』が俎上に上げられている。

 

この優生思想に対し著者らはどのように対決していくのか。

森下氏によれば、優生思想の根源には社会集団における能力差別の理論があり、それを乗り越える必要があるという。そして、人間の活動の本質は相互的コミュニケーションにあるとし、「できる」ことだけでなく「できない」こともコミュニケーションであると論じる。具体的には、どんなに無様でも老い抜く姿を見せること、あるいは障害で寝たきりの姿を見せることも、他者とのコミュニケーションで世代をつなぐ役割を果たすことになるというのである。

ちなみに、私の母親も90歳を超えて認知症のグループホームにいるが、朗らかな態度が他の入所者や職員を和ませているし、定期的に会いに行く家族にとってはほとんど会話は通じなくても存在それ自体が心の支えになっている。コミュニケーションという観点からは、認知症の高齢者や知的障害者を人里離れた施設に隔離するのではなく、やはり地域での共生をめざすべきなのである。

 

個人の意識を中心とした近代主体主義から、こうしたコミュニケーション倫理に人間観を転換できるかどうか?

 

 

◎2021年3月19日『ロッテを創った男 重光武雄論』松崎隆司

☆☆☆日韓を股にかけたワンマン創業者の一代記

日本ではチューインガムやチョコレートでおなじみのロッテだが、韓国では5本の指に入る財閥であり、ロッテホテルやロッテワールドを世界的に展開している。

この大企業を一代で築き上げた創業者重光武雄氏が在日1世の韓国人であることは有名だが、その伝記である以上、日本統治時代から戦後の日韓国交回復に至る苦難の歴史、また韓国の軍事独裁政権時代からその後の民主化時代に至る激動の時代の日韓関係が政治経済交流の裏面を含め詳しく描かれていることを期待して本書を読んだ。

しかし、日韓関係と重光氏の関わりについてはロッテの社史等の公刊物によるものと思われ、残念ながら通り一遍の表面的なものだった。重光氏が民団の活動を支援していたこと、朴正熙大統領からは韓国進出を要請されながら2度にわたる裏切りにあったこと、岸信介元首相をはじめとした日本の政治家と親交を結び(1997年の釜山ロッテワールドの開館式に中曽根・竹下元首相らがテープカットに参列した写真が掲載されている)、「日韓関係の黒幕的イメージ」を持たれていたことなどが触れられているが、重光氏がどのようにして日韓の政界に食い込み、またどのような役割を具体的に果たしたのかがほとんどわからない。

 

とはいえ、重光氏の個人史とロッテの発展史という点では、社史等の情報が1冊にまとめられていて興味深く読めるだろう。戦後まもなく起業し、焼け跡時代の「本源的蓄積」を経て、ガムやチョコレートの菓子でトップ企業に上り詰める一方、在日のハンデを逆に活用して、日本で築いた資本を元に韓国で財閥を育成した重光氏のダイナミックでバイタリティあふれる一代記は読み物として面白い。ちなみに、重光氏は文学青年であり、ロッテの社名はゲーテの『若きウェルテルの悩み』のヒロインであるシャルロッテにちなんだという。

現在、ロッテの企業規模は韓国のほうがはるかに大きく、売上高で日本の20倍にもなるらしいが、御多分に漏れず韓国の現政権の下で財閥の不正追及の対象とされ、重光氏とその家族も刑事責任を問われた。後継者争いも起きており、ワンマン創業者の死後、日韓のロッテがどのような道を歩むのかは不透明である。

 

 

◎2021年3月17日『ルポ「命の選別」 誰が弱者を切り捨てるのか?』千葉紀和他

☆☆☆☆☆今そこにある「優生思想」

重い課題を突きつけるルポルタージュである。

「優生思想」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。ナチスの障害者抹殺政策、ハンセン病患者強制隔離と断種・堕胎の根絶政策、さらには近年問題となった精神障害者の不妊手術といったところだろうか。

