2020年前半読書日記
【2020年前半 読書日記】
◎2020年6月25日『ワンダー・ブック (望林堂完訳文庫)』ナサニエル・ホーソン
◎2020年6月25日『孤愁〈サウダーデ〉 (文春文庫)』新田次郎・藤原正彦
◎2020年6月16日『新・紫式部日記 (日本経済新聞出版)』夏山かほる
◎2020年6月15日『ほとほと 歳時記ものがたり (毎日新聞出版)』高樹のぶ子
◎2020年6月12日『小説伊勢物語 業平 (日本経済新聞出版)』高樹のぶ子
◎2020年6月9日『七破風の屋敷』ナサニエル・ホーソン
◎2020年5月22日『緋文字』 ナサニエル・ホーソーン
◎2020年5月13日『あの本は読まれているか』ラーラ・プレスコット
◎2020年5月6日『ハンザ「同盟」の歴史: 中世ヨーロッパの都市と商業』高橋理
◎2020年4月29日『指揮者は何を考えているか:解釈、テクニック、舞台裏の闘い』ジョン・マウチェリ
◎2020年4月15日『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)』大木毅
◎2020年4月8日『弁護士アイゼンベルク 突破口(創元推理文庫)』アンドレアス・フェーア
◎2020年4月3日『火の柱(下) (扶桑社BOOKSミステリー)』ケン・フォレット
◎2020年4月2日『火の柱(中) (扶桑社BOOKSミステリー)』ケン・フォレット
◎2020年3月24日『火の柱(上) (扶桑社BOOKSミステリー)』ケン・フォレット
◎2020年3月16日『中世の秋(上下) (中公文庫)』ホイジンガ
◎2020年3月13日『デカメロン 下 (河出文庫)』ボッカチオ
◎2020年2月6日『新装版 白い航跡(上下) (講談社文庫)』吉村昭
◎2020年1月3日『隠された奴隷制 (集英社新書)』植村邦彦
◎2020年6月25日『ワンダー・ブック
(望林堂完訳文庫)』ナサニエル・ホーソン
☆☆☆☆☆おなじみのギリシャ・ローマ神話を珠玉の文学作品に
長編『緋文字』と『七破風の屋敷』を書いたホーソンが、ギリシャ・ローマ神話からおなじみの物語を少年少女向けに翻案して膨らませた作品だが、内容は小学校高学年以上向けで、大人が読んでも味わい深い文学作品となっている。
ゴルゴン退治やパンドラの箱、マイダス王と黄金などの神話物語は子どもの頃に読んだ人も多いだろうが、ホーソンは作家の想像力で斬新な解釈を加え、おとぎ話や童話のイメージとはひと味もふた味も異なる文学作品に仕上げた。
全編を通じて少年少女文学らしい柔らかな暖かい語り口で、無垢な子どもの心と友情、隣人愛、困難に立ち向かう勇気、自然や動物への慈しみが称揚され、その反面、利己的な大人の醜い行動は厳しい応報を受けることになる。
翻訳は読みやすく、ラッカムの挿絵も美しい。Kindle版だが挿絵はカラーで見るのがお勧めである。
◎2020年6月25日『孤愁〈サウダーデ〉』新田次郎・藤原正彦
☆☆☆☆モラエスの足跡をたどり、父の遺作を書き継ぐ執念に感嘆
『国家の品格』で有名な数学者藤原正彦の父が作家新田次郎だとは寡聞にして知らなかったが、テレビ番組「わが心の旅」の再放送で藤原正彦がポルトガルにモラエスの足跡をたどる様子を見て興味を抱き、父の遺作を書き継いで完成させたというこの本を買って読んだ。
巻末の注によると、著作の約6割以上、「日露開戦」の章までは新田次郎が書き進めており、その後を藤原正彦が書き継ぎ、新田次郎の書いた部分も全体のトーンとあわせるために調整したとのことである。新田次郎が急逝したのが1980年でこの本が完成し上梓されたのが2012年だから、藤原正彦はなんと30年以上もの歳月をかけて父の遺作を完成させたことになる。その間、父のノートに基づきモラエスの足跡をマカオ、神戸、徳島、さらにはポルトガルにも何度も足を伸ばして調査し、モラエス関係の文献も渉猟した。まさに執念であり、作品を完成できなかった父の無念への強い思いに感嘆する。
こうした共著であるために、前半は新田次郎らしい淡々とした、しかし力強い筆致でぐいぐいと書き進められているのに対し、後半の藤原正彦の書いた部分は所々説明的で冗長な部分や思い入れが強すぎると感じる部分もあるが、後者がプロの作家でないことを考慮するとよく書けていると思う。
モラエスは、尊敬していたラフカディオ・ハーンのように有名ではないが、日本人と日本文化を深く愛し、日本に長く住んで骨を埋めた明治期の外国人である。晩年はカトリックを捨て、宗教的にも日本の仏教や神道に帰依していたというから驚く。
文学者として日本に関する多数の著作を残した点では、モラエスはラフカディオ・ハーンに比すべき存在だが、ポルトガル領事として活動した外交官であった点では、幕末・明治維新に深く関わり、明治期にはイギリス公使として活躍したアーネスト・サトウにも比すべき存在といえる。にもかかわらずモラエスがハーンやサトウのように日本であまり知られていないために、新田次郎はモラエスの伝記的小説を書こうと思ったのかもしれない。
ちなみに、著作の表題で本文中にキーワードのように多用されている「孤愁」(サウダーデ)とは、モラエスによると「過去を懐かしく思い出すことによって甘く、悲しい、せつない感情に浸りこむこと」であり、これがポルトガル人の特質なのだという。
なお、「わが心の旅」を見てポルトガルのモラエスの足跡にも触れてあるのかと期待したが、残念ながら物語はマカオからから始まり、その後モラエスがポルトガルに帰国することなく日本で生涯を終えたため、ポルトガルを舞台にした場面はない。
◎2020年6月16日『新・紫式部日記