ナチスはともかく、ハンセン病患者と精神障害者については現憲法の下で制定された旧優生保護法によって長年堂々と行われていたのであり、法律を通した国会議員はもちろん、医療関係者や当事者の家族らもこれを是認して受け入れていた。つまり、優生思想は過去のことでも他人事でもまったくないのである。

 

このルポでは優生思想に関わる最先端の問題が次々と取り上げられていく。

1.新型出生前診断(NIPT) 不妊治療や高齢出産の不安につけこみ、簡易な出生前診断で遺伝上の問題の有無を診断するビジネスが取り上げられる。「自己決定」とはいうものの、陽性と診断された場合はほとんどが中絶を選択することから、「命の選別」と批判される。

2.精神障害者グループホームの建設反対運動 反対運動を起こす住民らは「精神障害者は危険」という典型的な偏見で運動を始めるが、やがて「事前説明がない」という手続論を援用する。しかし、障害者基本法は障害者の地域での共生を基本としており、事前説明を要求すること自体が障害者差別にあたる。

3.障害のある子の「社会的入院」 親に養育力がなかったり虐待があったりといった理由で多数の障害のある子らが病院から退院できない。さらに、社会的地位のある親まで障害のある子を引き取らなかったり、重い障害の治療を拒否して病院と対立する例もあるという。

4.ゲノム編集の遺伝子改変 遺伝病治療の名の下に体外受精卵や精子、卵子のゲノム編集の是非が問題となっている。遺伝子改変は後の世代への影響があるうえ、遺伝子操作による「デザイナーベビー」づくりにまでつながりかねない。まさに優生技術そのものである。

5.受精卵診断 1の出生前診断同様の問題が着床前の受精卵診断でホットに議論されている。ここでも優生思想と商業主義が遺伝子レベルで問われるのである。

6.相模原殺傷事件 入所者19人を殺害した衝撃的な「津久井やまゆり園事件」の犯人は同施設の元職員だった。本書では犯人の特異性という視点ではなく、多数の入所者を隔離する「ノーマライゼーション」に反する古いタイプの施設の問題点と、入所者に寄り添わない介護レベルの低さ、入所者を監禁して身体拘束する虐待といった問題点を事件の背景としてえぐり出す。

7.コロナ禍で医療崩壊に備えるとして、人工呼吸器等の治療の優先順位が議論されている。高齢者が集中治療を若者に譲る意思表示カードも登場したという。しかし、これはまさに命に優先順位をつけることであり、とても美談とはいえない。高齢者のみならず障害者等の医療差別もすぐその先にある。

 

以上のように、「今そこにある優生思想」はいずれもホットでかつ重い問題であり、一刀両断に結論が出せないものも多い。

しかし、こうした問題の存在をまず認識して考えることが重要である。健常者である多数者が見たくないものから目を背け、障害者が存在しないかのごとく振る舞う。それこそが優生思想の温床だからだ。

 

 

◎2021年3月9日『李光洙―韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』波田野節子

☆☆☆☆☆「民族のための親日」 触れられたくない過去を抉る苦渋に満ちた伝記

李光洙の初期の傑作である「無情」を読んだので(レビュー済み)、この伝記も読んでみた。

日清日露戦争後、日本の事実上保護国化から日韓合併へ至る朝鮮の歴史は実は表面的にしか学ばないし、朝鮮側から見た日本の統治政策の変遷や朝鮮側の独立運動の紆余曲折を学ぶことはさらにない。本書は朝鮮の知識階層、特に学生層がどのように思考し行動したかを教えてくれ、今なお「積弊清算」として親日派の断罪が続く朝鮮近現代史理解の一助になるだろう。

 

李光洙は早熟の秀才として注目され、早くから独立運動に関わるが、そのスタンスは「修養」という言葉に示されるように実力闘争ではなく遅れた朝鮮の文化改革と国民の啓蒙を主眼としたものであった。いわば穏健派である。

ところが、時代はそうした穏健派の存在を独立運動側も日本側も許さず、やがて李光洙は特高警察に検挙されて転向声明を強いられ、内鮮一体の統治政策に協力するに至る。

その過程は苦渋に満ちたものであり無残というほかないが、李光洙自身は、日本の統治が長く続くとの見込みの下で、内鮮一体を逆用して朝鮮民族が頭角を現して独立を達成すると本気で考えたという。日本の敗戦による「解放」後、李光洙は「民族のため」の親日行動だったと弁明した。

 

本書の著者もあとがきで「最初は李光洙の生涯の後半を書く自信がなくてお断りした」と書いているが、まさに李光洙だけでなく研究者である著者も触れたくない苦渋の過去なのである。しかし、実はこれは李光洙だけの話ではない。本書にも触れられている日本文学報国会の日本人文学者の面々、大政翼賛会文化部長だった岸田國士はいうまでもなく菊池寛や佐藤春夫ら多数の作家も日本の軍部に協力し「大東亜戦争」を賛美した触れられたくない過去を持つ。日本統治下の朝鮮知識人の苦渋の立場はさらに推し量られるだろう。

こうした触れられたくない過去を赤裸々に描いて、一人の朝鮮知識人が時代に翻弄された苦悩を描いたことに本書の意義があると思う。

 

ちなみに、ナチスドイツと知識人についても、積極的に協力した哲学者ハイデガー、心ならずも利用された指揮者フルトヴェングラー、国外にとどまって批判を続けたトーマス・マンなどを想起すればよい。各人の思想や置かれた立場でスタンスは異なるがゆえに、後世からの評価や断罪は軽々しくできるものではない。

 

 

◎2021年3月6日『無情』李光洙

☆☆☆☆☆日本統治下の朝鮮インテリゲンチャの自我と苦悩を描く本格心理小説

1910年代、日本統治下の朝鮮を舞台にした読みごたえのある本格的心理小説である。

登場人物は、幼くして両親を喪いながら運よく東京留学して教員となった李亨植、その恩人の両班の娘で恩人が無実で入獄したのを救うために妓生となった朴英采、資産家のクリスチャンの娘で亨植の婚約者となる金善馨の3名が中心で、その家族や友人らが周辺に配される。

物語は、亨植の下宿を少女時代以来音信がなかった英采が訪ねてくるところからドラマチックに展開する。英采はそれまでの苦難を語りだすが、妓生となって以降の核心部分は語れず、亨植は英采に対する愛しさと妓生への差別感情の狭間で苦しむ。その後、英采は亨植への遺書を残して出奔してしまい、亨植は家庭教師をしていた善馨と婚約して善馨とともに米国留学することになるが、やがて善馨は英采のことを知るに至り、亨植に対し愛憎入り混じった複雑な感情を抱く。

こうした主人公3人の複雑な心理の絡みと、行きつ戻りつする感情の揺れ動きが濃密な心理劇として描かれており、著者の作家としての力量を感じさせる。古い価値観にとらわれた未熟な青年たちの自我が揺さぶられ、個人としての自律精神が確立されていく、いわば近代的な教養小説Bildungsromanとして読むこともできる。

 

日本統治下の朝鮮を舞台にしてはいるが、ソウルや平壌の市民生活や学校教育の様子は生き生きと描かれており、当時の様子を知るうえで興味深い。日本への批判や抵抗の色彩は周到に抑えられている。これは検閲を意識したこともあろうが、むしろ著者の問題意識は朝鮮民衆の意識の遅れを改革する教育と啓蒙に向けられている。主人公が教員であり、米国留学の目的も教育の研究にあるとされるのもそのあらわれである。

 

小説の末尾に著者の苦悩を裏返した希望が語られているので、引用しておく。

「ああ、我らが地は日ましに美しくなっていく。我らの弱よわしかった腕には日ましに力がつき、我らの暗かった 精神には日ましに光が差していく。我らはついには他の人たちのように光り輝くであろう。そうなればなるほど、我らにはさらなる力が必要であり、さらなる大人物 ──大学者、大教育家、大実業家、大芸術家、大発明家、大宗教家が現われねばならない。もっと数多く現われねばならない。」