(日本経済新聞出版)』夏山かほる
☆☆☆大胆すぎる設定がどこまで楽しめるか
紫式部日記は中宮彰子の第一皇子出産のところから始まるが、この小説はそれ以前で約半分の分量を費やしている。したがって、フィクションの部分がかなり多いわけだが、著者は元専門研究者であり、源氏物語や紫式部日記の現在の研究状況をある程度は踏まえたものであろう。
その意味で、紫式部と源氏物語の背景となった時代と人々を知る一助となるだろうし、小説としてはそれなりに面白く書けている。
ただ、中宮彰子の出産をめぐるエピソードが、想像を働かせたフィクションであるにしても大胆すぎて、いくら何でもありえないという印象を持たざるをえず、それが物語の核心部分となっているだけに私としては十分楽しめなかった。フィクションと割り切って読めば楽しめるかもしれないが。
また、中宮彰子のサロンの他の女房歌人である和泉式部や赤染衛門らと紫式部との交流(源氏物語の展開に影響があったはず)が全く触れられていないことや、紫式部日記で酷評されている清少納言が尊敬すべき先輩のように描かれているのも違和感があった。
なお、紫式部の子は記録上は死別した夫藤原宣孝との間の娘賢子(大弐三位)のみであり、出産は中宮彰子に仕えるかなり前である。
まあ、作家デビュー作の意気込みを多とすべきか。
◎2020年6月15日『ほとほと 歳時記ものがたり
(毎日新聞出版)』高樹のぶ子
☆☆☆☆☆哀愁に満ちたファンタジー
新聞に毎月1話ずつ、紙面一面全部を使って連載した短編小説集である。
歳時記にちなんだ連載なので季節感あふれる物語となっているが、いずれも死者や霊界との交流が絡むファンタジーである。
登場人物の多くは中高年であり、人生の黄昏時に何らかの過去への断ちきれない思いをかかえつつ、死者と向き合う不思議な体験に誘われていく・・・。
文体は軽めでユーモラスなタッチであるが、読後感は哀愁と悲哀に満ちた、しかし人間の生への慈しみを感じるものとなっている。
職業作家の熟練の技量が光る味わい深い作品である。
◎2020年6月12日『小説伊勢物語 業平』高樹のぶ子
☆☆☆☆☆期待通りの上質で気品あふれる業平伝
『伊勢物語』は誰もが知る古典だが、地の文が短くて背景がよくわからず、和歌の解釈も難しい(角川ソフィア文庫版でレビューしたとおり)。現代語訳や注釈を見ても隔靴掻痒で、あれこれ想像を思い巡らすほかなかった。
この著作はそうした書かれていない業平の生涯を作家の想像力で補い、上質で気品あふれる物語として現代に伊勢物語を蘇らせた作品といえる。
初段の「初冠」と末段の「つひにゆく」など要所は伊勢物語の順序どおりだが、多くの段はシャッフルして再構成され、山場となる二条の后や伊勢斎宮との危険な恋愛についてはその前後のいきさつや関係者の動向、心の動きが丁寧に書き込まれている。東下りはほぼ原作どおりだが、道行きがわかりやすく、かつ「筒井筒」が旅の途中の挿話として物語られるのも面白い。
著者が意を凝らしたですます調の雅な文体は物語のトーンとしてふさわしいし、大野俊明氏の挿絵も非常に美しい。
心が洗われるような読書体験であり、音読するようにゆっくり読みたいと感じる。
それにしても、和歌のやりとりを介した恋愛には相手への想いを極限までかき立てるエロチシズムがある。短い和歌の形式の中に古歌の引用や掛詞などの技巧を駆使して秘めた感情をやりとりするのだが、相手への想いをまずは和歌に表現して贈り、相手はその意図をくんだ応答歌を機敏に返さなければならない。『源氏物語』についても言えることだが、こうした和歌を介した恋愛を成立させた貴族文化の教養の厚さは、SNSやLINEの瞬時の単純なやりとりになじんだ我々には及びもつかないものであり、感嘆の言葉しかない。
◎2020年6月9日『七破風の屋敷』ナサニエル・ホーソン
☆☆☆☆呪われた旧家の末裔をめぐるミステリー
『緋文字』で作家としての地位を確立した著者が次に書いた長編であり、魔女裁判で多数の人を処刑したという著者の先祖を意識した作品と言われる。
なんといっても作品名となっている「七破風の屋敷」The House of the Seven Gablesの陰鬱な存在感が全編を覆っており、横溝正史の旧家を舞台にしたおどろおどろしいミステリーを連想させる。この屋敷については、当主ピンチョン家の先祖が当時の土地所有者だった老人から土地を取り上げ、老人を「魔法使い」として処刑したといういわくがあり、その老人の呪いが代々の当主に及び非業の死を遂げるという。
物語はこのピンチョン一族の末裔で、屋敷を相続した老嬢へプジバーが貧窮してよろず屋のような商店を開業するところから始まるが、そこに重罪犯とされ精神を壊して屋敷に戻った兄クリフォード、たまたま屋敷に逗留することになった従姉妹で若く朗らかなフィービ、一族の強欲を体現するピンチョン判事といった人々を配し、物語を展開していく。
著者の語り口は町の人々、特に子供や老人を描くときはユーモラスで暖かく、他方、ピンチョン一族の人々の性格や心理描写は饒舌に語られる。ヘプジバーは落魄した貴婦人であることが残酷なまでに滑稽に強調され、他方、クリフォードは精神の鈍麻と高揚の波が際立たされる。クリフォードの「重罪」は終わり近くまで明らかにされないが、クライマックスの事件で一挙に謎が解き明かされて大団円となる。ピンチョン判事の突然の死を描く著者の長広舌は圧巻といえるが、あるいは著者自身の祖先に対する追悼文なのかもしれない。
全体に19世紀小説的な饒舌で長い文体に加え、翻訳は直訳調でやや読みにくい。新訳を望みたい。
◎2020年5月22日『緋文字』 ナサニエル・ホーソーン