 

 

◎2021年2月23日『堕ちたバンカー ~國重惇史の告白~』児玉博

☆☆☆平和相互銀行合併をめぐる暗闘メモは史料的価値があるが・・・

バブル時代に住友銀行のMOF担(大蔵省担当)として活躍し、一時は頭取候補と目された?という國重惇史氏を主人公にしたノンフィクションである。

 

本書の大部分は、著者が國重氏から入手したという平和相互銀行合併に関するメモを日時を追って忠実に再現したものである。もちろん差し障りのある個人名は伏せられているし、手書きメモを読みやすく文章化したと思われるが、竹下蔵相や青木秘書、磯田頭取をはじめ政官財の主要な登場人物は実名で登場し、その発言が記録されているので、生々しい史料としての価値はあるだろう。特に、大銀行の合併工作に大蔵省、日銀のみならず政界トップや検察庁まで巻き込まれていたことには驚かされる。

しかし、こうした國重メモを再現して羅列し、ところどころ解説的なコメントがつけられているだけで、その背景や周辺を取材で膨らませることがないので、読んでいて平板で物足りない。

また、不可解な事件として印象に残っている金屏風事件が、株の買い戻しに奔走する平和相互銀行トップが画商にまんまと騙されただけで、政界への資金還流はなかったとされているが、もう少し突っ込んだ取材がほしかったところである。

國重氏が名を馳せたというイトマン事件についても、大方が知っている事実が書かれているだけで、ページ数も内容も薄いし、楽天証券時代のこともさらっと書かれているだけである。

 

なお、「墜ちたバンカー」という表題で現在の國重氏の落魄した姿が繰り返し描かれているが、その人生軌跡や人物像が主題というわけでもなく、「あの人は今」的な興味本位な扱いであり、なくもがなな印象を受けた。

 

 

◎2021年2月17日『ルポ 入管』平野雄吾

☆☆☆☆☆ハンセン病患者強制隔離と「重監房」の悪夢が繰り返される入管行政

憲法は身柄拘束と刑罰に対し31条以下で適正手続と罪刑法定主義を厳格に定めており、逮捕・勾留には裁判所の司法審査が必要となる。

ところが、刑事手続ではなく行政手続として司法審査なしで身柄拘束が行われ、「懲罰」までなされることがある。国賠訴訟で違憲判決が下されたハンセン病強制隔離政策は有名だが、隔離された各療養所には「監房」が設けられ、規律に従わない患者らを療養所長の裁量で監房に監禁する懲罰が行われた。本書のあとがきで触れられているように、その最たるものが群馬県草津の療養所内に設けられた「重監房」であり、全国から送られた多数の患者らが厳冬期の過酷な監禁で命を落とした。

この悪夢が入管行政で現在でも残っているどころか、東京オリンピックを機に不法在留者を一掃するという名目で強化されているというのだから驚く。いわば東京オリンピックの影の部分であり、基本的人権の存在しないブラック行政である。

しかし、憲法31条以下の基本的人権は「何人も」と明記されており、外国人にも保障されている。だから、犯罪を犯した外国人も日本国民同様、適正手続と罪刑法定主義の適用を受ける。ところが、刑罰ではなく「強制送還のため」という理由で入管では司法審査なしで身柄を拘束し、送還に応じないあるいは送還できない外国人を何年も収容する。中には収容期間が8年にも及ぶ者までいるという。刑罰なら刑期が定められるが、入管の収容は無期限である。かつては「仮放免」の柔軟な運用で収容の長期化は避けられたが、オリンピックを機に仮放免は簡単には認められなくなった。当然、収容された外国人らからは抗議がなされるが、これに対する懲罰がハンセン病患者同様に行われている。監禁だけでなく職員の制圧により傷害を受ける例も増えている。また、長期の収容で体調を悪くし、病気を訴えても医療を受けさせない。目の前で苦しんでのたうち回る収容者を放置して死亡させ、裁判になったケースもある。入管は「詐病」と思ったと弁解しているが、職員は自分の家族が苦しんでいても放置するのだろうか? 

驚くべき人権感覚の鈍磨であり、外国人を同じ人間と思わない差別の構造というほかない。

 

本書は入管の人権無視の告発であり、渾身のルポである。ページをめくって読むのがつらくなるほどだが、多くの人が実態を知るべきである。

もちろん、移民問題はEUやアメリカでも問題となっており、不法入国や不法在留は難しい問題である。しかし、戦争や圧政から逃れる難民の受け入れは日本も加入する難民条約上の義務であり、また、難民かどうかを問わず外国人も人間として尊重され、その権利が保障されなければならない(なお、本書で問題視されている最高裁のマクリーン判決は難民条約等の国際人権法を踏まえて見直されるべきであるが、この判決は在留期間更新に関する法務大臣の裁量を認めたものであって、身柄拘束に関する広範な裁量を認めたものではない)。

入管行政は憲法の番外地ではなく、当然ながら憲法に基づく必要があるのである。

 

 

◎2021年2月4日『古典和歌入門』渡部泰明

☆☆☆☆☆和歌の魅力、味わい方を伝える好著

同じ著者の近著『和歌史』(レビュー済み)を読んでから、こちらも読んでみた。

『和歌史』では、額田王から香川景樹まで時代順に歌人ごとに章立てて記載されているが、こちらは四季(春夏秋冬)、恋、雑(賀、旅、死、世の中)、祈り(神、仏、祈り)と項目を立てて、各項目にふさわしい和歌を紹介している。たくさんの歌人が登場するが、時代順ではないので、読者は各歌人の時代背景に注意しながら読み進む必要がある。

和歌とは「社会的な詩」であり理想への思い、すなわち「祈り」を表現するものだという『和歌史』の視点は、本書にも貫かれている。

 

本書はジュニア新書版ということで文法や古語の解説も親切につけてあり、古文の知識を忘れてしまった読者にとってはとてもありがたい。

ただし、和歌の解釈はさすがに深く、著者の研究成果が随所に発揮されており、ジュニア版といっても十分に読みごたえがある。

和歌は少ない言葉の中に本歌取りや掛詞などの技巧を凝らして意味を膨らませ、感情を読み込んでいくのだが、さらに、どのような立場の人物がどのような状況で読んだかも解釈の重要な要素となるわけだから、膨大な注釈書が多数存在するわけである。その点で、中高生のみならず一般の読者にとっても、本書はコンパクトでわかりやすく和歌の魅力と味わい方を伝える好著と言える。

 

 

2021131日『 Law Practice 民事訴訟法〔第3版〕』山本和彦編著

☆☆☆☆☆民訴は「眠素」ではなくエキサイティング

民事訴訟法の自学自修用の事例演習教材である。

著者の「はしがき」にも民訴は「眠素」と言われると書いてあるが、この語呂合わせはいつ頃誰がつくったのかわからないほど昔から有名である。

実際、民事訴訟法の分厚い基本書を読んでいると眠くなる学生は多いだろう。

しかし、そもそも訴訟とは当事者間の紛争を公権的に解決する手続であり、その手続のルールが訴訟法だから、訴訟法は熾烈な闘争を反映したものなのである。すなわち、当事者間の公平、手続保障、証拠収集、判決の効力等々が闘争のルールとして規定されているわけで、眠くなるどころの話しではない。

本書のような事例演習教材や判例の事案から、訴訟法の各条文がどのような具体的紛争を解決するためにつくられてきたのかをイメージできれば、訴訟法は実はエキサイティングなものであることが理解できるはずである。

 

本書は基礎問題50問と発展問題25問を織り交ぜ、冒頭に簡略化した事例と参考判例を示して解説を加えていくスタイルで構成されており、解説では問題の所在と判例、学説がわかりやすく説明されている。

民訴の基本書と併用して利用することが望ましい。

 

 