☆☆☆☆初期ピューリタン社会の倫理vs個人の自由と魂の救済
アメリカ人なら誰もが読む名著として知られる『緋文字』だが、内容は初期ピューリタン社会の厳格な倫理と個人の自由な生き方の相克を、登場人物三者三様の心理の動きに焦点を当てて徹底的に掘り下げた心理劇である。
「緋文字」 The Scarlet Letterとは、主人公の女性ヘスター・プリンが刑罰として胸につけるよう命じられた文字のことだが、この文字「A」がAdultery(姦通)であると著者は最後まで書かない。それは、この文字が差別と排除のスティグマから孤高の生き方の象徴へと場面場面で変容するからである。
物語は夫不在の子を産んだヘスターが処罰される場面から始まる。初期ピューリタン社会の倫理は過酷で、ヘスターは緋文字をつけて処刑台のさらし者にされ、生涯緋文字をつけたままでいるよう命じられる。
社会の差別偏見を直接受ける存在となったヘスターが、それでもなおその社会に留まって生き抜く苦悩と精神力を著者は描く一方、姦通の当事者でありながらこれを秘して、ピューリタン社会の精神的頂点で尊敬を集め続ける牧師の良心の激烈な呵責、さらには身分を隠してヘスターと牧師を執拗に追及し続けるヘスターの夫のねじれた悪魔的心理を、三者三様に、しかも息の長い文体を重ねるように語っていく。物語のクライマックスである、牧師のいわば「回心」から死に至る場面は感動的である。
この倫理的相克と心理の重厚な描写は夏目漱石の「心」を想起させるものであるが、英国留学経験のある漱石はこの小説を読んだのではなかろうか。
三人の登場人物のほか、ヘスターの子パールは「取り替え子」elf-childと表現され(小川訳では「小妖精」)、ピューリタンの倫理から自由な存在としてヘスターや牧師に働きかける重要な役割を果たす。『ワンダー・ブック』を書いたこの著者の子供に対する観察は鋭く、視線は暖かい。また、擬人化され感情移入される森や小川の情景には、現代人には忘れられた自然と人間との共生感覚が認められる。パールの成長と豊かな自然の描写は、陰鬱な物語を和らげる一服の清涼剤のようになっている。
最後に翻訳についてだが、今回、『緋文字』の翻訳はKindleで入手できる小川訳(光文社文庫版)と青山訳(Amazon)を購入し、併せて無料で入手できる英語版も参照した(AmazonClassics
Edition 英文の古典は電子書籍化されて、実に入手しやすくなった)。
小川訳は日本語としてこなれていて、原文の長い段落が細かく段落わけされるなど非常に読みやすい。他方、青山訳は直訳的でやや読みにくいが、さすがにホーソーンの研究者だけあって丁寧であり、原文の重厚な雰囲気をよく伝えているように感じる。結局、青山訳をベースに、ところどころ小川訳と原文を参照するというように読んだ。
◎2020年5月13日『あの本は読まれているか』ラーラ・プレスコット
☆☆☆『ドクトル・ジバゴ』とCIA女スパイ? 二兎を追う者は・・・
パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』は今ではハリウッド映画版のほうが有名で、原作を読んだ人は少ないだろう。現に、江川卓訳の新潮文庫版は絶版で、Kindle化もされていない。
私自身も映画の印象が強く、彫りの深い顔のオマー・シャリフ(ユーリ役)と意志の強そうなジュリー・クリスティー(ラーラ役)、それからラーラのテーマの美しい音楽を思い出す。
この小説は、『ドクトル・ジバゴ』の出版をめぐるパステルナークと家族らの苦闘と、その出版を対ソ連の重要な武器として暗躍したCIAの活動を並行して描くもので、着眼点は面白いが、読んだ印象としてはいずれも掘り下げ不足で「二兎を追う者は・・・」という感を免れなかった。資料に限界があるのだろうが、小説なのだからもう少し想像力で補ってもよいのではないかと思う。
とはいえ、『ドクトル・ジバゴ』の物語を地で行くパステルナークの妻と愛人との公然たる三角関係と、愛人オリガの視点から語られるその苦悩はよく描かれている。1人の詩人・作家が巨大なソビエト権力に押しつぶされそうになりながら著作を完成させ、それをオリガや妻の意に反して海外出版してしまう、その人間としての弱さと芸術家の矜持との間の動揺は痛々しい。ノーベル賞受賞後の作家協会からの糾弾と友人たちの裏切りは、まるでマタイ福音書のペテロの否認である。
ちなみに、スターリンに批判された作曲家ショスタコーヴィチも同様の苦境に陥ったが、こちらはスターリンと渡り合う狡猾さと強靭な粘り強さを持って、ソビエト体制を生き延びた。
他方、CIAが『ドクトル・ジバゴ』を対ソ連のイデオロギー宣伝の武器と位置づけたのはさもありなんだが、この小説の中でも最初の出版はイタリアであり(この出版の経緯のほうが面白いのでもっと詳しく知りたいところ)、その後は欧米で広く翻訳出版されている。ロシア語版が地下出版でソ連国内に持ち込まれるのは時間の問題だったはずで、CIAの功績がどれだけ大きいかはよくわからない。また、ソ連国内での流通経路や読者の受け止めについてほとんど触れられていないのも物足りない。
なお、この小説では著者の問題関心による創作と思われる女性スパイの同性愛の物語がかなり重要な部分を占めていて、それが原題の“The Secrets We Kept”に関連するのだろうが、これは小説構成上は全く余計なエピソードだと思う(当時のアメリカでは同性愛は犯罪として罰せられたというのは驚きだが)。冷戦を背景としたドクトル・ジバゴ事件と対比するなら、むしろ1950年代にアメリカで吹き荒れたマッカーシズムとチャップリン他の映画人らの大量追放であろう。マッカーシズムの影はこの小説では全くなく、CIAは西部劇の善玉保安官のように描かれている。