◎2021年1月23日『憲法判例からみる日本---法×政治×歴史×文化』

☆☆☆☆憲法判例を掘り下げる意欲的な企画だが、首をかしげるものもある

戦後のエポックメイキングな事件となった13の著名判例を取り上げ、憲法学者だけでなく政治学者や歴史学者らの学際的なコラボレーションで判例の政治的歴史的背景を深く理解しようとする意欲的な企画であり、判決も丁寧に紹介されていてわかりやすい。

東京都公安条例事件、東大ポポロ事件、朝日訴訟、砂川事件といった戦後の激動の政治史を象徴する有名事件を、その歴史的政治的背景を解説しつつ現代的意義を考えさせてくれる。

 

ただ、多数の著者による企画だけに首をかしげるようなものもある。

例えば、公務員の政治活動を全般的包括的に否定したとして批判の強い猿払事件判例について、「憲法の土着化プロセス」として戦前の政党政治と官僚の癒着を背景に挙げる議論には全く賛同できない。戦後史と憲法判例を学んだことがある者なら、この判例の前に、公務員の労働基本権制限に対して合憲限定解釈でしぼりをかけた全逓東京中郵事件の判例(1966年)とその後の猿払事件12審に至る流れがあり、それが全農林警職法事件の判例(1973年)以降は合憲限定解釈が否定されてこの猿払判例(1974年)に至ることは誰もが知っているからだ。この逆流のバックには内閣の指名による最高裁判事の入れ替えがあったのは周知の事実であり、戦後史においては「司法反動」あるいは「司法の危機」と呼ばれている。ところが、本書では全逓中郵事件以降の判例の変化も司法反動の歴史も全く触れられておらず、「憲法の土着化」という奇妙な議論が展開されている。ちなみに、猿払事件では末端の郵政労働者の組合活動としての野党の選挙支援が問題となったのであり、戦前の政党政治と高級官僚の癒着とは全く事案が異なる。

また、政教分離原則のリーディングケースとされる津地鎮祭判例の紹介も神道学側からの批判に偏りすぎた感があり、神社非宗教論を展開しているように見える。言うまでもなく各神社には各々の祭神があり、神官が宗教儀式を行うれっきとした宗教である。「神社非宗教論」は明治政府が諸外国やキリスト教、仏教勢力の批判を回避するために作り上げたものであり、「神社は宗教にあらず、国家の祭祀である」として戦時中に神社参拝を強要したために戦後に「国家神道」との批判を受けたのである。

 

このように玉石混淆の編集なので、憲法を一通り学習した上で本書を参考書として利用すればよいと思う。

 

 

◎2021年1月20日『和歌史 なぜ千年を越えて続いたか』渡部泰明

☆☆☆☆☆「祈り、境界、演技、連動する言葉」をキーワードに和歌史を読み解く

額田王から幕末・桂園派の香川景樹まで、20人の歌人を取り上げて1000年に及ぶ和歌史を論じる意欲的著作である。

冒頭の長い「はじめに」で、著者は、和歌とは「社会的な詩」であり理想への思い、すなわち「祈り」を表現するものだという視点を打ち出しているが、これは和歌とは恋愛や花鳥風月を愛でる感情を歌った個人的な文芸だという先入観を打ち破る斬新な観点である。そのために、著者は現実と理想の境界を越えた「越境型」の歌人(具体的には額田王、在原業平、小野小町、曾禰好忠、和泉式部、西行、京極為兼、香川景樹が該当するという)に注目しつつ論を進めるのである。

著者によると、和歌の言葉は相互に網の目のように結びつきつつ秩序ある世界を浮かび上がらせ(連動する言葉)、今の歴史的現実を超えるような理想を到来させる(祈り)、そして現実と理想とをつなぐような立ち位置(境界)に人を導き、そこで身をもって生きる(演技)よう促す。こうした視点で語られる和歌史は、教科書的でない、著者の独自性が強く発揮された意欲的な和歌史論となっている。「演技」という視点へのこだわりは、学生時代に劇団「夢の遊眠社」で俳優をしていたという著者の体験が反映しているのだろう。