〔追記)英語版のレビューを見ると、同じテーマを扱った先行する著作として、“The Zhivago Affair: The Kremlin, the CIA, and the Battle Over a Forbidden
Book ”〔2014年)が紹介されている。こちらはノンフィクションのようだが、レビュー評価は高い。新潮文庫版『ドクトル・ジバゴ』のkindle化とあわせ、できればこちらの翻訳・出版も期待したい。
◎2020年5月6日『ハンザ「同盟」の歴史:
中世ヨーロッパの都市と商業』高橋理
☆☆☆☆☆中世ゴシック都市リューベックの盛衰
トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』はリューベックの古い商家が19世紀の市民革命の激動の中で没落していく様を描いた大河小説であるが、小説の中でもリューベックとハンブルクとの密接な関係やノルウェーのベルゲンにある商館との取引、有力商人が市政の中心にいることなどが描かれている。
このリューベックこそがハンザ「同盟」の盟主として都市同盟の結成から総会の運営を担い、その没落をともにした都市なのである。
ハンザ「同盟」と括弧付きで同盟が書かれているのは、本来「ハンザ」が団体という意味で都市同盟を意味しており、重ねて同盟と呼ぶ必要がないからである。
ハンザが都市同盟として活動したのは13世紀から17世紀までであるが、これは中世都市が司教や封建領主、神聖ローマ皇帝の権力バランスの狭間で自由な商業活動をできた時期と重なる。近世以降の中央集権国家の成立により国家を離れた都市間の交易は困難となり、かつ大航海時代の到来によりバルト海貿易の重要性が低下したことからハンザの都市同盟は衰退していくのである。
ハンザの都市同盟は盛期にはリューベック、ハンブルク、ブレーメンの中核都市に加え、東方のロストク、ダンツィヒ(グダニスク)からリーガまで至るバルト海沿岸諸都市、さらにはローマ以来の大都市ケルンもメンバーに数え、イングランドやノルウェーのベルゲン、ロシアのノブゴロドにも商館を置いて活発な交易を行っていた。
交易品は穀物、材木、毛織物、海産物、鉱石、塩等の生活や産業に必要不可欠なものであり、南方地中海貿易が香辛料等の奢侈品が中心であったのとは対照的だったという。
本書では、こうしたハンザの歴史を盟主リューベックの盛衰を軸にわかりやすく概観しており、ハンザ都市と他のウィーンやヴェネチアとの比較も交え、中世ヨーロッパ都市の理解を深めてくれる。
また、リューベック以外のハンザ都市についても第7章で概要を紹介しており、旅行ガイドとしても役立ちそうである。
◎2020年4月29日『指揮者は何を考えているか:解釈、テクニック、舞台裏の闘い』ジョン・マウチェリ
☆☆☆☆☆オーケストラとオペラのファン必読!!
著名な指揮者の伝記は何冊か読んだが、この本は50年のキャリアを持つ現役指揮者が指揮者の仕事とは何かを、その舞台裏からやりがいまで縦横無尽に語ったものであり、音楽ファン(特にオーケストラとオペラのファン)にとっては貴重な情報を提供してくれる。
本書の目次は以下のとおりである。
1 指揮をめぐるちょっとした歴史
2 指揮のテクニック
3 オーケストラのスコアの読み方
4 指揮者になるための勉強法
5 指揮者によって演奏が違うのはなぜか
6 さまざまな関係(音楽/音楽家/聴衆/評論家/オーナー及びマネージメントとの関係)
7 仕切っているのは誰か
8 長距離指揮者の孤独
9 録音対生演奏(対ライブ録音)
10 指揮をめぐるミステリー
この目次を眺めただけでもわくわくしてくるが、実際に読んでみるとクラシックファンなら誰もが感じるような疑問についてほとんど語られていることがわかる。例えば、歌劇場の地下に沈み込んだオーケストラピットの由来がワーグナーのバイロイト歌劇場にあることや、そこで指揮者が楽団と舞台上の歌手を相手にどうやって指揮をしているのかなどである。
しかし、何よりも特筆すべきは、著者の音楽に対する愛情と飽くなき探究心、向上心が著作の全体にほとばしっていることであり、それが大きな魅力となっている。また、カラヤン、バーンスタインをはじめとする20世紀の大指揮者、名歌手、名物プロデューサーが実名で登場し、著者の交流した体験に基づきその実像が忌憚なく語られる証言記録としても興味深い。
他方、楽団員はもとより、聴衆、評論家、主催者、演出家等との関係では、まさしく協力と闘いの局面が悲喜こもごもに紹介される。
特に、バレエやオペラで指揮者の権力が奪われていると著者が嘆き、演出家の傲慢な姿勢を批判するところは、個人的に全く共感する。一部紹介する。
「ワーグナーの『指環』にしても、ワーグナーがどうしても訴えたかったこと── この世と自然は尊く、傷つけてはならない、そして人間の愛はいかなる神やいかなる魔法よりも強いということ──を認めない演出があるとしたら、そんな演出は制作する価値も見る価値もない。」
*余談だが、昨年見た『フィデリオ』のカタリーナ・ワーグナーによる新演出では、夫フロレスタンが妻レオノーレの勇気で牢獄から助けられる本来のストーリーが、官憲の奸計にかかってともに殺されるという全く逆の結末となっていたのには驚いた。これなどは自由を愛した共和主義者ベートーベンに対する冒涜というべきではないか。
(5月1日追記)新型コロナウイルスの蔓延で国内外のコンサートやオペラは現在公演不能となっている。私もこの3月から5月に予約したコンサートやオペラがすべてキャンセルされた。楽団や劇団の方々は大変な苦境にあると思う。1日も早くこの事態が終了し、素晴らしいコンサートやオペラの上演が復活することを祈る。
◎2020年4月15日『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』大木毅
☆☆☆☆20世紀版『戦争と平和』
もう40年以上前になるが、中学高校時代の世界史の教科書で第2次世界大戦の各国の死者数の一覧を見て、ソ連の死者が日本や中国をはるかに上回る2000万人とケタ違いの多数だったこと驚き、かつそのアバウトな数字を疑ったことを覚えている。
本書ではこの死者数は2700万人とさらに多い数に訂正されており、改めて独ソ戦の激烈さを知った。
本書では独ソ戦の経過が、冷戦終結・ソ連崩壊後の新資料によりかなり克明に描かれ、かつての通説が塗り替えられている。
著者によると、独ソ戦がこれほど激烈で多数の死者が出たのは、ドイツの側では、ヒトラーの東方植民地化計画の下で対ソ戦が通常戦争に加え世界観戦争(絶滅戦争)、さらには収奪戦争の性格を伴ったこと、他方、ソ連側ではファシストから社会主義を守る「大祖国戦争」というイデオロギーに加え、ドイツの絶滅・収奪に対する報復としての残虐行為と戦後の東欧支配の意図があったと分析されている。
それにしても、ヒトラーとスターリンという2人の独裁者が招いた不幸という側面はやはり大きい。ヒトラーは人種主義とゲルマン民族優越神話からソ連を侮り、長大な東部戦線で戦端を開き、敗色濃厚になっても撤退を認めなかったし、他方、スターリンは大粛正によって独ソ戦前に軍の将校を多数処刑して軍を弱体化させ、しかもドイツの開戦情報を得ながらそれを信用しなかったため、緒戦の大敗と大後退を招いたのである。
本書の描く独ソ戦の経過は読み物としてそれなりによくできていて、開戦前夜からドイツ軍の「電撃的」侵攻、大きく後退したソ連軍の態勢立て直しと反攻が時系列を追って生き生きと描かれている。
このあたりの叙述はトルストイの『戦争と平和』を思わせるところがあり、特にスターリングラード攻防戦以降のソ連軍の追撃作戦に「クトゥーゾフ作戦」とか「バグラチオン作戦」といった『戦争と平和』に登場する帝政ロシアの将軍の名が使われているのは面白いところだ。『戦争と平和』で描かれるナポレオン戦争では、ロシアの大地深く侵攻したナポレオン軍が、モスクワでクトゥーゾフ将軍の焦土作戦に苦しめられ、厳冬期に退却するところを追撃されて大打撃を受けた。
なお、第二次大戦全体から見ると、独ソ戦はヨーロッパ戦線の大部分を占めていた。ノルマンジー上陸以降の米英連合軍の侵攻はその終章を占めるにすぎない。
これはアジア太平洋戦線では、日米の太平洋戦争が実は終章で、大部分は日中15年戦争だったこととよく似ている。大日本帝国もまた満州事変以降、広大な中国大陸に戦線を広げ、中国の反撃を受けて泥沼の消耗戦に陥るなかで、石油と物資獲得のために南方に進出して米英と激突するに至ったからである。
◎2020年4月8日『弁護士アイゼンベルク 突破口(創元推理文庫)』アンドレアス・フェーア
☆☆☆☆「ユーディット」の含意は?
前著『弁護士アイゼンベルク』のレビューで書いたが、この著者はドイツの刑事裁判手続を熟知していて、刑事弁護人を主人公としたドラマを裁判手続のディテールを踏まえて書いている。その点では、同じ酒寄氏の翻訳になるシーラッハ(本物の刑事弁護士である)の著作同様、刑事小説の謎解きの面白さだけでなく、裁判手続のルールや弁護士と検察官・裁判官の駆け引きの面白さも味わえる作品となっている。
ある意味では玄人的な面白さともいえ、推理小説的な筋書きを楽しむという点ではまだるっこしいと感じる人もいるかもしれない。
ドイツの刑事裁判という点では、公判前の勾留審査が本書の主な舞台となっているが、これは日本にはない制度である。日本の場合、勾留理由開示手続というものはあるが、全く形骸化していてほとんど審理はなされない。ところが、本書のドイツの勾留審査では公判のような証人尋問を行っており、被疑者の身柄拘束継続の可否を裁判官が決める。いわば勾留審査を舞台とした法廷小説である。
加えて、主人公は刑事弁護専門弁護士だが、本書では探偵を雇って弁護側の独自捜査を行っており、その活動と情報が重要な役割を果たしている。例えば、勾留審査の証人尋問中に、探偵から証人に関する重要情報を電子メールで送ってもらい、それをすぐに尋問に活用するというスリリングな場面があるが、このようなことも日本ではまずないだろう。殺人事件の被疑者は一般に資力がなく、刑事専門弁護士や探偵を雇うことができないからだが、ドイツでは多くあるのだろうか。
なお、前著と同じく、本書でも現在の事件の進行と過去のエピソードの進行が並行して語られるため、読者は小見出しの日付に注意して読まなければならない。
ちなみに、主人公が弁護する被疑者は「ユーディット」という名前の女性であるが、旧約聖書の知識がある欧米の読者ならアッシリアの敵将ホロフェルネスを誘惑して寝首を斬首したユダヤの寡婦をすぐに連想するはずである。カラヴァッジョやクラナッハの有名な絵画もある。
著者がなぜこの名前を採用したのかは本文中にも解説にも書かれていないが、あるいは恋人を爆殺したとされた被疑者のイメージに重ねたのだろうか。読者の想像をかきたてる知的な仕掛けと言えそうだ。
◎2020年4月3日『火の柱(下)』ケン・フォレット
☆☆☆☆☆メアリー女王処刑からアルマダ戦争へ、手に汗握るスパイ大作戦!