 

私個人としては、藤原定家以降の和歌史をほとんど知らなかったので、京極派や細川幽斎、後水尾院といった人々の和歌史における大きな足跡や香川景樹の現代的感覚の和歌が興味深かった。

また、柿本人麻呂や大伴家持といった万葉歌人の社会的背景を踏まえた解釈や、源氏物語の和歌(紫式部ではなく「源氏物語」中の和歌と分類される)が同時代の基本的に和歌を詠む創作者でもある読者を刺激したという指摘もなるほどと思った。

 

 

◎2021年1月17日『憲法判例50!(2 (START UP)』上田健介ほか

☆☆☆☆☆事案の紹介が丁寧でわかりやすい

START UPと書いてあるように、憲法初学者向けの重要判例集である。金額も手頃である。50判例のうち39は人権関係で統治関係は11なので、初学者にもとっつきやすいテーマを選んでいるようだ。

特筆すべきは、判例紹介のうち事案が丁寧にわかりやすく紹介されていることで、どのような事件で何が問題になったのかよくわかるよう工夫されていることである。

判決文も重要な箇所を長文を厭わずに引用しており、最高裁の考え方と雰囲気がわかるように配慮されている。

解説は初学者に必要な範囲で判決の意義とその射程をわかりやすく解説しているが、学説や論点にはあまり触れていないので司法試験受験などには不向きだろう。

 

ちなみに、本書に取り上げられた判例を含め判例集に登載された最高裁判例と主要な下級審裁判例は最高裁のHPで公開されており、検索してPDFで全文ダウンロードできる。本書に掲載されたような重要判例には、最高裁の15人の裁判官の多数意見のほか反対意見や補足意見がついていることが多く、時代と社会の価値観の対立を反映した読み物としても面白い。

 

なお、紙版とkindle版をどちらも購入したが、kindle版はプリント・レプリカ形式で紙版と同じである。スマホでは小さいのでパソコンとタブレットで拡大して読んでいる。

 

 

◎2021年1月6日『カムイ伝全集 第一部(1)』白土三平

☆☆☆☆☆あの「カムイ外伝」の本編は硬派の長編社会派漫画

学生時代に読んだ「カムイ伝」がkindle版になったので、改めて読んでみた。

叙情的なスピンオフ短編集である「カムイ外伝」や「忍者武芸帳」あるいは「ワタリ」等しか読んでいない読者にとっては白土三平は忍者漫画のイメージが強いかもしれないが、「カムイ伝」は江戸時代の階級差別、身分差別とそれに対する闘争を生々しく描いた重厚な長編社会派漫画なのである。

昭和の労働運動や学生運動が盛んだった時代の雰囲気を反映して、武士階級の横暴や農民、非人に対する支配の過酷さが強調されているが、著者の時代考証と解説が随所に挿入されており、リアルで説得力のある展開となっている。要所要所で日置藩の目付や横目が語る「支配するとは分裂させること」という言葉は全編を貫くモチーフである。支配者である武士側は農民や非人を細かく設定された身分差別で分裂させてお互いに対立させようとし、これに対して、被支配者側はこうした分裂支配を打ち破って身分を超えた連帯と協同を広げていくのが大きな課題となるわけである。現代でいえば労働者の団結権を想起すればよいが、「連帯と協同」の重要性という点ではあらゆる社会運動に共通する課題ともいえる(ちなみに、ベートーベンの第九交響曲では「世間が厳しく分断した人々を歓喜の魔力が再び結びつける」と歌われる)。

 

こうした固い話は別としても、江戸時代の農民や非人の生活が丁寧に描かれており、絵も生き生きしてとてもうまい。また、農村や山野の四季折々の自然の移り変わりが見事に描かれ、山野の動物や鳥たちの生態が動物記のように本筋の間に挟まれているのも面白い。

大長編ではあるが、今もなお価値を失っていない名作である。

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