聖バーソロミューの虐殺で激化したカトリックとプロテスタントの宗教対立は、双方で異端者摘発と政権転覆の陰謀に発展する。
歴史的事件としては、イングランドに幽閉されているスコットランド女王メアリー・スチュアートを擁立するエリザベス女王転覆の陰謀から、その失敗によるメアリー女王の処刑、それに反発したカトリック諸国の盟主スペイン国王フェリペ2世の無敵艦隊派遣(アルマダ戦争)へと大きく展開する。
何と言ってもこのアルマダ戦争が下巻のクライマックスであり、戦争開始前の情報戦と開始後の息詰まる戦闘過程が詳細にかつ生き生きと描かれている。
物語の主人公と敵役は双方の陣営のスパイのとりまとめ役として暗躍し、手に汗握るスパイ大作戦が繰り広げられ、エリザベス女王死去後のジェームズ1世の統治下では議会爆破のテロ計画まで登場するが、地下のスパイ活動の多くは著者の創作であろう。
物語の主人公の目指す宗教的寛容は、イギリスではエリザベス女王以後はカトリック排除とともに英国国教会による宗教統制が強められ、小説の最後はピューリタンたちがメイフラワー号で新大陸へ渡航するところで閉じられる。
16世紀後半の宗教対立と西欧国際情勢を丹念な取材で描く、第一級のエンターテインメント小説である。
◎2020年4月2日『火の柱(中)』ケン・フォレット
☆☆☆☆☆王妃マルゴ、カトリーヌ・ド・メディシス、聖バーソロミューの虐殺
キングズブリッジの三度目の物語はエリザベス女王の王位承継をめぐる物語から、舞台を新世界のスペイン領とフランスにも広げ、カトリックとプロテスタントの宗教対立の激化へとドラマチックに向かう。
このあたりの世界史に興味ある人は、スコットランド女王メアリー・スチュアート、王妃マルゴ(ディマの小説、映画、漫画など)、カトリーヌ・ド・メディシス(メディチ家出身の王妃、皇太后)といった歴史上の有名人が王室の側からではなくプロテスタント側の視点から描かれているのを新鮮に感じるはずである。
物語は極右カトリックでプロテスタント弾圧を目論むギーズ家と宗教寛容政策を進めるブルボン家やカトリーヌ皇太后の駆け引きに主人公らがそれぞれの立場で深く関わっていく形で進んでいき、中巻の後半は「聖バーソロミューの虐殺」事件をクライマックスとする手に汗を握る展開となる(訳者は「聖バルトロマイ」と訳しているが、フランス語では「聖バルテルミ」、原著の英語では「聖バーソロミュー」St. Bartholomewである)。
世界史の一般的な知識として、聖バーソロミューの虐殺から宗教戦争の激化を経て、アンリ4世のナントの勅令でブルボン王朝の寛容政策が確立するという経過を知っている人は多いだろうが、本書ではプロテスタントとカトリックの双方の側から立体的かつ詳細に歴史の実像が再現され、宗教対立のダイナミックな展開が理解できる。
また、その中で双方の陣営の個々人が果たす役割から歴史と個人の関係を考察するのも興味深いと思う。
私自身は、学生時代に、この時代の宗教対立を扱ったフランス文学者渡辺一夫の名著『寛容について』(筑摩叢書)を読んだ印象が深いが、その中の「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか?」という小論のテーマは本書の主題と重なるものだと思う。本書の主人公たちは、まさにこの問いを繰り返しながら寛容政策の確立を目指していくからである。
(下巻レビューへ続く)
◎2020年3月24日『火の柱(上)』ケン・フォレット
☆☆☆☆☆「キングズブリッジ」の三度目の物語
ベストセラー小説『大聖堂』、『大聖堂-果てしなき世界』に続くキングズブリッジ(著者の創作の町)の物語である。
12世紀にトム・ビルダー(建築家トム)とフィリップ修道院長の努力で大聖堂が建てられてから時が流れ、16世紀のキングズブリッジは商業的な繁栄の中にある。
物語はカトリックの厳しい宗教政策を敷いたメアリー・チューダー女王の治世から、プロテスタントのエリザベス1世女王へと移行する激動の時代を背景に、カトリックとプロテスタントの対立、王位をめぐる政治的駆け引き、スペインとフランスを巻き込んだ当時のヨーロッパ情勢の展開を描いていく。
『大聖堂』ではゴシックの壮大な大聖堂の建築過程が詳しく描かれていて興味深かったが、本書ではエリザベス1世の時代の政治的激動が描かれるようだ。
歴史小説ではディテールとリアリティが特に重要だが、著者は『大聖堂』同様、その時代を生きた市民から王侯までの様々な立場の人物について生活と行動を細部から丁寧に描いており、かつ一気に読ませる物語となっている。さすがに第一級のストーリーテラーである。
『大聖堂』に登場した領主シャーリング伯爵の傲慢・粗暴さとキングズブリッジ司教の強欲さは時代を経た今回も変わらず、悪役ぶりが際立っているが、内容的な連関はないので前著を読んでいなくても十分に楽しめる。
(中巻レビューへ続く)
◎2020年3月16日『中世の秋(上下)』ホイジンガ
☆☆☆☆ブルゴーニュとネーデルランドの「クワトロチェント」
ホイジンガの名著のKindle版である。初版は「世界の名著」第55巻として1967年に出版され、その後、中公文庫版などに何度か版を改めてきたが、内容は基本的に変わっていない。
翻訳はさすがに研究者の手になるものだけにしっかりしていて、批判的なコメントも含め訳注が詳しく、巻末には史料の紹介まである。
残念なのは電子書籍なのに本文から注にジャンプできないことと図版がないことである。特に、ホイジンガはファン・アイク兄弟の芸術をよりよく理解するのが著作の出発点と緒言で述べ、「神秘の子羊の礼拝」などのヤン・ファン・アイクの絵画を随所で引用しているだけに、図版があれば読者の理解が助けられたのにと思う(「世界の名著」版には図版はあったはず)。
内容は「中世」と言いつつも15世紀のブルゴーニュとネーデルランドの歴史と文化の考察であり、イタリアではまさしく「クワトロチェント」のフィレンツェ・ルネサンスが勃興していた同時代である。ブルクハルトの名著『イタリア・ルネサンスの文化』はこの時期を考察したものであり、ホイジンガは当然ブルクハルトの著作を意識していただろう。実際、ホイジンガは、「この書物は、14,15世紀をルネサンスの告知とはみず、中世の終末とみようとする試みである。中世文化は、このとき、その生涯の最後の時を生き、あたかも思うがままに伸びひろがり終えた木のごとく、たわわに実をみのらせた。」と、ルネサンスとの相違を問題意識として明示している。
論述の構成は王侯貴族や市民の生活からの社会史的アプローチで、中世以来の騎士道やキリスト教の信仰生活がいかに深く社会と生活に浸透していたかを生き生きと描いていく。後の『ホモ・ルーデンス』が「遊び」を軸に古今東西の歴史を考察したのと同様、政治経済よりも社会生活や文化を軸に歴史を考察する方法である。
ただ、ブルクハルトの著作がイタリアの都市国家(「精緻な構築体としての国家」)の勃興と個人の発展を中心に一本の筋の通った展開をしているのと比べ、ホイジンガの考察は中世末期の文化の諸相を列挙する観があり統一感と緊張感に欠けるように思う。
ホイジンガのルネサンス観は下巻の最終章「新しい形式の到来」に示されているので、まず最終章にざっと目を通してから読めばよいかもしれない。ホイジンガは、ルネサンスの古典主義は「中世思想の花園のただなかにあって、おうせいに繁茂する前の季節の草花のかげにあって、ゆっくりと成長してきた」と述べている。また、フランスとイタリアの人文主義の違いは「趣味の違いと知識の差」にあったとしており、古代ローマの遺産の大きさがルネサンスと「中世の秋」を分けるものと考えていたようである。
余談だが、フィレンツェのウフィッツィ美術館を訪れると、ボッティチェッリをはじめとしたフィレンツェの巨匠の名画より先にファン・デル・フースの巨大な祭壇画「羊飼いの礼拝」が目に入る(画像は2019年8月撮影)。この祭壇画がフィレンツェの巨匠に大きな影響を与えたからなのであるが、実はフースはヤン・ファン・アイクと同じヘント(ガン、ゲント)の画家であり、先輩であるファン・アイクへの劣等感に苛まれていたという。
後者の祭壇画「神秘の子羊の礼拝」については大規模な修復が最近なされ、子羊の顔がくっきりと描かれ、目が正面を向いて見る者に強いまなざしを投げかけていることが話題となった。ホイジンガの生きていたころは修復前の穏やかな目の子羊であったと思われるが、修復結果を見たら何と言うだろうか。あるいは、中世人の強い「信仰のパトス」のあらわれというかもしれない(画像は2024年3月撮影)。
◎2020年3月13日『デカメロン 下』ボッカチオ
☆☆☆☆☆最後はお上品にまとめる?・・・わけがないか。
下巻は第8日から第10日の各10話が語られる。
第8日は悪ふざけやいたずらの話題が、第9日は各自の気の向くままに好みの話題が、そして第10日は鷹揚闊達で豪奢に振る舞って立派なことをした人が、それぞれテーマとして与えられている。
エロ話はさすがに著者も疲れたのか少なくなっているが、話題はたわいもないいたずらから生死をかけた深刻なものまでバラエティに富んでおり、著者の見聞の広さがうかがわれる。
また、十字軍の話題も語られるが、イスラム教徒は敵としてよりもむしろ人間的な交際や話し相手として描かれている。地中海交易でイスラム商人との交流が活発だったイタリア人にとっては、戦争よりも平和で友好的な環境が好ましかったのであろう。
印象深い話としては、第8日の7話で、若い学者がある未亡人に恋して夢中になるが、未亡人には他に若い恋人がいて、学者を寒い雪の日に自宅の中庭に一晩閉じ込めて凍えさせ、恋人と2人で笑いものにする。この件で百年の恋も冷めて復讐を誓った学者は、夏の暑い日に未亡人を騙して素っ裸のままで高い塔の屋根にのぼらせて降りられなくし、未亡人は直射日光にさらされて酷い日焼けのうえアブや蜂の餌食になってしまう。ホラーのような残酷な復讐劇だが、学者をコケにしてはならないというのが教訓か。
また、第10日は、豪奢で立派な振る舞いをした王侯や騎士が主人公となるが、各話とも話ができすぎていてきれい事に感じられる。この著者にして、さすがにこの本が不謹慎との非難を恐れて上品にまとめようとしたのかと思ったが、最後の第10話でこれがカリカチュアであるという本音が明らかにされる。
10話の内容は、貧乏な百姓娘を妻にした侯爵が、その意図を隠してわざと妻を長年精神的に虐待し、2人の子どもまで遠くにやってしまうが、最後には妻を試していたことを明らかにしてめでたしめでたしとなるというもので、いわば旧約のヨブの物語のカリカチュアである。とはいえ、身分の高い夫が身分の低い妻を虐待するという話は、それが試みであっても読者を不快にせずにはおかないだろう。しかし、これは著者の企みであり、話し終えた話者が、「王侯の邸にも豚の番でもするがいい者が住むことはあります。しかもそんな男に人間を支配する権利が天から下されたりもいたします」という厳しいコメントを付け加えて、ちゃぶ台返しをしているのである。
これは第10話についてであるが、おそらく第10日全体が眉に唾をつけて読むべきものというメッセージだと思う。あるいは、平民の著者の王侯貴族に対する階級意識のあらわれとも読めなくはない。
◎2020年2月6日『新装版 白い航跡(上下)』吉村昭
☆☆☆☆☆近代医学における経験論と合理論
明治日本における近代医学の導入の歴史を考えるうえで興味深い本であるのみならず、現代でも医学や自然現象一般に対応する姿勢を考えさせる著作である。
江戸時代の医学は周知のとおり漢方と蘭方に別れていて、西洋医学や科学は蘭学として学ばれたが、鎖国の影響によりその水準は高くなく、学ぶ人も限られていた。
明治維新とその後の近代化でこの状況が一挙に変わるわけだが、医学の面ではこの著作にも出てくる英国人医師ウイリスの功績がもっとも初期のものである。ウイリスはイギリス外交官アーネスト・サトウとともに明治維新に深く関わり、戊辰戦争では官軍に従軍して奥羽越戦争の官軍の負傷者を多数治療している。その功績により西郷隆盛に手厚くもてなされ、鹿児島で医療に従事して鹿児島大学医学部の基礎をつくった(鹿児島大学医学部にはウイリスの記念碑がある)。
この本の主人公の高木兼寛は漢方医から出発しつつも戊辰戦争の体験を経て鹿児島でウイリスの教えを受け、その勧めもあってイギリスに留学する。そこで高木は臨床重視の医学を学ぶのである。いわば経験論医学である。
他方、日本の官学アカデミズムはドイツ医学を採用するが、当時はコッホに代表される細菌学の時代であり、病原因論重視の合理論医学であったと言える。後に高木と対立する陸軍軍医監森鴎外は言うまでもなくドイツ派である。
イギリス経験論と大陸合理論の対立は、前者はベーコン、ロック、後者はデカルト、ライプニッツの哲学に代表される対立図式が有名だが、医学における経験論と合理論の対立は、臨床重視と病原因論重視の先鋭な対立として近代日本の脚気論争に影を落とすことになった。
ただし、経験論と合理論は本来は相互に補い合うものであり、経験を帰納して理論を導く過程と、理論を演繹し経験により検証、修正する過程がともに重要なのだが、イギリス派とドイツ派あるいは海軍と陸軍のような政治的対立が絡むと科学から離れた硬直的な事態が生じる。高木と森の対立はその象徴のようなものであろう。
これは何も過去のものではない。現代では政治的対立だけでなく、経済的利害、特に多国籍巨大企業となった製薬企業の利害や専門医の学派の対立が絡むと患者の臨床を無視した事態が生じ、薬害や医療被害に発展する。
例えば、薬の投与による不具合を訴える患者が医師の助けを求めてきても、それが医薬品添付文書の記載に合わないと副作用と認めず、ひどい場合は患者の精神的問題にしてしまう。あるいは既存の医学知識が臨床的に当てはまらないために、新しい病気が発見できずに見落とすといったことである。
医学以外の分野でも、自分の知識や理論に合わない現実や現象を見落としたり、無理に既存の理論に当てはめたりすることは日々起きる。臨床や事実から問題を発見し、理論を不断に検証する姿勢が求められる。
◎2020年1月3日『隠された奴隷制』植村邦彦
☆☆☆現代資本主義の対抗理論としては??
マルクスが資本論で書いた「隠された奴隷制」というキーワードを軸に近代思想史を振り返り、その上で現代資本主義を批判するという、新書にしては壮大すぎる試みだが、残念ながら成功しているとは言いがたい。
確かに、モンテスキューやロックの自由主義的政治思想が新大陸の奴隷制を容認していたことや、ヘーゲルが『精神現象学』で書いた有名な「主人と奴隷」の弁証法がハイチ革命を念頭に置いていることなどは興味深い指摘ではある。
また、マルクスがアメリカの南北戦争に関し北軍支持の立場から論説を送り、奴隷制について議論していたとの指摘もあまり知られていないことだろう。
しかし、そもそも著者の「奴隷制」の定義が明確に示されていないため、議論が拡散してぼやけてしまっている。
マルクスの「隠された奴隷制」という言葉は、一般には比喩、すなわち資本主義の労働者搾取を非難するためレトリックとして理解されるが、著者はこれを文字通りの奴隷制として理解して議論を進める。しかし、奴隷制とは人間が人格を否認され他人に所有されて支配・服従関係に置かれる社会制度のことを言うのであり、これに対し、資本主義は自由な主体である労働者が労働力を売買することで成立するから、労働者が文字通り奴隷なわけがない。逆に、この奴隷ではない自由な労働者に自発的に労働力を提供させる点が資本主義の搾取の強みなのである。
実は、マルクスこそがこの搾取の仕組みを解明して、市場原理で公平に労働力を売買しても剰余価値を資本に搾取されることを示したのである(マルクス研究者である著者はそのことを十分知っているはずなのだが)。
著者は現代の過労死やブラック企業の例を挙げるが、これとても労働者が文字通り奴隷だから生じる悲劇なのではなく、労働者を自ら自発的に「奴隷のような」労働に向かわせる新自由主義的な行き過ぎなのである。こうした行き過ぎは現代資本主義システム内部で修正されつつある。
では、著者のいう「奴隷制」に対して、どのような対抗理論が提示されるのか?
ここで著者のまず挙げる例は、なんと「マルーンとゾミア」、すなわち国民国家に統合されずに山岳僻地に逃れた人々の共同体なのである。著者はこれを大真面目に議論して、だらだら仕事やサボり、常習欠勤といった方法が現代資本主義からの「脱出」であり「階級闘争」の一形態なのだという。しかし、これはもはや対抗理論ではなく、革命理論の退行である。ヘーゲル・マルクス的な弁証法的発展の議論は全く放棄されている。
さすがに、著者は「資本主義の終わりの始まりを生き抜く試み」としてスペインの「社会連帯経済」を挙げるが、どの程度の普遍性と将来展望があるのかまったく不明である。
そもそも著者は、第4章のマルクスの「隠された奴隷制」の議論から一足飛びに第5章の新自由主義批判に議論を進めているが、その間にはソ連をはじめとする社会主義国の実践と他方で資本主義国におけるケインズ的な社会福祉国家の実践があった。むしろ問題は、「隠された奴隷制」を克服しようとした社会主義国の試みがなぜ破綻したのか、また、社会主義に対抗する修正資本主義としてのケインズ的福祉国家を新自由主義の経験をふまえてどう評価するかではないのか?
困難ではあるが最も重要なこれらの課題をすっ飛ばして「奴隷制」批判をするから、対抗理論どころか退行的な議論にならざるをえないのではなかろうか。
まさにマルクスが『資本論』で試みたような、現代のグローバル資本主義の搾取の仕組みの分析とそこから導かれる発展的な社会改革論こそが求められているはずである。

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